――Anti-Hero: Curren Moe
香港のホテル。レース前日の夜。
シャワーを浴びて、部屋に戻った。絢原さんは自分の部屋で書類。佐々木さんも現地事務局との最終調整に出ている。久しぶりに一人の時間。
ベッドに座って、テレビをつけた。リモコンを押して、チャンネルを回していく。広東語のドラマ、英語のニュース、何語か分からないバラエティ。馴染みのない音が次々に流れる。
止まった。
画面の真ん中に、金色のロゴが躍っていた。
HONG KONG SPRINT PREVIEW
香港短途錦標 預覽
派手なタイトル。花火みたいなエフェクトがロゴを彩っている。日本のスポーツ番組よりずっと賑やかだ。背景に沙田レース場の空撮映像。スタジアム全体が金色の光に包まれている。
音楽も派手だった。オーケストラとロック・ギターが混ざったような、威勢のいいテーマ曲。明日の決戦を煽りに煽る音。
……へえ。
思わずベッドから体を起こした。明日の自分のレースのプレビュー番組だ。見ないわけにはいかない。
『Ladies and gentlemen, welcome to the Hong Kong Sprint Preview.』
男性キャスターが英語で切り出した。スーツ姿。スタジオは金色と赤を基調とした派手な装飾。横に女性のキャスター。こちらは広東語で同じ内容を繰り返す。二言語並行放送。字幕が下部に流れる。
『今年の香港スプリントも熱い戦いになります。12頭のスプリンター、世界各地からの精鋭が沙田に集結しました』
画面が出走表に切り替わった。
ずらりと並んだ12人の顔写真と馬番。
一番右上に、私の顔があった。
『Japanese invitation — CURREN MOE』
URAの広報誌の写真が使われている。空色の勝負服ではなく、黒の旧勝負服のカット。レンズを射抜くような目。
「……その写真使うんだ」
独り言が出た。あの撮影会の写真は、もう現地で定着している。
キャスターが英語で解説した。『日本のスプリント女王、登録名黒閃姫。高松宮記念2着、スプリンターズS制覇。前走は日本国内GⅠ。今回が海外初挑戦』
——黒閃姫。
香港側でつけられた、私の登録名。佐々木さんに最初に聞いた時、少しだけ嫌な顔をしてしまった気がする。「姫」は要らない。「黒閃」だけでいい。でも、母が女王だから、娘の私が姫になる。香港側のロジックとしては当然。
——変えられないもの。
それはもう仕方ないとして、思ったよりも走りの情報で紹介されている。顔写真こそアイドル寄りだけど、実績はちゃんと伝えられている。ほっとした。
でも——紹介時間は、短かった。三十秒くらい。
『And now, the reigning champion of Sha Tin. Our very own Satellite Blaze.』
BGMが切り替わった。さっきまでの全員紹介の軽い音楽から、重厚なファンファーレに。画面全体が深紅と金色に染まった。
サテライトブレイズ。
鹿毛のウマ娘。背が高い。目が鋭い。画面に出てきた瞬間の空気の重さが、他の11人とは全然違う。
紹介時間、五分以上。
過去のレース映像が次々に流れた。沙田の1200メートル。去年の香港スプリント。第四コーナーで外から上がってきて、直線で先頭を捉え、最後まで押し切る走り。連覇の決着。
——絢原さんと既に何度も見た映像だった。それでも、こうして現地の番組で改めて見ると、印象が違う。視聴者向けに編集された映像は、走りの良いところだけを切り抜いて、BGMを重ね、派手な演出で盛っている。地元のスターをスターとして見せる作り。
また別の映像。一昨年のチェアマンズスプリントプライズ。こちらは逃げ切り。先手を取って、そのまま押し切った。同じ子とは思えない走り方。これも見たことがある。でも、こうして二つのレースを連続で見せられると、この子の両刀性が際立つ。
『サテライトブレイズ選手の強みは、その柔軟性です。先行して残す。追い込んで差し切る。どちらもできる。相手次第、展開次第で、脚質を切り替えられる稀有なスプリンター』
女性キャスターが広東語で熱弁している。英語の字幕が下に流れる。こちらのキャスターも、さっきまでの落ち着いた紹介と違って、声に熱が乗っている。地元のスターを語る時の熱量。
「……両刀、か」
呟いた。絢原さんの分析通り、どちらから来るか読みにくい。スタートから行くのか、溜めて差すのか、直前まで分からない。
でも——別に、困らない。
どちらから来ても、私の方が上。芝が合っている。体が合っている。どういう展開になっても勝てる。
絢原さんが昨日言った。「相手は強いが、お前の方が一枚上だ」。あの人が軽々しく「勝てる」と言う人じゃないことは、二年以上の付き合いで知っている。
画面の中のサテライトブレイズが、カメラを真っ直ぐ見ていた。インタビュー映像。
『沙田のコースは私のホームだ。誰が来ようと、ここで勝つのが私の役目』
短い。でも、言葉に揺れがない。地元で連覇している王者の顔。
