アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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84話 ふたたびのレンズ

 

——Photographer

 

都内、撮影スタジオ。

 

機材を組みながら、ファインダー越しに白ホリ背景の調整をしていた。スタンドライトの位置を半歩ずらして、もう一度覗く。光のバランスが、ようやく落ち着いた。

 

「カレンモエさん、間もなく到着です」

 

アシスタントの声に、頷いた。

 

——一年半ぶりだ。

 

このスタジオも、この機材も、同じ。違うのは、撮る相手の経歴と、自分の頭の中にある期待値だけ。

 

一年半前、ここでカレンモエを撮った。新人の表紙撮影、URA広報誌、本来なら一回限りの仕事だったはずが、出来上がった一枚が編集部を揺らして、結局三号連続表紙になった。あの「月」と呼ばれた一枚。

 

あれから、彼女は走り続けた。スプリンターズSも、香港スプリントも、テレビで全部見た。沙田で「藍鎚」と呼ばれて、空港で大歓声を浴びて、空色の新勝負服に着替えて。

 

——あの月の続きが、今日、撮れる。

 

機材の角度を、また半歩、調整した。

 

一年半前、ファインダー越しに見た一枚は、まだ覚えている。月だった。冷たくて、鋭くて、レンズの奥のこちらを射抜いてくる目。「私を見ろ」と命じている目。新人とは思えない、というより、新人だからこその、削り出したばかりの刃物のような美しさ。あれを撮れたのは、運が八割だったと、今でも思っている。

 

——でも、今日は。

 

事前にURA広報から送られてきたカットイメージの参考画像、今のカレンモエの最新の写真資料に、二回ほど目を通した。香港遠征中の現地メディアが撮った何枚か、空港の到着ロビーで撮られたぶれた一枚、ポストレースの記者会見、それから業界誌の年末特集の表紙候補画像。

 

どれも、画面の重心が、彼女のところで止まっていた。

 

ぶれた写真でも、止まっている。スマホの粗い画素でも、止まっている。背景に他のウマ娘が複数写り込んでいても、彼女のところで視線が回収される。

 

——格が、変わっている。

 

一年半前の刃物の月は、こちらに切り込んでくる被写体だった。撮る側と撮られる側の関係が、まだ対等だった。今のあいつは——たぶん、撮らせる側に立っている。レンズを向けているこちらが、向けさせてもらっている、そういう種類の被写体に、なっている。

 

カレンチャンから事前の電話は、今回はなかった。一年半前は撮影の前夜に「絢原くんを、モニターの横に置いてあげて♪」と仕込みの電話があった。あれが「月」の引き金だったと、後で知った。母娘の構図に、トレーナーが楔として打ち込まれて、娘が必死に取り戻そうとする。そのエネルギーがレンズに焼き付いた。

 

——今日は、なし。

 

仕掛けが、要らない判断だ。たぶん、母も気づいている。今のあいつは、もう仕掛けで引き出すような被写体じゃない、ということに。

 

緊張する仕事になる。職人として、被写体に追いつかなければならない。

 

スタジオの扉が、開いた。

 

「お願いします」

 

カレンモエが入ってきた。

 

——空気の重心が、入った瞬間に変わった。

 

スタジオの蛍光灯の下、彼女が一歩進むたびに、それまでのスタジオの空気が、どこかに押し出されていく感覚があった。アシスタントが手元の作業を止めた。ヘアメイクの主任が無意識に背筋を伸ばした。誰も声を上げていないが、全員の意識が、入ってきた被写体の方向に持っていかれた。

 

空色のチュールに黒と空色のビスチエ、太い黒のベルト、銀の刺繍。沙田で勝った勝負服。香港から戻ってまだ間もないはずなのに、肌の色も髪の艶も整っている。プロの仕事だ。

 

絢原トレーナーが、半歩後ろに付いている。1番枠と同じ並びで歩いてくる。その立ち位置も、あの時と同じだった。

 

ただ、絢原トレーナーが「半歩後ろ」になっている事実が、一年半前と全く違う意味を持っていた。あの時は、トレーナーがどこに立っていても、視線は「モエとトレーナー」のセットで来た。今日は、絢原トレーナーが完全に風景になっている。被写体の重力場が、トレーナーごと、後景に押し出している。

 

——プロでも、こうなるのか。

 

「お久しぶりです、カレンモエさん」

 

声をかけた。彼女が小さく頷いた。

 

「お久しぶりです」

 

