アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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明日は更新ないかもしれません


82話 香港スプリント・前

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

レース当日。

 

朝、六時に目が覚めた。アラームより先に目が開いた。カーテンの隙間から、香港の朝の光が一本、床に伸びている。薄い、冬の光。それでも日本の十二月よりずっと柔らかかった。

 

ベッドから出る。床が冷たくない。ホテルの絨毯。

 

シャワーを浴びて着替えて、部屋の真ん中に勝負服のケースを置いた。

 

ケースの蓋を開ける。空色のチュール、黒と空色のビスチエ、太い黒のベルト、銀の刺繍。蛍光灯の下で、布が静かに揺れている。

 

袖に指を滑らせた。長い黒袖がひんやりしている。朝の冷気だ。今日の昼には、これを着て沙田のターフに立つ。

 

ノックの音。絢原さん。

 

「朝飯、ロビーで済ませよう」

 

「うん」

 

ロビーのカフェに降りていくと、佐々木さんが先に来ていた。書類を抱えて、てきぱきと朝の連絡事項を確認している。絢原さんは黒のコーヒーを一口、私はホットミルクとパンを一つ。

 

食欲がない、というほどではない。ただ、体が何かを溜めている感じがする。燃料を入れすぎると動きが重くなるから、必要な分だけ。

 

「調子は」

 

絢原さんが聞いた。

 

「悪くない」

 

絢原さんはそれだけで頷いた。私の顔を見れば分かる、ということなのだろう。

 

佐々木さんが、コーヒーカップに口をつけながら小さく笑った。

 

「ええ、いい顔ですよ。朝からそんなにすっきりしてる人、珍しいです」

 

「昨日、よく寝たから」

 

嘘ではない。でも全部本当でもなくて、眠れなかった時間もある。気がついたら朝まで眠っていた。体が勝手にスイッチを切って、必要な分だけ休んでくれていたらしい。

 

コーヒーの匂いが、朝の空気と混ざる。ロビーの窓の外で、香港の街がゆっくり目覚めていくのが見えた。

 

明後日じゃない。今日、走る。

 

 

関係者入り口からレース場に入る。佐々木さんが先導して、絢原さんが私の横を歩いた。控え室までの廊下を歩きながら、窓の外のスタンドを見る。

 

まだ空席が目立つ。それでも、場内アナウンスは響いている。広東語と英語。日本のレース場とは違う音だった。

 

控え室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。日本の控え室と匂いが違う。湿気と、少しだけ甘い芳香剤。カーペットの質感も鏡の枠の色も違う。それでも、椅子と机とロッカーの配置は、どこのレース場とも同じだった。ウマ娘のための場所は、どこに行っても似ている。

 

ケースを置く。勝負服を出す。

 

蛍光灯の下で、空色のチュールが淡く揺れた。ビスチエの黒い側が光を吸い込み、空色の側に淡い影を落としている。蛍光灯の白い光が、布の境界線で滲んで消えていく。

 

着替え始めた。

 

黒のニーソックスを引き上げる。スカートのチュール部分が、足元で広がる。空色が、まず体に乗った。

 

次にビスチエ。左半分が黒、右半分が空色。一着の中で、二つの色が出会っている。胸の上から下まで、布が体を「私の形」に整えていく。

 

そしてベルト。太めの黒の革に、銀のバックル。腰の中央、ビスチエの境界線をちょうど跨ぐ位置で、留める。引き締める。肋骨が「ここ」と決まる。呼吸の場所が、ベルトの位置で、絞られて、定まる。これは鎧であり、楽器のチューニングだった。

 

長い黒袖を通す。袖口の銀の刺繍が、蛍光灯の下で一瞬光る。

 

最後にファスナー。

 

鏡の前に立った。

 

——似合ってる。

 

自分で言うのも何だけど、似合っていた。

 

黒い旧勝負服を脱いだ時、何かを失う気がしていた。反抗の色を手放すこと、それは自分の一部を削るのに似た感覚。でも、着てみたら違う。削られてはいない、むしろ増えていた。空色が黒の隣に並んでいる。一着の中で、両方が同居している。「全部、私」が体に乗っていた。

 

——仮面、装着完了。

 

