——Anti-Hero: Curren Moe
一月一日、朝。
寮の窓を開けた。冷たい空気が、頬に当たる。元日の白い空。境内の方角で、太鼓の音が遠く鳴っている。
スマホを確認した。絢原さんからのメッセージ。
『初詣、行くか』
『行く』
返信して、コートを羽織った。
去年も同じやり取りをした。一昨年も。毎年、元日の朝、絢原さんからメッセージが来て、私が返事をして、二人で地元の神社に行く。最初の年に「初詣、行くか」と聞かれた時、絢原さんは「学園の習慣だ」みたいな言い方をした。嘘でしょ、と思った。学園にそんな習慣はない。
それでも、毎年、誘われている。
別に、嫌じゃない。
~
並木道の入口で待ち合わせ。絢原さんは、いつもの黒いコートに、紺のマフラー。元日でも、服装はほぼ平日と変わらない。
「明けましておめでとう」
「明けまして、おめでとう」
短いやり取りで、並んで歩き出した。
地元の神社は、学園から徒歩で十五分。住宅街を抜けた小高い丘の上にある。古い石段、傾いた鳥居、年に一度しか人が来ない社務所。元日の今日だけは、屋台がいくつか出ていて、地元の人が集まっている。
歩きながら、絢原さんは特に何も話さない。私も話さない。それで、いい。隣を歩いているだけで、年が明けた感じがする。
坂道に入ったところで、向こうから家族連れが来た。父親、母親、子供二人。子供のうちの小さい方が、私の顔を見て、目を丸くした。
「あ! モエちゃんだ!」
小学校低学年くらい。手袋をした手で、私を指差している。
「モエちゃん、明けましておめでとう!」
「明けましておめでとう」
私は、軽く手を振り返した。
「今年もテレビで見るからね!」
「うん、応援しててね」
家族が、笑いながら通り過ぎていった。
歩き出して、絢原さんが横で、ぽつりと言った。
「お前、子供にモテるなあ」
「ふふん」
私は、ちょっと胸を張った。
「いいお母さんになれるんじゃない、私」
口が先に動いた。出てきた言葉に、自分でちょっと驚いた。普段なら言わない種類の自信を、口が勝手に喋った。
「ああ、そうだな」
絢原さんが、頷いた。
「お前、世話好きだしな」
——え。
そっちは、肯定するんだ。
私の中で、勝手に発射された言葉に、絢原さんが何の疑問もなく頷いた。私の中の何かが、ちょっとだけ、得意になった。それから、すぐに、別の何かが、皮肉を呟いた。
——絢原さん、それ、誰の隣の話だと思ってるの?
——分かってないんでしょ、たぶん。
絢原さんが、その「お母さん」が誰の隣にいる未来図なのか、絢原さんは想像していない。露ほどもしていない。私が「いいお母さん」になる、それは事実、でも、その隣に絢原さんがいるとは、絢原さんは思っていない。
毎年、知ってる。
だから、私は、自信たっぷりに「いいお母さんになれる」と言える。絢原さんは、何の疑問もなく、肯定する。それで、私の中では、十分。
「ふふーん」
もう一度、鼻を鳴らした。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
鳥居が見えてきた。
境内の方から、人の声が、もう聞こえている。屋台の煙が、冬の空に立ち上っているのが、坂の上から見える。
鳥居をくぐった瞬間、人の波の中に入った。
地元の人で混んでいる。小さな子供、年配の夫婦、家族連れ、若いカップル。参道の両脇に屋台が並んでいて、人の流れが、その間を縫うように歩いている。
絢原さんが、隣で、ちらっと私の方を見た。
「ほら」
短く言って、絢原さんが、私の手を取った。
——え。
私は、固まった。
絢原さんの手は、コートのポケットから出したばかりで、冷たかった。それでも、私の手より、大きくて、しっかりしている。指の節が太い。掌が、私のより、ずっと広い。
絢原さんは、私の手を握ったまま、人の流れの方を見ている。何でもない顔で。
「混んでるからな。はぐれたら厄介だ」
「……別に、はぐれないけど」
「お前、屋台に気を取られてどっか行きそうだから」
「行かないってば」
「行く」
「行かないって」
絢原さんは、私の手を握ったまま、参道を歩き出した。
私は、引かれるように、ついていった。
口では「行かない」と言ったけど、心臓は、もうおかしな動きをしていた。
これまで、絢原さんと並んで歩いたことは、何百回もあった。指先を上着の袖に触らせたことも、数え切れないくらいあった。それでも、絢原さんの方から、私の手を握ったことは、一度もなかった。
——一度も、なかったでしょ。
