アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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82話 香港スプリント・後

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

第三コーナーの入り口。

 

外からサテライトブレイズが動いた。一気にペースアップ、逃げの横まで上がっていく。地元で連覇した女王の、勝利の方程式。

 

私は、内で脚を溜めていた。

 

——まだだ。

 

この子が逃げを捉えるのを待つ。捉えた瞬間に、その後ろから一気に行く。

 

絢原さんと何度も確認した展開だった。サテライトブレイズが先頭に立つコンマ数秒の隙を突く。私のスタートダッシュと、内ラチの最短距離と、差し脚の鋭さ。三つを束ねて、直線で一気に出る。

 

第四コーナー。

 

サテライトブレイズがエクセレンシーを捉えた。逃げ二人が、残り少しで崩れかける。サテライトブレイズが先頭。私は内で二番手。残りは、直線だけ。

 

黒い猫が、背中を反らした。

 

合図。ここからだ。

 

——Live: Announcer

 

『直線に入りました! 先頭はサテライトブレイズ! 二番手、カレンモエ、内でぴったり! 三番手以降は離れていきます! 二人のマッチアップ! 香港の女王と日本の女王! どちらが抜け出すか!』

 

『観客のボルテージが、最高潮です! 沙田のスタンドが揺れている!』

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

直線。

 

サテライトブレイズが先頭で、私は内で二番手。距離は半身。

 

私は内ラチから、わずかに外へ進路を取った。サテライトブレイズの背中の、すぐ右後ろ。並びかける位置。

 

脚を、もう一段、踏んだ。

 

体が応える。芝が押し返す。香港の重い芝が、私の踏み込みを深く受け止めて、返してくる。

 

並んだ。

 

サテライトブレイズの横に、私の肩が並ぶ。

 

——抜く。

 

そう思った瞬間、体が勝手に加速した。黒い猫が一気に前に飛んだ。脚が芝を蹴る音が、自分の中で増幅される。

 

前に出た。

 

サテライトブレイズの横を通り過ぎる時、右目の端にあの子の顔が入った。歯を食いしばっている。脚を必死に回している。追いつこうとしている。

 

それでも、届かない。

 

私の脚は、まだ余力がある。踏んだ分、全部返ってくる。体が壊れそうな感触は、一切なかった。

 

オークスみたいに燃え尽きない。空振りもしない。ただ、脚が回って、芝を蹴って、前に進んでいく。

 

楽しい。

 

黒い猫が、尻尾をピンと立てて走っていた。獲物を捕まえる瞬間の、あの姿勢。それでも今日は「捕まえる」と「並んで走る」が同じになっている。相手の顔が見えている。相手の息遣いが聞こえる。その全部を、体が受け取って、走りに変えていた。

 

——Live: Announcer

 

『カレンモエが先頭に立った! 内から外へ進路を取って、サテライトブレイズを並ぶ間もなく抜き去ります!』

 

『残り200メートル——カレンモエが先頭! サテライトブレイズが脚を伸ばすが、差は開いていく! 一身、二身——カレンモエ、止まらない!』

 

『これは——これはモノが違う!圧勝の形!』

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

残り200メートル。

 

サテライトブレイズが遠ざかっていく。一身、二身。もう追いつけない距離。

 

残り100メートル。

 

前に誰もいない。視界が開けている。沙田の直線。ゴール板が目の前。

 

最後にもう一段、踏んだ。

 

体が応えた。

 

——Live: Announcer

 

『ゴール! カレンモエ! 圧勝です、圧勝! 香港スプリント、日本のカレンモエが制しました! 着差は——三身! 三身もの大差で、サテライトブレイズを退けました!』

 

『沙田の女王を完全に置き去り! 日本の女王が、世界の頂きに立ちました!』

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

止まった。

 

息を整えながら、振り返る。

 

サテライトブレイズが、肩で息をしながらゴールを通過した。少し遅れて三番手、四番手。他の子たちが次々に入ってくる。

 

勝った。

 

身差。

 