そう思った。

 

普段の私と、戦場の私は、違う。私の中で違うものとして扱われている。だから、勝負服を着るのは、ただの着替えじゃなくて、もう一人の私を呼び出す儀式だった。

 

旧勝負服の頃は、その「もう一人」が黒い猫だった。今は——空色と黒が同居するこの一着が、別の何かを呼んでいる。黒い猫は中にいる、でも、外側にもう一層、装甲が増えている。

 

体が、戦闘モードに入っていく。

 

呼吸が深くなる。指先の温度が下がる。瞳の奥が冷えていく。鏡の中の自分が、徐々に「カレンモエ」じゃない何かに変わっていく。

 

ドアがノックされる。絢原さんだった。

 

「時間だ」

 

「うん」

 

短い返事が、もう普段の声じゃなくなっていた。

 

控え室を出た。

 

 

パドック。

 

周回に入った瞬間、スタンドのボルテージが一段上がった。広東語の実況が何かを叫んでいて、英語の声も混ざる。観客の声援。フラッシュ。

 

冬の沙田、薄曇りの午後の光。芝の濃い緑が、雨上がりで一段濃く見える。空気が湿っている。日本の十二月の乾いた冷たさとは違う、生ぬるい湿気。それが体に纏わりついて、肺に入ってくる。馴染む匂いだった。昨日の調整で、もう体が覚えている。

 

私が前を向いて歩くと、スタンドから声が上がった。

 

『CURREN MOE!』

『カレンモエ!』

 

知っている声援だった。日本語と英語と広東語が混ざっている。それでも、どの言語も、私の名前を呼んでいた。

 

歩きながら観客席を見ると、横断幕がいくつか見える。

 

『CURREN MOE - 日本從女王到世界 女王へ』——日本の女王から世界の女王へ。手書きの漢字と日本語。

 

『黑閃姫』——香港メディアが私につけた、最初の呼び名。スプリンターズSの直後、どこかの記者が漢字でそう書いた。地元のファンがそれを覚えていてくれた、らしい。

 

私の中身を、ちゃんと見ている人もいる。SNSでアイドル扱いしてきた層とは違う層。走りを見に来た層が、確かにいる。

 

胸の奥で、温度が上がった。体が少しずつ起きていく。黒い猫が、目を開けた。

 

スタンドの最前列。広東語のコールが、ひときわ大きく上がる。地元のファンが、誰かを応援している。「サテライトブレイズ」と聞こえた。

 

地元の声が、私とは別の周波数で、別の名前を呼んでいた。当然だ。ここは沙田、彼女のホーム。

 

パドックの内側で、他の出走者が周回している。三番の子。鹿毛で、背が高くて、目が鋭い。

 

サテライトブレイズ。

 

歩き方が、違った。

 

他の出走者が「歩いている」のに対して、彼女は「移動している」だった。脚の運びに無駄がない。蹄音のリズムが整っている。背中の線が、ぴたりと水平。重心が一切ぶれない。連覇した王者の、染みついた所作。

 

——強い。

 

見ただけで分かる。香港に着いてから、テレビでも、調教でも、何度も見た姿だけど、レース場のパドックで動いている彼女は、これまでの映像とは違う密度を持っていた。

 

目が合った。

 

向こうも見ていた。観客のざわめきを割って、二人の視線が一瞬だけ交差する。

 

——来た。

 

サテライトブレイズの目が、私を捉えた瞬間、体に圧が来た。

 

挑発でも侮蔑でもない。ただ純粋な闘志。「お前を潰す」と全身で告げてくる目。地元で連覇している王者が、外から来た挑戦者を、対等の敵として認識した目。

 

息が、一瞬、止まった。

 

これだ。これが世界か。

 

私が国内で受けてきた視線とは、密度が違う。スプリンターズSの大将格を相手にした時も、こんな圧は受けなかった。これは「勝ちに来た者」の目。私と同じ位置から、私と同じ熱で、私を見ている目。

 

胸の奥が、熱くなる。

 

——いいね。

 

黒い猫が、目を細めた。

 

私も見返した。視線を逸らさない。「今日勝つのは私」——目でそう伝える。伝わったかは分からない。それでも、向こうの圧に、こちらの圧で応える。

 

