——Anti-Hero: Curren Moe
レース当日。
朝、六時に目が覚めた。アラームより先に目が開いた。カーテンの隙間から、香港の朝の光が一本、床に伸びている。薄い、冬の光。それでも日本の十二月よりずっと柔らかかった。
ベッドから出る。床が冷たくない。ホテルの絨毯。
シャワーを浴びて着替えて、部屋の真ん中に勝負服のケースを置いた。
ケースの蓋を開ける。空色のチュール、黒と空色のビスチエ、太い黒のベルト、銀の刺繍。蛍光灯の下で、布が静かに揺れている。
袖に指を滑らせた。長い黒袖がひんやりしている。朝の冷気だ。今日の昼には、これを着て沙田のターフに立つ。
ノックの音。絢原さん。
「朝飯、ロビーで済ませよう」
「うん」
ロビーのカフェに降りていくと、佐々木さんが先に来ていた。書類を抱えて、てきぱきと朝の連絡事項を確認している。絢原さんは黒のコーヒーを一口、私はホットミルクとパンを一つ。
食欲がない、というほどではない。ただ、体が何かを溜めている感じがする。燃料を入れすぎると動きが重くなるから、必要な分だけ。
「調子は」
絢原さんが聞いた。
「悪くない」
絢原さんはそれだけで頷いた。私の顔を見れば分かる、ということなのだろう。
佐々木さんが、コーヒーカップに口をつけながら小さく笑った。
「ええ、いい顔ですよ。朝からそんなにすっきりしてる人、珍しいです」
「昨日、よく寝たから」
嘘ではない。でも全部本当でもなくて、眠れなかった時間もある。気がついたら朝まで眠っていた。体が勝手にスイッチを切って、必要な分だけ休んでくれていたらしい。
コーヒーの匂いが、朝の空気と混ざる。ロビーの窓の外で、香港の街がゆっくり目覚めていくのが見えた。
明後日じゃない。今日、走る。
~
関係者入り口からレース場に入る。佐々木さんが先導して、絢原さんが私の横を歩いた。控え室までの廊下を歩きながら、窓の外のスタンドを見る。
まだ空席が目立つ。それでも、場内アナウンスは響いている。広東語と英語。日本のレース場とは違う音だった。
控え室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。日本の控え室と匂いが違う。湿気と、少しだけ甘い芳香剤。カーペットの質感も鏡の枠の色も違う。それでも、椅子と机とロッカーの配置は、どこのレース場とも同じだった。ウマ娘のための場所は、どこに行っても似ている。
ケースを置く。勝負服を出す。
蛍光灯の下で、空色のチュールが淡く揺れた。ビスチエの黒い側が光を吸い込み、空色の側に淡い影を落としている。蛍光灯の白い光が、布の境界線で滲んで消えていく。
着替え始めた。
黒のニーソックスを引き上げる。スカートのチュール部分が、足元で広がる。空色が、まず体に乗った。
次にビスチエ。左半分が黒、右半分が空色。一着の中で、二つの色が出会っている。胸の上から下まで、布が体を「私の形」に整えていく。
そしてベルト。太めの黒の革に、銀のバックル。腰の中央、ビスチエの境界線をちょうど跨ぐ位置で、留める。引き締める。肋骨が「ここ」と決まる。呼吸の場所が、ベルトの位置で、絞られて、定まる。これは鎧であり、楽器のチューニングだった。
長い黒袖を通す。袖口の銀の刺繍が、蛍光灯の下で一瞬光る。
最後にファスナー。
鏡の前に立った。
——似合ってる。
自分で言うのも何だけど、似合っていた。
黒い旧勝負服を脱いだ時、何かを失う気がしていた。反抗の色を手放すこと、それは自分の一部を削るのに似た感覚。でも、着てみたら違う。削られてはいない、むしろ増えていた。空色が黒の隣に並んでいる。一着の中で、両方が同居している。「全部、私」が体に乗っていた。
——仮面、装着完了。
そう思った。
