アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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今から香港スプリントなのに、現実の香港ではUMAが20連勝しましたね……。


79話 香港渡航

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

出発三日前。

 

朝、起きて、向かいのベッドを見た。マーちゃんがまだ寝ていた。マーちゃん人形が枕元で倒れている。いつもは朝の早いこの子が、今日に限って寝坊している。

 

洗面所で顔を洗った。鏡の中の自分を見た。

 

少し、硬い顔をしている。緊張。海外のGⅠ。認めたくないけど、やっぱり緊張している。

 

並木道。

 

絢原さんが待っていた。

 

「おはよう」

 

「……おはよう」

 

並んで歩いた。右手の指を伸ばして、上着の袖に触れる。絢原さんは気づく。振り払わない。歩幅はそのまま。

 

これが日常。

 

「職人さんのところ、今日の夜でいい?」

 

「ああ。夕方、一緒に行く」

 

「うん」

 

昨日の夕方、工房で採寸してもらった。新しい靴は今日の夕方に出来上がる。受け取りに行く。

 

職人さんは、いつも通りだった。少しだけ、ほんの少しだけ、普段より言葉が多かった気もする。気のせいかもしれない。

 

「おじいさん、情報詳しかったね」

 

「ああ、驚いたよ」

 

「バミューダ系、とか言ってた」

 

「俺も初めて聞いた単語だ。後で調べた」

 

「調べたの?」

 

「知らないままじゃまずい」

 

この人は、こういうところがある。自分の担当が走る場所のことは、全部自分の頭に入れようとする。

 

「どうだった、バミューダ系」

 

「芝の種類だ。根が密で、繊維が強い。日本の野芝より、踏み込んだ時の反発が強いらしい。職人さんの言った通りだった」

 

「へえ」

 

それ以上は深追いしなかった。絢原さんが頷いた。

 

昼過ぎ。トレーナー室のドアを開けたら、机の上に箱が置かれていた。

 

URAの配送ラベル。

 

「……勝負服?」

 

「届いた。朝、俺が受け取った」

 

「もう開けた?」

 

「開けてない。最初に見てほしいのはトレーナー、と言っただろう」

 

絢原さんは、こういうところだけ律儀だ。

 

箱を開けた。白い薄紙に包まれている。紙を剥がした。

 

空色と、黒。

 

淡い、春の午後の空の色。高松宮記念の最終直線で見上げた、あの色が、スカートのチュールに広がっている。胸元のビスチェには、空色とともに、黒い地に銀の刺繍。

 

旧勝負服の黒は、消えていなかった。コルセットの形で残っている。反抗の色を否定するのではなく、自分の一部として、黒い鎧のまま残っていた。

 

手に取った。空色の部分は布が軽い。シフォンに近い、透ける素材。けれど黒のコルセット部分は、しっかり張りがある。

 

胸元には小さな銀の鍵のペンダントが縫い付けてあった。空色のスカートは前後で長さが違う、変則的なシルエット。前が短く、後ろのチュールが長い。腰には黒い革のベルト、銀の大きなバックル。

 

両二の腕に小さな白いリボン。チョーカーは黒のビーズ三連、中央に黒いリボン。

 

そして靴。職人さんの新しい靴ではなく、勝負服に合わせた黒のロングブーツ。編み上げ、太いヒール、銀のバックル。

 

空色のリボンも、白いリボンも、銀のチェーンも、黒のレースも、全部混ざっている。

 

「着てみる」

 

「ああ」

 

絢原さんが背を向けた。

 

着替えた。コルセットのファスナーを上げる。両肩はビスチェの上端から出ていて、剥き出し。けれど黒い長袖がそこから始まって、二の腕まで覆ってくれる。

 

スカートの空色のチュールが、動くたびに揺れる。前は短いから脚が見えるが、ニーソックスとブーツが脚を守ってくれている。

 

「……見て」

 

絢原さんが振り返った。

 

三秒、黙った。私の顔と、勝負服と、もう一度私の顔を見た。

 

「……いい色だ」

 

「それだけ?」

 

「前の勝負服は鎧だった。これは——お前だ」

 

短い。でも、この人の短い言葉は、他の誰の長い感想より重い。

 

「似合ってる?」

 

「似合ってる」

 

二回目は即答だった。

 

スマホで自撮りした。全身は映らないから、勝負服の胸元から腰にかけてだけ。黒のコルセットと、空色のチュール。マーちゃんに送った。

 