それなのに、今、絢原さんは、私の手を握っている。「混んでるから」「はぐれたら厄介だ」「屋台に気を取られて」——理由は、全部、絢原さんの中で完結している。私を子供扱いしている、それだけの動作。
絢原さんの中では、それだけ。
私の中では、違う。
耳の裏が、熱くなっている気がする。手を握られているだけ、それだけなのに、体の中の温度が、おかしくなっている。
絢原さんは、何も気づいていない。前を見ている。屋台の煙の向こうの本殿の方を見ている。
少し歩いた所で、私は、ゆっくり、指を動かした。絢原さんの指の間に、自分の指を、一本ずつ、差し込んだ。
絢原さんの指の節が、私の指の付け根に当たる。
絢原さんは、何も言わなかった。
ちょっとだけ、私の方を見た気がしたけど、すぐに前を向いた。「お前、こうやって繋ぐの好きなのか」程度の確認の視線。たぶん、それだけ。
絢原さんは、たぶん、これが「恋人繋ぎ」って呼ばれてることを、知らない。
——知らないでいてよ。
——知らないでいてくれた方が、いいから。
絢原さんの中では、ただの「がっちり繋ぐ」でしかない。それでいい。私の中だけで、別の名前で呼ばせてもらう。
絢原さんは、私の指を絡めたまま、参道を歩き続けている。何でもない顔で。
私は、引かれている方の手の感覚に、全部の意識が持っていかれている。
——絢原さんが、私の手を、握ってる。
——今年。
——元日。
——どうしよう。
頭の中で、何かが、ぐるぐる回っていた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
本殿の前に、参拝の列ができていた。
並んで、五分ほど待った。前の人が二礼二拍手をしている。鈴の音が、冬の空気に乾いて響いた。
絢原さんは、参拝の列に並ぶ間、私の手を離さなかった。指は絡んだままだ。
——離さないで、ずっと。
口には出さない。心の中だけで。
順番が来た。
絢原さんが、ようやく、手を離した。財布から五円玉を出すために。
私の手のひらに、絢原さんの手の温度が、まだ残っている。冷たい空気の中で、その部分だけ、まだ温かい。私は、自分の手のひらを、ぐっと握った。
——あったかいな。
絢原さんが、五円玉を賽銭箱に投げた。
——あ。
絢原さんが投げた五円玉が、賽銭箱の縁に当たって、跳ねた。手前の石畳に、小さく転がっていく音がした。
絢原さんが、ぐっ、と眉を寄せた。
私は、しれっと屈んで、転がった五円玉を拾った。立ち上がって、絢原さんに手渡した。
「絢原さん、毎年、外すよね」
「お前、そういうとこ、よく見てるな」
「だって、毎年、見てるから」
絢原さんは、軽く咳払いをして、もう一度、賽銭箱に投げた。今度は、ちゃんと中に入った。
私も、自分の五円玉を入れた。
二礼二拍手一礼。
絢原さんは、目を閉じて、何かを念じていた。短かった。三秒くらい。
私は、目を閉じて、念じた。
——絢原さんが、いつまでも、ここにいますように。
それだけ。三秒もかからなかった。
頭を上げて、絢原さんの方を見た。絢原さんも、ちょうど目を開けたところだった。
「何、お願いしたんだ?」
「内緒」
「俺も内緒だ」
「なにそれ。ずるい」
「お前が先に内緒って言ったんだろ」
「言ったけど」
絢原さんが、ちょっと笑った。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
絢原さんが、参拝の場所を離れる時、私の手を取った。
握り方が、さっきと、違った。
絢原さんの指が、私の指の間に、最初から、入っていた。絢原さんの方から、絡めて握ってきた。
——え。
体が、固まった。
「混んでる時は、こっちの方がはぐれにくいだろ」
絢原さんが、何でもない顔で、歩き出した。
——え。
——え。
——なに、それ。
——なに、それ。
私は、引かれるように、ついていった。歩いている、という意識が、半分くらいしかない。
絢原さんは、たぶん、こう思っている。「こいつは指を絡めて繋ぐのが好きらしい。だったら、最初からこっちで握ってやれば、効率がいい」。それで、最初から絡めた。
絢原さんの中では、それだけ。保護者の配慮。気の利いたサービス。それ以上の意味は、絢原さんの中には、ない。
私の中では、違うんだけど。
頬が、熱い。さっきとは、違う種類の熱。
——絢原さんは、これが「恋人繋ぎ」って呼ばれてることを、知らないんでしょ。
——知らないまま、自分から、最初に、絡めてきたんでしょ。
——それ、ずるくない?
