アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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80話 香港にて

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

飛行機が降下を始めた。

 

窓の外に海が見えた。緑がかった青。日本の海と色が違う。湾の形も違う。島が多い。

 

「……着いた」

 

隣で絢原さんがパスポートを確認している。通路の向こうで佐々木さんが書類のファイルを開いている。三人で別々のことをしながら、同じ場所に向かっていた。

 

ゲートを抜けた。湿気が顔に当たる。

 

「……熱い」

 

十二月なのにコートが要らない。むしろ鬱陶しい。亜熱帯というのは、こういうことか。

 

ゲートの外に、スーツの男性が二人立っていた。「CURREN MOE / TRAINER / URA STAFF」のボードを掲げている。現地の競走協会の人たちだった。英語で挨拶してくれる。絢原さんが片言で応じる。佐々木さんが流暢に英語で補足する。

 

——この人、英語も話せるんだ。

 

普通のお姉さんだと思っていたけど、URAの職員として遠征に同行する以上、これくらいは当然なのかもしれない。

 

車に乗って三十分。ホテルに着いた。

 

チェックインを済ませて、部屋に入った。窓の外に香港の街が広がっていた。ビルが密集している。看板が派手。夕方の光で、ガラスの壁面が赤く染まっている。

 

スマホが鳴った。マーちゃんからの通知。

 

「無事着きましたか!?」

 

「着いた。暑い」

 

「暑い!? 十二月なのに!?」

 

「亜熱帯だって」

 

「亜熱帯!! マーちゃん、教科書で読みました!」

 

しばらくメッセージのやり取りを続けた。あの子は、出発前と同じテンションに戻っている。今朝、ちゃんと見送ってくれた。指切りも、ちゃんと。

 

スマホのニュースを開いた。指が勝手にスポーツ欄を探していた。

 

ジャパンカップの結果。

 

一着、知らない名前。二着、ウオッカ。

 

そして、レゾリュート。五着。

 

「……」

 

ベッドに座り込んだ。

 

ウオッカは2400メートルでも走れる子だと思っていた。黄菊賞の映像で見た2000メートルの走り。圧倒的だった。だから2400メートルでも勝てる、もしかしたら世界も獲れるかも、と勝手に期待していた。

 

二着。届かなかった。

 

レゾリュートは——五着。

 

スマホを握る手に、わずかに力が入った。

 

欧州最強と呼ばれている子が、日本で五着。

 

寮のテレビで一度見ただけの、あの「正面から戦う文化が好き」と語った真っ直ぐな目の子が、五着。

 

レコメンド記事を開いた。「欧州王者、日本の軽い芝で苦戦」「凱旋門賞の覇者、府中で本領発揮できず」。

 

——そういうことか。

 

日本の芝は、レゾリュートには合わなかった。重い洋芝で力を発揮するタイプの子が、府中の軽い芝で噛み合わなかった。

 

世界って、広いんだな。場所が変わると、強さの形も変わる。

 

ふと、自分の脚に意識が向いた。

 

——私は、どっちのタイプなんだろう。

 

日本の軽い芝でしか勝てないのか。それとも、こっちの重い芝でも、走れるのか。

 

スマホを閉じた。レースまではまだ間がある。今日はもう考えない。

 

 

夕方。

 

ドアをノックする音。

 

「飯、行くぞ」

 

絢原さんだった。

 

「佐々木さんは?」

 

「現地の事務局と打ち合わせだ。先に食べててくれと」

 

「じゃあ二人で」

 

「ああ」

 

ホテルを出た。繁華街まで十分くらい歩いた。看板が頭の上で光っている。湿度が高い。汗ばむ。十二月とは思えない。

 

絢原さんが一軒の店の前で立ち止まった。ガラス張りの窓の向こうに、積み上がった蒸籠。「ここでいいか」と短く尋ねるので、迷わず頷いた。

 

店に入ると、絢原さんが指差しで注文を始めた。海老の蒸し餃子、焼売、腸粉、大根餅。迷いがない。事前に調べてあったらしい。英語のメニューには英語ではなく、数字と中国語。指差しの方が早い。

 

蒸籠が運ばれてきた。湯気が立ち上る。海老の蒸し餃子を箸で取って、口に運んだ。

 

「……うま」

 

「だろう」

 

それだけ。絢原さんは早々に焼売を口に入れていた。この人は食事中、口数が減る。集中している。前にイギリスへ遠征した時の絢原さんの食事の話を思い出した。「あの時は不味かった」と本人が漏らしていた、苦い顔。今日のこの顔とは、対極だ。

 

腸粉を齧った。ぷるぷるしていて、中に海老が入っている。これも当たり。点心、全部当たりだ。

 

しばらく、二人とも黙って食べた。蒸籠の湯気と、店の中の喧噪が、沈黙を埋めてくれる。

 

「トレーナー」

 

「ん」

 

「明日、コース見られるね」

 

「ああ。健康診断のあとに歩く予定だ」

 