サテライトブレイズが、ほんの少しだけ、口の端を動かした。

 

笑った、と思う。

 

——来い。

 

そう言われた気がした。

 

その瞬間、私の中で、何かが完全に立ち上がった。黒い猫が尻尾を振り、ベルトが胴を絞り、空色のチュールが揺れる。レース前の最後の儀式が、敵の視線によって完了した。

 

ここは、戦場だ。

 

そして、戦場の片側に、彼女が立っている。同じ熱を持った、同じ「勝ちに来た者」が。

 

私は、それに応える。

 

絢原さんがパドックの端で待っていた。最後の指示。

 

「スタートはいつも通り」

 

頷いた。

 

「前半で三番は先行してくる。お前は好位で内を取れ。逃げが三人いるからペースは上がる。前半33秒台前半は覚悟しろ」

 

「ハイペース、ね」

 

「直線は——」

 

絢原さんが少し間を置いた。

 

「——お前の走りでいい」

 

短かった。最後は任せる、と言っている。二年以上かけて積み上げた信頼の上に置かれた一言だった。

 

「うん」

 

頷いて、歩き出した。ゲートに向かう。

 

コースに出る。軽く流して、体の反応を見た。200メートルだけ。体が一発で反応する。

 

——今日、いける。

 

芝が重い。重さが体を受け止めてくれる。蹴った分がそのまま返ってくる。呼吸が深く入って、脚が軽く回る。昨日より、さらに良かった。

 

引き返す途中で、ゲートが見えた。十二個の枠が、スタートラインに並んでいる。

 

黒い猫が、完全に目を覚ました。

 

 

ゲートイン。

 

十二の枠が、スタートラインに並んでいる。一番から順に入っていく。係員が一頭ずつ誘導する。広東語と英語が交互に飛び交う。

 

一番枠は、私。

 

枠の中に体を入れる。後ろの扉が閉まった。左右が金属の壁、前方にスタートラインと直線。

 

正面には何もない。十一頭分の枠が右に伸びていて、その向こうに沙田の長い直線、ゴール板の先まで芝が続いている。一番枠の景色は、シンプルだ。誰もいない。誰にも邪魔されない。最短距離が、目の前で広がっている。

 

隣の二番枠で、誰かが入る音がした。デュオアスピス。会場で何度かすれ違っただけの子。距離感がまだ掴めていない相手。

 

その向こう、三番枠。

 

サテライトブレイズが入る音がした。蹄が金属の床を叩く音、彼女だけリズムが違う。一切の迷いがない、ただの「入った」という音。

 

私との距離は、二枠分。一・五メートル前後。手を伸ばせば届く距離じゃない。でも、気配だけは、確かに届いてくる。

 

集中している闘気が、二枠の隙間を越えて、私の枠に流れ込んでくる。さっきパドックでぶつけられた視線の延長。「来い」と言ったあの目が、今は枠の中で、ゴールだけを見つめている。

 

——綺麗な敵だ。

 

枠を一個ずつ確認する。一番(私)、二番、三番(サテブレ)、四番(エクセレンシー)、五番、六番(ネイザンロード)。逃げの三人がバラけて散っている。配置はテレビで何度も確認した。前半が荒れる配置だ。

 

呼吸を整える。深く、一回、二回。

 

黒い猫が、爪を立てた。肉球の感触が体の中心に降りてくる。走り出す前の、あの感触。今日は、もう一つ、別の感触も乗っている。ベルトの締め付け。空色の布の重み。仮面の重量。

 

The gates are about to open for the Hong Kong Sprint!

