アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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83話 ただいま

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

関西国際空港、到着ロビー。

 

飛行機を降りて、長い通路を歩いて、入国審査を通って、荷物を受け取って、税関を抜ける。出国の時とは逆の流れを、半分眠りながらこなしていた。

 

「お疲れ様でした。あとは関係者出口を抜ければ、車が待っています」

 

佐々木さんが事務的な声で言った。スーツケースをもう一つ、自分の分と一緒に押している。

 

絢原さんが横を歩いている。空港のアナウンスが日本語に戻っていることが、不思議と落ち着く。香港のあの広東語のうねりは、もう遠い。

 

「思ったより、まだ眠いね」

 

「機内で寝なかったからだろう」

 

「映画見てたから」

 

「だから眠いんだ」

 

絢原さんが少し呆れた声で返した。

 

関係者出口の手前で、佐々木さんが少しだけ歩く速度を落とした。

 

「カレンモエさん。少しだけ、心の準備をしてください」

 

「え?」

 

「想定より少し、お迎えが多いみたいです」

 

「想定より、って」

 

「事前にお伝えした人数の、たぶん、三倍くらい」

 

三倍。

 

聞き返す前に、佐々木さんが扉の前に立った。

 

絢原さんが、私の横に並んだ。

 

扉が、開いた。

 

音の壁が、押し寄せてきた。

 

歓声。シャッター音。フラッシュ。広東語ではなく、日本語の。

 

『カレンモエ!』

『おかえり!』

『藍鎚!』

 

知っている顔も、知らない顔も、横断幕も、ペンライトも。十二月の到着ロビーが、ライブ会場みたいになっていた。

 

『おかえりなさい!』

『世界の女王!』

 

——え、何これ。

 

足が止まりかけた。横の絢原さんが、ほんの少しだけ、私の背中を押した。指先が、軽く触れただけ。それで、私の足が動いた。

 

歩く。

 

メディアのカメラが並んでいる。横断幕の文字が読める。「祝・香港スプリント制覇」「カレンモエ ブルーハンマー」「沙田の英雄、栗東に帰る」。手書きのもある。一文字ずつ違う色のマジックで書かれた、あのファンの手書き感。

 

最前列の小さい子が、私と目が合った瞬間に、めちゃくちゃはしゃいだ。

 

両手をぶんぶん振って、跳ねて、隣の保護者の腕を引っ張って、何かを叫んでいる。声は、歓声に紛れてよく聞こえない。それでも、その子の口が「カレンモエ」の形をしていたのは、はっきり見えた。

 

胸の奥が、変な熱を持った。

 

手を、上げた。

 

軽く振った。

 

歓声が、もう一段、大きくなった。

 

——あ。

 

これ、楽しい。

 

ちょっとどころか、けっこう、楽しい。

 

もう片方の手も上げた。両手で軽く、振り返した。会場のあちこちで悲鳴みたいな声が上がった。

 

その小さい子が、さらに必死に手を伸ばしてくる。私の方に。

 

近寄った。柵越しに、その子の手に、自分の手をちょっとだけ触れた。

 

「来てくれて、ありがとう」

 

その子が、固まった。それから、わぁ、と声を上げて、隣の保護者にしがみついた。

 

可愛い。

 

なんだろう、この感覚。香港の沙田で「藍鎚」と叫ばれた時とは違う温度。あれは熱で、これは温かさ。日本の冬の到着ロビーで、私が、ちょっとだけ、誰かの何かになっている。

 

シャッター音が、また増えた。

 

笑顔が出た。多分、自然に。

 

別のメディアの方を見て、軽くポーズを取った。腰の前で手を組んで、首を傾げる。一瞬。

 

その瞬間、フラッシュの数が一気に増えた。

 

——あ。やった。

 

楽しい。

 

「モエ」

 

横から、絢原さんの声。低めの、いつもの声。

 

「車だ」

 

「あ……うん」

 

