アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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85話 初詣

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

一月一日、朝。

 

寮の窓を開けた。冷たい空気が、頬に当たる。元日の白い空。境内の方角で、太鼓の音が遠く鳴っている。

 

スマホを確認した。絢原さんからのメッセージ。

 

『初詣、行くか』

 

『行く』

 

返信して、コートを羽織った。

 

去年も同じやり取りをした。一昨年も。毎年、元日の朝、絢原さんからメッセージが来て、私が返事をして、二人で地元の神社に行く。最初の年に「初詣、行くか」と聞かれた時、絢原さんは「学園の習慣だ」みたいな言い方をした。嘘でしょ、と思った。学園にそんな習慣はない。

 

それでも、毎年、誘われている。

 

別に、嫌じゃない。

 

 

並木道の入口で待ち合わせ。絢原さんは、いつもの黒いコートに、紺のマフラー。元日でも、服装はほぼ平日と変わらない。

 

「明けましておめでとう」

 

「明けまして、おめでとう」

 

短いやり取りで、並んで歩き出した。

 

地元の神社は、学園から徒歩で十五分。住宅街を抜けた小高い丘の上にある。古い石段、傾いた鳥居、年に一度しか人が来ない社務所。元日の今日だけは、屋台がいくつか出ていて、地元の人が集まっている。

 

歩きながら、絢原さんは特に何も話さない。私も話さない。それで、いい。隣を歩いているだけで、年が明けた感じがする。

 

坂道に入ったところで、向こうから家族連れが来た。父親、母親、子供二人。子供のうちの小さい方が、私の顔を見て、目を丸くした。

 

「あ! モエちゃんだ!」

 

小学校低学年くらい。手袋をした手で、私を指差している。

 

「モエちゃん、明けましておめでとう!」

 

「明けましておめでとう」

 

私は、軽く手を振り返した。

 

「今年もテレビで見るからね!」

 

「うん、応援しててね」

 

家族が、笑いながら通り過ぎていった。

 

歩き出して、絢原さんが横で、ぽつりと言った。

 

「お前、子供にモテるなあ」

 

「ふふん」

 

私は、ちょっと胸を張った。

 

「いいお母さんになれるんじゃない、私」

 

口が先に動いた。出てきた言葉に、自分でちょっと驚いた。普段なら言わない種類の自信を、口が勝手に喋った。

 

「ああ、そうだな」

 

絢原さんが、頷いた。

 

「お前、世話好きだしな」

 

——え。

 

そっちは、肯定するんだ。

 

私の中で、勝手に発射された言葉に、絢原さんが何の疑問もなく頷いた。私の中の何かが、ちょっとだけ、得意になった。それから、すぐに、別の何かが、皮肉を呟いた。

 

——絢原さん、それ、誰の隣の話だと思ってるの?

 

——分かってないんでしょ、たぶん。

 

絢原さんが、その「お母さん」が誰の隣にいる未来図なのか、絢原さんは想像していない。露ほどもしていない。私が「いいお母さん」になる、それは事実、でも、その隣に絢原さんがいるとは、絢原さんは思っていない。

 

毎年、知ってる。

 

だから、私は、自信たっぷりに「いいお母さんになれる」と言える。絢原さんは、何の疑問もなく、肯定する。それで、私の中では、十分。

 

「ふふーん」

 

もう一度、鼻を鳴らした。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

鳥居が見えてきた。

 

境内の方から、人の声が、もう聞こえている。屋台の煙が、冬の空に立ち上っているのが、坂の上から見える。

 

鳥居をくぐった瞬間、人の波の中に入った。

 

地元の人で混んでいる。小さな子供、年配の夫婦、家族連れ、若いカップル。参道の両脇に屋台が並んでいて、人の流れが、その間を縫うように歩いている。

 

絢原さんが、隣で、ちらっと私の方を見た。

 

「ほら」

 

短く言って、絢原さんが、私の手を取った。

 

——え。

 

私は、固まった。

 

絢原さんの手は、コートのポケットから出したばかりで、冷たかった。それでも、私の手より、大きくて、しっかりしている。指の節が太い。掌が、私のより、ずっと広い。

 

