アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ちょっと納得できるものがお出しできるまで時間をください。
86話だったこの話を87話に変更し、この前に話を一話追加してあります。


87話 抉れる

 

——Trainer: Ayahara

 

一月の半ば、夕方。

 

モエがコース脇でストレッチをしている。練習はもう終わって、コース上に他のウマ娘の姿はない。冬の日は早く落ちる。空に夕焼けの最後の色が、西の方に薄く残るだけ。

 

俺はストップウォッチを上着のポケットに収めて、コース脇を歩く。今日のメモを頭の中で整理しながら。

 

——ストライドが、また伸びてる。

 

二冊目のノートに書きつけてきた数字が頭の中で並ぶ。香港の前と後で、彼女のストライドはほんの少しだけ伸びている。最初の二、三日は誤差の範囲かと思った。だが毎日見ていれば、誤差じゃないことは目が教えてくれる。

 

踏み込みの角度も変わっている。地面を「蹴る」というより、「押す」に近い動作。香港の重い洋芝で、モエの脚が一段噛み合ったのだろう。その感覚はまだ体に残っている。

 

——本人は、気づいてないな。

 

観察していれば分かる。フォームが変わったことを本人は意識していない。「いつも通り」と思って走っている。だが、走った後の芝の状態とストップウォッチの数字が、別のことを示していた。

 

ベンチの横に立った俺の方へ、片足を伸ばしながら、モエが顔を上げる。

 

「最近、お前のフォーム、ちょっと変わってきてるぞ」

 

俺から先に、切り出した。

 

「え、そう?」

 

本当に気づいていない顔をしている。ストレッチを止めて、こちらを見上げてくる。

 

「ストライドがほんの少し伸びてる。香港、走ってからだ」

 

「ほんの少し……」

 

「踏み込みの角度も変わってる。地面を蹴るというより押してる」

 

ジャージのまま、自分の脚に視線を落とすモエ。それから、もう一度こちらを見上げてくる。

 

「悪い変化じゃない。だが変化だ」

 

俺はそれだけ言って、息を一つ吐く。冬の冷たい空気が白くなって、風に流れていった。

 

「もう少し見ないと分からないことがある。明日もう一回走ってもらってから、ちゃんと話す」

 

「うん。何かあるの?」

 

「あるかもしれない。だが今ここで言うのは早い。芝を見てから整理して、お前に渡す」

 

モエは、ちょっと、首を傾げた。それから、頷いた。

 

「分かった」

 

「次のレース、どこに出るか、考えてるか」

 

ストレッチを再開しながら、ちょっと考えるモエ。

 

「うーん……高松宮とか?」

 

「俺もそれを考えてた」

 

「ほんと?」

 

「相手も揃ってる。マーちゃんも出るらしい」

 

「マーちゃんも?」

 

片足を伸ばす姿勢のまま、止まる。

 

「じゃあ、……楽はさせてくれないか」

 

「そうだな」

 

俺は頷く。

 

「マーちゃんは、香港のお前を見てる。要求してくるのは、たぶん、その続きだ」

 

モエがこちらをちょっと見た。「絢原さん、それ、どこから?」と聞きたそうな顔。

 

「マーちゃんは記録係だ。お前と同室で、毎日、お前を見てる。香港のお前を、一番近くで見て、頭の中で記録に残してる。それを今度の高松宮で、答え合わせしたいはずだ」

 

「……」

 

「明日からは、そこに向けた調整だ」

 

「分かった」

 

短い返事。だが、その「分かった」の中にちょっとした重さが乗っているのが、こちらにも伝わってくる。マーちゃんからの要求がもう来始めている。それを彼女は察していた。

 

コースに視線を戻す。空はもう、ほとんど暗い。

 

「いつも通りでいい」

 

「うん」

 

それだけ言って、トレーナー棟の方へ歩き出した。背中で、ストレッチを再開する音が、続いている。

 

——明日、芝を見せれば、モエは気づく。

 

ストライドが伸びていることと、踏み込みの角度が変わっていることが、芝の状態にどう出るか。それはモエが目で見て自分で形にしないと、こちらが言葉で先に告げても輪郭がぼやける。

 

だから、明日まで、待つ。

 

——気づいた後で、俺が、何を、伝えるか。

 

それは、もう、決まっていた。

 

観察したことは全部渡す。本来の解も渡す。選ぶのは彼女だ。

 

——マーちゃんの「もっと上のモエ」要求は、今夜、寮で出る。

 

それも俺の予測の中にあった。マーちゃんはレース前に同室のモエに、必ず何か言う子だ。今までずっとそうだった。今度の高松宮の前にも、同じことをやる。

 

