——Anti-Hero: Curren Moe
関西国際空港、到着ロビー。
飛行機を降りて、長い通路を歩いて、入国審査を通って、荷物を受け取って、税関を抜ける。出国の時とは逆の流れを、半分眠りながらこなしていた。
「お疲れ様でした。あとは関係者出口を抜ければ、車が待っています」
佐々木さんが事務的な声で言った。スーツケースをもう一つ、自分の分と一緒に押している。
絢原さんが横を歩いている。空港のアナウンスが日本語に戻っていることが、不思議と落ち着く。香港のあの広東語のうねりは、もう遠い。
「思ったより、まだ眠いね」
「機内で寝なかったからだろう」
「映画見てたから」
「だから眠いんだ」
絢原さんが少し呆れた声で返した。
関係者出口の手前で、佐々木さんが少しだけ歩く速度を落とした。
「カレンモエさん。少しだけ、心の準備をしてください」
「え?」
「想定より少し、お迎えが多いみたいです」
「想定より、って」
「事前にお伝えした人数の、たぶん、三倍くらい」
三倍。
聞き返す前に、佐々木さんが扉の前に立った。
絢原さんが、私の横に並んだ。
扉が、開いた。
音の壁が、押し寄せてきた。
歓声。シャッター音。フラッシュ。広東語ではなく、日本語の。
『カレンモエ!』
『おかえり!』
『藍鎚!』
知っている顔も、知らない顔も、横断幕も、ペンライトも。十二月の到着ロビーが、ライブ会場みたいになっていた。
『おかえりなさい!』
『世界の女王!』
——え、何これ。
足が止まりかけた。横の絢原さんが、ほんの少しだけ、私の背中を押した。指先が、軽く触れただけ。それで、私の足が動いた。
歩く。
メディアのカメラが並んでいる。横断幕の文字が読める。「祝・香港スプリント制覇」「カレンモエ ブルーハンマー」「沙田の英雄、栗東に帰る」。手書きのもある。一文字ずつ違う色のマジックで書かれた、あのファンの手書き感。
最前列の小さい子が、私と目が合った瞬間に、めちゃくちゃはしゃいだ。
両手をぶんぶん振って、跳ねて、隣の保護者の腕を引っ張って、何かを叫んでいる。声は、歓声に紛れてよく聞こえない。それでも、その子の口が「カレンモエ」の形をしていたのは、はっきり見えた。
胸の奥が、変な熱を持った。
手を、上げた。
軽く振った。
歓声が、もう一段、大きくなった。
——あ。
これ、楽しい。
ちょっとどころか、けっこう、楽しい。
もう片方の手も上げた。両手で軽く、振り返した。会場のあちこちで悲鳴みたいな声が上がった。
その小さい子が、さらに必死に手を伸ばしてくる。私の方に。
近寄った。柵越しに、その子の手に、自分の手をちょっとだけ触れた。
「来てくれて、ありがとう」
その子が、固まった。それから、わぁ、と声を上げて、隣の保護者にしがみついた。
可愛い。
なんだろう、この感覚。香港の沙田で「藍鎚」と叫ばれた時とは違う温度。あれは熱で、これは温かさ。日本の冬の到着ロビーで、私が、ちょっとだけ、誰かの何かになっている。
シャッター音が、また増えた。
笑顔が出た。多分、自然に。
別のメディアの方を見て、軽くポーズを取った。腰の前で手を組んで、首を傾げる。一瞬。
その瞬間、フラッシュの数が一気に増えた。
——あ。やった。
楽しい。
「モエ」
横から、絢原さんの声。低めの、いつもの声。
「車だ」
「あ……うん」
引き戻された。
歩く。出口へ。最後にもう一回、振り返って手を振った。歓声が追いかけてきた。
車に乗り込んで、扉が閉まった。窓の外に、まだ手を振っている人たちが見えた。
車が動き出した。
シートに沈んで、息を吐いた。
「……派手だったね」
「そうだな」
「想定の三倍って、佐々木さん言ってたけど」
「四倍はいたぞ」
「四倍」
絢原さんが少し笑った。気配で分かる。
「……トレーナー」
「ん」
「……ちょっと、調子乗ったかも」
「ああ、乗ってたな」
「……はっきり言わないでよ」
「事実だ」
横を見た。絢原さんは前を向いている。でも、口の端が少し上がっている。
調子に乗ってた。最初は戸惑ってたのに、途中から、楽しくなってた。手を振る回数が、たぶん、必要以上だった。最後のポーズも、しなくてよかった。
でも。
「……あの、最前列ではしゃいでた子、いたじゃん」
「いたな」
「あの子、私のこと、好きでいてくれてたんだ」
「だろうな」
「……なんか、嬉しかった」
絢原さんが、少しだけ、こっちを見た。
