アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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81話 確信

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

翌日。公式練習。

 

沙田のコースに出た。

 

朝の光が芝の上に薄く広がっている。十二月なのに空気が生ぬるい。湿気が肌に張りつく。それでも、芝を踏んだ瞬間、そんなことはどうでもよくなった。

 

重い。脚が沈まずに、跳ね返ってくる。

 

軽く流しただけで、体が満足した。ここなら走れる。

 

走れる、どころじゃない。

 

口に出すには早い。そう思って、飲み込んだ。

 

 

――Foreign Camera

 

公式練習の朝。

 

カメラマンは沙田の練習コースの脇でレンズを構えていた。SNSのフォロワーが二週間で三倍に膨れ上がっている。理由は一つ。

 

カレンモエ。日本から来たスプリンター。

 

走りより、顔が話題になっている子。広報誌の表紙。撮影会の写真。それが香港のSNSで大きく拡散されている。

 

今日も、同じレンズを向けた。

 

(……ん?)

 

カメラ越しに、首を傾げた。

 

スタート練習をしている。ゲートに入って、ゲートが開いて、踏み出す。普通の練習風景。

 

ただし、その彼女が、踏み出した瞬間に、体勢を崩している。

 

一回目。ゲートを出た瞬間、前のめりに体が泳いだ。慌てて踏ん張って止まる。

 

二回目。今度はそろりと出た。普通の動き。何かを確認している様子。

 

三回目。また、踏み込んだ瞬間に体が泳いだ。

 

(あれ?)

 

カメラマンの隣でレンズを構えている同業者が、肩をすくめた。

 

「日本のスプリンター、コンディション悪いのか?」

 

「分からない。何度も同じ場所で躓いてるな」

 

「練習不足じゃないか?」

 

「本番大丈夫かね」

 

シャッターを切る。何度も切る。撮れている被写体は、ゲートで失敗を繰り返している少女だった。

 

(まあ、いい。顔は綺麗だ)

 

カメラマンは続けてシャッターを切った。フォームの乱れた瞬間。慌てた表情。失敗の連続。それでも、フレームに収めれば、「香港に来た日本のアイドル候補」の写真として売れる。

 

走りなんて二の次だった。

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

「今日はスタートの練習をしてみる」

 

絢原さんが言った。

 

「うん」

 

ゲートに入った。ゲートが開く。踏み込んだ。

 

——!?

 

体が前のめりに泳いだ。コケそうになって、慌てて踏ん張った。

 

「……あれ」

 

何が起きたのか、すぐには分からなかった。脚は動いている。芝も普通に踏めている。なのに、体が前に飛び出しすぎた。

 

「どうした」

 

絢原さんが声をかけてきた。

 

「……ごめん、ちょっとここ、感覚が違って」

 

「ん」

 

「しばらくやらせてもらっていい?」

 

絢原さんが、少し私の顔を見た。それから、頷いた。

 

「ああ」

 

それだけ。

 

ゲートに戻った。

 

踏み込んだ瞬間、地面が、想定以上に私を押し返してきた。

 

いつも通り踏み込んでいるのに、初速が、いつもと違う。速い。速すぎる。

 

私が変わったわけじゃない。

 

この芝が、私の踏み込みに対して、異常に反応している。

 

噛み合いすぎている。私の脚と、この芝が。

 

二発目。踏み込みを少し抑えた。

 

普通に出た。

 

これは私の走りじゃない。

 

三発目。今度は、いつも通りの踏み込みで、体を前に倒して、ズレを吸収しながら出た。

 

合った。

 

何度も繰り返した。十回くらい、ゲートに入って、出て、止まって、また入って。少しずつ、体が新しい感覚に慣れていった。

 

最後の数本は、踏み出した瞬間の伸びが、いつもと違う。芝が、私の脚を前に押してくれている。

 

普段の練習なら、こんな感覚にはならない。

 

能力が上がったわけじゃない。

 

ただ、この芝が、私の脚と、噛み合いすぎている。

 

それだけで、いつもと違う初速が出る。それだけで、いつもと違う走りができる。

 

コースの脇のカメラが、ずっと向いていた。何度もスタート練習をしている私を、撮り続けている。

 

カメラマンの一人が、隣の人に何か話しかけているのが見えた。広東語だから分からない。表情は読めた。

 

