夜十時。姉妹部屋。
奥のベッドで、オルが寝息を立てている。長いオレンジブロンドの髪が枕の上に広がっていた。寝る前にロンシャンの記事に目を通していた。本人が満足するまで眺めさせて、自然に眠るのを待った。
私は紅茶のカップを下げて、自分のデスクに戻った。机のスタンドだけを点ける。
椅子に座って、紅茶を一口。今日は錫蘭。妹の好む茶葉だが、私はこれを夜に飲む時、思考が冷えていく感覚がある。
——今年で、三度目の挑戦だ。
寝ている妹の方を見た。穏やかな寝顔。ロンシャンの記事を眺めながら、何を考えていたのだろう。これまでの悔しさか、今年こそという覚悟か、あるいはもっと別の——王として征く道筋か。
妹は、もう動き出している。今年の凱旋門賞に向けて、本人の中で旅程を組み始めている。
姉は、姉として、何ができるか。
それを、整理する夜だった。
仕事用のタブレットを立ち上げた。
——まずは、去年から。
去年の凱旋門賞の映像を、開いた。
出走表を眺める。十八人。逃げ志向のウマ娘は数人いるが、本気で先頭を引く子は不在だった。そして——前でペースを作る者は、誰もいなかった。
——去年は、誰も先頭を担わなかった。
日本のウマ娘たちからも、欧州のウマ娘たちからも、前で引っ張る役を出した者はいなかった。レゾリュートがいたからだ。
ロンシャンの女神の冠を被った欧州中距離の絶対王者。レゾリュートは、自分でペースを作って走るタイプだった。前半、無理のない速度で集団を引き連れ、第三コーナーから少しずつペースを上げ、最終直線で本気の末脚を見せる。そのスタイルでロンシャンを連覇直前まで来ている。
前で引っ張る役が、必要なかった。レゾリュート自身が、結果としてその役を半分担っていたから。逃げ志向の子も、レゾリュートが背中にいる以上、本気で先頭を引く理由がない。「あいつのペースに合わせれば、勝手に流れができる」——欧州の常識だった。
私はレース映像を再生した。
前半、コース全体が湿った曇り空の下で、ゆったりと流れていく。レゾリュートが集団の前方、二番手のあたりに位置している。先頭の逃げ志向の子も、無理にペースを上げない。後ろにレゾリュートがいるから、慎重になっている。
集団全体のペースが、緩い。
スタミナを温存した集団が、最終直線に雪崩れ込む。残った末脚で、最後の二百メートルが決まる。レゾリュートの末脚が炸裂し、後方から伸びてきたオルが届かなかった。
——先頭で引っ張る者がいないと、こうなる。
ペースが落ち着く。スタミナが残る。直線一気の勝負になる。末脚に長け、なおかつスタミナを温存できる脚質——つまり、レゾリュートの得意な型がそのまま勝ちパターンになる。
逆に、後方からごぼう抜きを得意とするオルにとっては、最も不利な展開だった。前で逃げる子が消耗していれば、最終直線で前との差が開く。だがペースが緩いと、前も消耗していない。届かない。
オルがロンシャンで二着に終わった原因は、力負けではない。展開負けだった。
——今年は、変えなければならない。
頭の中で、整理を進める。
今年の凱旋門賞には、レゾリュートが連覇を狙って来る。日本のジャパンカップで五着に終わったが、あれは日本の軽い芝が合わなかっただけ。本拠地のロンシャンに戻れば、また去年と同じ走りができる。
逃げ志向の出走候補は、まだ未確定。例年通りなら、本気で先頭を引く子は、たぶん出ない。「逃げ志向だが、レゾリュートが背中にいる時は無理をしない」——この心理は、欧州のウマ娘たちに染みついている。今年も同じだろう。
先頭を担う者の不在、逃げ志向の臆病、レゾリュートの自走ペース——三つが揃えば、また去年と同じレースが組み上がる。
オルにとっては、また負ける形だ。
——変えるためには、誰かが、前で引っ張る必要がある。
それは、誰かは、まだ分からない。今年こそ本気で先頭を引く逃げ志向の子が現れるのか。あるいは、別の動きが起きるのか。状況は、これから動く。
ただ、構造は分かった。前で本気のペースが流れれば、レースは自然と別の形になる。スタミナの消耗が増え、末脚一気の決着になりにくくなる。そうすれば、最終直線でオルが届く可能性が、わずかだが、増える。
仮に、誰かが前で引っ張る場合の意義は、ペースを作るだけではない。レゾリュートを「いつもの形」から外す——それが本質だ。
そして——
——もし出すならば、引っ張る者は、最後まで走りきる必要はない。
ペースを作るのは、最初の千五百メートル程度。後の九百メートルは、不要だ。最後まで残ろうとしないほうがいい。前半だけ、本気で。後半は、消えていい。
それは、走り切る者の役目ではない。消えるための走りを引き受ける者の役目だ。
——もっとも、それはあくまで「もし」の話。
今年こそ本気で先頭を引く逃げ志向の子が現れるかもしれない。あるいは、別の動きが起きるかもしれない。前提が変われば、こちらが何かを動かす必要もない。
判断は、状況が固まってからだ。
——オルは、不要と言うだろう。
容易に予想がつく。妹は「余は一人で征く」と言うだろう。「他者の脚で作られた道を、王が歩むものか」と。それは妹の信念であり、矜持であり、王としての姿の一部だ。否定するつもりはない。
でも、姉として、その上で、状況は整理しておく必要がある。
——だから、整理する。
オルに告げないまま。オルの「一人で征く」を尊重したまま。ただ、姉として、状況を整理しておく。それは、姉として動く時の作法の範囲だ。
私は、デスクの引き出しから、別のタブレットを取り出した。遠征支援委員会の権限で、各国の遠征関係者とのやり取りが見られる端末。
「今年こそ」と思っているのは、私だけではないはずだ。だが、それを口にする場が、まだない。例年通りなら、誰も先に動かない。誰も先に「ペースを作る役を出すべきだ」とは言わない。
——だから、私が動く。
オルとは別に。オルに告げないまま。姉として。
——では、まず、情報を整える。
タブレットを切り替えて、各国の遠征関連情報フォルダを開いた。
逃げ志向の出走候補リスト、レゾリュートのトレーナーから入る調整情報、ロンシャンの今年の芝の状態予想、各国の故障情報。全部が動き続けている。確定するのは、もう少し先。
明日からは、これらを毎日更新する。逃げ志向の子に、今年こそ本気で先頭を引く動きがあるのか。本拠地のレゾリュートは連覇に向けてどのような調整を進めるか。本当に、今年も「前を担う者の不在」のレースになるのか。
全部の情報が揃ったとき、URAとの協議の場を組む。その場で、状況を共有して、選択肢を並べる。何が必要で、何ができるか——議論するのは、その時だ。
私一人で結論を出すべきではない。情報を集めてから、議論する。それが筋だ。
準備は、入念に。
タブレットを閉じた。
スタンドを消した。
ベッドの方を見ると、オルが寝息を立てていた。妹の寝顔を、しばらく眺めた。
私は、自分のベッドに入った。
オルの寝息が、隣のベッドから、規則正しく聞こえている。
旅程は、これから組み上げる。
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