普段の私と、戦場の私は、違う。私の中で違うものとして扱われている。だから、勝負服を着るのは、ただの着替えじゃなくて、もう一人の私を呼び出す儀式だった。
旧勝負服の頃は、その「もう一人」が黒い猫だった。今は——空色と黒が同居するこの一着が、別の何かを呼んでいる。黒い猫は中にいる、でも、外側にもう一層、装甲が増えている。
体が、戦闘モードに入っていく。
呼吸が深くなる。指先の温度が下がる。瞳の奥が冷えていく。鏡の中の自分が、徐々に「カレンモエ」じゃない何かに変わっていく。
ドアがノックされる。絢原さんだった。
「時間だ」
「うん」
短い返事が、もう普段の声じゃなくなっていた。
控え室を出た。
~
パドック。
周回に入った瞬間、スタンドのボルテージが一段上がった。広東語の実況が何かを叫んでいて、英語の声も混ざる。観客の声援。フラッシュ。
冬の沙田、薄曇りの午後の光。芝の濃い緑が、雨上がりで一段濃く見える。空気が湿っている。日本の十二月の乾いた冷たさとは違う、生ぬるい湿気。それが体に纏わりついて、肺に入ってくる。馴染む匂いだった。昨日の調整で、もう体が覚えている。
私が前を向いて歩くと、スタンドから声が上がった。
『CURREN MOE!』
『カレンモエ!』
知っている声援だった。日本語と英語と広東語が混ざっている。それでも、どの言語も、私の名前を呼んでいた。
歩きながら観客席を見ると、横断幕がいくつか見える。
『CURREN MOE - 日本從女王到世界 女王へ』——日本の女王から世界の女王へ。手書きの漢字と日本語。
『黑閃姫』——香港メディアが私につけた、最初の呼び名。スプリンターズSの直後、どこかの記者が漢字でそう書いた。地元のファンがそれを覚えていてくれた、らしい。
私の中身を、ちゃんと見ている人もいる。SNSでアイドル扱いしてきた層とは違う層。走りを見に来た層が、確かにいる。
胸の奥で、温度が上がった。体が少しずつ起きていく。黒い猫が、目を開けた。
スタンドの最前列。広東語のコールが、ひときわ大きく上がる。地元のファンが、誰かを応援している。「サテライトブレイズ」と聞こえた。
地元の声が、私とは別の周波数で、別の名前を呼んでいた。当然だ。ここは沙田、彼女のホーム。
パドックの内側で、他の出走者が周回している。三番の子。鹿毛で、背が高くて、目が鋭い。
サテライトブレイズ。
歩き方が、違った。
他の出走者が「歩いている」のに対して、彼女は「移動している」だった。脚の運びに無駄がない。蹄音のリズムが整っている。背中の線が、ぴたりと水平。重心が一切ぶれない。連覇した王者の、染みついた所作。
——強い。
見ただけで分かる。香港に着いてから、テレビでも、調教でも、何度も見た姿だけど、レース場のパドックで動いている彼女は、これまでの映像とは違う密度を持っていた。
目が合った。
向こうも見ていた。観客のざわめきを割って、二人の視線が一瞬だけ交差する。
——来た。
サテライトブレイズの目が、私を捉えた瞬間、体に圧が来た。
挑発でも侮蔑でもない。ただ純粋な闘志。「お前を潰す」と全身で告げてくる目。地元で連覇している王者が、外から来た挑戦者を、対等の敵として認識した目。
息が、一瞬、止まった。
これだ。これが世界か。
私が国内で受けてきた視線とは、密度が違う。スプリンターズSの大将格を相手にした時も、こんな圧は受けなかった。これは「勝ちに来た者」の目。私と同じ位置から、私と同じ熱で、私を見ている目。
胸の奥が、熱くなる。
——いいね。
黒い猫が、目を細めた。
私も見返した。視線を逸らさない。「今日勝つのは私」——目でそう伝える。伝わったかは分からない。それでも、向こうの圧に、こちらの圧で応える。
サテライトブレイズが、ほんの少しだけ、口の端を動かした。
笑った、と思う。
——来い。
そう言われた気がした。