「コケてばっかりだな」「練習不足じゃないか」

 

そう言っているように、見えた。

 

違うのに。逆なのに。

 

噛み合いすぎて、感覚がズレてるだけなのに。

 

でも、まあいい。

 

声には出さなかった。

 

走れば、全部分かる。

 

 

コースを上がって、絢原さんのところに戻った。佐々木さんと並んで立っている。

 

「どうだった」

 

「本番当日もこの感触なら、問題ない」

 

「いい。今日の流しも数字がいい。昨日より上だ」

 

絢原さんがクリップボードに書き込んだ。

 

「あとは場の発表を待って、最終的な展開を詰める。今日はここまで」

 

「うん」

 

コースの脇で、絢原さんがタブレットを出した。画面に過去のレース映像。先週も、その前も、渡航前から何度も一緒に見ている映像。

 

「サテライトブレイズは今日も別コースで練習してた。仕上がりは上々だ。本番でもこの状態で来るだろう」

 

「両刀だっけ」

 

「先行して残すパターンと、溜めて差すパターン。昨日の流しを見る限り、今回は先行してくる可能性が高い。オーストラル・リーフも先行型だから、前半でやり合う展開になるはずだ」

 

「レディ・シャムロックは」

 

「大外から追い込む。直線勝負に持ち込むタイプ。逃げるタイプが三人いるから、ペースは上がる。差し向きには恵まれた展開になる」

 

「うん」

 

事前に何度も交わしている話だった。出走表が出てから三日、絢原さんは毎晩過去の映像を集めてきて、一緒に分析した。誰がどう動くか、どの位置にモエが入るか、ペースは何秒台になるか。データは全部、絢原さんの頭の中に入っている。

 

私も一通りは見た。見た上で、あまり考えていない。走れば分かる、と思っている。

 

——どの相手が前に来ても、後ろから差してきても、負ける気がしない。

 

そう思った瞬間、自分でちょっと驚いた。今までこんな感覚、レース前に持ったことなかった。でも嘘じゃない。

 

ここの芝なら、走れる。それ以上のことができる。

 

声には出さなかった。

 

コースの脇から、カメラのシャッター音が止まらない。公式練習だから他のウマ娘にもカメラは向いている。でも、私のところに向いているカメラの数が、他より多い。明らかに多い。

 

カメラマンの中に、レース専門の機材ではなく、一眼レフを首から下げた人が混じっていた。ファッション誌のカメラマンが使うような、黒くて大きなレンズ。

 

「……あれ、なんか変じゃない?」

 

「ん?」

 

「あの人、レースのカメラ持ってない」

 

絢原さんが視線を向けた。数秒。

 

「……広報系か、ゴシップ系だな」

 

「公式練習にそういう人来る?」

 

「来ない。招待もされていないはずだ」

 

佐々木さんがスマホを取り出した。

 

「確認してみます」

 

佐々木さんが現地の競走協会の担当者に連絡を取り始めた。その間、絢原さんは黙って、あの一眼レフの人をじっと見ていた。

 

 

ホテルに戻った。

 

ロビーで待っていると、佐々木さんが少し困った顔で戻ってきた。

 

「あの方、公式の報道許可は持っていませんでした」

 

「じゃあ何で入ってきたの」

 

「練習コースの観覧エリアは一般開放されているんです。写真を撮るくらいは許される。商業目的の撮影は本来は許可が要るんですが、現地のエンタメ系のサイト運営者で、SNSに投稿している個人の範囲で処理されている様子です」

 

「エンタメ系」

 

「カレンモエさんの写真を撮って、SNSに上げて、フォロワーを集めるタイプの方々です。レース専門メディアとは別の層ですね」

 

絢原さんが口を挟んだ。

 

「その人たち、多いんですか」

 

「調べました。想定より多いです」

 

佐々木さんがスマホの画面を見せてくれた。

 

香港の大手SNSで「カレンモエ」を検索した結果。写真だらけ。昨日の取材の様子、今朝の練習の様子、ホテルに戻る姿。

 

「これ、全部今日の分?」

 

「ええ。過去三日で数百件です。ハッシュタグ付きの投稿も含めると——」

 

「どれくらい」

 

「数千件」

 

黙った。

 

SNSの投稿を一つ、スクロールした。コメントが並んでいる。広東語と英語。翻訳機能を使ってみた。

 