——分かってないからこそ、できることでしょ、それ。
——でも。
——でも。
——撃たれた。
絢原さんは、それにも気づいていない。歩いている。前を見て。屋台の煙の方を見て。
私は、絢原さんに引かれるまま、社務所の方へ歩いた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
社務所で、おみくじを引いた。
おみくじを引く時だけ、絢原さんが、手を離した。
——離さないでいいのに。
口には出さなかった。「おみくじを引くから」という理由は、正しい。両手を使うから。私は、何も言わずに、絢原さんが手を離すのを受け入れた。
絢原さんが先に引いた。紙を開いた。
「大吉」
「いいなあ」
「お前も引け」
私もおみくじを買って、紙を開いた。
「……末吉」
「微妙だな」
「微妙すぎ」
私は、おみくじをじっと見つめた。
「絢原さん」
「ああ」
「もう一回、引いていい?」
「ああ、いいんじゃないか」
絢原さんは、何でもないように頷いた。
「お前、毎年それやるよな」
「だって、末吉嫌じゃん」
「気が済むまで引け」
絢原さんが、ちょっと面白がるような顔で、私を見ていた。私は、もう一度、おみくじを買った。
「中吉」
「お、上がったな」
「もうちょっと欲しいんだけど」
「次は」
「もう一回」
私は、社務所のおばさんに、もう一度、料金を渡した。おばさんが、ちょっと笑った。
「吉」
「お、もうちょっとだ」
「もうちょっとだね」
「お前、ここで止めないだろ」
「止めるわけないでしょ」
「だろうな」
絢原さんは、ため息ではなく、ちょっとした笑みで、私を見ていた。
私は、四回目を引いた。
「大吉!」
紙を、絢原さんに見せた。
「やっと引いた」
「お前、四回引いてるぞ」
「大吉が出るまで引くのが、私のルールだから」
「ルールじゃない、ただの執念だ」
「ふふん」
絢原さんが、ちょっと笑った。それから、ぽつりと言った。
「俺、お前のそういうところ、好きだぞ」
——。
——え。
体の中で、何かが、一気に上がった。心臓も、肩も、首も、顔も、全部、温度が一段、跳ね上がった。
頬が、また、熱い。
さっきの「絡めて握られた」熱がまだ引いていないところに、もう一段、上から重ねられた。
——え。
——え。
——なに、それ。
——なに、なに、なに。
——ねえ、なんで、そういうこと、さらっと言うの。
私は、おみくじの紙を、ぐっ、と握った。手のひらの中で、紙がしわになった。
絢原さんは、何でもない顔で、自分の大吉と、私の大吉を、両方、ポケットにしまった。
私の方は、見ていなかった。私の顔がどうなっているか、絢原さんは気づかない。たぶん、見ていない。気づくきっかけがない。
——気づかないで。
——気づかないで。
——お願いだから、今は、見ないで。
私は、顔を逸らして、社務所の方を見ているふりをした。本当は、何も見ていない。視界の中で、人の影が動いているだけ。
絢原さんは、私の方を向いていない。前を向いて、おみくじを結ぶ場所の方を見ている。
——よかった。
ゆっくり、深呼吸を一回した。冷たい元日の空気が、肺に入った。少し、温度が下がった。少しだけ。
絢原さんが、もう一度、私の手を取った。
今度も、最初から、指を絡めて。
私は、それを、受けた。受けるしかなかった。指を、絡めたまま、絢原さんの手を、ぎゅっ、と握り返した。
絢原さんが、ちょっとだけ、私の方を見た。一瞬。それから、何も言わずに、また前を向いて歩き出した。
——気づいた?
——気づいてない?
——もう、どっちでもいい。
私は、絢原さんの手を、握り返したまま、坂を下りた。
頬の熱は、坂を下りる間に、ゆっくり、引いていった。それでも、絢原さんの言葉は、頭の中で、もう一度、響いていた。
——お前のそういうところ、好きだぞ。
——犬や猫を可愛がる時の、「いい子だな」と同じ温度で、言ったんでしょ。
——絢原さんの中では、それだけ。
——でも。
——私の中では。
私は、握り返した手に、ちょっとだけ、もう一段、力を込めた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
帰り道。
坂を下りながら、屋台の煙が、後ろで遠くなっていく。子供の声が、まだ風に乗って聞こえている。
絢原さんは、まだ手を離さなかった。指は、絡んだままだ。
帰り道は、もう人混みじゃない。坂の上から下に向かって、人がぱらぱらと散っていく。手を握る理由は、もう、ない。
それでも、絢原さんは、離さなかった。
——気づいてない。
スイッチが、まだ入ったままだ。
私は、絢原さんの手を、握り返したまま、歩いている。指の力は、最初より、ちょっと強くなっている。たぶん、絢原さんは気づいていない。気づいていたら、たぶん、もっと前に手を離している。
並木道の入り口に着いた。
絢原さんが、立ち止まった。
それから、思い出したみたいに、私の手を、ようやく離した。
「あ……悪い」
「ううん」
「ずっと握ってたな」
私は、首を横に振った。
「混んでるとつい、な」
「いいよ、別に」
絢原さんが、自分の手を、コートのポケットに戻した。何の意味も込めない動作。
私の手は、まだ、絢原さんの温度を覚えている。
「今年も、長くなりそうだな」
「そうだね」
「正月の挨拶は、これで終わりだ。明日からは、また調整に入る」
「ふーん」
「今年も、よろしくな」
「こちらこそ、よろしくね」
絢原さんは、それだけ言って、トレーナー棟の方へ歩き去った。
私は、寮の方へ歩き出した。
並木道の途中で、自分の右手の指を、左手で、軽く握った。
——温度が、もう、ない。
冷たい元日の空気が、私の手を、すぐに冷やしていた。それでも、握られていた感覚は、まだ残っていた。
——絢原さんが、いつまでも、ここにいますように。
もう一回、念じた。今度は、神様にも届くように。
寮の方へ、歩いた。
元日の冷たい空気が、頬に冷たい。境内の太鼓の音が、もう聞こえない距離まで来ていた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。