短い返事。声が、落ち着いていた。一年半前とは、別人。声の温度ではなく、声を出すまでの距離感が違う。「言わなければならないことを言う」のではなく、「言ってあげている」という方向の落ち着き。

 

ヘアメイクが軽く確認をして、衣装の最終チェック。絢原トレーナーがスタジオの隅、ちょうどモニターが見える位置にスタンバイした。位置の指示はしていない。彼が自分で、その位置を選んでいる。

 

カメラを構えた。

 

ファインダーを覗く。

 

「では、お願いします」

 

声をかけて、ファインダーを覗いた。

 

カレンモエがレンズを見る。背景は白ホリ、光は柔らかいトップライト。彼女の空色のチュールが、ほんのわずかに揺れた。

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

レンズを、まっすぐ見た。

 

「私を愛せ」を、軽く、発射した。

 

カメラマンの背中にあるストロボが、ぱっと光る。シャッターの音。

 

一回。

 

二回。

 

三回。

 

……。

 

——ふふん、ほら、こういうのが欲しいんでしょ。

 

スタッフの息が、こちらに集まってくる。アシスタントの動きが止まる。ヘアメイクの主任が、無意識にカメラマンの後ろに回り込む。皆、寄ってくる。

 

撒いてやってる。それで、皆が、満足する一枚が撮れる。それでいい。

 

「カレンモエさん」

 

カメラマンが、ファインダーから顔を上げた。

 

「少しだけ、いいですか」

 

「はい」

 

「今日は、ちょっと、いつもと違いますか?」

 

「違う?」

 

——え、出してるけど。

 

自分では、いつも通り発射してるつもりなんだけど。

 

「あの時の、刃物みたいな目が……出ないんです」

 

——あ。

 

そっか、そう見えてないんだ、これ。

 

カメラマンの言ってる「刃物みたいな目」が、何のことかは分かる。前の撮影で、レンズを真正面から睨んで、出力を思いっきり捻って、鋭く発射した時の、あの目。あれを「刃物」って表現するんだ、と思った記憶もある。

 

今日のは、捻ってない。

 

普通の出力で発射してる。それでも、シャッターは止まらない。スタッフは寄ってくる。十分、効いてる。

 

——捻る必要、ないし。

 

前みたいに、何かを上書きしようとしてるわけじゃない。誰かを倒すための尖り方が、要らないだけ。

 

カメラマンには、それが「刃物が出てない」に見えるみたい。

 

「……ふーん」

 

口が、先に動いた。

 

「?」

 

カメラマンが首を傾げた。

 

「別に、出してるけど」

 

——出してるよ、ちゃんと。

 

ただ、形が違うだけ。本質は同じ。「私を愛せ」を、軽く、撒いてる。それでこの効き方なら、十分でしょ。

 

「……」

 

カメラマンが、しばらく黙って、それから、ふっと笑った。

 

「では、そのままで、お願いできますか」

 

「うん」

 

レンズを、また見た。

 

——ほら、続き、どうぞ。

 

シャッターが、押された。

 

一回。

 

二回。

 

連続して、三回、四回、五回。

 

カメラマンの体が、徐々に前のめりになっていく。シャッターを切るリズムが速くなる。誰も、何も言わない。

 

——気持ちよさそうに、撮ってるね。

 

それが、ちょっと、面白かった。

 

軽く撒いただけで、これだけ皆が前のめりになる。今日はサービスしてあげた、ってことにしとこう。

 

スタジオの隅に、視線を流した。

 

絢原さんは、いつもの位置で、何でもない顔で立っていた。スタッフが盛り上がっているのに、絢原さんだけ、別の周波数で動いている。

 

——いつも通り。

 

それでいい。絢原さんは、それで、いい。

 

私の発射した「私を愛せ」は、絢原さんには効かない。最初の撮影の頃から、ずっと、そう。それは、知ってる。それでも私は、絢原さんに対しても、ちゃんと発射してる。効かないのは、効かないなりの、意味がある。

 

——絢原さん、見てる?