『沙田に現れた月』

『黒閃姫、想像より小柄でかわいい』

『今まで見たどの女の子より綺麗』

『走りも見たいけど、まずは私服のショットがほしい』

『インスタはやってないの?』

『日本から来た理由はスプリンターじゃなくて撮影だよね?』

『スタートで失敗してた。可愛いけど、走りは期待しないほうがいいかも』

『コケてる時の顔も可愛い』

 

胃の底が冷えた。

 

走りじゃなかった。写真でもない。「撮影」で香港に来た、と思われている。

 

別のコメント。

 

『カレンチャンの娘。親は伝説のスプリンター、本人はアイドル。血統は健全』

 

親とセットで書かれている。でも主語は私。「アイドル」と断定されている。

 

もう一つ。

 

『高松宮記念の映像を見た。走りは悪くない。でも、やっぱり顔が良すぎる』

 

走りは、悪くない。

 

やっぱり顔が、良すぎる。

 

順番が、おかしい。

 

日本では「カレンチャンの娘」だった。母の付属品。それが嫌で走ってきた。

 

ここでは「カレンモエはアイドル」だった。私自身が、顔のいい新人タレント扱い。走りは「悪くない」程度の評価。

 

母を経由しなくなっただけで、構造が同じ。

 

私の中身を、誰も見ていない。

 

「……はぁ」

 

ため息が出た。

 

不思議と、怒りはなかった。むしろ、呆れていた。こんなことあるんだ、と。

 

「モエ」

 

絢原さんが呼んだ。

 

「うん」

 

「すまない」

 

え、と思った。顔を上げた。

 

絢原さんが、こちらを見ていた。真っ直ぐに。いつもの無表情ではなく、少しだけ歪んでいる。怒っているのではない。自分に対して。

 

「俺の失態だ」

 

「え、なんで」

 

「海外遠征の準備の時、現地のSNSや若年層向けメディアの動向を確認しなかった。高松宮記念の映像が拡散されているのは知っていたし、URAの広報誌の写真が出回っているのも把握していた。だが、それがどう受け取られているか、どんな層に広がっているかまでは調べなかった」

 

絢原さんが一度、目を閉じた。

 

「トレーナーとして情報の把握が甘かった。お前に不快な思いをさせた」

 

「……いや、別に——」

 

「不快だっただろう」

 

言い切った。

 

「走りを見に来られていると思って、取材を受けた。現地の空気に無防備で踏み込んだ。お前がどう反応するか、予想できる場面だった。俺が先に把握して、対策を打っておくべきだった」

 

絢原さんが頭を下げた。

 

深く。

 

「すまない」

 

佐々木さんが隣で少し慌てていた。「絢原さん、私こそ現地の動向を十分に把握できず——」と言いかけたのを、絢原さんが「いえ、俺の担当範囲です」と遮った。

 

自分の責任だと決めている。言い訳をしない。佐々木さんに押し付けない。

 

頭を下げたまま、数秒、動かない。

 

——この人、ずっと頑張ってる。

 

昨日の夜も、遅くまでトレーナー室で何かやっていた。部屋の明かりがついていたのを、廊下から見ている。今朝も、朝食の時間にいなかった。朝早くから現地の事務局と打ち合わせをしていたらしい。全部、私のため。

 

それなのに、「失態だ」と決めて、頭を下げている。

 

私のために。

 

胸の奥がきゅっとなった。小さな子が泣いているのを見た時の、あの感触に近い。守りたい。この人を、誰にも責めさせたくない。自分で自分を責めているのも、止めてあげたい。

 

普段、私の方が守ってもらっている側なのに、今は逆。今は私がこの人を守る番だ。

 

——同時に、もう一つの感触があった。

 

この人、今、私の前で崩れている。肩が下がっている。眉が少しだけ寄っている。普段の涼しい顔じゃない。

 

誰にも見せない顔を、私が見ている。

 

胸の奥で黒い猫が一度、鳴いた。

 

いつもコースに出ると動く、あの猫。走りの中で獲物を見つけると爪を立てる、あの猫。今、ホテルのロビーで、私の中で鳴いた。

 

守りたい、と、私のもの、が、同じ場所から出てきている。

 

絢原さんは獲物じゃない。けれど、この人が今見せている弱った顔は、私の前だけのものだ。

 