 

実況の声が場内に響いた。

 

顔を上げて、スタンドの方を一瞬だけ見た。広東語の歓声と、日本語の声援が、一つの大きな音になって押し寄せてくる。

 

ファンファーレが鳴った。

 

全員の集中が、一本の線になる。十二の枠が、十二の銃口のように、スタートラインを向いている。

 

私の中で、最後のスイッチが入った。

 

——行く。

 

ゲートが、開いた。

 

——Live: Announcer

 

『スタートしました、香港スプリント! 十二人、一斉にゲートを出ます! 先手を取ったのは四番エクセレンシー! 続いて十一番ブラウンモンブラン、六番ネイザンロード! 逃げ三人が前へ前へ! さらに内からカレンモエも好発! 一番枠から素晴らしいスタート!』

 

『地元のサテライトブレイズも遅れていません! 三番手の外、サテライトブレイズ! モエのすぐ外でぴったり並走! 逃げ三人が作るペースに、二人の先行勢が続く形!』

 

『前半200メートル通過——速い、速いです! 22秒台! 香港スプリント、今年もハイペース戦の様相です!』

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

速い。

 

絢原さんの読み通り。それを、わずかに上回るペースだ。逃げの三人がぶつかり合って、互いに譲らずに飛ばしている。

 

私はその直後、四番手。1番枠から出て、逃げの三人がすぐ前に三列の壁を作ってくれた。内ラチを沿って、脚を溜める位置。理想通り。

 

右隣、サテライトブレイズ。並走している。すぐ外、手を伸ばせば触れる距離。

 

この子、今回は先行で来た。特番の予想通り、絢原さんの分析通り。直前まで迷わせる両刀の女王が、今日は「前で潰す」と決めてきた。

 

——いいよ。

 

どっちでも、結果は変わらない。

 

黒い猫が笑った。

 

私の中で、笑った。走るのが楽しい。追いかけるのも、追いかけられるのも、楽しい。サテライトブレイズの気配を右で感じながら、前の逃げ三人の背中を見ながら、体が勝手に喜んでいる。

 

並走しながら、横目でサテライトブレイズを見た。

 

向こうも、私を見ていた。

 

二人とも前を向くべき場面で、お互いに横を見ていた。一秒未満の視線交差。

 

言葉はない。視線が会話していた。並走中の、二頭分のスペースの中で、闘志がぶつかり合っている。前の逃げ三人が作っているハイペースに、私たちは食らいついている。それも、ただ食らいつくのではなく、楽しそうに食らいついている。

 

黒い猫が、ふっと挑発の動きを見せた。

 

私の体の動きを、わずかに揺らす。リズムを刻む脚の運びの中に、サテライトブレイズだけに分かる挑発。動作としては誤差レベル。でも、走りを読める者には伝わる。

 

サテライトブレイズが、応えた。

 

彼女もわずかに、ピッチを上げた。「乗ってあげる」と言わんばかりに。

 

私も、わずかに上げる。

 

向こうも、わずかに上げる。

 

逃げ三人より少しだけ後ろの位置で、二人だけのペースの応酬が始まっていた。前で逃げを引っ張る三人すら気づかない、二人の間だけの会話。

 

——楽しい。

 

これは、レースじゃなくて、対話だった。香港の沙田の重い芝の上で、二人の女王が、お互いの脚で言葉を交わしている。

 

制御されている。黒い猫は今、私の足元にいる。暴走していない。使える状態で、そこにいた。挑発しても、応えられても、ペースが乱れない。完全に、私の支配下にある。

 

呼吸を整える。一定のリズムで吸って、一定のリズムで吐く。脚が芝を蹴る。芝が脚を返してくる。これまで踏んだどの芝よりも、深く、確かに、力を返してくる。

 

——Live: Announcer

 

『600メートル通過——34秒台前半! 速い、速い! 過去のハイペースを上回る数字です! 逃げ三人、まだ譲らず! 後ろのカレンモエ、サテライトブレイズも、このペースについていっています!』

 

『これは消耗戦になりますよ、皆さん! 直線でどれだけ脚が残っているか、それが勝敗を分ける!』

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

第三コーナー。

 

ペースが、もう一段上がった。

 

エクセレンシーが内からもう一段踏み込んだ。ネイザンロードも離れない。ブラウンモンブランは少し下がったが、まだ三番手で粘っている。逃げの二人が、最後まで残ろうとしていた。

 

その瞬間、サテライトブレイズが動いた。

 

外から仕掛けてきた。第三コーナーの入り口で、一気にペースアップ。逃げの横まで上がって、直線に入る前に叩こうとしている。地元で連覇した女王の、勝利の方程式。

 

私は、内で脚を溜めた。

 

——まだだ。




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