 

聞かない。聞いても、絢原さんは「ああ」とだけ言うだろうから。それで、十分だ。

 

レンズに視線を戻した。

 

——もう、捻った出力は、要らないなあ。

 

ふと、思った。

 

前の撮影は、絢原さんの頭の中にいる、全盛期のママを、上書きしたかった。顔がそっくりだから、負けたくなかった。私の方が、現役なんだから、私の方を見て、って。それで、出力を思いっきり捻った。

 

今は、上書きしようとは、思ってない。

 

ママとは、顔は似てても、別の生き物。それは、もう、自分の中で、片付いた話。香港で勝って、藍鎚って呼ばれて、自分の脚で立ってきた。私はママとは違う、ってことが、皮膚に染み込んだ。

 

だから、捻る必要が、ない。普通の出力で十分。

 

それでも、シャッターは止まらない。

 

——うん、悪くないんじゃない、これ。

 

普通の出力でこれだけ撒けるなら、あの捻った発射は、引退でいいかもしれない。あれは、必要な時の、特別な形態だった。今日はそれが必要じゃない、というだけ。

 

カメラマンのシャッターが、止まらない。

 

「OKです」

 

カメラマンが、ようやく顔を上げた。

 

「ありがとうございました」

 

「お疲れさまでした」

 

軽く頭を下げた。絢原さんがスタジオの隅から歩いてきて、私の横に並んだ。

 

「いい顔してたな」

 

「……そう?」

 

「俺が見ても分かる」

 

「ふーん」

 

絢原さんが普段、人の顔を褒めるとこ、ほとんど見たことない。佐々木さんに対しても、他のスタッフに対しても、業務以外の評価は基本的にしない人。それが「いい顔」って言った。

 

——ずるいな、それ。

 

別にちゃんと言葉にしなくても、伝わってるのに。逆に、ちゃんと言われると、言われたこと自体に、ちょっと動揺する。

 

「……ありがと」

 

「ん」

 

それが、絢原さんとの今の温度だった。

 

——Photographer

 

二人がスタジオを出た後、機材の片付けを始めた。

 

ストロボのアームを畳み、ライトスタンドを倒し、ケーブルを巻く。アシスタントが背景紙を回収していく。手は動いている。頭の中は、まだファインダーの中の彼女を反芻していた。

 

——あれは、月のままだ。

 

でも、別の月だった。

 

あの時の月は、刃物だった。誰かを射抜こうとしていた。冷たくて、鋭くて、こちらが見つめ返すと逆に切り返されるような目。あれは支配の目だった。「私を見ろ」と、レンズに命じていた。

 

今日の月は、違った。

 

冷たさは消えていない。鋭さも残っている。でも、攻撃性がない。命じる必要が、もう、ない。

 

——重力が、被写体側にある。

 

そういう状態だった。被写体がレンズに向かって何かを発する関係ではなく、被写体の周りで空気が引き寄せられて、レンズが被写体に追いかけられている関係。普通、そういう写真は、海外のトップモデルか、ベテランの大女優か、そういう被写体でしか撮れない。新人時代の刃物の月から一年半で、あいつは、その領域に入ってきている。

 

撮りながら、ずっと考えていた。被写体が変わったのか。それとも、自分の見方が変わったのか。

 

——両方、だろう。

 

被写体は、間違いなく、変わった。一年半前は、こちらが彼女に格を貸して撮っていた。今日は、彼女の格にこちらが追いつけているか、毎カット問われていた。

 

被写体が世界の頂点を取って戻ってきた時、撮る側もそれに追いつかなければならない。今日の仕事は、それだった。追いつけたかどうかは、現像してから分かる。たぶん、何枚かは、追いつけている。何枚かは、追いつけていない。それが、今のあいつを撮ることの、難しさだった。

 

「……月、独立したな」

 

機材を畳みながら、自分に向かって呟いた。

 

カレンチャンの娘でも、絢原トレーナーの教え子でも、URA広報の被写体でもない。空に独りで浮かんで、自分の軌道で動いている、ひとつの月。それを今日、撮った。撮らせてもらった、と言うべきかもしれない。

 

アシスタントが「え?」と聞き返したが、首を振った。なんでもない。

 

スマホを取り出して、連絡先をスクロールした。指が止まる。

 

——カレンチャン。

 

迷ったが、押した。

 

呼び出し音、二回で繋がった。

 

『はい、もしも〜し♪』

 

「カレンさん、お疲れ様です。撮影、終わりました」

 

『あら、お疲れさまでした♪ どうだった?』

 

「撮れました」

 

『ふふっ、ありがとう♪ どんな顔してた?』

 

「月のままです」

 

『あら、嬉しい♪』

 

「でも、前と違う月でした」

 

電話の向こうで、少しだけ間が空いた。

 

『……どう違うの?』

 

「前は、誰かを射抜こうとしてた」

 