最低な気分だった。この人が反省している時に、そんなことを考える自分が。

 

でも、嘘をつく気はなかった。

 

「……トレーナー、顔上げて」

 

声が、自分で思ったより柔らかく出た。

 

絢原さんが顔を上げた。やっぱり、少しだけ疲れた顔。眉が少し下がっていて、いつもの無表情よりずっと、人間らしかった。

 

目が合った。

 

見てると、庇いたくなる。見てると、もっと崩したくなる。

 

両方が同時に動いている。

 

「もういいよ」

 

「いや、だが」

 

「もういいって。私、別に怒ってないから」

 

「怒っていないと言われても、俺は——」

 

「ストップ」

 

右手を上げた。絢原さんが止まった。

 

「謝るのは一回でいい。もう分かったから。トレーナーがミスしたのも、反省してるのも、全部伝わった」

 

「……」

 

「それに、走れば全部黙るから」

 

絢原さんが少し目を見開いた。

 

「走って勝てば、こんな記事全部吹き飛ぶ。『アイドル』とか『顔が良すぎる』とか、そういうの全部、私の走りで上書きできる」

 

一度、言葉を切った。

 

「……あと、私の顔が良すぎるのは、トレーナーがよく知ってるでしょ?」

 

絢原さんの動きが止まった。

 

「なに?」

 

私は、ロビーの低いソファから少しだけ身を起こした。

 

「撮影会の時。スタジオで、目、合ってたよね?」

 

声が、自分でも驚くくらい低く出た。喉の奥から、別の何かが言葉を借りている感じ。

 

絢原さんの正面に、もう一歩。椅子の距離が、半歩分だけ縮まる。

 

「知ってるでしょ? 私の『顔が良すぎる』の中身、一番知ってるのは——」

 

視線が、絢原さんの目から、耳に降りた。少し赤くなっていた耳。それから、首筋。Tシャツの襟元。鎖骨の少し上。

 

——食べたい、と思った。

 

獣がそう言った。私の喉から、出かけた。

 

「——」

 

獣が、飛びかかろうとした。何かを言うためじゃない。獣がそうしたかったから。

 

こほん。

 

佐々木さんの咳払いが、私の喉の奥に飛び込んできた。

 

——っ。

 

獣が引っ込んだ。私は、息を呑んで身を引いた。背筋を真っ直ぐにして、椅子の背に体を引き戻した。

 

顔が熱い。耳まで熱い。さっきの庇護欲の熱とは、全然違う熱さ。

 

絢原さんを、ちらっと見た。

 

耳が、もう一段、赤くなっていた。視線が、ほんの一瞬、私の口元に落ちて、すぐに床に逃げた。

 

普段の絢原さんなら、こういう時はもっと素早く視線を切る。それが、一拍だけ遅れた。

 

——意識した。

 

ほんの一瞬。気のせいだと処理しているはず。たぶん本人も「何でもない」と思って終わらせている。

 

それで、いい。

 

それで、十分。

 

「ごめんなさい、佐々木さん」

 

「いえ。私は何も見ていませんし、何も聞いていません」

 

佐々木さんが笑顔で言った。何も見てないのに、何かを見た顔だった。

 

「……とにかく」

 

話を戻した。顔が熱いけど、戻した。

 

「明後日、圧勝する。それで全部終わりにする」

 

口に出してから、自分でもびっくりするくらい、それが本気だった。

 

普段なら「勝ちます」とか「頑張ります」とか、もう少し控えめに言う。今日は「圧勝」と言い切った。

 

このコースなら負ける気がしない。誰が来ても、どんなペースになっても。

 

——傲慢かもしれない。でも、これは事実だ。事実だから、口に出した。

 

絢原さんが、しばらく黙っていた。私の顔を見ていた。何かを確認するように。

 

それから、小さく頷いた。

 

「お前は、強いな」

 

「うん。知ってた?」

 

「知ってた」

 

少し笑った。絢原さんもつられて、口の端がほんの少しだけ上がった。

 

佐々木さんが、横で小さく息を吐いた。安心した顔。

 

「では、レース準備に集中しましょう。あとのメディア対応は私の方で制御します」

 

「お願いします」

 

佐々木さんがロビーを離れた。

 

絢原さんと二人、残された。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「頭、下げなくていいから」

 

「ああ」

 

