アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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(世界)女王編
86話 半バ身


 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

芝の上で、わたしの脚は、いつもより深く沈んでいた。

 

第三コーナー手前。先頭。香港から帰ってきて、初めての国内戦。それが、シルクロードS。中京、芝、千二百メートル。今、その中盤でわたしは苦戦していた。

 

スタンドからの歓声は止まらない。「カレンモエ!」「世界女王、行け!」。だが、その歓声の質が、いつもと違った。「行ける」じゃなくて「行ってくれ」という色が、薄く混ざっていた。観客もわたしの脚の重さを感じ取り始めている。

 

——重い。

 

頭の隅で、その感覚が、貼り付いている。

 

香港の最終直線で、地元の女王を最後の最後に抜き去ったあの脚。あれが、わたしの脚。それが今日、いつもより深く芝の上に沈んでいた。

 

——でも、考えるのは、後。

 

頭の中で、自分に言った。走っている最中に、考えても仕方がない。脚が重い、それは事実。その上で、勝ちにいく。

 

加速がいつもより、ワンテンポ遅い。一段目、二段目、三段目のリズムが、いつもと違う。スタンドからの「あれ?」が、レースが進むにつれて、増えていた。

 

第三コーナーを、回った。

 

——後ろから、来てる。

 

蹄の音が、近づいていた。

 

ちらり、と、横目で確認した。

 

長身の影が、内ラチ沿いから、上がってきていた。栗毛の長い髪を、後ろで一つにまとめている、ちょっと痩せた体型。バリアブルサイト。

 

——あの人か。

 

頭の中で認識した。パドックで目が合ったベテラン。GⅢを三回勝っている、引退間近のスプリンター。最後の一花を狙っている目だった、あの人。

 

絢原さんが、出走前に、言っていた。「ペース配分が、お前とは違う。前半で力を使わず、最後の直線で、ぐっ、と上げてくる、タイプ」。

 

その通りだった。バリアブルサイトは前半、四、五番手にいた。先頭のわたしを無理に追わなかった。第三コーナー過ぎから、ぐっ、と上げてきた。

 

——詰まる。

 

第四コーナーへの入りで、もう一段加速したい場面だった。いつもの脚ならここで、ぐっ、と一段上がる。第四コーナーを、芝の上の小さな円を描くように回って、最終直線に向かって勢いをつける。

 

今日のわたしの脚は、それが、できなかった。

 

第四コーナーを、回った。

 

——半身、いや、首差。

 

バリアブルサイトが、わたしの右後ろから、迫っていた。

 

最終直線。

 

中京の最終直線は、四百メートルちょっと。一気に駆け抜けるには長い。スプリンターにとっては勝負どころが、ここで終わる場所。

 

スタンドからの歓声が、一気にこちらに集中した。「カレンモエ!」「行け!」「世界女王!」。だが、その歓声の中に、悲鳴に近い色が、混ざり始めていた。「並ばれてる!」「抜かれる!」。

 

——抜かれる。

 

頭の中で、その認識が、立ち上がった。

 

——いやだ。

 

そう、思った。

 

——負けたくない。

 

残り、二百メートル。

 

バリアブルサイトが、横に並んだ。

 

——並ばれた。

 

長身の体がわたしの隣で、淡々と走っていた。表情は変わらない。落ち着いた目で、前を見ていた。GⅢを三回勝った経験。最後の一花を狙う覚悟。その全部が今、わたしの隣で形になっていた。

 

絢原さんの声が、頭の中で、再生された。

 

「最後の最後、必要なら、本来の脚を、出していい」。

 

——出す。

 

残り、百五十メートル。

 

わたしは、抑えるのを、やめた。

 

香港の重い洋芝で、噛み合った形。あれを、ここで、解放した。踏み込みを、深く。地面を、「蹴る」じゃなくて、「押す」。

 

——本来の脚。

 

体の中で、何かが、ぐっ、と深く入った。

 

芝が、靴の下で、ずるっ、と沈んだ。表面の繊維が、ささくれ立つ感覚。あの、抉れる感覚。

 

許容した。

 

——抉れろ。

 

頭の中で、自分に言った。

 

今日のレースは、本番じゃない。試金石。データ取り。芝が抉れることを許容するなら、出力を絞らない選択肢があると、絢原さんが出走前にそれを置いてくれていた。

 

残り、百メートル。

 

加速が、もう一段、上がった。

 

バリアブルサイトの横顔が視界の隅から、少しずつ後ろにずれていった。半身、いや、もう首差で、わたしが前に。

 

——でも。

 

息が、上がってきていた。スタミナが、底に近づいていた。

 

香港の千二百メートルを走り切ったわたしの体力なら、ここのシルクロードSも、本来、余裕で走り抜けられる距離だった。それが、今日は、違った。

 

ラスト百五十メートルで、体の中の燃料を、一気に最終燃焼させた。それで、エネルギー切れ寸前まで、体を持っていった。

 

——あと、五十メートル。

 

息がひゅう、と喉の奥で鳴った。脚がふっ、と重くなった。本来の脚に戻したのに、その本来の脚ももう、ピークの出力を保てない。

 

スタミナが、ない。

 

それでも、わたしは脚を回した。意識的に、無理やりに。一回、二回、三回。脚の付け根の筋肉が悲鳴を上げ始めていた。

 

——あと、二十メートル。

 

バリアブルサイトの足音がわたしの右後ろで、まだ追ってきていた。差は、半身。詰まらないけど、離れない。あの人も、最後の最後で、出してきている。

 

——届け。

 

ゴールラインが、目の前に、来た。

 

わたしは、最後の一回、脚を、振り抜いた。

 

 

ゴール板を、通過した。

 

——勝った?