絢原さんは、私の手を握ったまま、人の流れの方を見ている。何でもない顔で。

 

「混んでるからな。はぐれたら厄介だ」

 

「……別に、はぐれないけど」

 

「お前、屋台に気を取られてどっか行きそうだから」

 

「行かないってば」

 

「行く」

 

「行かないって」

 

絢原さんは、私の手を握ったまま、参道を歩き出した。

 

私は、引かれるように、ついていった。

 

口では「行かない」と言ったけど、心臓は、もうおかしな動きをしていた。

 

これまで、絢原さんと並んで歩いたことは、何百回もあった。指先を上着の袖に触らせたことも、数え切れないくらいあった。それでも、絢原さんの方から、私の手を握ったことは、一度もなかった。

 

——一度も、なかったでしょ。

 

それなのに、今、絢原さんは、私の手を握っている。「混んでるから」「はぐれたら厄介だ」「屋台に気を取られて」——理由は、全部、絢原さんの中で完結している。私を子供扱いしている、それだけの動作。

 

絢原さんの中では、それだけ。

 

私の中では、違う。

 

耳の裏が、熱くなっている気がする。手を握られているだけ、それだけなのに、体の中の温度が、おかしくなっている。

 

絢原さんは、何も気づいていない。前を見ている。屋台の煙の向こうの本殿の方を見ている。

 

少し歩いた所で、私は、ゆっくり、指を動かした。絢原さんの指の間に、自分の指を、一本ずつ、差し込んだ。

 

絢原さんの指の節が、私の指の付け根に当たる。

 

絢原さんは、何も言わなかった。

 

ちょっとだけ、私の方を見た気がしたけど、すぐに前を向いた。「お前、こうやって繋ぐの好きなのか」程度の確認の視線。たぶん、それだけ。

 

絢原さんは、たぶん、これが「恋人繋ぎ」って呼ばれてることを、知らない。

 

——知らないでいてよ。

 

——知らないでいてくれた方が、いいから。

 

絢原さんの中では、ただの「がっちり繋ぐ」でしかない。それでいい。私の中だけで、別の名前で呼ばせてもらう。

 

絢原さんは、私の指を絡めたまま、参道を歩き続けている。何でもない顔で。

 

私は、引かれている方の手の感覚に、全部の意識が持っていかれている。

 

——絢原さんが、私の手を、握ってる。

 

——今年。

 

——元日。

 

——どうしよう。

 

頭の中で、何かが、ぐるぐる回っていた。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

本殿の前に、参拝の列ができていた。

 

並んで、五分ほど待った。前の人が二礼二拍手をしている。鈴の音が、冬の空気に乾いて響いた。

 

絢原さんは、参拝の列に並ぶ間、私の手を離さなかった。指は絡んだままだ。

 

——離さないで、ずっと。

 

口には出さない。心の中だけで。

 

順番が来た。

 

絢原さんが、ようやく、手を離した。財布から五円玉を出すために。

 

私の手のひらに、絢原さんの手の温度が、まだ残っている。冷たい空気の中で、その部分だけ、まだ温かい。私は、自分の手のひらを、ぐっと握った。

 

——あったかいな。

 

絢原さんが、五円玉を賽銭箱に投げた。

 

——あ。

 

絢原さんが投げた五円玉が、賽銭箱の縁に当たって、跳ねた。手前の石畳に、小さく転がっていく音がした。

 

絢原さんが、ぐっ、と眉を寄せた。

 

私は、しれっと屈んで、転がった五円玉を拾った。立ち上がって、絢原さんに手渡した。

 

「絢原さん、毎年、外すよね」

 

「お前、そういうとこ、よく見てるな」

 

「だって、毎年、見てるから」

 

絢原さんは、軽く咳払いをして、もう一度、賽銭箱に投げた。今度は、ちゃんと中に入った。

 

私も、自分の五円玉を入れた。

 

二礼二拍手一礼。

 

絢原さんは、目を閉じて、何かを念じていた。短かった。三秒くらい。

 

私は、目を閉じて、念じた。

 

——絢原さんが、いつまでも、ここにいますように。

 

それだけ。三秒もかからなかった。

 

