アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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11話 ファンタジー・S

11月、京都レース場。

 

古都の秋を彩る紅葉はまだ色づき始めといったところだが、ターフの上には既に熱っぽい空気が漂っていた。

 

ファンタジー・ステークス。芝1400メートル、GⅢ。

 

年末の2歳女王決定戦「阪神ジュベナイルフィリーズ」へ向けた重要なステップレース。カレンモエにとっては、自身の運命をねじ伏せるための最初の一歩となる舞台だ。

 

パドック。出走するウマ娘たちが準備運動をしたり集中を高めたりしている中、一人のウマ娘がランウェイの先端へと進み出た。

 

「落ち着いてるな」

 

フェンス越しに彼女を見守りながら、俺は小さく独り言ちた。スポットライトを浴びるように堂々と立つ芦毛の少女。

 

前回の未勝利戦のような凍りつく虚無感はない。デビュー戦のような悲壮な焦燥感もない。ただ静かに燃えている。内側にある怪物を理性という鎖で繋ぎ止めているような、研ぎ澄まされた緊張感。

 

「フフッ。データ通り、仕上がりは上々だねぇ」

 

隣で白衣を白衣とも思わない着崩し方をしたウマ娘が笑った。アグネスタキオン。薄暗い理科準備室に引きこもっている彼女がこうして日の当たる競馬場に出てくること自体が異常事態である。

 

「わざわざ見に来るとはな。自分の実験の成果がそんなに気になるか?」

 

「心外だね。私はいつだって、ウマ娘という生命の可能性に敬意を払っているよ」

 

タキオンは手にしたペットボトルの水を弄びながら言った。ただの水のはずだが、彼女が持つと怪しい実験薬に見えるから不思議だ。

 

「全力でしか走れない体。出力の中間域が存在しない。だから1200メートルで燃料が尽きて止まる。本来なら、それ以上の距離はどうあがいても走れないはずの欠陥品(マスターピース)だ。それに私が授けた理論というプログラムを組み込んだ。気にならずにいられるかい?」

 

「相変わらずだな」

 

俺は苦笑した。デリカシーという概念が欠落している。だが彼女の協力がなければ今日の出走はなかった。

 

「1400メートル。たった200メートルの延長だ」

 

コースに視線を移した。

 

「だがこの子にとって、たった200メートルは壁じゃない。崖だ」

 

全力で走り続ければ1200メートルで燃料が切れる。ギアを落として巡航すれば、存在しないギアを探して体がバラバラになる。そのどちらでもない走り方を、この一ヶ月で体に叩き込んだ。

 

全力の持続時間を引き延ばす。呼吸法で燃費を改善し、体幹を強化して走行効率を上げる。タキオンの理論と、モエの意志で、1200メートルの壁を200メートルだけ後ろへずらす。

 

それが今日の作戦であり、賭けだ。

 

場内アナウンスが響く。俺は双眼鏡を構えた。

 

頼む。練習通りに。あの日誓った言葉を、ここで証明してくれ。

 

 

 

~~

 

 

 

ゲートの中。狭い空間に閉じ込められた私は、自分の呼吸音を聞いていた。

 

吸って、吐く。吸って、吐く。

 

タキオンさんに叩き込まれた特殊な呼吸法。肺をただの酸素タンクとして使うのではなく、全身の熱を逃がすラジエーターとして機能させるイメージ。

 

「君のエンジンは熱を持ちすぎる。だから意識的に冷却させるんだ」

 

あの変人科学者の言葉が脳裏をよぎる。

 

心臓がうるさい。内の黒い猫が「早く走らせろ」と悲鳴を上げている。体の中にいるスプリンターの血が、鎖を引きちぎろうと暴れている。

 

——よしよし。いい子だね。

 

心の中で、暴れる本能を撫でてやった。未勝利戦の時は、この本能を憎んでいた。自分を操る忌まわしい呪いだと。

 

でも今は違う。これは私の武器だ。ママから受け継いだ、誰にも負けない最強の剣だ。捨てるんじゃない。使いこなすんだ。

 

ゲートが開いた。

 

ドンッ。地面を叩く感触。相変わらず、私のスタートは異常なほど強い。意識しなくても体が勝手に反応して、他のウマ娘たちを置き去りにしていく。

 

