トレーナー室に戻ると、俺の椅子に段ボール箱が座っていた。
正確には、座面から大きくはみ出す箱を、背もたれでどうにか支えていた。机との隙間は完全に塞がれ、横を通ろうとすると、膝に角が当たる。
「モエ。この荷物は?」
「私も今、それ考えてた」
ソファの端で、モエがスマホから顔を上げた。薄手の黒いシャツに短いパンツという身軽な格好で、隣には練習着を入れた鞄がある。タキオンに見てもらうようになってから、練習の後にはここで映像を確認することが増えていた。
今日もそのつもりだったのだが、まず俺が座れない。
「事務室から電話が来てね。寮に送る分と、こっちに送る分、間違えたんじゃないかって」
「寮にも届いているのか」
「うん。同じくらいのが」
俺は伝票を確かめた。宛名はカレンモエ。差出人には、見覚えのある実家の住所が書かれている。
モエがスマホの画面を向けてきた。
『お洋服はトレーナーさんにも見てもらってね♡』
「間違いじゃなかった」
「……そうか」
「寮の方には何が入ってると思う?」
答えられずにいると、モエはスマホを伏せ、ソファの背へ頭を預けた。頭の上の耳まで、うんざりしたように横を向いている。
8月も終わりに近いというのに、箱を床へ下ろしただけで汗が滲んだ。俺はブラインドを少し閉め、引き出しからカッターを出した。
「開けていいか」
「どうぞ。中身が飛び出しても、私のせいじゃないから」
冗談だと思った。
テープを切った途端、押し込まれていた薄紙が持ち上がり、箱の蓋が勝手に開いた。
「……本当に出てきた」
「言ったじゃん」
中には、服が詰まっていた。
淡いピンク、空色、クリーム色。薄紙を1枚退けるたびに、リボンやレースが顔を出す。個別の袋に綺麗に畳まれているのに、それが隙間なく重なっているせいで、底がまるで見えなかった。
タグには金色の文字で、L'eclat C。
レクラ・シー。カレンチャンが手掛けるブランドだ。
俺が知っているだけでも、新作の発売日に販売ページが繋がらなくなったことがある。今、目の前にある服の中には、まだ店頭へ出ていないものもあるはずだった。
「全部、新しいの?」
モエは1番上の袋を持ち上げ、挟まっていたカードを読んだ。
「『モエちゃんへ。どれも絶対似合うと思うの。ママとお揃いもあるから、着たら写真を送ってね』……だって」
裏返すと、さらに文字があった。
「『迷っちゃったから、全部入れました』」
それは、箱を開けた時点で分かっていた。
モエはカードを机へ置き、袋を順に取り出し始めた。ブラウス、スカート、ワンピース。俺は渡されるものを受け取っていたが、途中で抱え切れなくなり、ソファの空いている側へ積み直した。
「これだけあれば、しばらく服を買わなくて済むな」
「着ればね」
モエが淡いピンクのブラウスを広げた。胸元に大きなリボンがついている。
「私が普段、こういうの着てる?」
「……あまり見ないな」
「家でも着てないよ。分かってて送ってくるんだから」
言いながら、畳む手つきは慣れていた。袖を内側へ折り、リボンが潰れないように上へ出してから、袋へ戻す。
次に出てきたのは、淡いブルーのワンピースだった。白いレースが裾に沿い、袖口には小さなリボンがある。先ほどのブラウスよりも飾りは控えめで、モエは袋から出した後、しばらく生地を眺めていた。
「これもお揃いかな……」
肩の部分を持ち、自分の身体へ当てる。裾の長さを確かめてから、こちらを向いた。
「ねえ。どう?」
俺は、受け取ろうとしていた手を止めた。
白い髪に、水色がよく映えていた。普段は黒っぽい服が多いせいか、いつもより顔立ちが柔らかく見える。顎を少し引いているのは、こちらの反応を窺っているからだろう。
よく似合っている。
それだけ答えればよかった。
だが、母親から届いた服だと意識した途端、余計なことを言ってしまわないかと考えた。本人が嫌がっているものを、俺の好みで持ち上げてどうする。そう構えている間にも、モエはこちらを見ていた。
「……涼しそうだな」
「エアコンの感想?」
「いや、服の」
「それは分かってるよ。私に似合うかって聞いてるの」
「似合っていると思う」
「今、考えて言ったでしょ」