引き戻された。

 

歩く。出口へ。最後にもう一回、振り返って手を振った。歓声が追いかけてきた。

 

車に乗り込んで、扉が閉まった。窓の外に、まだ手を振っている人たちが見えた。

 

車が動き出した。

 

シートに沈んで、息を吐いた。

 

「……派手だったね」

 

「そうだな」

 

「想定の三倍って、佐々木さん言ってたけど」

 

「四倍はいたぞ」

 

「四倍」

 

絢原さんが少し笑った。気配で分かる。

 

「……トレーナー」

 

「ん」

 

「……ちょっと、調子乗ったかも」

 

「ああ、乗ってたな」

 

「……はっきり言わないでよ」

 

「事実だ」

 

横を見た。絢原さんは前を向いている。でも、口の端が少し上がっている。

 

調子に乗ってた。最初は戸惑ってたのに、途中から、楽しくなってた。手を振る回数が、たぶん、必要以上だった。最後のポーズも、しなくてよかった。

 

でも。

 

「……あの、最前列ではしゃいでた子、いたじゃん」

 

「いたな」

 

「あの子、私のこと、好きでいてくれてたんだ」

 

「だろうな」

 

「……なんか、嬉しかった」

 

絢原さんが、少しだけ、こっちを見た。

 

「だろうな」

 

それだけ言って、また前を向いた。

 

窓の外で、空港の景色が流れていく。グレーの曇り空。十二月の日本。香港のあの生ぬるい空気とは、ぜんぜん違う温度。

 

ちょっと、調子に乗っちゃった。

 

でも、たぶん、悪くない調子だった。

 

 

数時間後、実家。

 

玄関の鍵を開けて、ドアを引いた瞬間、奥から声が飛んできた。

 

「お帰り〜♪」

 

ママだった。

 

廊下を駆けてきて、玄関に着くなり、両手を広げた。

 

「モエちゃん! おかえりっ!」

 

抱きしめられた。

 

私より小柄なはずのママに、頭ごと包まれている感覚。香水の匂い。母の匂い。「ただいま」を言う前に、もう、抱きしめられている。

 

「……ただいま」

 

声が、ちょっと小さかった。

 

ママが体を離して、私の顔を覗き込んだ。

 

「ね〜、見たよ、空港の中継♪ もう、どこまでも可愛くなっちゃって、カレンびっくりしちゃった♪ 最後のあのポーズ、誰に習ったの?」

 

「誰にも習ってない」

 

「えー、ほんと? 自分で? 才能ね〜♪」

 

「……ママの娘だから」

 

「ふふっ、それはそうかも♪」

 

廊下の奥から、パパが顔を出した。スリッパで静かに歩いてくる。

 

「お帰り、モエ。お疲れ様」

 

「ただいま」

 

パパは、それだけだった。ハグもしないし、矢継ぎ早に質問もしない。ただ、頭をぽんと一回叩いて、それで終わり。これでいい。これがいい。

 

「絢原くんは? 一緒じゃないの?」

 

ママが玄関の外を見て聞いた。

 

「学園に荷物届けに行ってる。後で迎えに来てくれる」

 

「あら、残念。せっかくだから、絢原くんも一緒にお食事しようと思ってたのに」

 

「……今日はやめてあげて」

 

「なんで〜?」

 

「だって、私が疲れてるし」

 

「モエちゃん疲れてるなら、絢原くんが慰めてくれるじゃない♪」

 

「……ママ」

 

「な〜んて♪」

 

冗談ぽく笑って、ママが廊下を戻っていった。

 

パパが、私の横を通り抜ける時に、小さく言った。

 

「相変わらずだ」

 

「ほんとに、相変わらず」

 

二人で、少しだけ笑った。

 

食卓に、母メシが並んでいた。

 

メインは鍋。鶏肉と野菜と、それから——明らかに、鍋に入れるべきじゃない何かが、いくつか浮いている。

 