「出た! カレンモエ、好スタート!」

 

実況の声が遠く聞こえる。

 

先頭に立った。誰も前にいない。視界を遮るものは何もない。

 

このまま踏み続ければ、きっと気持ちいいだろう。未勝利戦の時のように、何も考えずに風になれるだろう。

 

けれど。

 

——ここじゃない。

 

奥歯を噛み締めて、踏み込みたい衝動をねじ伏せた。スピードを殺すのではない。全力で踏むタイミングを、ほんの数秒だけ遅らせる。体には全力か停止しかないけれど、「いつ全力を入れるか」は私の意志で決められる。それがタキオンさんとトレーナーが教えてくれた唯一の制御方法だった。

 

1ハロン通過。ラップ12秒フラット。速い。けれど暴走ではない。

 

息を吐く。長く、鋭く。体の中に溜まる熱を呼気と共に外へ捨てる。

 

——まだ。まだだよ。

 

背後からライバルたちの足音が聞こえる。ファンタジーSは重賞だ。未勝利戦とはレベルが違う。

 

恐怖がないと言えば嘘になる。抜かれたくない。負けたくない。その恐怖が私を逃げへと駆り立てようとする。

 

「信じろ、モエ」

 

トレーナーの声が記憶の中で響く。

 

「君の力なら、いつでも突き放せる。だから今は我慢だ。相手に合わせるな。自分のリズムだけを刻め」

 

あの人の真面目くさった顔。プロテインを見てニヤニヤしていた変な顔。でも、私を信じてくれている真っ直ぐな目。

 

——分かってるよ、トレーナー。

 

視線を前方の一点に固定したまま、第3コーナーの坂を登り始めた。

 

苦しい。肉体的な苦痛ではない。「走りたいのに走れない」という精神的な飢餓感が内側から食い荒らしていく。全力で踏みたい体を、意志の力だけで抑えている。目の前にご馳走をぶら下げられたまま「待て」をされている犬の気分だ。

 

——意地悪なトレーニングばっかりさせるから。

 

この一ヶ月、本当に地獄だった。ひたすらゆっくり走るLSD。息を限界まで止めて行うプール練習。タキオンさんの怪しいドリンク(でも効く)と、容赦ないデータ分析。

 

「君の肺活量は十分だ。だが使い方が雑すぎる」

「低酸素マスクをつけて走りたまえ。肺が焼ける感覚、それが酸欠のサインだ」

「脳がもう無理だと叫んでも無視しろ。それは君の脳が作り出した幻影だ」

 

全てはこの1400メートルという通過点を踏破し、その先の景色に辿り着くため。

 

坂の頂上。ここから下り。重力が味方になり、勢いが自然と乗ってくる。

 

体が勝手に加速しようとする。下りの勢いに乗せて、全開で踏み込もうとする。あまりにも甘美な誘惑。

 

——ダメ。

 

自分の心に制動をかけた。ここで爆発させたら終わる。ラスト200メートル。あの魔の空白地帯を走り切るための燃料を、一滴たりとも無駄にはできない。

 

「カレンモエ、粘る! 後続が迫るが、まだ先頭を譲らない!」

 

第4コーナーを回り、直線へ。コースが広がり視界が開ける。進行方向のターフビジョンが目に入った。

 

そこに映し出された自分の姿。苦しそうな顔をしているかと思った。違った。

 

獲物を狙う肉食獣のような、ギラギラとした目をした私が大写しになっていた。笑ってはいない。悲壮感もない。ただ勝利に飢えた獣が、鎖に繋がれたまま喉を鳴らしている。

 

——悪くない顔してるじゃん。

 

少しだけ自分に見惚れた。「カレンチャンの娘」としての愛らしい顔じゃない。泥臭くて、必死で、可愛げのない顔。でもこれが今の私だ。

 

「さあ、直線だ!」

 

目の前に広大な緑の絨毯が広がる。

 

ここからは誰も助けてくれない。タキオンさんの理論もトレーナーの作戦も、ここまでの道筋を示すものでしかない。最後の一押しは私自身が絞り出すしかない。

 