「だろうな」
それだけ言って、また前を向いた。
窓の外で、空港の景色が流れていく。グレーの曇り空。十二月の日本。香港のあの生ぬるい空気とは、ぜんぜん違う温度。
ちょっと、調子に乗っちゃった。
でも、たぶん、悪くない調子だった。
~
数時間後、実家。
玄関の鍵を開けて、ドアを引いた瞬間、奥から声が飛んできた。
「お帰り〜♪」
ママだった。
廊下を駆けてきて、玄関に着くなり、両手を広げた。
「モエちゃん! おかえりっ!」
抱きしめられた。
私より小柄なはずのママに、頭ごと包まれている感覚。香水の匂い。母の匂い。「ただいま」を言う前に、もう、抱きしめられている。
「……ただいま」
声が、ちょっと小さかった。
ママが体を離して、私の顔を覗き込んだ。
「ね〜、見たよ、空港の中継♪ もう、どこまでも可愛くなっちゃって、カレンびっくりしちゃった♪ 最後のあのポーズ、誰に習ったの?」
「誰にも習ってない」
「えー、ほんと? 自分で? 才能ね〜♪」
「……ママの娘だから」
「ふふっ、それはそうかも♪」
廊下の奥から、パパが顔を出した。スリッパで静かに歩いてくる。
「お帰り、モエ。お疲れ様」
「ただいま」
パパは、それだけだった。ハグもしないし、矢継ぎ早に質問もしない。ただ、頭をぽんと一回叩いて、それで終わり。これでいい。これがいい。
「絢原くんは? 一緒じゃないの?」
ママが玄関の外を見て聞いた。
「学園に荷物届けに行ってる。後で迎えに来てくれる」
「あら、残念。せっかくだから、絢原くんも一緒にお食事しようと思ってたのに」
「……今日はやめてあげて」
「なんで〜?」
「だって、私が疲れてるし」
「モエちゃん疲れてるなら、絢原くんが慰めてくれるじゃない♪」
「……ママ」
「な〜んて♪」
冗談ぽく笑って、ママが廊下を戻っていった。
パパが、私の横を通り抜ける時に、小さく言った。
「相変わらずだ」
「ほんとに、相変わらず」
二人で、少しだけ笑った。
食卓に、母メシが並んでいた。
メインは鍋。鶏肉と野菜と、それから——明らかに、鍋に入れるべきじゃない何かが、いくつか浮いている。
「これは……」
「ほうれん草の白和え♪ 鍋にも合うかなって、入れてみたの♪」
「……和え物、鍋に入れる人、初めて見た」
「ふふっ、新発見♪ 食べてみて? 意外といけるんだから♪」
恐る恐る、白和えだったものを、鍋から救出して食べた。
……。
「……ママ」
「うん?」
「……白和えの味、しないんだけど」
「えー、ほんと? ちゃんと豆腐入れたのに」
「鍋の汁が全部染み込んじゃってる」
「あら、それは新たな白和え♪ 進化形♪」
パパが、静かに、白和えだったものを自分の皿に取って、無言で食べていた。表情を変えずに。この人は、ママのアレンジ料理を食べる訓練を、たぶん二十年以上やっている。
「……パパ、よく食べられるね」
「慣れた」
「すごい」
「お前も慣れろ」
「無理」
ママが横で「ふふっ」と笑っている。鍋の中で、ほうれん草の白和えだったものが、まだ漂っている。
帰ってきた、と思った。
香港の派手な歓声も、空港のフラッシュも、ぜんぶ、ここの鍋の中の白和えの方が、私にとっては「日常」だった。
食後、リビングのソファで、ママとお茶を飲んだ。
「香港、楽しかった?」
「うん」
「お肌、大丈夫? 湿度違ったでしょ?」
「ちゃんと保湿してた」
「えらい♪ 何使ってる?」
「……いつものやつ」
「カレンの好きなやつ、持ってけばよかったのに」
「持ってったよ」
「ふふっ、そっか♪」
世間話。本当に、ただの世間話。レースの話は、一回も出ていない。
ママは、テレビで全部見ている。私が走ったレースも、空港のお迎えも、全部。だから、聞く必要がないのだ。聞かなくても、知っている。
そして、知っていることを、わざわざ確認しない。それがママのやり方。
「……ママ」
「うん?」
「『おかえり』って、最初に言ってくれたでしょ」
「言ったよ?」
「あれ、嬉しかった」
ママが、お茶のカップを手に持ったまま、ちょっとだけ目を細めた。
「……モエちゃん、なんか、変わったね」
「え?」
「前は、そういうの、絶対言わなかった」
「……そうかな」
「カレンには分かるよ♪ ふふっ」
それ以上、ママは何も聞かなかった。
知っているから。聞かなくても。
~
数日が経って、年末。
学園に戻った。栗東寮の、自分の部屋に荷物を運び込む。長旅の名残でちょっと疲れていたけど、扉を開けた瞬間、それが消えた。
