11月、京都レース場。
パドックへ続く通路を抜けると、秋の日差しが目に入った。人垣の向こうで、出走するウマ娘たちがゆっくりと歩いている。俺は手に持っていた上着を畳み直し、その中から白い髪を探した。
モエは、ちょうどこちらへ向かってくるところだった。顎を引き、前を歩く相手との間隔を保っている。肩の動きにも、脚の運びにも硬さは見えない。観客から名前を呼ばれると顔を上げたが、軽く手を振っただけで、すぐに進行方向へ目を戻した。
「いい顔をしているねえ」
隣から聞こえた声に振り向くと、白衣の裾が揺れていた。アグネスタキオンが、長い袖から指を覗かせている。
「来てくださったんですね」
「あれだけ映像を見せられたんだ。続きくらい、直接見たくなるさ」
いつものように笑ってから、彼女はパドックへ向き直った。モエの姿を見つけると、目だけでしばらくその動きを追う。
ファンタジー・ステークス。京都の芝1400mで行われる、GⅢのレースだ。
年末に目指す阪神ジュベナイルフィリーズは1600m。その前に、ここで1400mを使うことを、秋の練習を見ながら決めた。新潟から延ばす距離は200mだが、それを軽く口にできるほど、これまでの負け方を忘れてはいない。
タキオンの協力を得てから、モエの練習は変わった。
長く走らせることに気を取られ、崩れた動きを何度も繰り返させていた。それを短い区間に分け、まだ脚が動くうちに、速く走る時の姿勢を確かめるようになった。補強運動やプールを組み合わせ、芝で強く踏み続ける日を詰め込みすぎないようにもした。
すぐに成果が出たわけではない。息の吐き方を気にするあまり肩が固まり、モエから「走りながら全部考えろって、無理だよ」と怒られたこともある。教える側が欲張りすぎていた。
それでも、夏の映像と並べると違いが分かるようになってきた。疲れてきても上体が先へ倒れ込まず、強く踏んだ脚を次の1歩へ戻せるようになっていた。練習を終えたモエが、膝へ手をついたまま「あそこから、もう少し行けた」と言った日には、俺も映像を確かめる前に頷いていた。
速さを落として、楽に走れるようになったわけではない。全力のまま走る彼女を、少しずつ長く支えられるようになってきた。
その変化が、重賞でどこまで通用するか。
「君の方が、よほど肩に力が入っているよ」
タキオンに言われ、俺は上着を握り直していた手を緩めた。
「……そう見えますか」
「見えるとも。そろそろ本人が戻ってくる。そんな顔で送り出すつもりかい?」
言われるまでもなかった。俺は息を吐き、通路の方へ回った。
近くで見ると、モエの額には薄く汗が浮いていた。歩きながら体操着の裾を直し、俺とタキオンを交互に見る。
「本当に来たんだ、タキオンさん」
「君こそ、今日の感想を忘れないでくれたまえよ。帰ったら聞きたいことが山ほどある」
「まだ走ってないんだけど」
「だから、これから増えるんだ」
モエが呆れた顔をした。タキオンは少しも気にせず、先に観戦場所へ向かった。
俺はモエに、足元や呼吸に気になるところがないかを確かめた。彼女は短く答え、コースへ続く通路を見た。
「さっき、1番人気の子と目が合った」
黒髪を高い位置で結んだウマ娘だ。体操着の胸元には、ゼッケンが留められている。前走の映像を、モエと一緒に見ている。前が速くなってもつられず、直線では外へ出して確実に差を詰めてくる。今日は俺たちの走りも、十分に調べているはずだった。
「何か言われたか?」
「ううん。こっち見て、頷いただけ。……最後まで追いかけてくるんだろうね」
「来ると思う。新潟の時より、ずっと近くにいるはずだ」
モエは口を結んだ。少しの間、通路の向こうを見ていたが、やがて俺へ視線を戻した。
「後ろが近くても、振り向かない。下りで身体を投げ出さない。苦しくなっても、前に突っ込みすぎない」
昨日、最後に確かめたことだった。
「他には?」
俺は首を振った。
「もう付け足さない。十分に練習した」
「……うん」
その返事の後も、モエはすぐには行かなかった。髪の先を揺らす風が、俺たちの間を通った。
「1400、走れたねって、それだけで喜ばないでよ」
声を落として言った彼女へ、俺は頷いた。
