アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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香港スプリント編
幕間 職人の目


 

十二月初旬の夜。

 

古びた工房は静かだった。蔦の絡まる窓の外で、街路樹が風に揺れている。街灯の明かりが、擦りガラス越しにぼんやり差し込んでくる。

 

私は作業台に向かい、古い足型を四つ、並べていた。

 

棚の奥にしまってあったものだ。木枠にプラスチックで成型した足の形。同じ子の脚の、違う時期のもの。新しいものに作り替えて処分してもいいのだが、取っておく癖がある。この歳まで職人をやっていると、目の前の脚の変化を記録として残しておく癖が身につく。どの子がどう変わっていったか、足型にそのまま出るからだ。

 

カレンモエ。

 

老眼鏡を押し上げて、四つの足型を順に眺めた。三年前の細い脚。一年前の張り詰めた脚。半年前の戻ってきたばかりの脚。二ヶ月前の落ち着いた脚。

 

同じ脚には見えない。だが、同じ子の脚だ。

 

今日、あの子が工房に来る。

 

数日前にトレーナーから連絡があった。海外のレースに出走することになった。現地の芝に合わせて、今の靴を調整したい。時間が取れれば、新しい型も取りたい。そういう依頼だった。

 

テレビを見る習慣はない。新聞も取っていない。この工房は、外の世界からはほとんど切り離されている。だから、あの子が今どこで何をしているかは、いつも知らない。ただ、依頼が来れば作業する。それだけだ。

 

海外。

 

どの国か、どの季節か、距離と芝の状態は——そこまでは、聞いた。靴を作る以上、そこを聞かないわけにはいかない。靴の仕様は、走る地面で全部決まる。

 

香港。十二月。稍重想定。沙田のレース場。芝の1200メートル。

 

依頼を受けてから数日、いつも通り調べた。

 

沙田の芝は、バミューダ系だ。日本で主流の野芝とは種類が違う。根が密に張る。繊維が強い。踏み込んでも沈まず、押し返してくる。日本の芝のように、力が地面に吸い込まれて消える類の芝ではない。

 

四十年のうち、海外向けの靴は何度か作った。四、五足、と記憶している。どの子がどうなったかは、最後まで聞かなかったから、結果は知らない。ただ、沙田向けの靴を作った時の仕様書は、手元の古い帳面に残っていた。ソールを硬めに、溝を深めに、踵の受けを少し立てる。それが当時の答えだった。

 

同時期の香港スプリントの出走選手も、資料で拾った。連覇中の子がいる。ここ数年、沙田で安定して走っている地元の子たち。あの子が挑む相手。どんな脚をしているかは、映像を観ていないから分からない。だが、地元の芝で積み重ねてきた脚だろうことは、想像がつく。

 

職人仲間のところにも電話を入れた。関東で海外向けの靴を作っている若いのが一人、何年か前に沙田に行っている。その時の所感を、短く聞いた。「思っていたより、乾いていた」と言っていた。湿潤な稍重を想像していたが、気候の乾きが芝の粘りを少し弱めていた、と。有益な話だった。

 

聞けるのは、ここまで。これ以上は、実際に走った子の足型が戻ってこない限り、分からない。

 

あの子の脚のソールは、ずっと同じ減り方をしていた。

 

踏み込みの跡だけが、異様にはっきり残る。他の部分はほとんど減らない。力が地面に逃げている。脚力があるのに、その半分ほどを捨てて走っている。

 

最初に気づいたのは、一年前の冬だった。

 

「踏み込みが、余ってる」

 

独り言で言った。トレーナーが「故障に繋がるか」と聞いた。故障はしない。ただ、もったいない。それだけ言った。深くは言わなかった。

 

その後、何度調整しても、この余りは消えなかった。脚力は増した。体も整った。走り方も、走らされる側から走る側に変わった。全部、良くなった。

 

だが、この余りだけが、消えない。

 

——この子の脚は、ここの環境に合っていないのかもしれない。

 

しかし、それは私の領分ではない。

彼女の走りたい場所で走る為の、より良い靴を用意するのが私の仕事だ。

 

私は作業台の引き出しから、新しい靴型を一つ、出した。あの子の最新のサイズで作ったものだ。これに、少し手を加える。

 

ノックがあった。

 

「……失礼します」

 

聞き慣れた声だった。

 

ドアが開いた。

 

あの子が立っていた。後ろにトレーナーが一人。

 

半年前、一年前、三年前。そのどれとも違う顔だった。

 