五秒で既読。十秒で返信。

 

「きれい!!!!!!!! マーちゃん泣きそうです!!!! 百枚撮りたい!!!!」

 

「帰ったら撮らせてあげるよ」

 

「約束です!!!! 絶対です!!!!」

 

勝負服を丁寧に畳んで、箱に戻した。

 

反抗の鎧を脱いだわけじゃない。黒の上に空色を乗せた。全部、一緒に持っていく。

 

「午後、これ着て走ってみないか」

 

「え、いいの?」

 

「感触を確認しておきたい。布の重さ、腕の可動域、走った時の風の抵抗。旧勝負服と素材が違うから、ぶっつけ本番は避けたい」

 

「トレーナー、それ口実でしょ。見たいだけでしょ」

 

「……確認は必要だ」

 

否定しなかった。

 

午後。練習場。

 

空色の勝負服を着てコースに出た。

 

風が当たる。空色のチュールが揺れる。コルセットがしっかり胴を支えている。腕を振ると、長い黒袖の中で空気が抜けていく感覚。旧勝負服より、軽い。

 

走った。二百メートルだけ。

 

感触がいい。体が一回り小さくなった気がする。空気を切る感覚が鋭い。

 

振り返った。絢原さんがコースの端に立っていた。ストップウォッチではなく、私を見ていた。

 

「どう?」

 

「……いい」

 

「タイムは」

 

「測ってない」

 

「測ってないの?」

 

「見てた」

 

この人は時々こういうことをする。データの人なのに、数字より先に目で見る時がある。

 

「風の抵抗は問題ないか」

 

「全然ない。むしろ前より動きやすい」

 

「なら大丈夫だ。本番もこれで行ける」

 

着替えてトレーナー室に戻った。

 

「トレーナー。理事長のとこ、行かなきゃ」

 

「ああ。午後に時間を取ってもらっている」

 

理事長室。

 

ノックした。「入りたまえ」の声。重い扉を開けた。

 

秋川理事長が机の向こうに座っていた。大きな体。大きな声。

 

「カレンモエ君。香港スプリントへの出走、おめでとう。学園としても誇らしいことだ」

 

「ありがとうございます」

 

「海外のGⅠに招待されるのは、君の実力が国際的に認められた証拠だ。存分に走ってきたまえ」

 

理事長が立ち上がった。窓の外を見た。

 

「……ただし、海外遠征には学園としての責任が伴う。君は学園の生徒だ。トレーナーだけでなく、URAの職員にも同行してもらう」

 

「はい」

 

「佐々木君に手配を頼んである。渡航手続き、現地との連絡、メディア対応。向こうでは言葉も文化も違う。困ったことがあれば、遠慮なく頼りなさい」

 

理事長が振り返った。大きな目でこちらを見た。

 

「それと、カレンモエ君」

 

「はい」

 

「楽しんできたまえ。レースは楽しむものだ」

 

「……はい」

 

理事長室を出た。廊下で絢原さんが待っていた。

 

「どうだった」

 

「楽しんできたまえ、だって」

 

「理事長らしいな」

 

「うん。……ちょっとだけ、緊張がほぐれた」

 

夕方。

 

職人さんの工房。

 

ドアを開けたら、作業台の上に、新しい靴が一足、置かれていた。

 

空色に合わせたわけではないだろう。落ち着いた色の革。でも、旧い靴とは確かに違う。ソールが少し硬そう。溝が深く切ってある。

 

「……できてるね」

 

「受け取れ」

 

職人さんが靴を差し出した。受け取った。手に重みがある。

 

「試してごらん」

 

椅子に座って、履いた。紐を結ぶ。立ち上がった。

 

一歩、踏んでみた。

 

床の硬さの伝わり方が、前と違う。地面への接点が小さくなった感じがする。力が逃げない。

 

「どう」

 

「……いい」

 

「向こうで走った時、靴がどうなっているか、帰ったら見せに来なさい」

 

「うん」

 

絢原さんが職人さんに頭を下げた。職人さんは頷いただけだった。

 

工房を出た。冷たい夜風。十二月の空気。

 

新しい靴を袋に入れて、胸の前で抱えた。

 

「……重いね、これ」

 

「重量がか?」

 

「違う。重みが、ある」

 

絢原さんが少し間を置いてから、小さく頷いた。

 