「分かっている。勝ちに来たんだ」
モエの口元が、僅かに上がった。
「じゃあ、行ってくる」
通路へ踏み出した背中を見送った。白い尻尾が揺れ、その姿が角を曲がって見えなくなるまで、俺はそこに立っていた。
~~
ゲートの奥から、コースを見た。右へ曲がるずっと先に、あのゴール板がある。下見で歩いた時には随分遠く感じたのに、走り出せば、そこへ着くまでのことしか考えられなくなる。
隣で靴底が芝を擦った。金属の小さな音がして、それきり静かになる。
私は指を軽く開き、握り直した。
新潟を走った後、1400なら平気だなんて言う人もいた。あれだけ離して勝てるなら、200mくらい伸びても問題ないだろう、と。
問題あるよ。あの後にまだゴールがなかったら、私がどうなっていたか。東京でも、福島でも、嫌になるほど見たはずなのに。
肩が上がりかけているのに気づき、息を吐いた。掌を太腿に当て、身体を前へ傾ける。
1400m先の、あのゴールを誰よりも早く通り抜ける。昨日から繰り返し思い描いた自分の姿を、もう1度だけ、頭に浮かべた。
ゲートが開いた。
踏み込んだ脚から身体が弾け、耳元で風が鳴った。左右にいたはずの白い体操着が、数歩で視界から消える。前は空いている。私はそのまま腕を振り、芝を蹴った。
「カレンモエ、飛び出しました! 今回も先手を取っていきます!」
実況の声はすぐに後ろへ流れ、頬を叩く風が目尻を引っ張った。脚を出すたびに景色が動き、身体の奥で何かが喜んでいる。速い。もっと行ける。そんな感覚に引かれるように、踏み込みが強くなった。
後ろには、足音があった。新潟の時にはあっという間に遠ざかった音が、今日はいつまでも消えない。右後ろから1つ、すぐ外にも、もう1つ。先頭を取られたままでいいとは思っていないらしい。
来るなら、来ればいい。
私は前を見たまま、内の柵に沿って走った。誰かに合わせて脚を突っ張らせれば、また自分の走りが分からなくなる。スタート前に決めたとおり、空いている前を使う。
やがて、すぐ後ろの音が少し離れた。耳を澄まさなくても聞こえる距離に、まだついてきている。
第3コーナーへ向かう坂が、目の前に迫ってくる。平らなところと同じつもりで踏んだ脚に、重さが乗った。胸が前へ出かけるのを腹で支え、腕を後ろへ引く。
坂道は嫌いだった。練習で何度も、上体ばかり先へ行くと言われた。疲れてくると尚更で、早く上へ辿り着こうとするほど脚が後ろへ残り、余計に苦しくなる。
今も、頂上を見た途端に急ぎたくなった。遠くへ脚を投げようとせず、身体の下で踏む。その感覚を探しながら坂を上がるうちに、口の中が乾いてきた。ひと息ごとに喉が擦れる。後ろの足音が、また近くなった気がした。
振り向かなかった。
坂を越えると、足元の傾きが変わった。身体が前へ運ばれ、着いた脚に勢いが掛かる。気持ちよく飛び出してしまいそうになるが、その先で次の脚が間に合わなくなるのは、何度も味わっていた。
脇を締め、身体を支える。足元へ視線を落とさず、曲がっていく柵の先を追った。
外から、短い栗毛を揺らしたウマ娘が見えた。スタートの後から追ってきていた子だ。坂の下りで差を詰め、そのまま私の肩へ迫ろうとしている。
息遣いまで聞こえる距離に迫られ、私は奥歯を噛んだ。
ここで前へ入られたら、走る場所を探さなければならない。脚を緩め、また踏み直すことになる。そんな余裕がどこにある。
柵との間隔を保ち、自分の進路を曲がる。胸元まで上がっていた腕を後ろへ引き、次の1歩を踏み込んだ。
短い栗毛が、視界の端で揺れた。直線へ向けて身体を起こし始めても、まだ外に張りついている。
「カレンモエに並びかけて、第4コーナー! 後続も差を詰めてきた!」
直線へ出ると、突然、スタンドが近くなった。歓声が身体に当たる。広がったコースの奥にはゴール板が見えるのに、まだ、こんなにある。
脇腹が重かった。脚を上げるたびに腹の奥が引き攣れ、吸った息が胸に足りない。私は口を開け、詰まりかけていた息を吐いた。そこへまた空気を入れ、前へ脚を出す。
隣の子の肩が、少し後ろへずれた。相手の靴音が乱れ、追いかけてきた勢いが鈍っていく。私はその隙に、もう1歩前へ出た。