 

頭の中で確認した。横目でもう一度、見た。バリアブルサイトはわたしの半身、後ろにいた。

 

ハナ差。いや、ちょっとあって、半身。

 

それは、シルクロードSの勝利だった。半身差で抜け出した、わたしの勝利。

 

——……勝った。

 

ゴールラインを通過した直後、わたしの脚が急に重くなった。減速していくはずの体が、自分の意志でなく、ずるっと勝手に止まろうとした。

 

息が上がっていた。喉の奥がヒューヒュー鳴っていた。心臓が肋骨を内側から叩いていた。汗が額から、首筋から噴き出していた。

 

——スタミナ、ぎりぎり、だった。

 

その認識がゴール後、初めて形になった。

 

走っている間は感じない。脚を止めた瞬間、体の中の数値が全部、目の前に投げ出される。エネルギーの貯金がゼロに近い。心拍数が限界値の上限。乳酸が筋肉の中に溜まりきっている。

 

千二百メートルを走って、こんな状態になることは、本来、ない。

 

——本来、じゃ、ない、今日。

 

頭の隅で、それも、形になった。

 

スタンドからの歓声は、止まらない。「カレンモエ!」「勝ったー!」「世界女王!」。喜びの声。だが、その奥に、ちょっとしたざわつきも混ざっていた。「ギリギリだった」「危なかったね」。観客の中の誰かが口にしている言葉。複数の人が同じことを思っている。

 

わたしが引退間近のベテラン相手に、半身差で勝った。それは、「勝った」けれど、「勝ち方」が、外から期待されているそれには、足りない。

 

明日の朝刊は、たぶんふたつに割れる。

 

「カレンモエ、シルクロードS制覇、本番に弾み」。

「世界女王、ステップレースで苦戦、本番に不安」。

 

後者の側に振れる紙が、必ず、出る。

 

 

——Trainer: Ayahara

 

スタンドの、関係者席。

 

俺はストップウォッチを止めた。

 

——一分八秒七。

 

世界女王のシルクロードSとして、見出しを取れる数字じゃない。「世界女王、苦戦」と書かれる線が、見えていた。

 

ノートを開いて、書きつけた。

 

「シルクロードS:勝利。バリアブルサイトに半身。タイム一分八秒七。第四コーナーで先頭を保てず、半身差まで詰められる。最終直線、ラスト百五十メートルで踏み込みを戻す。芝、抉れる。半身差で抜け出る。スタミナ、底まで使い切る。ゴール直後、酸欠寸前」

 

書きつけながら、ストップウォッチをポケットに戻した。

 

——想定通り。だが本番だと、危ない。

 

頭の中で、それを確認した。

 

今日のレースの中身は、二人で立てた計算の範囲にほぼ収まっている。だが、ラスト百五十メートルで踏み込みを戻して、最後はスタミナを底まで使い切った。これが想定外。本番の高松宮では、出走の質が今日とは違う。引退間近のベテランじゃなくて、現役のGⅠ級が何頭も並ぶ。同じやり方で半身差で抜けられる保証は、ない。

 

ノートに、書き足した。

 

「本番までに、もう一段の調整が必要。次の二ヶ月弱で、組み直す」

 

それから、もう一行。

 

「本人、勝ち方には納得していない可能性、高い。ケアが必要」

 

ノートを閉じた。

 

スタンドから、関係者通路に向かって、歩き出した。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

関係者通路。

 

わたしはコース脇から戻ってきて、関係者通路の壁に寄りかかっていた。スタッフが渡してくれた、温かいタオルが、首筋に当てられている。

 

息はまだ上がりっぱなしだった。さっき走ったばかりの体が、十分以上経ってもまだ本来のリズムに戻らない。心臓がまだ肋骨を内側から叩いている。

 

通路を通る関係者の人たちがわたしを見て、頭を下げてきたり声をかけてきたりした。「カレンモエさん、お疲れ様でした」「いいレースでしたね」。その中の何人かが「世界女王、おめでとうございます」と、肩書きを添えて声をかけてきた。

 

——世界女王。

 

そう呼ばれるたびに、ぴくっと肩のあたりが反応する。「そうか、わたし、そう呼ばれてるんだ」って、毎回ちょっと確認するみたいに。

 

わたしの中ではまだ、香港のスプリントを走って勝ったわたしくらいの認識でしかなかった。それがここに戻ってきたら、みんな「世界女王」と呼ぶ。空港でも、寮の廊下でも、練習場でも、今日のレース場でも。