絢原さんが焼売を平らげて、お茶を一口飲んだ。

 

「重い場って聞いた。函館より重いかもしれない、と現地スタッフが言ってた」

 

「ふうん」

 

「お前なら強く出られる、と俺は思ってる」

 

短い言葉だった。でもこの人の「強く出られる」は、軽々しく言う言葉じゃない。

 

胸の奥で、小さく何かが熱くなった。

 

「……なんか、自信ついた」

 

「俺が言うまでもなく、お前はそのつもりだろう」

 

バレてた、と返そうとして、絢原さんの顔を見上げる。すでに分かっている顔。「顔に出てる」と先回りされて、笑った。こういうやり取りが、普段の学園より軽い気がする。異国だからかもしれない。いつもの枠組みがないから。

 

最後の蒸籠を二人で分けた。

 

「マーちゃんのお土産、何にしようかな」と呟いたら、絢原さんが「点心は持って帰れない」とすぐに返してきた。あ、そっか。

 

「香港らしい何かを探せ。あの子なら、それで喜ぶ」

 

絢原さんが、湯のみを置きながら言った。「あの子なら」の言い方が、いつもより少し柔らかかった。マーちゃんを単なる教え子の同期ではなく、私の大事な人として認識している声。

 

「うん」

 

それだけ返した。

 

食べ終わる頃には、窓の外がすっかり夜になっていた。看板の光が歩道を照らしている。

 

 

ホテルに戻った。

 

ロビーで佐々木さんとすれ違った。打ち合わせから帰ってきたばかりらしい。

 

「お食事、いかがでしたか」

 

「点心、美味しかったです」

 

「よかった。明日は健康診断で、午前から動きます。早めに休んでくださいね」

 

「はい」

 

佐々木さんが部屋に戻っていった。絢原さんも自分の部屋に入る前、一言だけ言った。

 

「いい走りができそうだ。今日の感触なら」

 

「うん」

 

「おやすみ」

 

「おやすみ」

 

部屋に戻った。

 

窓の外の夜景を少し眺めた。明日は健康診断。レースまではまだ間がある。

 

体が楽しみにしている。自分でも分かる。

 

シャワーを浴びて、ベッドに入った。

 

 

翌日午後。沙田レース場の練習コース。

 

午前中に健康診断を済ませて、午後から現地での練習に入った。

 

軽くウォーミングアップをしてから、コースに出た。

 

芝を踏んだ瞬間、体が反応した。

 

函館と同じか、もっと重い。

もっとしっかり受け止めてくれる。

蹴ると、芝の下の土が力を返してくる。日本の芝の薄さが、ここにはない。重い場。

 

軽く流した。200メートル。

 

脚が勝手に回る。力が逃げない。燃費がいい。走りやすい——なんて言葉では足りない。噛み合っている。靴と芝の間に、隙間がない。

 

止まって、振り返った。絢原さんがストップウォッチを見ている。佐々木さんがその隣に立って、こちらを見ていた。

 

「どうだった」

 

「走りやすい」

 

「タイムもいい。日本の練習より数字が出てる」

 

絢原さんがクリップボードに書き込んだ。何かの数字を丸で囲んでいる。

 

「調子良さそうだな。、本番でもこの感触なら、かなり走れる」

 

「うん」

 

コースの脇に、カメラが向いていた。他のウマ娘にも向いているけど、私に向いているカメラが、妙に多い気がする。

 

「……カメラ、多くない?」

 

「高松宮記念の記事が出てるからな。注目されてる」

 

「ふーん」

 

悪い気分ではなかった。走りで注目されるのは、嬉しい。

 

日本では、カメラは「カレンチャンの娘」を撮りに来ていた。ここのカメラは、私の走りを撮っている。

 

違う。同じカメラなのに、向けられる意味が違う。

 

 

数日が過ぎた。

 

朝、沙田の練習コースに通って、昼に戻り、午後は休む。それを繰り返した。

 

毎日、コースの感触が同じだった。むしろ、日が経つほど噛み合っていく気がした。脚と芝の間の「正解」を、体が探り当てていくような感覚。

 

絢原さんのクリップボードに並ぶ数字も、毎日伸びていた。レース二日前の公式練習で、最後に数字が確定する。

 

「いい仕上がりだ」

 

絢原さんがそう言った。短い言葉。でも、いつもより少し力がこもっていた。

 

 

ホテルのロビーの隅。取材。

 

レース三日前。練習を終えてシャワーを浴びて、約束の時間に降りていった。

 

現地のレース専門メディアの記者。三十代くらいの女性。髪をシニヨンにまとめた、落ち着いた人。通訳がサポートに入ってくれている。

 

「お時間をいただき、ありがとうございます」

 

「はい」

 

「まず、高松宮記念の最終直線についてお聞きしたいのですが」

 

来た。いきなり走りの話だ。

 

「あの直線で、上がり3ハロン32秒5を記録しました。バクシンオーさんを追い詰めた走りは、アジア圏のスプリントファンの間で大きな話題になりました」

 

