――Anti-Hero: Curren Moe
出発三日前。
朝、起きて、向かいのベッドを見た。マーちゃんがまだ寝ていた。マーちゃん人形が枕元で倒れている。いつもは朝の早いこの子が、今日に限って寝坊している。
洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分を見た。
少し、硬い顔をしている。緊張。海外のGⅠ。認めたくないけど、やっぱり緊張している。
並木道。
絢原さんが待っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
並んで歩いた。右手の指を伸ばして、上着の袖に触れる。絢原さんは気づく。振り払わない。歩幅はそのまま。
これが日常。
「職人さんのところ、今日の夜でいい?」
「ああ。夕方、一緒に行く」
「うん」
昨日の夕方、工房で採寸してもらった。新しい靴は今日の夕方に出来上がる。受け取りに行く。
職人さんは、いつも通りだった。少しだけ、ほんの少しだけ、普段より言葉が多かった気もする。気のせいかもしれない。
「おじいさん、情報詳しかったね」
「ああ、驚いたよ」
「バミューダ系、とか言ってた」
「俺も初めて聞いた単語だ。後で調べた」
「調べたの?」
「知らないままじゃまずい」
この人は、こういうところがある。自分の担当が走る場所のことは、全部自分の頭に入れようとする。
「どうだった、バミューダ系」
「芝の種類だ。根が密で、繊維が強い。日本の野芝より、踏み込んだ時の反発が強いらしい。職人さんの言った通りだった」
「へえ」
それ以上は深追いしなかった。絢原さんが頷いた。
昼過ぎ。トレーナー室のドアを開けたら、机の上に箱が置かれていた。
URAの配送ラベル。
「……勝負服?」
「届いた。朝、俺が受け取った」
「もう開けた?」
「開けてない。最初に見てほしいのはトレーナー、と言っただろう」
絢原さんは、こういうところだけ律儀だ。
箱を開けた。白い薄紙に包まれている。紙を剥がした。
空色と、黒。
淡い、春の午後の空の色。高松宮記念の最終直線で見上げた、あの色が、スカートのチュールに広がっている。胸元のビスチェには、空色とともに、黒い地に銀の刺繍。
旧勝負服の黒は、消えていなかった。コルセットの形で残っている。反抗の色を否定するのではなく、自分の一部として、黒い鎧のまま残っていた。
手に取った。空色の部分は布が軽い。シフォンに近い、透ける素材。けれど黒のコルセット部分は、しっかり張りがある。
胸元には小さな銀の鍵のペンダントが縫い付けてあった。空色のスカートは前後で長さが違う、変則的なシルエット。前が短く、後ろのチュールが長い。腰には黒い革のベルト、銀の大きなバックル。
両二の腕に小さな白いリボン。チョーカーは黒のビーズ三連、中央に黒いリボン。
そして靴。職人さんの新しい靴ではなく、勝負服に合わせた黒のロングブーツ。編み上げ、太いヒール、銀のバックル。
空色のリボンも、白いリボンも、銀のチェーンも、黒のレースも、全部混ざっている。
「着てみる」
「ああ」
絢原さんが背を向けた。
着替えた。コルセットのファスナーを上げる。両肩はビスチェの上端から出ていて、剥き出し。けれど黒い長袖がそこから始まって、二の腕まで覆ってくれる。
スカートの空色のチュールが、動くたびに揺れる。前は短いから脚が見えるが、ニーソックスとブーツが脚を守ってくれている。
「……見て」
絢原さんが振り返った。
三秒、黙った。私の顔と、勝負服と、もう一度私の顔を見た。
「……いい色だ」
「それだけ?」
「前の勝負服は鎧だった。これは——お前だ」
短い。でも、この人の短い言葉は、他の誰の長い感想より重い。
「似合ってる?」
「似合ってる」
二回目は即答だった。
スマホで自撮りした。全身は映らないから、勝負服の胸元から腰にかけてだけ。黒のコルセットと、空色のチュール。マーちゃんに送った。