――離れた。
そう思った途端、さらに外で別の足音がした。まだ遠いが、間隔が揃っている。こちらがひと息ずつ喘いでいる間にも、その音は迷わず近づいてきた。
パドックで目を合わせた、あの子だろうか。高く結んだ黒髪と、静かな顔を思い出す。私が逃げ続け、後ろの子が追い続けている間に、もっと後ろで脚を残していた相手がいる。
「外から来た! カレンモエ、まだ先頭ですが、外から一気に差を詰めてくる!」
残り200m。その標識を通り過ぎた時、太腿が重くなった。
嫌な感触だった。踏んだはずの脚が、思ったほど前へ身体を運んでくれない。次を急ぐと、上体ばかりが先へ出ようとする。
止まりたくない。
その一言が喉の奥に引っ掛かり、東京の直線が頭をよぎった。次々と背中を見送って、脚を動かしているのに、周りだけが遠ざかっていった。あんなふうに置いていかれるのは、もう嫌だ。
肩へ力が入り、振っている腕まで詰まりかけた。私は歯の間から息を押し出した。前へ倒れ込みそうな身体を支え直すと、まだ脚を戻せた。苦しいままでも、次を踏める。
練習の終わりに、何度もここまで疲れた。身体が傾き始めたところで止められ、悔しくて言い返した日もあった。そのたびに、どこから崩れていたかを画面で見せられた。
分かってるから、今、崩れないで。
腕を引き、脚を出した。靴底が芝を叩く。着いた脚を潰さずに、次へ運ぶ。1歩ごとに胸の奥が軋んでも、脚はまだ私の下にあった。
外の足音が近づき、残り100mで、あの黒髪が右の視界に入った。やっぱり、あの子だった。
速い。同じところまで走ってきたはずなのに、どうして、まだそんなに脚が伸びるの。
相手の腕が見え、横顔が見えた。口を大きく開け、眉を吊り上げている。パドックでの静かな顔は、もうどこにもなかった。
向こうも必死だった。私を抜くために、全身を使って走っていた。
「っ、あ……!」
声にならない息が漏れた。身体を捻って逃げたくなるのを堪え、正面のゴール板へ目を据える。
右に伸びた脚が、私の脚と重なる。
追いつかれる。
「渡さ、ない……!」
自分の声が、酷く掠れていた。踏んだ脚も、息を吸う胸も痛い。それでも、次の1歩を出した。隣の肩が前へ動き、私はそこへ食らいつくように腕を振った。
あと少しだ。目の前にある、あそこまで行けばいい。
顔を上げる余裕も、相手の位置を確かめる余裕もなかった。ゴール板を目指して身体を運び、脚が地面から離れた瞬間に、また次の着地を探す。
すぐ隣で鋭い声が上がり、私も叫んでいた。
ゴール板が視界の端を走り抜けるまで、どちらの声も途切れなかった。
~~
「残せッ、モエ!!」
叫んだ声が掠れた。2つの姿がゴール板の前を通り過ぎ、俺は柵を掴んだまま、そこから動けなかった。内にモエ。外に黒髪のウマ娘。最後に重なった肩が、どちらのものだったのか分からない。
「どうだ……?」
隣で、タキオンがストップウォッチから指を離した。
「際どいね。あの角度では、私にも」
いつもなら続くはずの言葉が、そこで止まった。彼女もビジョンを見上げていた。
写真判定。
表示を見て、俺はようやく柵から手を離した。指が強張り、すぐには開かなかった。
追いつかれると思った。直線に入った時には、まだ先頭だった。外から並びかけた相手を退けた時、勝てるかもしれないと身を乗り出した。そこへ、あの1番人気が来た。
残り200mで、モエの身体が沈んだ。夏までなら、そこから一気に脚が動かなくなっていた。俺は同じ光景を恐れ、声も出せずに見ていたのに、モエは前へ踏み続けた。崩れかけた姿勢を持ち直し、追ってくる相手へ最後まで抵抗した。
ビジョンに、ゴール前の映像が流れる。外の脚色がいい。並びかけられてからも、モエは腕を振り続けている。ゆっくりと再生される映像の中で、重なった2つの姿がゴール板を通り過ぎた。
モエが残っているように見えた。だが、観客席から見るのと似た角度の映像で、断言できなかった。俺は掲示板へ目を移し、まだ変わらない表示を睨んだ。
「……最後まで、走りましたね」
自分の口から出た言葉に、送り出す前の会話を思い出した。
それだけで喜ばないでよ。