その時、彼女は、肩のラベルが、もう一つ増えるのを感じる。

 

トレーナー棟へ向かう道を歩きながら、頭の中で、明日からの組み立てを始めていた。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

寮の部屋。

 

夜。

 

シャワーを浴びて、髪を乾かして、ベッドに腰を下ろした。マーちゃんは、向かいのベッドの上で、人形を抱えて座っていた。

 

「モエちゃん」

 

「ん」

 

「次の高松宮、出るのですね」

 

ニュースで見たんだろう。学園内のスケジュール共有で出ていたかもしれない。マーちゃんは、人形の頭を撫でながら、こちらを見ていた。

 

「うん、出るよ」

 

「楽しみなのです」

 

マーちゃんが、いつもの口調で言った。穏やかな声。優しい声。

 

それから、ふと、目を上げた。

 

「次は、もっと本気で走ってもらうのです」

 

——あ。

 

絢原さんの予測、当たってる。

 

私はドライヤーを置いた手を、止めた。

 

マーちゃんはいつもの顔で、人形の頭を撫で続けていた。表情は穏やか。声も柔らかい。それなのに、内容だけが、ぎゅっ、と刺さった。

 

「マーちゃん、香港のモエちゃんと走りたいのです」

 

「……」

 

「マーちゃんも、あれからちょっと上がったのです」

 

「……うん」

 

「だから、次は、本気で受けてもらうのです」

 

穏やかな声で、それを言った。

 

——マーちゃん。

 

私は、しばらく、何も言えなかった。

 

「のです」の柔らかい語尾の中に、要求の輪郭が、はっきり残っていた。「マーちゃんは上がった、だからお前も上がってこい」。それが、ライバルというものだった。

 

「マーちゃんは、本気で来るんでしょ」

 

「もちろんなのです」

 

そう言って、マーちゃんは、もう一度、人形の頭を撫でた。

 

何でもない顔。

 

でも、目は、ちゃんと、闘志を持っていた。

 

私はドライヤーをしまって、ベッドに横になった。天井を見上げる。

 

——もっと上のモエ。

 

マーちゃんが要求しているのは香港のモエだ。藍鎚と呼ばれた、最終直線で地元の女王を抜き去った、あの私。あのモエを国内戦に持ってこい、と言っている。

 

絢原さんが、夕方、言ってた。

 

「ストライドが、ほんの少し伸びてる」「踏み込みの角度が変わってる」「悪い変化じゃない。だが、変化だ」。

 

それから、もう一つ、言ってた。

 

「もう少し見ないと分からないことがある。明日もう一回走ってもらってから、ちゃんと話す」。

 

絢原さんは何かを、まだ言葉にしていない。芝を見てから整理して、私に渡す——そう、言った。

 

——明日、何かを、告げられる。

 

それはたぶん、そう簡単な話じゃない。絢原さんが夕方の時点で言葉にしなかった、ということは、ちゃんと整理してから出さないと、こちらが受け止め損ねるレベルの話だ。

 

私は、自分でそれに気づいていなかった。気づいてるのは、絢原さんだけだった。

 

——いつもこうだ。

 

私が「いつも通り」だと思っている時に、絢原さんはいつもじゃない部分を、先に見つけてる。今日も、夕方の時点でもう、「お前は変わってる」と告げていた。

 

それを踏まえて、「マーちゃんが要求してくるのは、その続きだ」と、寮で起きることまで、予測していた。

 

——明日、走ってみよう。

 

絢原さんが見ているものを、私も、自分の脚で確かめないと。

 

 

翌日。

 

朝。練習場。

 

昨夜の引き続きを、抱えたまま、コースに出た。

 

スタッフがコース脇に集まっている。普段より人数が多い。トレーナーたちがこっちを見ている。他のウマ娘たちもストレッチの手を止めて、ちらちらこちらを見ている。

 

「世界女王、見に来ちゃった」みたいな空気。

 

——香港から帰ってから、ずっとこれだ。

 

帰国した日。空港の、フラッシュの嵐。「世界女王、お帰りなさい」。

学園に戻ってきた、その夜。寮の廊下で後輩たちがちょっと距離を取って、頭を下げてきた。「カレンモエ先輩、おめでとうございます」。

翌日からの練習場。スタッフ、トレーナー、他のウマ娘。みんな、ちらちらと、こちらを見ている。

新聞の見出し。SNSのトレンド。「世界女王」「日本のスプリンター、海外制覇」。

 

ずっと、それが続いていた。

 