五秒で既読。十秒で返信。
「きれい!!!!!!!! マーちゃん泣きそうです!!!! 百枚撮りたい!!!!」
「帰ったら撮らせてあげるよ」
「約束です!!!! 絶対です!!!!」
勝負服を丁寧に畳んで、箱に戻した。
反抗の鎧を脱いだわけじゃない。黒の上に空色を乗せた。全部、一緒に持っていく。
「午後、これ着て走ってみないか」
「え、いいの?」
「感触を確認しておきたい。布の重さ、腕の可動域、走った時の風の抵抗。旧勝負服と素材が違うから、ぶっつけ本番は避けたい」
「トレーナー、それ口実でしょ。見たいだけでしょ」
「……確認は必要だ」
否定しなかった。
午後。練習場。
空色の勝負服を着てコースに出た。
風が当たる。空色のチュールが揺れる。コルセットがしっかり胴を支えている。腕を振ると、長い黒袖の中で空気が抜けていく感覚。旧勝負服より、軽い。
走った。二百メートルだけ。
感触がいい。体が一回り小さくなった気がする。空気を切る感覚が鋭い。
振り返った。絢原さんがコースの端に立っていた。ストップウォッチではなく、私を見ていた。
「どう?」
「……いい」
「タイムは」
「測ってない」
「測ってないの?」
「見てた」
この人は時々こういうことをする。データの人なのに、数字より先に目で見る時がある。
「風の抵抗は問題ないか」
「全然ない。むしろ前より動きやすい」
「なら大丈夫だ。本番もこれで行ける」
着替えてトレーナー室に戻った。
「トレーナー。理事長のとこ、行かなきゃ」
「ああ。午後に時間を取ってもらっている」
理事長室。
ノックした。「入りたまえ」の声。重い扉を開けた。
秋川理事長が机の向こうに座っていた。大きな体。大きな声。
「カレンモエ君。香港スプリントへの出走、おめでとう。学園としても誇らしいことだ」
「ありがとうございます」
「海外のGⅠに招待されるのは、君の実力が国際的に認められた証拠だ。存分に走ってきたまえ」
理事長が立ち上がった。窓の外を見た。
「……ただし、海外遠征には学園としての責任が伴う。君は学園の生徒だ。トレーナーだけでなく、URAの職員にも同行してもらう」
「はい」
「佐々木君に手配を頼んである。渡航手続き、現地との連絡、メディア対応。向こうでは言葉も文化も違う。困ったことがあれば、遠慮なく頼りなさい」
理事長が振り返った。大きな目でこちらを見た。
「それと、カレンモエ君」
「はい」
「楽しんできたまえ。レースは楽しむものだ」
「……はい」
理事長室を出た。廊下で絢原さんが待っていた。
「どうだった」
「楽しんできたまえ、だって」
「理事長らしいな」
「うん。……ちょっとだけ、緊張がほぐれた」
夕方。
職人さんの工房。
ドアを開けたら、作業台の上に、新しい靴が一足、置かれていた。
空色に合わせたわけではないだろう。落ち着いた色の革。でも、旧い靴とは確かに違う。ソールが少し硬そう。溝が深く切ってある。
「……できてるね」
「受け取れ」
職人さんが靴を差し出した。受け取った。手に重みがある。
「試してごらん」
椅子に座って、履いた。紐を結ぶ。立ち上がった。
一歩、踏んでみた。
床の硬さの伝わり方が、前と違う。地面への接点が小さくなった感じがする。力が逃げない。
「どう」
「……いい」
「向こうで走った時、靴がどうなっているか、帰ったら見せに来なさい」
「うん」
絢原さんが職人さんに頭を下げた。職人さんは頷いただけだった。
工房を出た。冷たい夜風。十二月の空気。
新しい靴を袋に入れて、胸の前で抱えた。
「……重いね、これ」
「重量がか?」
「違う。重みが、ある」
絢原さんが少し間を置いてから、小さく頷いた。
出発二日前。トレーナー室。
佐々木さんという女性職員が、初めて会いに来た。