「これは……」

 

「ほうれん草の白和え♪ 鍋にも合うかなって、入れてみたの♪」

 

「……和え物、鍋に入れる人、初めて見た」

 

「ふふっ、新発見♪ 食べてみて? 意外といけるんだから♪」

 

恐る恐る、白和えだったものを、鍋から救出して食べた。

 

……。

 

「……ママ」

 

「うん?」

 

「……白和えの味、しないんだけど」

 

「えー、ほんと? ちゃんと豆腐入れたのに」

 

「鍋の汁が全部染み込んじゃってる」

 

「あら、それは新たな白和え♪ 進化形♪」

 

パパが、静かに、白和えだったものを自分の皿に取って、無言で食べていた。表情を変えずに。この人は、ママのアレンジ料理を食べる訓練を、たぶん二十年以上やっている。

 

「……パパ、よく食べられるね」

 

「慣れた」

 

「すごい」

 

「お前も慣れろ」

 

「無理」

 

ママが横で「ふふっ」と笑っている。鍋の中で、ほうれん草の白和えだったものが、まだ漂っている。

 

帰ってきた、と思った。

 

香港の派手な歓声も、空港のフラッシュも、ぜんぶ、ここの鍋の中の白和えの方が、私にとっては「日常」だった。

 

食後、リビングのソファで、ママとお茶を飲んだ。

 

「香港、楽しかった?」

 

「うん」

 

「お肌、大丈夫? 湿度違ったでしょ?」

 

「ちゃんと保湿してた」

 

「えらい♪ 何使ってる?」

 

「……いつものやつ」

 

「カレンの好きなやつ、持ってけばよかったのに」

 

「持ってったよ」

 

「ふふっ、そっか♪」

 

世間話。本当に、ただの世間話。レースの話は、一回も出ていない。

 

ママは、テレビで全部見ている。私が走ったレースも、空港のお迎えも、全部。だから、聞く必要がないのだ。聞かなくても、知っている。

 

そして、知っていることを、わざわざ確認しない。それがママのやり方。

 

「……ママ」

 

「うん?」

 

「『おかえり』って、最初に言ってくれたでしょ」

 

「言ったよ?」

 

「あれ、嬉しかった」

 

ママが、お茶のカップを手に持ったまま、ちょっとだけ目を細めた。

 

「……モエちゃん、なんか、変わったね」

 

「え?」

 

「前は、そういうの、絶対言わなかった」

 

「……そうかな」

 

「カレンには分かるよ♪ ふふっ」

 

それ以上、ママは何も聞かなかった。

 

知っているから。聞かなくても。

 

 

数日が経って、年末。

 

学園に戻った。栗東寮の、自分の部屋に荷物を運び込む。長旅の名残でちょっと疲れていたけど、扉を開けた瞬間、それが消えた。

 

部屋が、片付いていた。

 

私の側のベッドが、シーツも替えられて、整えられている。机の上に、空気清浄機。窓も拭いてある。明らかに、私のいない間に、誰かが手を入れてくれている。

 

「モエちゃ〜ん!」

 

廊下から、マーちゃんが駆けてきた。両手を広げて。

 

ぶつかってきた。

 

「おかえりなのです!」

 

「マーちゃん、苦しい」

 

「モエちゃん、ブルーハンマーなのです! かっこいいのです!」

 

「分かった、分かったから、離して」

 

ぴったり張り付いていたマーちゃんが、ようやく半歩離れた。離れたけど、両手はまだ私の腕を掴んでいる。

 

「お部屋、片付けたのですよ」

 

「ありがとう」

 

「マーちゃん、モエちゃんが帰ってくるって聞いてから、毎日掃除してたのです」

 

「毎日?」

 

「毎日、なのです」

 

「……マーちゃん」

 

「はいなのです」

 

「ありがとね」

 

マーちゃんが、目を細めた。ぷにっとした頬が、満面の笑みで丸くなる。

 