「考えずに言う方が失礼だろう」
モエは何か言いかけ、結局、ワンピースを身体から離した。
「もういい。聞き方が悪かった」
俺は返事をしくじったらしい。
彼女はワンピースを畳んだ。他の服の山へ重ねるかと思ったが、自分の鞄の上へ置いたので、着る気が全くないわけではなさそうだった。
そこへ何か言い添える度胸は、もうなかった。
服を出し切ると、底から硬い箱と、ずっしりした袋が現れた。モエは先に平たい箱を開け、出てきた本を見た途端、顔をしかめた。
「うわ。何でこれまで入れてるの」
ピンク色の表紙に、金の箔押し。写真の中で、カレンチャンが笑っていた。
『カレンチャン(ママ)のすーぱーかわいい未公開フォトブック♡』
右下には、小さく『門外不出!』とある。
既に家から出ている。
モエが表紙を開くと、挟まっていたカードが落ちた。
『トレーナーさんにも見せてあげてね♡』
俺は、拾うために屈んだ姿勢のまま動けなくなった。
「ママ、暇なのかな」
「忙しいんじゃないか」
「じゃあ、忙しいのに何やってるの」
もっともな疑問だった。俺に聞かれても困る。
モエは立ったまま、ぱらぱらと頁をめくった。自宅らしいソファで眠っている写真。食堂で、大きな丼を前に笑っている写真。見覚えのある勝負服姿で、パドックの裏手に立っている写真。
最後の1枚を見た瞬間、思わず背筋が伸びた。
あのレースの日か。
髪飾りも、勝負服も、間違いない。中継が始まる前の、誰も見ていなかった時間だ。次の頁には、レースを終えた後なのか、タオルを頭に載せて座る姿があった。
見たことがない。
当然だ。未公開と書いてある。
分かっていても、もう少しゆっくりめくってほしかった。
「毎日見てた顔を、わざわざ本にして送ってくるんだもん」
モエは本を閉じ、ソファへ放ろうとした。
「角が」
声が出た。
彼女の手が止まる。
「角?」
「硬い表紙だ。そこへ投げると、服に引っ掛かるかもしれない」
青いワンピースは鞄の上だったが、ソファにもまだレースの服が積まれていた。助かった。いや、何が助かったというのか。
モエは本を見下ろし、それから俺へ差し出した。
「じゃあ、そっち置いて。寮へは持って帰らないから」
「ああ」
両手で受け取った。
重い。
印刷と製本が、妙にしっかりしている。これを個人的に作ったのか。何冊ある。いや、考えるな。今は机へ置くだけだ。
「……トレーナー、そんな端に置いたら落ちるよ」
「ああ。そうだな」
平静を装うことに気を取られ、机の端へ寄せすぎていた。書類を退けて、安定した場所へ置き直す。
モエは既に箱の底へ向き直っていた。
「で、パパからはこれね」
取り出したのは、プロテインの袋だった。見たことのある市販品で、味はココア。隣には新品のシェイカーがあり、こちらにもカードがついている。
丸みのある母親の文字と違い、几帳面な小さい字だった。
『前に、粉っぽいのは嫌だと言っていたので。いくつか試したが、これは飲みやすかった。水でもいける』
「お父さんが選んだのか」
「うん。家でも色々飲んでるから」
「いくつか試した、と書いてあるぞ」
「だから寮にも箱が来たんじゃない?」
俺はカードの続きを読んだ。
『他の味は寮へ送っておいた』
モエが、ほらね、という顔をした。
「お母さんとお父さんで、分担しているんだな」
「しなくていいんだけどね」
俺は袋の裏面へ目を通した。量の表示を確かめ、シェイカーの袋も開ける。以前ここで用意したものは、随分念入りに振ったつもりでも底に粉が残り、モエから『最後だけ砂』と不評だった。
「これなら、飲みやすいかもしれないな」
「気になるなら作ってみたら。味見くらい、していいよ」
「君も飲むか?」
「ちょっとだけね。夕飯の前だし」
手を洗ってから、表示どおりの量で作った。シェイカーを振る音が、服だらけの部屋に響く。蓋を開けると、馴染みのあるココアの香りがした。
モエの分をコップへ注ぎ、残りから自分の味見の分を取る。
飲んでみて、少し驚いた。
「……これはいいな」
モエがコップを口元へ運びかけたまま、俺を見た。
「そんなに?」
「ああ。前のより、ずっと飲みやすい。水で作っても薄い感じがしないし、後に変な甘さが残らない」