 

肩の上に勝手に、ラベルが乗っている。重くはない。でも、乗っている。下ろし方が分からない。それを抱えたまま、走った。今日のシルクロードSは、それを抱えた状態での初めての国内戦だった。

 

絢原さんが関係者通路の奥から、歩いてきた。

 

「お疲れ」

 

「……うん」

 

「タイムは、一分八秒七」

 

「……」

 

わたしはちょっと、息を整えた。それから、口にした。

 

「ギリギリだった」

 

「想定通りだ」

 

絢原さんは即答だった。

 

「想定通り?」

 

「ああ。半身差で勝てる線、というのが、見立ての中に入ってた。今日の結果は、ほぼその通り」

 

絢原さんはノートを、ちょっと開いた。

 

「ただし、本番までに、もう一段、調整する必要がある。今のラインのままだと、高松宮の他の出走相手では、ギリギリどころか、抜かれる可能性が高い」

 

「……」

 

「これから二ヶ月弱で、組み直す。今日のお前のラスト百五十メートルの走りを、本番でも使える形にできるか、見極める」

 

絢原さんは淡々と、それを並べた。声は、低いまま。

 

——絢原さんは、勝ち方じゃなくて、データを見てる。

 

頭の隅でぼんやり思った。わたしが「ギリギリだった」と言った時、絢原さんはわたしの気持ちじゃなくて、まずデータを置いた。「想定通り」と。

 

それは、突き放しじゃない。たぶん、絢原さんなりの伝え方だった。今日の結果を、「失敗」とも「成功」とも判定しない。「想定通り」と、フラットに置く。

 

その「フラット」が、ちょっとだけありがたかった。

 

「……うん」

 

わたしは、そう頷いた。

 

「次は」

 

「明日からは、内容が変わる。今日のデータを踏まえて、メニューを組み直す」

 

「分かった」

 

「お前は、走ることに集中していい」

 

絢原さんはそれだけ言って、ノートを閉じた。

 

 

帰りの車中。

 

ホテルじゃない。学園のトレーナー棟の駐車場に戻る車だった。冬の夕方の空が、車窓の向こうを流れていた。

 

絢原さんはハンドルを握っていた。何も話さなかった。

 

わたしも、何も話さなかった。

 

助手席でジャケットの袖を、ちょっといじっていた。汗が乾いて、塩の跡が薄く残っていた。シルクロードSの半身の勝利。それが、今日のわたしの結果。

 

——勝った。

 

頭の中で、もう一度それを確認した。一着でゴールラインを通過した。賞金も出る。タイトルも増える。「シルクロードS、第何回、勝者、カレンモエ」。記録として残る。

 

——でも、なんか、違う。

 

胸の中で、その感じが続いていた。香港の最終直線で、地元の女王を最後の最後で抜き去った、あの感じ。あれが、わたしの「勝ち方」だった。今日のシルクロードSは、それとは別の何かだった。

 

「ギリギリで、勝った」じゃなくて、「ギリギリで、抜け出した」だった。それは、香港のわたしの勝ち方とは、別のもの。

 

——でも、本番じゃない。

 

頭の隅で、自分に言った。今日は試金石。データ取り。絢原さんが「想定通り」と言った。本番までに、もう一段、調整する。今日の結果は、その途中経過。

 

それは、頭では分かっていた。

 

でも、胸の中の何かは、まだ、ぐらぐらしていた。

 

車が、信号で、止まった。

 

「絢原さん」

 

「ん」

 

「さっきの『二ヶ月弱』、具体的には、何日?」

 

絢原さんはハンドルを握ったまま、ちょっと考えた。それから、答えた。

 

「ちょうど、五十二日」

 

——五十二日。

 

頭の中でその数字を、もう一度噛み締めた。

 

「ふうん」

 

二ヶ月弱と聞いた時より、具体的な数字で聞くとちょっと印象が変わった。「五十二日」と区切ると、短いような気もするし、長いような気もする。今日のシルクロードSの脚で本番に立つなら絶対的に足りない。でも毎日、絢原さんと組み直す日々と思えば、それなりにある。

 

「短いような、長いような」

 

「どちらでもある」

 

絢原さんは、それだけ言って、信号が青になるのを、待っていた。

 

「五十二日で、組み直す」

 

絢原さんが続けた。

 

「明日からは、新しいメニューに切り替える」

 

「うん」

 

「お前は、走るだけでいい。あとは、こっちで組む」

 

信号が青になった。絢原さんは車を走らせ始めた。

 

わたしは助手席で、もう一度、自分の右手を見た。指を開いたり、閉じたりした。

 

——五十二日。

 

頭の中で、もう一度繰り返した。

 

その日数で、わたしの脚をここの芝にもう一段合わせる。完全には合わない。それは絢原さんが隠さずに教えてくれている。でも近づける。今日のシルクロードSが、その途中経過。本番までに、もう一段。

 

——次の高松宮、まで。

 

そう、自分に言った。

 

——五十二日。

 

そう、もう一度。

 

車が、学園の駐車場に入る。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
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