頭を上げて、絢原さんの方を見た。絢原さんも、ちょうど目を開けたところだった。

 

「何、お願いしたんだ?」

 

「内緒」

 

「俺も内緒だ」

 

「なにそれ。ずるい」

 

「お前が先に内緒って言ったんだろ」

 

「言ったけど」

 

絢原さんが、ちょっと笑った。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

絢原さんが、参拝の場所を離れる時、私の手を取った。

 

握り方が、さっきと、違った。

 

絢原さんの指が、私の指の間に、最初から、入っていた。絢原さんの方から、絡めて握ってきた。

 

——え。

 

体が、固まった。

 

「混んでる時は、こっちの方がはぐれにくいだろ」

 

絢原さんが、何でもない顔で、歩き出した。

 

——え。

 

——え。

 

——なに、それ。

 

——なに、それ。

 

私は、引かれるように、ついていった。歩いている、という意識が、半分くらいしかない。

 

絢原さんは、たぶん、こう思っている。「こいつは指を絡めて繋ぐのが好きらしい。だったら、最初からこっちで握ってやれば、効率がいい」。それで、最初から絡めた。

 

絢原さんの中では、それだけ。保護者の配慮。気の利いたサービス。それ以上の意味は、絢原さんの中には、ない。

 

私の中では、違うんだけど。

 

頬が、熱い。さっきとは、違う種類の熱。

 

——絢原さんは、これが「恋人繋ぎ」って呼ばれてることを、知らないんでしょ。

 

——知らないまま、自分から、最初に、絡めてきたんでしょ。

 

——それ、ずるくない?

 

——分かってないからこそ、できることでしょ、それ。

 

——でも。

 

——でも。

 

——撃たれた。

 

絢原さんは、それにも気づいていない。歩いている。前を見て。屋台の煙の方を見て。

 

私は、絢原さんに引かれるまま、社務所の方へ歩いた。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

社務所で、おみくじを引いた。

 

おみくじを引く時だけ、絢原さんが、手を離した。

 

——離さないでいいのに。

 

口には出さなかった。「おみくじを引くから」という理由は、正しい。両手を使うから。私は、何も言わずに、絢原さんが手を離すのを受け入れた。

 

絢原さんが先に引いた。紙を開いた。

 

「大吉」

 

「いいなあ」

 

「お前も引け」

 

私もおみくじを買って、紙を開いた。

 

「……末吉」

 

「微妙だな」

 

「微妙すぎ」

 

私は、おみくじをじっと見つめた。

 

「絢原さん」

 

「ああ」

 

「もう一回、引いていい?」

 

「ああ、いいんじゃないか」

 

絢原さんは、何でもないように頷いた。

 

「お前、毎年それやるよな」

 

「だって、末吉嫌じゃん」

 

「気が済むまで引け」

 

絢原さんが、ちょっと面白がるような顔で、私を見ていた。私は、もう一度、おみくじを買った。

 

「中吉」

 

「お、上がったな」

 

「もうちょっと欲しいんだけど」

 

「次は」

 

「もう一回」

 

私は、社務所のおばさんに、もう一度、料金を渡した。おばさんが、ちょっと笑った。

 

「吉」

 

「お、もうちょっとだ」

 

「もうちょっとだね」

 

「お前、ここで止めないだろ」

 

「止めるわけないでしょ」

 

「だろうな」

 

絢原さんは、ため息ではなく、ちょっとした笑みで、私を見ていた。

 

私は、四回目を引いた。

 

「大吉!」

 

紙を、絢原さんに見せた。

 

「やっと引いた」

 

「お前、四回引いてるぞ」

 

「大吉が出るまで引くのが、私のルールだから」

 

「ルールじゃない、ただの執念だ」

 

「ふふん」

 

絢原さんが、ちょっと笑った。それから、ぽつりと言った。

 

「俺、お前のそういうところ、好きだぞ」

 

——。

 

——え。

 

体の中で、何かが、一気に上がった。心臓も、肩も、首も、顔も、全部、温度が一段、跳ね上がった。

 

頬が、また、熱い。

 

さっきの「絡めて握られた」熱がまだ引いていないところに、もう一段、上から重ねられた。

 