分かっている。俺だって、走れたからよかったと、今のレースを終わらせたくはなかった。
「ああ。最後まで勝とうとしていた」
タキオンが答えた。
コースの先で、モエはまだ歩いていた。大きく肩を上下させ、時々、顔を上げて掲示板を見る。隣には、あの黒髪のウマ娘がいた。近くを歩きながら、やはり同じ場所を見上げている。
長かった。時計では、どれだけ経っていたのか。もう決まった結果を待っているだけなのに、レースの続きを見せられているようだった。
掲示板が変わった。1着の欄に、モエの番号が入る。
俺は瞬きもせず、それを見た。2着の欄が埋まっても、まだ目が動かなかった。
「カレンモエ、接戦を制しました! ファンタジーステークス、重賞初制覇です!」
歓声が膨れ上がった。
「……勝った」
声に出してから、もう1度、掲示板を見た。
モエが、1400mの重賞を勝った。
タキオンの袖が俺の腕に触れた。
「おめでとう、絢原君」
俺は返事をしようとして、うまく声が出なかった。頭を下げると、彼女は小さく笑って、コースを指した。
モエが、黒髪のウマ娘と何か言葉を交わしていた。それからスタンドへ顔を上げる。遠すぎて目が合ったかどうかは分からない。それでも、俺たちがいる方を探しているのは分かった。
俺は手を上げた。
モエの右腕がゆっくりと持ち上がり、握った拳が肩より少し高いところで止まった。汗で頬に貼りついた白い髪も、そのままだった。大きく息を吐き、唇を結んで、こちらへ拳を向けている。
やってやった。そう言いたげな顔に、俺は堪え切れず笑った。
「ああ、見てたよ」
届くはずのない距離へ返しながら、手を振った。
モエはもう1度だけ拳を持ち上げ、腕を下ろした。係員に声をかけられると頷き、出口の方へ歩き始める。俺も鞄を掴み、席を離れた。
通路へ出るところで、タキオンが後ろから声をかけてきた。
「走って迎えに行って、君まで息を切らさないようにね」
俺は足を緩めた。急いでいた自覚がなかった。
「……すみません。今日の走りのことも、後で聞かせてください」
「もちろん。今は、本人のところへ行きたまえ」
礼を言って、階段を下りた。
迎えに出た通路には、関係者が行き交っていた。俺は壁際へ寄って待ち、やがて近づいてきた白い髪へ手を上げた。
モエは、俺を見つけると少しだけ歩く速度を上げた。だが、途中で顔をしかめ、すぐに元へ戻す。
「急がなくていい」
こちらから近づき、用意していたタオルを渡した。
モエはそれを受け取り、顔を覆った。肩が大きく上下している。俺が脚の具合を尋ねると、タオルの向こうから返事があった。
「両方、重い。最後、全然上がらなくて……でも、どこか変に痛いとかはない」
「分かった。向こうで休もう。診てもらう時にも、そのまま伝えてくれ」
彼女は頷き、タオルを下ろした。目元が赤かった。泣いているのかと思ったが、汗を拭った顔を覗き込む前に、モエの方から言った。
「見た?」
「見た」
「最後。抜かれそうになったとこ」
「ああ。最後まで見ていた」
モエは唇を噛み、俺の顔をじっと見た。こちらも何か言わなければと考えたが、準備していたはずの言葉は、ひとつも出てこなかった。
「勝ったな、モエ」
結局、それだけ言った。彼女の口元が歪んだ。笑おうとして、先に息が漏れたようだった。
「……うん」
握ったタオルを、胸元へ引き寄せる。
「勝った」
声が震えた。俺は頷いた。もう1度何か言えば、こちらまで声が震えそうだった。
モエはタオルで目元を押さえ、少し俯いたまま、隣へ並んだ。歩き出す時に肩が触れたが、顔を上げずにそのままついてきた。
「……今日の映像、帰ったら見せて」
「何度でも」
「変なとこで止めないでね。まず、全部見るから」
俺は頷き、彼女の歩幅に合わせて歩いた。
モエはタオルを首へ掛けた。通路の先から、まだ、自分の名前を呼ぶ歓声が聞こえている。その方へ一度顔を向けてから、俺へ言った。
「あの子、速かったね」
「速かった。よく凌いだよ」
「うん。……ほんと、危なかった」
そう言って、ようやく笑った。
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