「来なさいよ」

 

背後に迫るライバルたちの気配を感じながら、小さく呟いた。

 

「私の背中は、そう簡単には捕まえさせないから」

 

体の中でずっと息を殺していた黒い猫が、猛然と飛び出した。本能が解放される。

 

残り300メートル。ここからが本当の戦いだ。

 

——行け。

 

自分に命令した。溜めに溜めたエネルギーが一気に爆発する。

 

風の音が変わった。景色が流れる速度が変わった。私の体は再び「閃光」となって京都のターフを切り裂き始めた。

 

だがそれと同時に、足元に見えない影が忍び寄ってくる。

 

「1200メートルの壁」。全力でしか走れない私の体が、燃料を使い果たすライン。そこを超えた瞬間、世界が反転する。

 

足が重くなる。肺が焼ける。視界がチカチカと明滅する。

 

タキオンさんの呼吸法は、この死神を消し去ることはできない。ただ、出会う時間を少しだけ先延ばしにしただけだ。

 

——知ってるよ、この痛み。

 

デビュー戦で味わった絶望。未勝利戦で味わった屈辱。フラッシュバックする。

 

——でも。

 

歯を食いしばった。

 

——あの時とは違う。

 

もう逃げていない。「どうせ無理だ」なんて思っていない。この痛みを受け入れて走っている。

 

「勝つんだ!!」

 

叫びは大歓声にかき消された。けれど確かに私の耳には届いた。

 

右後ろから足音が迫る。1番人気の強豪が猛烈な末脚で追い込んでくる。並ばれる。かわされる。

 

いや、まだだ。まだ私の足は死んでいない。

 

「お願い、動いて!」

 

最後の力を振り絞り、地面を叩いた。前に。少しでも前へ。

 

ゴール板が迫る。隣の影が並ぶ。意地と意地のぶつかり合い。

 

そして——

 

私は光の中に飛び込んだ。

 

 

 

~~

 

 

 

スタンドの関係者席。俺は手すりを握りしめて叫んでいた。

 

「残せッ!!」

 

隣のタキオンは冷静にストップウォッチを見つめているが、瞳孔は興奮で見開かれている。

 

「素晴らしい。ラスト2ハロン、11秒8、12秒2」

 

早口で呟いた。

 

「失速率が劇的に改善されている。呼吸法の定着と、全力の持続時間の延長。予想以上の成果だ」

 

「理屈はどうでもいい。勝ったのか?」

 

「際どいねぇ。だが彼女の執念が、理論値をわずかに上回ったように見えたよ」

 

一瞬だけ、タキオンがタブレットに目を落とした。今日のレース中の荷重データ。何かを確認するような視線。だがすぐに顔を上げて、ニヤリと笑った。

 

場内がどよめきに包まれる中、掲示板に「写真判定」の文字が灯る。長い沈黙。

 

俺は祈るようにビジョンを見つめた。スローモーションのリプレイ。内側のカレンモエ。外側のライバル。二人の鼻先がほぼ同時にゴールラインを通過している。

 

だが。モエの鼻先がわずかに、本当にわずかに前に出ていた。

 

「1着、カレンモエ!」

 

確定のアナウンスが響いた瞬間、俺は全身の力が抜けてその場にへたり込みそうになった。

 

「やった」

 

「おめでとう、トレーナー君。君の勝ちだ。いや、彼女の勝ちだね」

 

タキオンがポンと肩を叩いた。

 

ターフの上。ウイニングランへ向かうモエがモニターに映し出される。空を仰いで肩を揺らして、大きく息を吐いていた。そしてスタンドの俺たちの方を向いて、小さく、けれど力強く拳を突き上げた。

 

笑顔はない。涙もない。あるのは「やってやったぞ」という不敵で誇らしげな表情だけ。

 

かつての「カレンチャン」の再来でもなければ、未勝利戦の時の虚無でもない。紛れもない「カレンモエ」という一人のウマ娘の顔だった。

 

「最高にカッコいいよ、モエ」

 

目頭が熱くなるのをこらえながら、手を振り返した。

 

1400メートル。第一関門を突破した。だが本番はこれからだ。マイルという未踏の領域が、俺たちを待っている。




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