何かが抜けている。以前にあった「頑張って支えている」感じが、もう顔のどこにもない。それでいて、「走らされている」顔でもない。

 

立っている顔だった。

 

「こんばんは」

 

「こんばんは、おじいさん」

 

あの子が小さく笑った。野良猫のような笑い方だった。この子は私の前では、いつもこの顔をする。トレーナーの前でも、たぶんそうなのだろう。

 

「香港、行くんだってね」

 

「うん。十日くらい向こうにいる」

 

「十二月の沙田。稍重。芝千二。……こっちで調整できるものは、全部やっておく」

 

あの子が少し驚いた顔をした。

 

「おじいさん、情報詳しいね」

 

「靴を作るんだから、そりゃ聞く」

 

あの子が野良猫のような笑い方をした。

 

「……靴を見せてごらん」

 

椅子に座らせて、今履いている靴を脱がせた。

 

ソールを見た。

 

相変わらずだった。踏み込みの跡だけが、濃く残る。他は減っていない。何度調整しても、変わらない。この子の脚の癖だ。

 

だが、今日は、少しだけ違うところがあった。

 

踏み込みの角度が、前より深くなっている。地面への入り方が、より真っ直ぐ下に向かっている。以前は少しだけ横に逃げていた。

 

——深く、入れる走り方になっている。

 

私は拡大鏡を覗き込んだ。ソールの細かい摩耗を確認する。右足。左足。どちらも、同じ変化が出ていた。

 

「……何か、あったかい」

 

思わず、口が動いた。聞かないつもりだったのに。

 

「何かって?」

 

「走り方が、少しだけ変わっている。深く入っている。迷いがない走りに、なっている」

 

あの子が少し黙った。それから、小さく頷いた。

 

「……自分でも、分かる」

 

それだけ言って、あとは黙っていた。

 

私も、それ以上は聞かなかった。

 

聞かないのが、職人の流儀だ。ただ、この子の脚が、一段、前に進んだことだけは確かだった。良くなった。足型を取り直す価値は、ある。

 

採寸を始めた。

 

足型を取る。薬剤を足の甲から塗って、型が固まるまで待つ。数分間、あの子は椅子の上でじっと脚を差し出していた。手持ち無沙汰そうに、工房の中を見回している。

 

古びた木の棚。作業台の端に置かれた金槌。壁に立てかけられた古い靴。あの子の目が、一つ一つをゆっくり追っている。

 

「おじいさん、ずっとここで靴作ってるの?」

 

「四十年ほど」

 

「四十年」

 

あの子が少し目を丸くした。「長いね」とだけ言った。

 

「その間に、何人のウマ娘の靴を作ったんですかね」

 

トレーナーが口を挟んだ。こういう雑談は珍しい。いつもは寡黙な若者だ。今日は、少しだけ口が緩んでいる。あの子が海外に行くというのが、たぶん、この若者にとっても大きなことなのだろう。

 

「数えたことはない。五千か、六千か。そのあたりだと思う」

 

「五千」

 

あの子が呟いた。

 

「その中に、私の足もあるんだ」

 

「ある。棚の奥に、古いのも取ってある」

 

「見せてよ」

 

断る理由がなかった。作業台の脇の棚から、四つの足型を一つずつ、机の上に並べた。

 

「これが、三年前」

 

一番古いものを指差した。

 

「ジュニア級の早い時期だ。まだ筋肉が付いていなかった。細い脚だった」

 

あの子が、自分の昔の足型を指で撫でた。何かを懐かしむような、でも少し寂しそうな目をしていた。

 

「これが一年前」

 

張り詰めた型。太ももが固く、ふくらはぎに張りがある。

 

「これが半年前」

 

戻ってきた直後。筋肉が落ちているが、土台が整っている。

 

「これが二ヶ月前」

 

スプリンターズSの前に取った型。前と比べて、踵の内側の当たり方が変わっている。

 

「……全部、違う」

 

あの子が呟いた。

 

「違うんだけど、全部、私なんだ」

 

その言葉に、少しだけ、どきりとした。

 

職人として、四十年、脚ばかりを見てきた。その中で、一番大事だと思うことがある。同じ子の脚でも、時期によって別物のように見える、ということだ。だから足型を取り直す。変化を認める。今の脚に合う靴を作る。

 

それを、この子は今、自分の口で言った。全部違う。でも、全部私だ。

 

良い言葉だった。この子は、四つの足型を全部、同じ棚に並べて置いておくことを選んだ。切り捨てない。前のものを否定しない。全部、自分の一部として持っている。

 

それは、強い脚になる。

 