「……そうなんですか」

 

知らなかった。

 

「あのレースで、何を感じていましたか」

 

「……楽しかった」

 

通訳がそのまま訳した。記者が少し驚いた顔をして、ペンを走らせた。

 

「楽しかった?」

 

「はい。追いかけるのが、楽しかった」

 

「勝負への集中はありませんでしたか? 勝ちたい、という意志は」

 

「勝ちたいはありました。でも、その手前に、楽しいがあったんです。追いかけたい、っていう」

 

通訳を介して、記者が何か考えている。

 

「興味深いですね。日本のトップスプリンターは、もっと勝負への執着を前面に出すことが多いと思っていました」

 

「私は——そうですね、たぶん、最初は勝ちたかっただけだったんです。でも、走ってるうちに、楽しいが上に来た」

 

「それは、走りに何か変化をもたらしましたか」

 

「肩の力が抜けた、って感じです。うまく言えないですけど」

 

記者が頷いた。スプリンターズSの質問。マーちゃんとの接戦の質問。全部、レースの話だった。

 

気分がよかった。走りのことを聞かれて、走りの答えを返す。当たり前のようで、日本ではあまりなかったこと。どこかの質問には、必ず「お母様は」が混じっていた。

 

取材の中盤、記者が一つ質問を挟んだ。

 

「カレンモエさんは、日本でURA広報誌の表紙も飾っていらっしゃいますよね。三号連続で」

 

「……あ、はい」

 

あの撮影会の写真。

 

「あの写真がこちらでも拡散されていて、若いファンの方々の間で話題になっています」

 

「そうなんですか」

 

「ええ。差し支えなければ、撮影の時のエピソードなどお伺いできますか?」

 

取材の流れが、少しだけ変わった気がした。

 

でも、変な質問ではない。広報的な話だ。こういうのも、取材の一部だろう。

 

「……最初は七割くらいで流すつもりだったんです」

 

「七割?」

 

「全力じゃなくて。あんまり乗り気じゃなかったので」

 

「それが、どうなったんですか」

 

「……途中で、スイッチが入っちゃって。全力出しました」

 

通訳が訳した。記者が笑った。

 

「スイッチ。面白いですね。勝負服の時ですか?」

 

「はい。勝負服と、その後の私服も全部」

 

「三号連続表紙というのも、日本では滅多にないことだと伺いました」

 

「あれはカメラマンさんの腕が良くて。私は一回しか撮影を受けてないんですけど、その一回分のデータで編集部が特集を組みたいと言ってくれたんです」

 

少し和やかな空気になった。取材は最後に、母の話が一つだけ挟まれた。「お母様もスプリンターでしたよね」。それだけ。

 

取材が終わった。

 

記者が帰った後、佐々木さんが笑顔でこちらを見た。

 

「いい取材でしたね」

 

「うん」

 

「走りの話を中心に聞いてくださる方でした」

 

「そうだね」

 

絢原さんも頷いた。

 

「写真の話が出たのが少し気になったが、全体的には問題なかった」

 

「……うん」

 

問題なかった。はず。

 

 

ホテルの部屋に戻った。

 

ベッドに座って、スマホを開いた。

 

香港のスポーツメディアのサイトを見てみた。取材を受けた媒体ではなく、別のところ。今日の記事がもう出ていた。

 

「日本のスプリント女王『黒閃姫』、沙田で練習。動きの滑らかさに現地関係者も注目」

 

「黒閃姫」。香港側の登録名。出走表に並ぶ漢字三文字の名前。黒い勝負服と母の閃光からつけられた、と佐々木さんが教えてくれた。

 

「姫」と呼ばれるのは、正直、好きじゃない。私が姫なのは、母が女王だからだ。「黒閃」までは認める。「姫」は要らない。

 

でも、香港側の正式な登録名だから、変えられない。

 

記事のタイトルは、走りの話だった。ほっとした。

 

——でも。

 

関連記事のところに、別の見出しが並んでいた。

 

「カレンモエ、日本のURA広報誌で三号連続表紙。香港でも話題沸騰」

 

「沙田に降り立った『日本の新世代アイコン』」

 

記事をいくつか見た。

 

レース専門メディアは、走りの話をしている。一般のスポーツメディアや若い層向けのサイトは、半分以上が写真の話だった。

 

「すっきりとした鼻筋、印象的な瞳」

 

「カレンモエの本当の魅力は、レースではなくカメラの前にある」——これは失礼じゃない?

 

「日本から来たスプリンターにして新世代のアイコン」

 

アイコン。

 

……へぇ。

 

不快ではない。むしろ、興味深い。日本ではこういう書かれ方はしなかった。母の名前が必ず入ったから。

 

ここでは違う。私だけが書かれている。

 

——でも。

 

何か、引っかかる。

 

引っかかるけど、言語化できない。

 

スマホを置いた。三日後はレース。今日はもう考えない。

 

走れば、分かる。




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