底にも粉の塊がなかった。シェイカーを傾けて確かめてから、袋の表へ目を戻す。
「前のは、冷やしたり、水の量を変えたりしてみたんだが、どうしても最後に残っただろう。これなら普通に振るだけで済む。あれで飲むのが嫌になるくらいなら、こっちの方がいい」
「……へえ」
「しかも、これなら牛乳を用意しなくていいんだな。遠征先でも作りやすい。買い足す時のために、商品名を控えておこう」
袋を机に立て、手帳を開いた。父親のカードも横へ置き、後でお礼を伝えようと考えていたところで、モエがコップを置く音がした。
「トレーナー」
「ああ。味はどうだった?」
「私の服は、涼しそう」
ペンが止まった。
「粉は、飲みやすくて、変な甘さがなくて、水でも薄くなくて、持っていくのも楽」
俺は手帳から顔を上げた。
モエはソファに座り直し、膝の上にクッションを抱えていた。
「ずいぶん喋るね」
「いや、これは前に使っていたものと比べられるから」
「私はいつも目の前にいるけど」
返す言葉を探した。
彼女が身を乗り出す。
「さっき、似合うって言うまで何秒かかった?」
「そんなものは測っていない」
「粉の感想はすぐ出てきたのに?」
机の上には、開いた手帳とペンがある。自分でも、随分熱心な姿勢を取っていたことに気づいたが、今さら閉じても遅かった。
「……服には、あまり詳しくないんだ」
「じゃあ私、成分表つけとけばよかった?」
モエがクッションを抱え直した。口調は静かなのに、全く落ち着いているように見えない。
「別に、褒め倒せって言ってないよ。どうかなって聞いただけ。それなのに、何で粉にはそんなに嬉しそうなの」
「嬉しそうだったか?」
「自覚もないんだ」
それは、まずかった。
写真のことから頭が離れたせいもあったのだろう。ようやく普通に話せるものが出てきて、必要以上に喋ってしまった。だが、その事情を説明できるはずもない。
「モエ。さっきの服は、本当に似合っていた。それをうまく言えなかったのは、悪かった」
「今、プロテインの横で言われても」
俺は袋を横へ退けた。
「そういうことじゃない!」
クッションが飛んできた。
胸元で受け止めたが、弾みで机の袋が倒れかけ、咄嗟に片手を伸ばした。開いている口を押さえ、どうにか粉がこぼれるのを防ぐ。
モエの目が、そこへ落ちた。
「……大事そうに守るじゃん」
「開いていたんだ。こぼれるだろう」
「もう、それと結婚すれば?」
まさか、粉との結婚を勧められるとは思わなかった。
モエは立ち上がり、鞄の上に置いていたワンピースを袋へ戻した。服の山から大きな紙袋を見つけ、そこへ入れてから、残りも次々と詰めていく。
「手伝おうか」
「いい。新婚さんは座ってて」
俺は立ったまま、プロテインの袋を持っていた。
座るのも違う気がした。
彼女は紙袋を2つに分け、片方を俺の机の脇へ置いた。
「こっちは明日、持って帰る。今日は寮の箱も片づけなきゃいけないから」
「分かった」
「本も、そこに置かせて。部屋にまでママの顔、増やしたくない」
「ああ。預かっておく」
「じゃあ、お疲れさま」
扉へ向かう途中で、モエがふと足を止めた。戻ってくると、机に残っていたコップを持ち上げ、中身を飲み干す。
そのまま流しへ運び、水でゆすいで伏せた。
「……味はいいね」
俺が何か答える前に、今度こそ出ていった。
廊下の足音が遠ざかってから、袋を机へ置き、抱えたままのクッションをソファへ戻した。
部屋には甘いココアの匂いが残り、俺の手帳には、商品名が半分だけ書かれていた。続きは後でいい。先に服を踏まないように片づけ、箱を畳まなければならなかった。
机の脇へ紙袋を寄せ、段ボールの底を開く。薄紙をまとめていると、あのピンク色の表紙が、どうしても目に入った。
俺は手を止めた。
見せてあげて、と書いてあった。本人も、ここに置くと言っていた。
読んでもいいのだろう。
廊下に誰もいないことを確かめてから椅子へ座り、表紙を開いた。先ほど見えたパドックの写真を探すつもりが、最初の頁で指が止まる。
カレンチャンが、カメラに向かって笑っていた。