出発二日前。トレーナー室。

 

佐々木さんという女性職員が、初めて会いに来た。

 

「カレンモエさん、佐々木です。今回の香港遠征、同行させていただきます。よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします」

 

二十代後半くらいに見える人だった。髪を後ろで束ねている。スーツにローヒール。ファイルを抱えている。普通のお姉さん、という印象。笑い方が柔らかい。

 

「まず渡航スケジュールです。到着翌日に健康診断、それから現地での調整に入ります。レース二日前に公式練習。前日は休養に充てます」

 

「健康診断って何をするんですか」

 

「海外のレースに出走する際は、健康状態の証明書を現地の競走協会に提出します。出発前にURAの施設で検査を受けていただきますね。書類は既に準備してあります。現地でも到着翌日にもう一度確認の検査があります」

 

テーブルの上に書類が並べられていく。英語と中国語の書面。渡航同意書。保険関連。佐々木さんは一つずつ丁寧に説明してくれた。

 

「あと一点。現地でのメディア対応ですが、既に三件の取材依頼が来ています」

 

「もう来てるんですか?」

 

「はい。香港のスポーツメディアから二件、レース専門の媒体から一件。高松宮記念の映像が引用された記事がきっかけのようです」

 

佐々木さんが少し微笑んだ。

 

「カレンモエさんの走りは、海外でもちゃんと見られているんですね」

 

「……へぇ」

 

悪い気はしなかった。

 

「取材は一件だけ受ける方向で、俺の方で話してある」

 

絢原さんが言った。

 

「レース専門メディアを優先する。走りのことを聞いてくれる相手がいい。佐々木さん、窓口をお願いできますか」

 

「もちろんです。では残り二件はこちらでお断りの連絡を入れておきますね」

 

打ち合わせが終わった後、佐々木さんが帰り際にこちらを見た。

 

「カレンモエさん。海外は初めてですよね」

 

「はい」

 

「困ったことがあったら、いつでも声をかけてください。私はそのために行きますので」

 

「……ありがとうございます」

 

佐々木さんが出ていった。ドアが閉まった。

 

「……普通の、優しい人だね」

 

「ああ。現場が分かる人を選んでもらえた」

 

「トレーナー、書類苦手だもんね」

 

「……否定はしない」

 

出発前日。夜。寮の部屋。

 

マーちゃんが帰ってきた。練習帰り。タオルを首にかけている。

 

「マーちゃん」

 

「はい?」

 

箱から勝負服を出した。広げて、マーちゃんの前に掲げた。黒のコルセットビスチェ、空色のスカート、長い黒袖。

 

マーちゃんの目が大きくなった。

 

「……わぁ」

 

写真では見ていた。実物は違う。布の質感。空色の深さ。コルセットの黒、刺繍の銀、ベールみたいな空色のチュール。写真では伝わらないものがある。

 

「触っていいですか」

 

「いいよ」

 

マーちゃんが指先で袖に触れた。そっと。壊れ物に触るみたいに。

 

「……きれい。すごくきれい」

 

「似合うかな」

 

「似合います。絶対似合います。……モエちゃんの色です」

 

マーちゃんの声が少し震えていた。嬉しいのだと思う。泣きそうなのは、たぶんそのせいだ。

 

「カメラ。カメラ持ってきます」

 

「今?」

 

「今です。着てください。今すぐ」

 

「部屋着の上から?」

 

「構いません。記録です」

 

マーちゃんがカメラバッグを引っ張り出してきた。一眼レフ。本気のやつ。

 

勝負服を部屋着の上から羽織った。ファスナーは上げられないけど、肩にかけて、前を合わせた。

 

パシャ。パシャパシャパシャ。

 

「角度変えてください。右向いて。……はい。今度はこっち。……あ、いい顔」

 

「百枚撮るつもり?」

 

「百枚じゃ足りないです」

 

パシャパシャパシャパシャ。

 

マーちゃんのファインダー越しの目。被写体を見定める時の、あの真剣な目。

 

今日は、真剣さの奥に、柔らかいものが混ざっていた。

 

「……モエちゃん」

 

「ん」

 

「マーちゃん、この勝負服のモエちゃんと、いつか走りたいです」

 

「走ろう。絶対」

 

パシャ。最後の一枚。

 

マーちゃんがカメラを下ろした。液晶を確認している。

 

「……いい写真撮れました」

 