——え。

 

——え。

 

——なに、それ。

 

——なに、なに、なに。

 

——ねえ、なんで、そういうこと、さらっと言うの。

 

私は、おみくじの紙を、ぐっ、と握った。手のひらの中で、紙がしわになった。

 

絢原さんは、何でもない顔で、自分の大吉と、私の大吉を、両方、ポケットにしまった。

 

私の方は、見ていなかった。私の顔がどうなっているか、絢原さんは気づかない。たぶん、見ていない。気づくきっかけがない。

 

——気づかないで。

 

——気づかないで。

 

——お願いだから、今は、見ないで。

 

私は、顔を逸らして、社務所の方を見ているふりをした。本当は、何も見ていない。視界の中で、人の影が動いているだけ。

 

絢原さんは、私の方を向いていない。前を向いて、おみくじを結ぶ場所の方を見ている。

 

——よかった。

 

ゆっくり、深呼吸を一回した。冷たい元日の空気が、肺に入った。少し、温度が下がった。少しだけ。

 

絢原さんが、もう一度、私の手を取った。

 

今度も、最初から、指を絡めて。

 

私は、それを、受けた。受けるしかなかった。指を、絡めたまま、絢原さんの手を、ぎゅっ、と握り返した。

 

絢原さんが、ちょっとだけ、私の方を見た。一瞬。それから、何も言わずに、また前を向いて歩き出した。

 

——気づいた?

 

——気づいてない?

 

——もう、どっちでもいい。

 

私は、絢原さんの手を、握り返したまま、坂を下りた。

 

頬の熱は、坂を下りる間に、ゆっくり、引いていった。それでも、絢原さんの言葉は、頭の中で、もう一度、響いていた。

 

——お前のそういうところ、好きだぞ。

 

——犬や猫を可愛がる時の、「いい子だな」と同じ温度で、言ったんでしょ。

 

——絢原さんの中では、それだけ。

 

——でも。

 

——私の中では。

 

私は、握り返した手に、ちょっとだけ、もう一段、力を込めた。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

帰り道。

 

坂を下りながら、屋台の煙が、後ろで遠くなっていく。子供の声が、まだ風に乗って聞こえている。

 

絢原さんは、まだ手を離さなかった。指は、絡んだままだ。

 

帰り道は、もう人混みじゃない。坂の上から下に向かって、人がぱらぱらと散っていく。手を握る理由は、もう、ない。

 

それでも、絢原さんは、離さなかった。

 

——気づいてない。

 

スイッチが、まだ入ったままだ。

 

私は、絢原さんの手を、握り返したまま、歩いている。指の力は、最初より、ちょっと強くなっている。たぶん、絢原さんは気づいていない。気づいていたら、たぶん、もっと前に手を離している。

 

並木道の入り口に着いた。

 

絢原さんが、立ち止まった。

 

それから、思い出したみたいに、私の手を、ようやく離した。

 

「あ……悪い」

 

「ううん」

 

「ずっと握ってたな」

 

私は、首を横に振った。

 

「混んでるとつい、な」

 

「いいよ、別に」

 

絢原さんが、自分の手を、コートのポケットに戻した。何の意味も込めない動作。

 

私の手は、まだ、絢原さんの温度を覚えている。

 

「今年も、長くなりそうだな」

 

「そうだね」

 

「正月の挨拶は、これで終わりだ。明日からは、また調整に入る」

 

「ふーん」

 

「今年も、よろしくな」

 

「こちらこそ、よろしくね」

 

絢原さんは、それだけ言って、トレーナー棟の方へ歩き去った。

 

私は、寮の方へ歩き出した。

 

並木道の途中で、自分の右手の指を、左手で、軽く握った。

 

——温度が、もう、ない。

 

冷たい元日の空気が、私の手を、すぐに冷やしていた。それでも、握られていた感覚は、まだ残っていた。

 

——絢原さんが、いつまでも、ここにいますように。

 

もう一回、念じた。今度は、神様にも届くように。

 

寮の方へ、歩いた。

 

元日の冷たい空気が、頬に冷たい。境内の太鼓の音が、もう聞こえない距離まで来ていた。




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