——Anti-Hero: Curren Moe
第三コーナーの入り口。
外からサテライトブレイズが動いた。一気にペースアップ、逃げの横まで上がっていく。地元で連覇した女王の、勝利の方程式。
私は、内で脚を溜めていた。
——まだだ。
この子が逃げを捉えるのを待つ。捉えた瞬間に、その後ろから一気に行く。
絢原さんと何度も確認した展開だった。サテライトブレイズが先頭に立つコンマ数秒の隙を突く。私のスタートダッシュと、内ラチの最短距離と、差し脚の鋭さ。三つを束ねて、直線で一気に出る。
第四コーナー。
サテライトブレイズがエクセレンシーを捉えた。逃げ二人が、残り少しで崩れかける。サテライトブレイズが先頭。私は内で二番手。残りは、直線だけ。
黒い猫が、背中を反らした。
合図。ここからだ。
——Live: Announcer
『直線に入りました! 先頭はサテライトブレイズ! 二番手、カレンモエ、内でぴったり! 三番手以降は離れていきます! 二人のマッチアップ! 香港の女王と日本の女王! どちらが抜け出すか!』
『観客のボルテージが、最高潮です! 沙田のスタンドが揺れている!』
——Anti-Hero: Curren Moe
直線。
サテライトブレイズが先頭で、私は内で二番手。距離は半馬身。
私は内ラチから、わずかに外へ進路を取った。サテライトブレイズの背中の、すぐ右後ろ。並びかける位置。
脚を、もう一段、踏んだ。
体が応える。芝が押し返す。香港の重い芝が、私の踏み込みを深く受け止めて、返してくる。
並んだ。
サテライトブレイズの横に、私の肩が並ぶ。
——抜く。
そう思った瞬間、体が勝手に加速した。黒い猫が一気に前に飛んだ。脚が芝を蹴る音が、自分の中で増幅される。
前に出た。
サテライトブレイズの横を通り過ぎる時、右目の端にあの子の顔が入った。歯を食いしばっている。脚を必死に回している。追いつこうとしている。
それでも、届かない。
私の脚は、まだ余力がある。踏んだ分、全部返ってくる。体が壊れそうな感触は、一切なかった。
オークスみたいに燃え尽きない。空振りもしない。ただ、脚が回って、芝を蹴って、前に進んでいく。
楽しい。
黒い猫が、尻尾をピンと立てて走っていた。獲物を捕まえる瞬間の、あの姿勢。それでも今日は「捕まえる」と「並んで走る」が同じになっている。相手の顔が見えている。相手の息遣いが聞こえる。その全部を、体が受け取って、走りに変えていた。
——Live: Announcer
『カレンモエが先頭に立った! 内から外へ進路を取って、サテライトブレイズを並ぶ間もなく抜き去ります!』
『残り200メートル——カレンモエが先頭! サテライトブレイズが脚を伸ばすが、差は開いていく! 一馬身、二馬身——カレンモエ、止まらない!』
『これは——これはモノが違う!圧勝の形!』
——Anti-Hero: Curren Moe
残り200メートル。
サテライトブレイズが遠ざかっていく。一馬身、二馬身。もう追いつけない距離。
残り100メートル。
前に誰もいない。視界が開けている。沙田の直線。ゴール板が目の前。
最後にもう一段、踏んだ。
体が応えた。
——Live: Announcer
『ゴール! カレンモエ! 圧勝です、圧勝! 香港スプリント、日本のカレンモエが制しました! 着差は——三馬身! 三馬身もの大差で、サテライトブレイズを退けました!』
『沙田の女王を完全に置き去り! 日本の女王が、世界の頂きに立ちました!』
——Anti-Hero: Curren Moe
止まった。
息を整えながら、振り返る。
サテライトブレイズが、肩で息をしながらゴールを通過した。少し遅れて三番手、四番手。他の子たちが次々に入ってくる。
勝った。
三馬身差。
掲示板を見上げた。タイム表示。
1:07.1(稍重)。
……レコードだ。
今日の馬場は稍重で、深く、重い。それなのに1分7秒1。過去のこのレースの稍重記録を、塗り替えている。
スタンドから、最初は静寂が降ってきた。
一秒、二秒。
地元の女王が負けたことの衝撃に、観客が言葉を失っていた。
——三秒目。
どよめきが、時間差でスタンドを駆け上がっていった。広東語の悲鳴と、英語の歓声と、何かが混ざった音。それが波のように広がって、最後に拍手の音に変わった。地鳴りのような拍手だった。
実況が何かを叫んでいる。広東語と英語が混ざって、言葉の意味は分からない。それでも、スタンドの空気が一斉に熱くなったのは分かった。
絢原さんが、内ラチの外で待っていた。ゆっくり戻る。
絢原さんの顔を見た。いつもの無表情。それでも目は——少しだけ、違っていた。ほんの少しだけ、何かが光っている。
「走れた」
「見てた」
「でしょ」
「……いい走りだった」
それだけ。それだけで十分だった。
二年以上、この人の横で走ってきた。デビュー戦から、未勝利から、桜花賞の暴走から、オークスの崩壊から。入院から、復帰から、高松宮記念から、スプリンターズSから。全部見てきた人が、「いい走りだった」と言ってくれた。
胸の奥で、小さな火が、静かに燃えていた。制御された火。自分で点けて、自分で保っている火。
空色の勝負服に、沙田の日差しが落ちている。
~
表彰式とウイニングライブ。
香港の観客の前で歌って踊った。日本のライブとは、曲も振り付けも違う。それでも、観客の熱は同じだった。フラッシュ、歓声、私の名前を呼ぶ声。
途中、ふとスタンドを見上げた時、気づいた。