『Next, we have the international challengers.』
海外招待組の紹介。サテライトブレイズの後に、ようやく外国勢のコーナーが来た。紹介の順番が、この番組の価値観を表している。地元王者が一番上。そこに挑む外国勢、という構図。
まずは豪州代表。
『From Australia — AUSTRAL REEF.』
茶色の髪のウマ娘。日焼けした肌。笑顔が印象的。オーストラリアGⅠ二勝。南半球の女王クラス。先行して粘り込む脚質。
次にアイルランド。
『From Ireland — LADY SHAMROCK.』
赤毛のウマ娘。鋭い目つきのアスリート。欧州スプリント路線で実績。大外から一気に差し切るタイプ。
欧州からもう二人。ヴァサーリーリエとアメティースタ。こちらは紹介が短かった。サテライトブレイズに比べて扱いが軽い。
そして——
私の番が、もう一度回ってきた。
『And finally, the topic of the race — Japan’s CURREN MOE.』
画面に、また私の映像が出た。でも今度は過去のレース映像だった。
高松宮記念。最終直線。
バクシンオーさんの背中を追いかけている私。最後の100メートル。体が前に出る。首の差まで詰め寄る。届かない。クビ差の2着。
スローモーションで再生されていた。
『この走り。上がり3ハロン32秒5を記録』
女性キャスターの声が少し変わった。さっきの海外招待勢の紹介の時よりも、温度が上がっている。
『BAKUSHINOHは日本が誇る偉大なスプリンター。そのBAKUSHINOHを最後まで追い詰めた直線。これが、彼女の真価です』
画面が切り替わった。スプリンターズSの映像。マーチャンとの叩き合い。ゴール板前のクビ差。
さらに切り替わる。フェブラリーSの映像。ダートの最終直線。
『高松宮記念の上がり3ハロン32秒5は、世代トップクラスの数字です。スプリンターズSでもアストンマーチャンとの叩き合いを制した。地脚もある。1200メートルの末脚と、押し合いの強さを兼ね備えた、日本の世代No.1のスプリンター』
……日本の世代No.1。
そう紹介されている。母の名前なしで。
画面がスタジオに戻った。キャスター二人が、解説者と思しき男性と話している。
『解説の陳さん、カレンモエ選手の香港スプリントでの見立ては?』
『難しい相手ですね。高松宮記念とスプリンターズSを見る限り、1200メートルのスピード勝負での実力は確かなものです。海外初挑戦ですが、沙田でも十分通用する。……率直に言って、サテライトブレイズとの一騎打ちになると見ています』
『一騎打ち』
『他の海外招待勢は、この二頭に及ばない。サテライトブレイズか、カレンモエか。明日の沙田で、沙田の王者と日本の女王がぶつかる』
日本の女王。
母の名前が、一度も出なかった。
一時間近い番組の中で、私に割かれた時間の全てが、走りの話だった。顔の話も、母の話も、ファッション誌の話も、一切出てこない。
SNSで見たあの「アイドル」「顔が良すぎる」のコメント群と、このテレビ番組の扱いは、全然違う層のものだった。レース専門の番組では、私はちゃんとカレンモエとして見られている。SNSの世界と、ここの世界は別物だ。
それが少しだけ救いだった。
番組の最後、明日の出走順が画面に表示された。
1枠1番 カレンモエ (差し)
2枠2番 デュオアスピス (先行)
3枠3番 サテライトブレイズ (先行・追い込み)
4枠4番 エクセレンシー (逃げ)
5枠5番 ヴァサーリーリエ (先行)
5枠6番 ネイザンロード (逃げ)
6枠7番 ファーメントウィン (先行)
6枠8番 オーストラル・リーフ (先行)
7枠9番 フレイシュタット (追い込み)
7枠10番 アメティースタ (差し)
8枠11番 ブラウンモンブラン (逃げ)
8枠12番 レディ・シャムロック (追い込み)
最内枠の1番。
悪くない。好スタートが切れれば、内で脚を溜められる。サテライトブレイズは3番で、すぐ外にいる。前半から目に入る位置。
逃げが三人いる。エクセレンシー、ネイザンロード、ブラウンモンブラン。ハイペースになる可能性が高い。私の得意な展開だ。前半で消耗した逃げ組を、直線で一気に差す。あるいはサテライトブレイズを直接狙う。
体の中で、何かが動いた。
コースに出ていないのに、体が動いた。
黒い猫が、一度、鳴いた。
画面の中のサテライトブレイズ。鋭い目。カメラを真っ直ぐ見ている。
……あ。
——いいね。
強そう。
それだけ思った。
でも、体の奥で、黒い猫が、尻尾を振っている。
——明日、楽しみだ。
番組のエンディングテーマが流れ始めた。派手なオーケストラ。ロゴが画面いっぱいに広がる。
HONG KONG SPRINT — Tomorrow.
テレビを消した。
部屋が急に静かになった。窓の外、香港の夜景。無数のビルの灯り。
明日。
私の体は、もう準備ができている。
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