部屋が、片付いていた。
私の側のベッドが、シーツも替えられて、整えられている。机の上に、空気清浄機。窓も拭いてある。明らかに、私のいない間に、誰かが手を入れてくれている。
「モエちゃ〜ん!」
廊下から、マーちゃんが駆けてきた。両手を広げて。
ぶつかってきた。
「おかえりなのです!」
「マーちゃん、苦しい」
「モエちゃん、ブルーハンマーなのです! かっこいいのです!」
「分かった、分かったから、離して」
ぴったり張り付いていたマーちゃんが、ようやく半歩離れた。離れたけど、両手はまだ私の腕を掴んでいる。
「お部屋、片付けたのですよ」
「ありがとう」
「マーちゃん、モエちゃんが帰ってくるって聞いてから、毎日掃除してたのです」
「毎日?」
「毎日、なのです」
「……マーちゃん」
「はいなのです」
「ありがとね」
マーちゃんが、目を細めた。ぷにっとした頬が、満面の笑みで丸くなる。
スーツケースを開けた。
「お土産、これ」
香港で選んだやつ。キラキラした、小さなブローチ。蝶々の形で、青い石が真ん中に埋まっている。マーちゃんの好きそうな、絶対好きな、間違いなく好きなやつ。
マーちゃんが、両手で受け取った。
「……」
ブローチを、手の上に乗せたまま、しばらく見ていた。
それから、「うわぁ……」と小さく声を出した。
「めちゃくちゃ綺麗なのです」
「でしょ。マーちゃんに合うかなって思って」
「マーちゃん、こんな綺麗なもの、初めて持つのです」
「大げさ」
「大げさじゃないですよ」
マーちゃんが、ブローチを大事そうに胸に押し当てた。それから、スマホを出して、ブローチの写真を何枚も撮り始めた。
「マーちゃん調べによると、香港の青い石は、幸運の象徴と言われているのですよ」
「そうなの?」
「これ、マーちゃんの守り石にしますね」
そう言って、ブローチを胸ポケットにそっと収めた。
なんか、嬉しい。
私が選んだ石が、誰かの守り石になる。香港のお土産屋さんで「マーちゃん、きっとこれ好きだろうな」って、それだけで選んだ石が。
マーちゃんが、ふっと真顔になった。
「モエちゃん」
「なに?」
「マーちゃん、ずっと、言うタイミング探してたのですけど」
私を見上げる目が、少し丸い。にへらっとした緩さじゃなくて、何かを大事に置きにくる目。
「……おかえりなのです」
——あ。
レースの後。表彰式の後。空港のあの派手な「おかえり」の中でも、マーちゃんはまだ言ってなかった。
ずっと、取っておいたんだ、この言葉。
派手なところじゃなくて、二人だけの部屋で、二人だけの空気の中で、ちゃんと渡したかった言葉。
「……ただいま」
声が、ちょっとだけ震えた。
マーちゃんが、にっこり笑った。
「マーちゃん、モエちゃんが帰ってきてくれて、嬉しいのです」
「私も」
涙は出なかった。出るほど、悲しいことがあったわけじゃない。
ただ、温かい温度が、胸の中にひとつ、増えた。
~
その夜。
自室の机で、ノートを開いていた。冬休みの宿題が、思い出したようにそこにある。手をつける気にはなれなくて、ぼんやりページをめくっていた。
スマホが鳴った。絢原さん。
『年始号の取材依頼が来てる』
『URA広報誌』
『前と同じカメラマンで、表紙撮り直しの企画らしい』
——表紙、撮り直し?
胸の奥が、少しざわついた。
一年半前のあの撮影会。一回だけのつもりが、三号連続表紙になった、あの。
『……またあれやるの?』
返信した。
『前と同じ規模だ。一回だけ』
『一回だけって、前も言ってた』
『……まあ、そうだな』
『考えとく』
スマホを置いた。
窓の外、栗東寮の庭。冬の夜の、青白い空。
——あの撮影会で、私は何を出したんだっけ。
レンズを真正面から睨んだ自分の顔を、思い出した。「私を愛せ」と命じていた、あの時の自分。
今、もう一回、レンズの前に立ったら、何が出るのだろう。
ちょっとだけ、気になっている自分がいた。
スマホがまた鳴った。
『年始号の入稿が早い。撮影は来週頭で押さえる』
『明後日には日程確定する』
——早。
「一回だけ」って言葉が、どこまで信用できるのか分からないけど。
それでも、レンズの前に立つ自分が、もう少しだけ、気になっていた。
返信を打った。
『分かった』
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