「カレンモエさん、佐々木です。今回の香港遠征、同行させていただきます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
二十代後半くらいに見える人だった。髪を後ろで束ねている。スーツにローヒール。ファイルを抱えている。普通のお姉さん、という印象。笑い方が柔らかい。
「まず渡航スケジュールです。到着翌日に健康診断、それから現地での調整に入ります。レース二日前に公式練習。前日は休養に充てます」
「健康診断って何をするんですか」
「海外のレースに出走する際は、健康状態の証明書を現地の競走協会に提出します。出発前にURAの施設で検査を受けていただきますね。書類は既に準備してあります。現地でも到着翌日にもう一度確認の検査があります」
テーブルの上に書類が並べられていく。英語と中国語の書面。渡航同意書。保険関連。佐々木さんは一つずつ丁寧に説明してくれた。
「あと一点。現地でのメディア対応ですが、既に三件の取材依頼が来ています」
「もう来てるんですか?」
「はい。香港のスポーツメディアから二件、レース専門の媒体から一件。高松宮記念の映像が引用された記事がきっかけのようです」
佐々木さんが少し微笑んだ。
「カレンモエさんの走りは、海外でもちゃんと見られているんですね」
「……へぇ」
悪い気はしなかった。
「取材は一件だけ受ける方向で、俺の方で話してある」
絢原さんが言った。
「レース専門メディアを優先する。走りのことを聞いてくれる相手がいい。佐々木さん、窓口をお願いできますか」
「もちろんです。では残り二件はこちらでお断りの連絡を入れておきますね」
打ち合わせが終わった後、佐々木さんが帰り際にこちらを見た。
「カレンモエさん。海外は初めてですよね」
「はい」
「困ったことがあったら、いつでも声をかけてください。私はそのために行きますので」
「……ありがとうございます」
佐々木さんが出ていった。ドアが閉まった。
「……普通の、優しい人だね」
「ああ。現場が分かる人を選んでもらえた」
「トレーナー、書類苦手だもんね」
「……否定はしない」
出発前日。夜。寮の部屋。
マーちゃんが帰ってきた。練習帰り。タオルを首にかけている。
「マーちゃん」
「はい?」
箱から勝負服を出した。広げて、マーちゃんの前に掲げた。黒のコルセットビスチェ、空色のスカート、長い黒袖。
マーちゃんの目が大きくなった。
「……わぁ」
写真では見ていた。実物は違う。布の質感。空色の深さ。コルセットの黒、刺繍の銀、ベールみたいな空色のチュール。写真では伝わらないものがある。
「触っていいですか」
「いいよ」
マーちゃんが指先で袖に触れた。そっと。壊れ物に触るみたいに。
「……きれい。すごくきれい」
「似合うかな」
「似合います。絶対似合います。……モエちゃんの色です」
マーちゃんの声が少し震えていた。嬉しいのだと思う。泣きそうなのは、たぶんそのせいだ。
「カメラ。カメラ持ってきます」
「今?」
「今です。着てください。今すぐ」
「部屋着の上から?」
「構いません。記録です」
マーちゃんがカメラバッグを引っ張り出してきた。一眼レフ。本気のやつ。
勝負服を部屋着の上から羽織った。ファスナーは上げられないけど、肩にかけて、前を合わせた。
パシャ。パシャパシャパシャ。
「角度変えてください。右向いて。……はい。今度はこっち。……あ、いい顔」
「百枚撮るつもり?」
「百枚じゃ足りないです」
パシャパシャパシャパシャ。
マーちゃんのファインダー越しの目。被写体を見定める時の、あの真剣な目。
今日は、真剣さの奥に、柔らかいものが混ざっていた。
「……モエちゃん」
「ん」
「マーちゃん、この勝負服のモエちゃんと、いつか走りたいです」
「走ろう。絶対」
パシャ。最後の一枚。
マーちゃんがカメラを下ろした。液晶を確認している。
「……いい写真撮れました」
「見せて」