現役時代の写真だ。髪が少し乱れ、肩にはタオルが掛かっている。すぐ脇には、撮影した家族のものらしい手書きの短い言葉があった。
しばらく、頁をめくれなかった。
それから、目の前に置いたままのプロテインへ視線を移す。
これだけ送ってもらって、俺は娘さんを怒らせたのか。
本を閉じ、柔らかい包装紙で包み直した。机の1番下の引き出しを開け、古い資料の上へ平らに置く。折れたり汚れたりしないのを確かめてから、鍵を掛けた。
プロテインの方は、きちんと口を閉じて棚へしまった。
明日は、どんな顔で会えばいい。
椅子の背へ寄りかかると、机の上に、母親のカードが残っていた。
『着たら写真を送ってね♡』
撮影を頼まれなかったのは、幸いだったのかもしれない。
~~
寮の荷物は、予想どおりだった。
私は箱からプロテインを取り出して、床へ並べた。ココア以外にも、バニラ、いちご、抹茶。大きな袋を送ると飲み切らないと思ったのか、小さめの袋で、味ごとに数袋ずつ入れてある。
そこまで考えてくれるなら、最初に何味がいいか聞いてほしい。
袋の間から、パパのカードが出てきた。
『合わない味は無理に飲まなくていい。持って帰ってくれれば、こっちで飲む』
最初から一緒に飲み比べればよかったのでは。
私はカードを机へ置き、持って帰ってきた紙袋を開けた。水色のワンピースを取り出して身体へ当て、鏡の前に立つ。
……普通に、似合うと思うんだけど。
肩の位置を合わせ、少し横を向いた。白いレースがひらりと揺れる。涼しそうなのは間違っていない。でも、あそこで真っ先にそれを言う?
「私、粉以下かよ」
口に出すと余計に腹が立った。
あの人、商品名まで控えていた。服の時なんか、返事を待っているうちにこっちが恥ずかしくなったのに。
適当に褒めたり、ママによく似ていると言ったりしないのは、いいところだと思っていた。その結果、粉の感想ばかり充実するとは聞いていない。
ワンピースをハンガーに掛け、スマホを持ってベッドへ転がった。鍵をかけたアカウントを開き、今日のことを書く。
『服よりプロテインを褒められた。そんなことある?』
投稿してスマホを伏せようとしたところで、LANEの通知が来た。
ママからだった。
『荷物、届いた? お洋服も見てもらえたかな♡』
私はLANEを開き、返信を打った。
『届いたよ。服よりパパのプロテインの方が喜ばれてた』
『ココア味、おいしかったでしょ♡』
「そこじゃないんだってば……」
返信を考えている間に、もう1つ届く。
『どれを合わせてみたの?』
『水色のワンピース』
少し間が空いた。
『あれ、カレンもお気に入りなの。一緒に着ようね♡』
話が全く進まない。
私は返信を諦め、スマホを伏せた。ママへ言えば、もう1回着て見せてと言われる。トレーナーへ言えば、もう1回似合うと答えるだろう。さっきよりも真面目な顔で。
そこまでさせたいわけじゃないのに。
また通知が鳴った。今度はトレーナーからだった。
『今日は、悪かった。服のことを聞かれていたのに、うまく答えられなかった』
私はベッドに横になったまま、その文章をしばらく眺めた。プロテインについては何も書いていない。
『もういいよ』
そう返してから、続けた。
『明日まで落ち込まないでね。練習しに行くんだから』
『分かった。準備しておく』
本当に、あの人らしい返事だった。
私はスマホを胸元へ置き、床に並んだ袋を見た。いちご味の向こうに、空になった大きな箱がある。机の下もクローゼットも、既に服の紙袋でいっぱいだった。
このままでは、朝、寝ぼけて踏む。
『寮の方にも、いっぱい来てた。何袋か、明日そっちに持っていっていい?』
返事は早かった。
『棚を空けておく。何味があった?』
私は、入力欄を見つめた。
服の時にも、それくらい聞いてほしかった。
『自分で見て。明日連れていくから』
『分かった。待っている』
待っているそうだ。
私はいちご味の袋を手に取り、明日の鞄へ押し込んだ。
「よかったね。お迎えが来るよ」
明日、私より先にこの袋へ手を伸ばしたら、持って帰ってやろうと思った。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。