掲示板を見上げた。タイム表示。

 

1:07.1(稍重)。

 

……レコードだ。

 

今日の場は稍重で、深く、重い。それなのに1分7秒1。過去のこのレースの稍重記録を、塗り替えている。

 

スタンドから、最初は静寂が降ってきた。

 

一秒、二秒。

 

地元の女王が負けたことの衝撃に、観客が言葉を失っていた。

 

——三秒目。

 

どよめきが、時間差でスタンドを駆け上がっていった。広東語の悲鳴と、英語の歓声と、何かが混ざった音。それが波のように広がって、最後に拍手の音に変わった。地鳴りのような拍手だった。

 

実況が何かを叫んでいる。広東語と英語が混ざって、言葉の意味は分からない。それでも、スタンドの空気が一斉に熱くなったのは分かった。

 

絢原さんが、内ラチの外で待っていた。ゆっくり戻る。

 

絢原さんの顔を見た。いつもの無表情。それでも目は——少しだけ、違っていた。ほんの少しだけ、何かが光っている。

 

「走れた」

 

「見てた」

 

「でしょ」

 

「……いい走りだった」

 

それだけ。それだけで十分だった。

 

二年以上、この人の横で走ってきた。デビュー戦から、未勝利から、桜花賞の暴走から、オークスの崩壊から。入院から、復帰から、高松宮記念から、スプリンターズSから。全部見てきた人が、「いい走りだった」と言ってくれた。

 

胸の奥で、小さな火が、静かに燃えていた。制御された火。自分で点けて、自分で保っている火。

 

空色の勝負服に、沙田の日差しが落ちている。

 

 

表彰式とウイニングライブ。

 

香港の観客の前で歌って踊った。日本のライブとは、曲も振り付けも違う。それでも、観客の熱は同じだった。フラッシュ、歓声、私の名前を呼ぶ声。

 

途中、ふとスタンドを見上げた時、気づいた。

 

誰も、「カレンチャンの娘」とは言っていなかった。ずっと、「カレンモエ」だけが呼ばれていた。

 

ライブの後、控え室に戻る途中で、現地メディアに囲まれた。マイクが何本も突き出される。佐々木さんが通訳越しに対応をコントロールしてくれた。

 

Ms. Moe! What do you think of your win today?

 

「勝てて嬉しい、です」

 

英語は片言しかできない。通訳が補ってくれる。

 

『レースレコードでの勝利です。感想は?』

 

「芝が合ってた、と思います」

 

『サテライトブレイズとの直接対決、どうでしたか?』

 

「強かったです。最後まで追いかけてきたので。でも、今日は私の方が一歩速かった」

 

記者たちがメモを走らせた。次の質問が飛んでくる。次のレースの予定、欧州挑戦の意向、日本での今後。私は一つずつ答えていった。気がつくと、十数分が経っている。

 

『お疲れのところ、長くなって申し訳ありません』

 

通訳が、最後にそう謝ってきた。私は首を傾げて「大丈夫です」と返す。佐々木さんが頃合いを見計らって、話を切ってくれた。

 

最後の記者が、英語で一言だけ聞いた。

 

Ms. Moe. The local press has a name for you now. “Blue Hammer.” What do you think?

 

通訳が訳してくれる。「地元のメディアが、あなたに新しい呼び名をつけました。『ブルー・ハンマー』——青い鉄槌。どう思いますか」

 

……ブルー・ハンマー。

 

「……なんでハンマー?」

 

思わず日本語で返してしまった。通訳さんが困った顔をしてから、記者に伝える。

 

記者が笑って、英語で答えた。

 

『Because your running hit Sha Tin like a hammer.』

 

あなたの走りが、沙田を鉄槌のように叩いたから。

 

新しい勝負服の色と、その走りを見た記者たちが、その場で名付けたらしい。空色の布と、重い場を叩き砕いたパワー。その合わせ技。

 

「……覚えておきます」

 

通訳越しに返した。記者は満足そうに頷いて、メモを閉じた。

 

 