スーツケースを開けた。

 

「お土産、これ」

 

香港で選んだやつ。キラキラした、小さなブローチ。蝶々の形で、青い石が真ん中に埋まっている。マーちゃんの好きそうな、絶対好きな、間違いなく好きなやつ。

 

マーちゃんが、両手で受け取った。

 

「……」

 

ブローチを、手の上に乗せたまま、しばらく見ていた。

 

それから、「うわぁ……」と小さく声を出した。

 

「めちゃくちゃ綺麗なのです」

 

「でしょ。マーちゃんに合うかなって思って」

 

「マーちゃん、こんな綺麗なもの、初めて持つのです」

 

「大げさ」

 

「大げさじゃないですよ」

 

マーちゃんが、ブローチを大事そうに胸に押し当てた。それから、スマホを出して、ブローチの写真を何枚も撮り始めた。

 

「マーちゃん調べによると、香港の青い石は、幸運の象徴と言われているのですよ」

 

「そうなの?」

 

「これ、マーちゃんの守り石にしますね」

 

そう言って、ブローチを胸ポケットにそっと収めた。

 

なんか、嬉しい。

 

私が選んだ石が、誰かの守り石になる。香港のお土産屋さんで「マーちゃん、きっとこれ好きだろうな」って、それだけで選んだ石が。

 

マーちゃんが、ふっと真顔になった。

 

「モエちゃん」

 

「なに?」

 

「マーちゃん、ずっと、言うタイミング探してたのですけど」

 

私を見上げる目が、少し丸い。にへらっとした緩さじゃなくて、何かを大事に置きにくる目。

 

「……おかえりなのです」

 

——あ。

 

レースの後。表彰式の後。空港のあの派手な「おかえり」の中でも、マーちゃんはまだ言ってなかった。

 

ずっと、取っておいたんだ、この言葉。

 

派手なところじゃなくて、二人だけの部屋で、二人だけの空気の中で、ちゃんと渡したかった言葉。

 

「……ただいま」

 

声が、ちょっとだけ震えた。

 

マーちゃんが、にっこり笑った。

 

「マーちゃん、モエちゃんが帰ってきてくれて、嬉しいのです」

 

「私も」

 

涙は出なかった。出るほど、悲しいことがあったわけじゃない。

 

ただ、温かい温度が、胸の中にひとつ、増えた。

 

 

その夜。

 

自室の机で、ノートを開いていた。冬休みの宿題が、思い出したようにそこにある。手をつける気にはなれなくて、ぼんやりページをめくっていた。

 

スマホが鳴った。絢原さん。

 

『年始号の取材依頼が来てる』

『URA広報誌』

『前と同じカメラマンで、表紙撮り直しの企画らしい』

 

——表紙、撮り直し?

 

胸の奥が、少しざわついた。

 

一年半前のあの撮影会。一回だけのつもりが、三号連続表紙になった、あの。

 

『……またあれやるの?』

 

返信した。

 

『前と同じ規模だ。一回だけ』

 

『一回だけって、前も言ってた』

 

『……まあ、そうだな』

 

『考えとく』

 

スマホを置いた。

 

窓の外、栗東寮の庭。冬の夜の、青白い空。

 

——あの撮影会で、私は何を出したんだっけ。

 

レンズを真正面から睨んだ自分の顔を、思い出した。「私を愛せ」と命じていた、あの時の自分。

 

今、もう一回、レンズの前に立ったら、何が出るのだろう。

 

ちょっとだけ、気になっている自分がいた。

 

スマホがまた鳴った。

 

『年始号の入稿が早い。撮影は来週頭で押さえる』

『明後日には日程確定する』

 

——早。

 

「一回だけ」って言葉が、どこまで信用できるのか分からないけど。

 

それでも、レンズの前に立つ自分が、もう少しだけ、気になっていた。

 

返信を打った。

 

『分かった』




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