「見せて」

 

液晶に映っていたのは、空色の勝負服を肩にかけた私が、笑っている写真だった。

 

笑ってる。自分でも気づかなかった。

 

荷物を詰めた。着替え。トレーニングウェア。職人さんの靴。勝負服は別の袋に入れて、一番上に置いた。

 

マーちゃんが自分のベッドに座って、こちらを見ていた。足をぱたぱたさせていない。珍しく、じっとしている。

 

「マーちゃん」

 

「はい」

 

「どうしたの。静かだね」

 

「……別に」

 

別に、ではない。この子が黙っている時は、何かを飲み込んでいる。

 

「お土産、何がいい?」

 

「……マーちゃん人形の香港バージョン」

 

「マートレ製しかないでしょ」

 

「冗談です。なかったら点心でいいです」

 

「点心は持ち帰れないよ。香港らしい何か、探してみる」

 

「了解です」

 

沈黙。荷物を詰め続けた。靴下を丸めて隙間に押し込んだ。

 

「……モエちゃん」

 

「ん」

 

「マーちゃんもいつか、海外走りたいです」

 

「走れるよ。NHKマイルC勝ってるんだから」

 

「……うん」

 

「マーちゃんなら絶対呼ばれる。来年あたり」

 

「……うん」

 

声が小さい。いつもの「うん」より、ずっと小さい。

 

荷物を詰める手を止めた。振り返った。

 

マーちゃんが、枕を抱えていた。マーちゃん人形ではなく、枕。

 

「……寂しいの?」

 

「…………ちょっとだけ」

 

「五日間だけだよ」

 

「分かってます。分かってるんですけど」

 

マーちゃんが枕に顔を半分埋めた。目だけがこちらを見ている。

 

「……モエちゃんがいない部屋、広いです」

 

胸が痛んだ。

 

この子はいつも隣にいてくれた。寝癖を直した。ミルクティーを入れてくれた。カメラを構えて私を撮ってくれた。レースの前も後も、隣にいた。

 

その子を置いていく。

 

この子も、私が抱えているものの一部なんだ、と思った。切り離せない。置いていくけど、置いていかない。

 

ベッドから立って、マーちゃんの隣に座った。

 

「五日で帰ってくるよ」

 

「はい」

 

「帰ったら百枚撮らせてあげる」

 

「……約束ですよ」

 

「約束」

 

マーちゃんが枕から顔を出した。にへらっと笑った。目の端が少し赤い。泣いてはいない。泣きそうだけど、泣いていない。

 

「……マーちゃん、勝ちますよ。年末のレース」

 

「マーちゃんは?」

 

「阪神カップです。トレーナーと決めました」

 

「阪神カップ。GⅡ。1400メートル」

 

「はい。モエちゃんが香港で走ってる間、マーちゃんも走ります」

 

「……いいね」

 

「帰ってきたら、お互いの結果を報告しましょう」

 

「うん。約束」

 

「はい。約束です」

 

マーちゃんが手を差し出した。小指。指切り。

 

小指を絡めた。マーちゃんの指は細くて温かい。

 

「……行ってきます」

 

「行ってらっしゃい、です」

 

翌朝。空港。

 

絢原さんと佐々木さんが先に来ていた。佐々木さんがファイルを抱えて、チェックイン手続きの段取りを説明している。この人は手際がいい。

 

搭乗ゲートの前。

 

「では、行きましょうか」

 

佐々木さんが微笑んだ。

 

絢原さんがパスポートをポケットにしまった。

 

「準備はいいか」

 

「うん」

 

鞄の中に、空色の勝負服が入っている。新しい靴が入っている。マーちゃんに指切りした手の感触が残っている。反抗の鎧の黒も、種火も、獰猛さも、負い目も、独占欲も、全部、胸の中にある。

 

全部持っていく。何も置いていかない。

 

右手の指を伸ばして、絢原さんの上着の袖に触れた。一瞬だけ。空港の雑踏の中で、誰にも気づかれないくらいの触れ方。

 

絢原さんは気づいた。でも何も言わなかった。

 

飛行機に乗った。窓際の席。隣に絢原さん。通路を挟んだ向こうに佐々木さん。

 

離陸した。東京が小さくなっていく。

 

海が見えた。

 

初めての海外。

 

初めての、「カレンモエ」だけで行く場所。

 

お腹の底で、種火がじんわり温かかった。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
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