誰も、「カレンチャンの娘」とは言っていなかった。ずっと、「カレンモエ」だけが呼ばれていた。
ライブの後、控え室に戻る途中で、現地メディアに囲まれた。マイクが何本も突き出される。佐々木さんが通訳越しに対応をコントロールしてくれた。
『Ms. Moe! What do you think of your win today?』
「勝てて嬉しい、です」
英語は片言しかできない。通訳が補ってくれる。
『レースレコードでの勝利です。感想は?』
「芝が合ってた、と思います」
『サテライトブレイズとの直接対決、どうでしたか?』
「強かったです。最後まで追いかけてきたので。でも、今日は私の方が一歩速かった」
記者たちがメモを走らせた。次の質問が飛んでくる。次のレースの予定、欧州挑戦の意向、日本での今後。私は一つずつ答えていった。気がつくと、十数分が経っている。
『お疲れのところ、長くなって申し訳ありません』
通訳が、最後にそう謝ってきた。私は首を傾げて「大丈夫です」と返す。佐々木さんが頃合いを見計らって、話を切ってくれた。
最後の記者が、英語で一言だけ聞いた。
『Ms. Moe. The local press has a name for you now. “Blue Hammer.” What do you think?』
通訳が訳してくれる。「地元のメディアが、あなたに新しい呼び名をつけました。『ブルー・ハンマー』——青い鉄槌。どう思いますか」
……ブルー・ハンマー。
「……なんでハンマー?」
思わず日本語で返してしまった。通訳さんが困った顔をしてから、記者に伝える。
記者が笑って、英語で答えた。
『Because your running hit Sha Tin like a hammer.』
あなたの走りが、沙田を鉄槌のように叩いたから。
新しい勝負服の色と、その走りを見た記者たちが、その場で名付けたらしい。空色の布と、重い馬場を叩き砕いたパワー。その合わせ技。
「……覚えておきます」
通訳越しに返した。記者は満足そうに頷いて、メモを閉じた。
~
控え室に戻る。勝負服を脱いで、ハンガーにかけた。空色の布が、蛍光灯の下で静かに揺れている。今日、この布が沙田でレコードを作った。
絢原さんが隣の椅子に座った。
「疲れたか」
「あんまり」
「そうか」
絢原さんがクリップボードを膝に置いて、ペンの背中で軽く叩いた。
「いい走りだった。第三コーナーで内に切り込んだ判断が早かった。サテライトブレイズより半秒早く動いている。差し脚の入り方が綺麗で、ペースが乱れなかった」
少し頷いた。
「タイムも出来すぎだ。稍重で1分7秒1。過去のこのレースの稍重記録を、二秒近く更新している」
「二秒」
「電光掲示板の数字は見たな」
「見た。レコードなのは分かった。二秒近くまでは気づかなかった」
「それだけの走りをした、ということだ」
絢原さんがペンを止めた。
「次のローテーションは、帰国後に事務局と話す。今夜は何も決めなくていい。ゆっくり休め」
「うん」
「明日の取材、地元と日本の両方から問い合わせが来ている。佐々木さんが整理してくれた。出るかどうかは、お前が決めていい」
「トレーナーはどう思う」
「答えやすい媒体を一つか二つ受けるくらいで十分だと、俺は思う。全部受ければ消耗する」
「じゃあ、一つで」
「分かった。佐々木さんに伝えておく」
ベンチに並んで座った。一言の間。
「……ブルー・ハンマーって、どう思う?」
「いい名前だ」
「ハンマーって、鈍そうじゃない?」
「重い一撃で相手を叩き潰す、という意味だ。お前に合ってる」
「……ふーん」
まあ、悪くないかな。
鉄槌。重い一撃。今日の私の走りは、確かにそうだった。足元の重さを、全部味方につけて、叩きつけるように走った。
——黒閃姫が、藍鎚になった。
来た時の登録名は黒閃姫だった。「黒」と「閃」と「姫」。母の閃光と血統と、旧勝負服の名残。それが、走り終えた今、藍鎚になっている。
「姫」が、消えていた。
私は日本の女王で、それが世界でも通用した。カレンチャンの娘じゃなく、カレンモエとして。
スマホを取り出した。マーちゃんに送る。
「勝った」
一秒で返信が来た。
「おめでとうです!!!!! マーちゃん!! 画面の前で!! 飛び跳ねました!!!」
思わず笑った。
「新しい異名ついた。ブルー・ハンマー」
「かっこいい!!!!! マーちゃん調べ発動!! 藍鎚!! 広東語だと『ラームチョイ』!!」
「調べるの早いな」
「マーちゃんのスピードは速いですよ」
ベンチに背を預けた。天井を見上げる。白いライトが眩しい。
香港スプリント。勝った。三馬身差、レコード、新しい異名。
今年のシーズンは、これで終わり。日本に帰って、年末の学園で、マーちゃんと一緒に年を越す。体を休めて、新しい年を迎える。
——でも、ここで終わりじゃない。
体の奥で、小さな火が、まだ静かに燃えていた。消えそうで消えない。次のシーズンに、どこまでこの火を連れていけるのか。まだ分からない。
分からないけど、楽しみだった。
空色の勝負服を、ハンガーから取って、ケースに戻した。次にこれを着るのは、いつだろう。
「……トレーナー」
「ん」
「日本に帰る前に、マーちゃんにお土産買わないと」
「ああ」
「何がいいかな」
「香港の食べ物は日持ちしないから、雑貨がいい。あの子が好きそうなやつだ」
「マーちゃん、キラキラしたやつ好きだよね」
「それなら探せる」
少し笑った。絢原さんもつられて、口の端がほんの少しだけ上がる。
ケースを閉じた。
明日、帰る。