その瞬間、私の中で、何かが完全に立ち上がった。黒い猫が尻尾を振り、ベルトが胴を絞り、空色のチュールが揺れる。レース前の最後の儀式が、敵の視線によって完了した。
ここは、戦場だ。
そして、戦場の片側に、彼女が立っている。同じ熱を持った、同じ「勝ちに来た者」が。
私は、それに応える。
絢原さんがパドックの端で待っていた。最後の指示。
「スタートはいつも通り」
頷いた。
「前半で三番は先行してくる。お前は好位で内を取れ。逃げが三人いるからペースは上がる。前半33秒台前半は覚悟しろ」
「ハイペース、ね」
「直線は——」
絢原さんが少し間を置いた。
「——お前の走りでいい」
短かった。最後は任せる、と言っている。二年以上かけて積み上げた信頼の上に置かれた一言だった。
「うん」
頷いて、歩き出した。ゲートに向かう。
コースに出る。軽く流して、体の反応を見た。200メートルだけ。体が一発で反応する。
——今日、いける。
芝が重い。重さが体を受け止めてくれる。蹴った分がそのまま返ってくる。呼吸が深く入って、脚が軽く回る。昨日より、さらに良かった。
引き返す途中で、ゲートが見えた。十二個の枠が、スタートラインに並んでいる。
黒い猫が、完全に目を覚ました。
~
ゲートイン。
十二の枠が、スタートラインに並んでいる。一番から順に入っていく。係員が一頭ずつ誘導する。広東語と英語が交互に飛び交う。
一番枠は、私。
枠の中に体を入れる。後ろの扉が閉まった。左右が金属の壁、前方にスタートラインと直線。
正面には何もない。十一頭分の枠が右に伸びていて、その向こうに沙田の長い直線、ゴール板の先まで芝が続いている。一番枠の景色は、シンプルだ。誰もいない。誰にも邪魔されない。最短距離が、目の前で広がっている。
隣の二番枠で、誰かが入る音がした。デュオアスピス。会場で何度かすれ違っただけの子。距離感がまだ掴めていない相手。
その向こう、三番枠。
サテライトブレイズが入る音がした。蹄が金属の床を叩く音、彼女だけリズムが違う。一切の迷いがない、ただの「入った」という音。
私との距離は、二枠分。一・五メートル前後。手を伸ばせば届く距離じゃない。でも、気配だけは、確かに届いてくる。
集中している闘気が、二枠の隙間を越えて、私の枠に流れ込んでくる。さっきパドックでぶつけられた視線の延長。「来い」と言ったあの目が、今は枠の中で、ゴールだけを見つめている。
——綺麗な敵だ。
枠を一個ずつ確認する。一番(私)、二番、三番(サテブレ)、四番(エクセレンシー)、五番、六番(ネイザンロード)。逃げの三人がバラけて散っている。配置はテレビで何度も確認した。前半が荒れる配置だ。
呼吸を整える。深く、一回、二回。
黒い猫が、爪を立てた。肉球の感触が体の中心に降りてくる。走り出す前の、あの感触。今日は、もう一つ、別の感触も乗っている。ベルトの締め付け。空色の布の重み。仮面の重量。
『The gates are about to open for the Hong Kong Sprint!』
実況の声が場内に響いた。
顔を上げて、スタンドの方を一瞬だけ見た。広東語の歓声と、日本語の声援が、一つの大きな音になって押し寄せてくる。
ファンファーレが鳴った。
全員の集中が、一本の線になる。十二の枠が、十二の銃口のように、スタートラインを向いている。
私の中で、最後のスイッチが入った。
——行く。
ゲートが、開いた。
——Live: Announcer
『スタートしました、香港スプリント! 十二人、一斉にゲートを出ます! 先手を取ったのは四番エクセレンシー! 続いて十一番ブラウンモンブラン、六番ネイザンロード! 逃げ三人が前へ前へ! さらに内からカレンモエも好発! 一番枠から素晴らしいスタート!』