『うん』

 

「今日は、自分の道を、歩いてました」

 

電話の向こうの息が、ほんの少し、止まった気がした。

 

『……そう』

 

「カレンさん」

 

『うん?』

 

「もう、仕掛けは要らないみたいです」

 

少し、長い沈黙があった。

 

そして、息を吐く音。

 

『……ふふっ、そうみたい♪』

 

声のトーンが、ちょっとだけ、低かった。さっきまでの軽さが、語尾に乗りきっていない。

 

『寂しいな、ちょっとだけ』

 

声色が、初めて素のものになった気がした。一年半前、「絢原くんを見える位置に♪」と仕込みの電話をしてきた時の、楽しそうなあの声とは違う。あの時は娘を後ろから手助けする母の声で、今は娘の背中が遠ざかっていくのを見送る母の声だった。

 

「親って、そういうもんでしょう」

 

それしか言えなかった。あの撮影から今日までの間、自分はただ撮影をしていただけで、母娘の間に介入する権利は持っていない。だから職人として、当たり前のことを返すことしかできない。

 

『ふふっ、ほんとね♪』

 

普段の調子に、戻っていた。母も切り替えが早い人だ。

 

『じゃあ、写真、できるの楽しみにしてるね♪ よろしくお願いしま〜す♪』

 

「はい、こちらこそ」

 

通話が、切れた。

 

スマホをポケットに戻して、機材の片付けに戻った。

 

ストロボのケースを閉じる。ケーブルを巻き終える。背景紙を倉庫に運ぶ。手が動いている間、頭の中で、さっき撮った一枚が、何度も再生されていた。

 

——あの月、誰のものでもなくなった。

 

カレンチャンのものでもない。絢原トレーナーのものでもない。レンズのものでもない。

 

カレンモエのものでも、もしかしたら、ない。

 

ただ、空に浮かんで、自分の軌道で動いている、ひとつの月。

 

スタジオの蛍光灯を、半分だけ消した。

 

 

——某SNS

 

@spr_fan_2026

URA広報年始号、表紙カレンモエやばい

これもう写真集レベルじゃない?

 

@blue_hammer_real

藍鎚の表紙キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

保存用と布教用と二冊買った

近所の書店から消えてる

 

@racing_journalist

URA広報年始号、即日完売の店続出。担当者談「予想の三倍以上の動き」とのこと。世界制覇直後の特集とはいえ、表紙単体での吸引力が異常。

 

@kaiji_uma_log

前の表紙と比べてる人いるけど、

正直、今回のもいい

雰囲気違うよね、なんか

 

@cynic_turf

正直前回の「月」の方が刺さった

今回のは綺麗だけど、それだけ

 

@spr_fan_2026

↑そういう意見もあるかな

個人的にはどっちも好きだけど

 

@photo_critic_jp

(解説記事抜粋)「同一被写体を一年半の間隔で撮影し、これだけ異なる表情を引き出せる撮影者は業界でも稀。本誌グラビア解説記事を併読願いたい」

 

 

——某ターフ専門誌・記事見出し

 

『世界の女王、新たな貌——カレンモエ年始号表紙、緊急重版決定』

 

『「藍鎚」変容の証——撮影者語る、一年半の進化』

 

『カレンモエ・ファッションアイコン化の予兆——空色の革命』

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

マーちゃんの部屋を覗くと、机に雑誌が広げてあった。

 

ちょうど開いてるのが、空色のチュールでレンズを見てる自分のページ。

 

「モエちゃん、見ましたですよ」

 

雑誌から顔を上げて、マーちゃんがにっと笑った。

 

「あ、見たんだ」

 

「綺麗なのです」

 

「……そっか」

 

「マーちゃん、二冊買ったです」

 

「は? 二冊?」

 

「一冊は普通に読む用、もう一冊は本棚に大事に取っておく用なのです」

 

「マーちゃん、買いすぎでしょ。一冊でいいじゃん」

 

「まだまだ少ない方ですよ。SNSで十冊買ったって言ってる人、いっぱいいたのです」

 

「えっ、いるんだ、そういう人」

 

「いっぱいいるです」

 

雑誌のページに、マーちゃんが指を置いた。空色のチュールの裾の部分。

 

「この衣装、香港の時のですよね」

 

「うん、そう」

 

「やっぱりこの色、モエちゃんに合うのです」

 

「……そうかな」

 

「マーちゃん、思うです」

 

それだけ言って、マーちゃんはまた雑誌に視線を戻した。

 