控え室に戻る。勝負服を脱いで、ハンガーにかけた。空色の布が、蛍光灯の下で静かに揺れている。今日、この布が沙田でレコードを作った。

 

絢原さんが隣の椅子に座った。

 

「疲れたか」

 

「あんまり」

 

「そうか」

 

絢原さんがクリップボードを膝に置いて、ペンの背中で軽く叩いた。

 

「いい走りだった。第三コーナーで内に切り込んだ判断が早かった。サテライトブレイズより半秒早く動いている。差し脚の入り方が綺麗で、ペースが乱れなかった」

 

少し頷いた。

 

「タイムも出来すぎだ。稍重で1分7秒1。過去のこのレースの稍重記録を、二秒近く更新している」

 

「二秒」

 

「電光掲示板の数字は見たな」

 

「見た。レコードなのは分かった。二秒近くまでは気づかなかった」

 

「それだけの走りをした、ということだ」

 

絢原さんがペンを止めた。

 

「次のローテーションは、帰国後に事務局と話す。今夜は何も決めなくていい。ゆっくり休め」

 

「うん」

 

「明日の取材、地元と日本の両方から問い合わせが来ている。佐々木さんが整理してくれた。出るかどうかは、お前が決めていい」

 

「トレーナーはどう思う」

 

「答えやすい媒体を一つか二つ受けるくらいで十分だと、俺は思う。全部受ければ消耗する」

 

「じゃあ、一つで」

 

「分かった。佐々木さんに伝えておく」

 

ベンチに並んで座った。一言の間。

 

「……ブルー・ハンマーって、どう思う?」

 

「いい名前だ」

 

「ハンマーって、鈍そうじゃない?」

 

「重い一撃で相手を叩き潰す、という意味だ。お前に合ってる」

 

「……ふーん」

 

まあ、悪くないかな。

 

鉄槌。重い一撃。今日の私の走りは、確かにそうだった。足元の重さを、全部味方につけて、叩きつけるように走った。

 

——黒閃姫が、藍鎚になった。

 

来た時の登録名は黒閃姫だった。「黒」と「閃」と「姫」。母の閃光と血統と、旧勝負服の名残。それが、走り終えた今、藍鎚になっている。

 

「姫」が、消えていた。

 

私は日本の女王で、それが世界でも通用した。カレンチャンの娘じゃなく、カレンモエとして。

 

スマホを取り出した。マーちゃんに送る。

 

「勝った」

 

一秒で返信が来た。

 

「おめでとうです!!!!! マーちゃん!! 画面の前で!! 飛び跳ねました!!!」

 

思わず笑った。

 

「新しい異名ついた。ブルー・ハンマー」

 

「かっこいい!!!!! マーちゃん調べ発動!! 藍鎚!! 広東語だと『ラームチョイ』!!」

 

「調べるの早いな」

 

「マーちゃんのスピードは速いですよ」

 

ベンチに背を預けた。天井を見上げる。白いライトが眩しい。

 

香港スプリント。勝った。三身差、レコード、新しい異名。

 

今年のシーズンは、これで終わり。日本に帰って、年末の学園で、マーちゃんと一緒に年を越す。体を休めて、新しい年を迎える。

 

——でも、ここで終わりじゃない。

 

体の奥で、小さな火が、まだ静かに燃えていた。消えそうで消えない。次のシーズンに、どこまでこの火を連れていけるのか。まだ分からない。

 

分からないけど、楽しみだった。

 

空色の勝負服を、ハンガーから取って、ケースに戻した。次にこれを着るのは、いつだろう。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「日本に帰る前に、マーちゃんにお土産買わないと」

 

「ああ」

 

「何がいいかな」

 

「香港の食べ物は日持ちしないから、雑貨がいい。あの子が好きそうなやつだ」

 

「マーちゃん、キラキラしたやつ好きだよね」

 

「それなら探せる」

 

少し笑った。絢原さんもつられて、口の端がほんの少しだけ上がる。

 

ケースを閉じた。

 

明日、帰る。

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