『地元のサテライトブレイズも遅れていません! 三番手の外、サテライトブレイズ! モエのすぐ外でぴったり並走! 逃げ三人が作るペースに、二人の先行勢が続く形!』
『前半200メートル通過——速い、速いです! 22秒台! 香港スプリント、今年もハイペース戦の様相です!』
——Anti-Hero: Curren Moe
速い。
絢原さんの読み通り。それを、わずかに上回るペースだ。逃げの三人がぶつかり合って、互いに譲らずに飛ばしている。
私はその直後、四番手。1番枠から出て、逃げの三人がすぐ前に三列の壁を作ってくれた。内ラチを沿って、脚を溜める位置。理想通り。
右隣、サテライトブレイズ。並走している。すぐ外、手を伸ばせば触れる距離。
この子、今回は先行で来た。特番の予想通り、絢原さんの分析通り。直前まで迷わせる両刀の女王が、今日は「前で潰す」と決めてきた。
——いいよ。
どっちでも、結果は変わらない。
黒い猫が笑った。
私の中で、笑った。走るのが楽しい。追いかけるのも、追いかけられるのも、楽しい。サテライトブレイズの気配を右で感じながら、前の逃げ三人の背中を見ながら、体が勝手に喜んでいる。
並走しながら、横目でサテライトブレイズを見た。
向こうも、私を見ていた。
二人とも前を向くべき場面で、お互いに横を見ていた。一秒未満の視線交差。
言葉はない。視線が会話していた。並走中の、二頭分のスペースの中で、闘志がぶつかり合っている。前の逃げ三人が作っているハイペースに、私たちは食らいついている。それも、ただ食らいつくのではなく、楽しそうに食らいついている。
黒い猫が、ふっと挑発の動きを見せた。
私の体の動きを、わずかに揺らす。リズムを刻む脚の運びの中に、サテライトブレイズだけに分かる挑発。動作としては誤差レベル。でも、走りを読める者には伝わる。
サテライトブレイズが、応えた。
彼女もわずかに、ピッチを上げた。「乗ってあげる」と言わんばかりに。
私も、わずかに上げる。
向こうも、わずかに上げる。
逃げ三人より少しだけ後ろの位置で、二人だけのペースの応酬が始まっていた。前で逃げを引っ張る三人すら気づかない、二人の間だけの会話。
——楽しい。
これは、レースじゃなくて、対話だった。香港の沙田の重い芝の上で、二人の女王が、お互いの脚で言葉を交わしている。
制御されている。黒い猫は今、私の足元にいる。暴走していない。使える状態で、そこにいた。挑発しても、応えられても、ペースが乱れない。完全に、私の支配下にある。
呼吸を整える。一定のリズムで吸って、一定のリズムで吐く。脚が芝を蹴る。芝が脚を返してくる。これまで踏んだどの芝よりも、深く、確かに、力を返してくる。
——Live: Announcer
『600メートル通過——34秒台前半! 速い、速い! 過去のハイペースを上回る数字です! 逃げ三人、まだ譲らず! 後ろのカレンモエ、サテライトブレイズも、このペースについていっています!』
『これは消耗戦になりますよ、皆さん! 直線でどれだけ脚が残っているか、それが勝敗を分ける!』
——Anti-Hero: Curren Moe
第三コーナー。
ペースが、もう一段上がった。
エクセレンシーが内からもう一段踏み込んだ。ネイザンロードも離れない。ブラウンモンブランは少し下がったが、まだ三番手で粘っている。逃げの二人が、最後まで残ろうとしていた。
その瞬間、サテライトブレイズが動いた。
外から仕掛けてきた。第三コーナーの入り口で、一気にペースアップ。逃げの横まで上がって、直線に入る前に叩こうとしている。地元で連覇した女王の、勝利の方程式。
私は、内で脚を溜めた。
——まだだ。
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