——一冊もらっとこ。

 

私は、机の上の二冊のうち、「読む用」の方を、しれっと手に取った。マーちゃんが、ちらっと顔を上げた。

 

「あ、それ持ってくですか?」

 

「うん。一冊くらい、いいでしょ」

 

「マーちゃん、もう一冊買ってくるですよ」

 

「いや、いいよ、本棚の取っとく用は残しておきなって」

 

「マーちゃんの財布的には全然平気なのです」

 

「……そういう問題じゃない、と思うんだけど」

 

マーちゃんは、何でもない顔で、また雑誌に視線を戻していた。

 

 

電話。

 

「モエちゃーん♪ 見た?」

 

「見たよ」

 

「ママね、何冊か買ってきたよ♪」

 

「何冊」

 

「内緒♪ ご近所さんに配ったり、いろいろなの」

 

「……まあ、いいけど」

 

ママのこういうのは、止めても無駄だってもう知ってる。

 

「あ、それでね、モエちゃん」

 

「なに」

 

「今回の写真、ね♪」

 

「うん」

 

ママの声のトーンが、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。

 

「ママ、見て、すごく嬉しかったよ」

 

「……」

 

「すごく、いい顔してる」

 

それだけ言って、ママはまた「ふふっ」と笑って、電話を切った。

 

スマホを耳から離して、しばらく動けなかった。

 

ママのテンションが、語尾で、ふっと落ちる時。それは、本当に素の気持ちが出てる時。普段の浮き上がった声が、ただの平らな「ね」になる。

 

——……ずるくない、それ。

 

ふだんあれだけテンション高い人が、たまにこういう温度で言葉を落としてくる。こっちは受け止め方を、ちゃんと用意してない。

 

——今回も、ママには撮れない一枚、だったのかも。

 

胸の奥が、少しだけ、温かくなった。

 

 

——Trainer: Ayahara

 

机の上に、雑誌が置かれていた。

 

スタッフの誰かが置いたのだろう。表紙が上向きになっている。空色のチュールの彼女が、まっすぐレンズを見ている。

 

しばらく、それを眺めた。

 

——「いい顔してたな」

 

撮影直後、自分が言った言葉を、思い出した。

 

レンズの前で、刃物にならなかった彼女。あの時のあの「私を愛せ」型ではなく、ただ自分の道を歩いている目で立っていた彼女。

 

そして、ただ立っているだけで、スタジオの空気が、彼女の周りで重力を発生させていた。アシスタントもヘアメイクもカメラマンも、全員が、無意識に彼女の方に重心を傾けていた。あれは、教えて身につくものではない。本人がレースで勝ち取ってきた格だ。

 

成長した、というのは、控えめな言葉だ。

 

世界に出て行った。あいつは、もう、世界の頂点で勝てる被写体になっている。レンズが追いかけてくる側に立っている。

 

それは、トレーナーとして喜ぶべきことだ。間違いなく。

 

ただ——

 

机の上の表紙を見ていると、胸の奥に、名前のつかない感情が一つだけ、灯っていた。

 

教え子が、自分の手の届く範囲を、もう超えている。それは、新人だった頃には、想像もしていなかった事態だった。育てた者が、育てた者の手から離れる時に来る、ある種の感情。それを、トレーナーとして自分も体験することになった。

 

その感情の正体を考える前に、雑誌を閉じた。

 

棚の奥にしまった。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

数日後の夜。

 

寮の自室。マーちゃんから持ってきた一冊を、ベッドの上で広げた。

 

表紙の自分の顔を、しばらく見た。

 

——変わったね、私。

 

冷たい。鋭い。それは前と同じ。

 

でも、誰にも刺さろうとしてない。レンズの向こうの誰かを射抜こうとしてない。

 

ただ、自分の道を歩いてる。

 

「……これが、私なのか」

 

声に出してみた。

 

返事は、当然、ない。雑誌の中の私は、何も言わない。ただ、まっすぐ前を見てる。

 

——うん、悪くないんじゃない、これ。

 

口の中で、もう一度、確認した。

 

ページを閉じた。

 

ベッドの脇のテーブルに、雑誌を置いた。背表紙を上にして。表紙が見えないように。

 

——別に、嫌いじゃないんだけど。

 

——毎日見るものでもないでしょ、自分の顔は。

 

それくらいの距離感が、ちょうど良かった。

 

部屋の電気を消して、ベッドに潜った。




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