液晶に映っていたのは、空色の勝負服を肩にかけた私が、笑っている写真だった。
笑ってる。自分でも気づかなかった。
荷物を詰めた。着替え。トレーニングウェア。職人さんの靴。勝負服は別の袋に入れて、一番上に置いた。
マーちゃんが自分のベッドに座って、こちらを見ていた。足をぱたぱたさせていない。珍しく、じっとしている。
「マーちゃん」
「はい」
「どうしたの。静かだね」
「……別に」
別に、ではない。この子が黙っている時は、何かを飲み込んでいる。
「お土産、何がいい?」
「……マーちゃん人形の香港バージョン」
「マートレ製しかないでしょ」
「冗談です。なかったら点心でいいです」
「点心は持ち帰れないよ。香港らしい何か、探してみる」
「了解です」
沈黙。荷物を詰め続けた。靴下を丸めて隙間に押し込んだ。
「……モエちゃん」
「ん」
「マーちゃんもいつか、海外走りたいです」
「走れるよ。NHKマイルC勝ってるんだから」
「……うん」
「マーちゃんなら絶対呼ばれる。来年あたり」
「……うん」
声が小さい。いつもの「うん」より、ずっと小さい。
荷物を詰める手を止めた。振り返った。
マーちゃんが、枕を抱えていた。マーちゃん人形ではなく、枕。
「……寂しいの?」
「…………ちょっとだけ」
「五日間だけだよ」
「分かってます。分かってるんですけど」
マーちゃんが枕に顔を半分埋めた。目だけがこちらを見ている。
「……モエちゃんがいない部屋、広いです」
胸が痛んだ。
この子はいつも隣にいてくれた。寝癖を直した。ミルクティーを入れてくれた。カメラを構えて私を撮ってくれた。レースの前も後も、隣にいた。
その子を置いていく。
この子も、私が抱えているものの一部なんだ、と思った。切り離せない。置いていくけど、置いていかない。
ベッドから立って、マーちゃんの隣に座った。
「五日で帰ってくるよ」
「はい」
「帰ったら百枚撮らせてあげる」
「……約束ですよ」
「約束」
マーちゃんが枕から顔を出した。にへらっと笑った。目の端が少し赤い。泣いてはいない。泣きそうだけど、泣いていない。
「……マーちゃん、勝ちますよ。年末のレース」
「マーちゃんは?」
「阪神カップです。トレーナーと決めました」
「阪神カップ。GⅡ。1400メートル」
「はい。モエちゃんが香港で走ってる間、マーちゃんも走ります」
「……いいね」
「帰ってきたら、お互いの結果を報告しましょう」
「うん。約束」
「はい。約束です」
マーちゃんが手を差し出した。小指。指切り。
小指を絡めた。マーちゃんの指は細くて温かい。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい、です」
翌朝。空港。
絢原さんと佐々木さんが先に来ていた。佐々木さんがファイルを抱えて、チェックイン手続きの段取りを説明している。この人は手際がいい。
搭乗ゲートの前。
「では、行きましょうか」
佐々木さんが微笑んだ。
絢原さんがパスポートをポケットにしまった。
「準備はいいか」
「うん」
鞄の中に、空色の勝負服が入っている。新しい靴が入っている。マーちゃんに指切りした手の感触が残っている。反抗の鎧の黒も、種火も、獰猛さも、負い目も、独占欲も、全部、胸の中にある。
全部持っていく。何も置いていかない。
右手の指を伸ばして、絢原さんの上着の袖に触れた。一瞬だけ。空港の雑踏の中で、誰にも気づかれないくらいの触れ方。
絢原さんは気づいた。でも何も言わなかった。
飛行機に乗った。窓際の席。隣に絢原さん。通路を挟んだ向こうに佐々木さん。
離陸した。東京が小さくなっていく。
海が見えた。
初めての海外。
初めての、「カレンモエ」だけで行く場所。
お腹の底で、種火がじんわり温かかった。
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