「もう、下げないでね」

 

「分かった」

 

「うん」

 

ロビーの椅子に座り直した。絢原さんも隣に座った。

 

この人が弱ってる姿、普段見ない。普段、こんなに頭下げる人じゃない。

 

なのに、私のために下げた。

 

胸の奥の猫が、まだ少し、そわそわしている。

 

「絢原さん」

 

「ん?」

 

名字で呼んだ。普段は「トレーナー」なのに。

 

絢原さんが少し驚いた顔をした。

 

「……いや、なんでもない」

 

「何だ」

 

「なんでもないよ。明日、軽く流すだけって言ってたよね」

 

「ああ。前日は短く流して終わりだ」

 

「短いの好き」

 

「知ってる」

 

少し笑った。

 

ロビーの大きな窓から、香港の空が見えた。昼間でも少し霞んでいる。湿気のせい。

 

明後日、レース。沙田の芝で、新しい勝負服で、1200メートルを走る。

 

走れば、全部分かる。

 

 

夜。部屋に戻った。

 

シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めた。

 

絢原さんの頭を下げた姿が、まだ目の裏に残っている。肩の落ち方。「すまない」の声。耳が赤くなった時の顔。

 

枕を強く抱いた。

 

——ちょっと、冷静じゃない気がする。

 

スマホが光った。マーちゃんから。

 

「今日はどうでしたか?」

 

指が動いた。書きながら、何を書くか決めた。書いていい部分と、書かない部分が自分の中にあることに気づく。

 

「ちょっと色々あった」

 

「色々?」

 

「現地でアイドル扱いされてて面倒だった」

 

「え!!! アイドル!!!」

 

「あと、トレーナーが頭下げてた。自分の落ち度だって。私、別に怒ってないのに」

 

少し間があって、返信が来た。

 

「……モエちゃん、それ、守りたくなったでしょう?」

 

指が止まった。

 

「え」

 

「なったでしょ? マーちゃん、分かります」

 

「……なんで分かるの」

 

「モエちゃん、普段絢原トレーナーが『ちゃんとしてる』のを見てますから。その人がしょぼんとしてたら、『どうしたどうした』ってなりますよ。マーちゃんもそう思います」

 

「……守りたく、って」

 

「庇護欲みたいなやつです」

 

「……」

 

「恋愛じゃなくて、こう、庇いたくなる感じというか」

 

半分当たっている。半分は外れている。守りたかったのは本当。でも、それだけじゃなかった。

 

マーちゃんには、そっちは言わない。

 

「マーちゃんも、トレーナーがたまに落ち込むと、めっちゃ心配になります」

 

「分かる」

 

「マーちゃんの中のマーちゃんが覚醒します」

 

「意味分かんない」

 

「自分が守らなきゃって思うんです」

 

「そうだね」

 

マーちゃん人形の写真が送られてきた。布団に寝かされた人形に、タオルがかけられている。「モエちゃんの代わりに守りました」とキャプション。意味は分からなかったけど、ちょっと笑った。

 

「明日の練習は何時ですか?」

 

「朝六時」

 

「早いですね」

 

「うん」

 

「頑張ってください。マーちゃん、応援してます」

 

「うん」

 

スマホを置いた。

 

天井を見上げた。

 

——守りたい、は、本当だった。胸の奥できゅっとなった感触は、あれは庇護欲。マーちゃんの言う通り、母性本能みたいなやつ。

 

でも、同時に走っていた黒い猫。あれは違うもの。

 

走りの中で獲物を見つけた時に鳴く、あの猫。今日はコースじゃなくて、ホテルのロビーで鳴いた。絢原さんが頭を下げた時に。弱ってる姿を見て、私の中の何かが「私のもの」と思った。

 

嘘はつきたくない。

 

その二つが、両方私だ。

 

守りたい、も、私のもの、も、両方。

 

目を閉じた。明日は早い。

 

絢原さんの顔が、また蘇ってきた。頭を下げた時の肩の落ち方。耳が赤くなった瞬間。

 

——もう一回、あの顔が見たい、と思った。

 

思ってから、しまった、と思った。

 

今日、佐々木さんの咳払いで戻したのに、一人になったらまた漏れている。

 

枕に顔を埋めて、声にならない声を出した。

 

明日、普通に会えるかな。

 

普通に、できるかな。




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