口には出さなかったが、そう思った。

 

足型が固まった。

 

新しい型と、以前の型を並べて見比べる。微妙に違う。踵の内側、土踏まずの深さ、指の開き方。どれも、少しずつ変わっている。

 

良い変化だった。

 

「新しい靴は、どういう仕様にしますかね」

 

トレーナーが聞いた。

 

少し考えた。

 

「ソールを、もう少し硬くする。グリップの溝を深めに切る」

 

「硬く?」

 

「向こうの地面は、こちらより重いはずだ。柔らかいソールだと、沈んで返りが遅くなる。硬めにして、跳ね返りを素早くする」

 

「……なるほど」

 

若い方が頷いた。メモを取っている。

 

「あとは、踏み込みの方向を少しだけ調整する。この子は今、深く入れる走り方になっている。その入り方を、無駄なく推進力に変える形にする」

 

言いながら、自分でも驚いていた。いつもなら、ここまでは言わない。注文を受けて、必要な仕様を淡々と決めるだけだ。今日はなぜか、少し多く喋っている。

 

たぶん、この子が海外に行くからだ。

 

私の前からしばらく離れる。その間に何があっても、私はここにいて、あの子の脚の次の型を待つしかない。だから、今日、言える範囲のことを、少しだけ多めに言っている。

 

それくらいは、許されると思った。

 

「おじいさん」

 

あの子が口を開いた。

 

「ん」

 

「その『踏み込みの余り』って、向こうの地面だと、どうなるの」

 

私は、一瞬、言葉を止めた。

 

この子は、私の独り言を聞いていた。一年前、初めて私が呟いた「踏み込みが、余ってる」を、覚えている。何度目かの調整の時にも、私は同じことを呟いていた。あの子は黙って聞いていた。意味は分からなかったはずだ。だが、言葉として覚えていた。

 

どう答えるべきか、迷った。

 

「……分からない」

 

それが、職人として正直な答えだった。

 

「向こうの地面を、私はこの目で見ていない。日本の芝より重いという話は聞いている。それだけだ。重い地面で走った時に、君の踏み込みがどうなるかは、走ってみないと分からない」

 

「そっか」

 

あの子は、それ以上は聞かなかった。

 

ただ、少しだけ付け加えた。

 

「でも、気がする、くらいはあるでしょ」

 

野良猫のような、探るような目。

 

私はしばらく黙った。

 

「……あるよ」

 

それだけ言った。

 

「どんな」

 

「柔らかい地面に逃げていた力が、硬い地面では逃げなくなるのかもしれない。あくまで、気がする、だ。保証はしない」

 

「うん。分かった」

 

あの子は深追いしなかった。職人の言葉を、職人の言葉として受け取った。頷いて、それで終わらせた。

 

この子は、こういうところが、上等だ。

 

靴の調整は、翌日までに仕上げることにした。採寸だけ済ませて、足型から新しい靴を作る。明日の夕方に、あの子が受け取りに来る。

 

立ち上がった時、あの子が少しだけ、私の作業台を見た。

 

散らかった金槌。削りかけの革。使い込まれた拡大鏡。糸と針。

 

「……おじいさん」

 

「ん」

 

「四十年、ありがとう」

 

急に、そう言われた。

 

何のお礼なのか、分からなかった。この子が来るようになってから、三年。そのうちの三年分しか、私はこの子と関わっていない。四十年のうちの、ほんの一部だ。

 

でも、この子は「四十年」と言った。

三年じゃなく、四十年。

私がこの場所で積み上げてきたもの全部を、知らないなりに、認めてくれている。

そういう礼の仕方だった。

 

「……また来なさい」

 

それだけ言った。

 

「はい」

 

あの子が頷いた。トレーナーと一緒に、ドアを開けて出ていった。

 

冷たい風が、少しだけ入ってきた。

 

ドアが閉まった。

 

工房に、また一人になった。

 

作業台の上に、四つの足型が並んだままだった。

 

五つ目の型が、もうすぐできる。そうしたら、棚に並べる。五つになる。また少し、この子の歴史が増える。

 

窓の外で、風が街路樹を揺らしている。

 

私は老眼鏡を押し上げて、金槌を握った。靴を作る作業を始める。

 

革を削る。削った後のソールに、硬めの芯材を入れる。溝を深めに切る。あの子が向こうで走る時のための、今日の仕様。

 

帰ってきた時、靴がどうなっているか。

 

それを見るのが、職人の仕事だ。

 

カン、カン、と乾いた音が、工房に響く。

 

夜は静かだった。




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