肩の上に、ラベルが乗っている。重くは、ない。でも、乗っている。下ろし方は、分からない。

 

これまでは、口に出さずに、抱えていた。慣れる、と思っていた。慣れるだろう、と。

 

慣れなかった。

 

絢原さんが、コース脇のいつもの位置に立っていた。ストップウォッチを片手に、もう片方はジャケットのポケットに突っ込んで、何でもない顔で。

 

私は、絢原さんのところまで歩いた。

 

「お前、肩に力が入ってる」

 

絢原さんから、先に、言ってきた。

 

「え?」

 

「ここ二、三日、入りっぱなしだ。スタートの時、肩が下がってない」

 

私は自分の肩をちょっと触ってみた。ジャージの上から触っただけだから、何も分からない。でも、絢原さんがそう言うなら、たぶん、そうなっている。

 

「分かった?」と聞かれているわけじゃなかった。絢原さんは、ただ、自分の観察を、私の前に置いた。

 

「……」

 

私は、息を一つ吐いた。それから、口にした。

 

「ねえ、トレーナー」

 

「なんだ」

 

「世界女王、って呼ばれるの、なんか変な感じ」

 

絢原さんはストップウォッチを下ろした。ポケットから手を出して、こちらを見た。否定もせず、肯定もせず、ただ聞いていた。

 

「肩に乗ってる。重くはないんだけど、乗ってる」

 

「……」

 

「下ろし方が、分からない」

 

絢原さんはストップウォッチを、ジャケットの内ポケットにいったん収めた。普段、走り始める前にはストップウォッチを手に持ったままにしている人が、今日はしまった。

 

それから、口を開いた。

 

「下ろさなくていい」

 

——え。

 

「乗っていても、お前はお前だ」

 

絢原さんは、私の顔を、まっすぐ見ていた。普段の何でもない目より、ちょっとだけ深いところから見ている目。

 

「考えてみてくれ。お前が走るたびに、ラベルは、勝手に増える。『カレンチャンの娘』『藍鎚』『世界女王』。明日、お前が高松宮で何かをやれば、また、新しいのが貼られる。これは、止まらない。お前が走り続ける限り」

 

——え。

 

絢原さんが、それを口にした。

 

「カレンチャンの娘」。ずっと、絢原さんが、私の前で、口にしなかった言葉。一度も、聞いたことがなかった。今、それを、はっきり、口に出した。

 

「ラベルは、外から貼られるものだ。剥がれない。剥がそうとしても、貼った人間は、また別のラベルを貼ってくる」

 

絢原さんの声が、低くなった。普段の指示の時とは、違う声。

 

「だから、貼られたまま、走れ」

 

「……」

 

「俺が見てるのは、ラベルの方じゃない」

 

「……え」

 

「お前の方だ」

 

絢原さんはそれだけ言って、内ポケットから、ストップウォッチを取り出した。普段の手つきに戻っていた。

 

肩の上のラベルが、ちょっとだけ軽くなった気がした。完全には消えていない。でも、最初よりは、軽い。

 

「……分かった」

 

「行ってこい。一本目は、フォームのチェックだ。スタートから三ハロンまで、いつも通り入れ」

 

私は頷いて、スタート位置に向かった。

 

ウォーミングアップ。流し。

 

軽く脚を回した。芝の感触が、靴の裏から伝わってくる。冬の冷えた芝。少し、湿っている。

 

スタートの位置についた。絢原さんが、ストップウォッチを構えた。

 

「行くぞ」

 

「いいよ」

 

私は、走り出した。

 

加速。一段、二段、三段。脚が地面を蹴る。芝が後ろに飛ぶ。風が顔を切る。

 

いつもの感覚。

 

——のはず。

 

何かが、おかしかった。

 

肩がちょっと固い。腕の振りがちょっといつもより大きい。脚の入りもちょっと深い。全部「ちょっと」だけど、全部「いつも」じゃなかった。

 

——脚が、いつもより、深く入る。

 

特にスタートと、第三コーナー手前の加速地点。踏み込んだ瞬間、地面がいつもよりちょっと沈む。蹴る力が芝に、深く食い込む感覚。違和感は走っている間、ずっと続いた。

 

ゴールラインを通過した。減速して、振り返った。

 

絢原さんが、ストップウォッチを見ていた。

 

「タイムは」

 

「悪くない」

 

絢原さんは、ストップウォッチを下ろした。それから、こちらに、もう一言、続けた。

 

「だが、ストライドが、また、ちょっと伸びてる」

 

「……ちょっと?」

 

「俺の目で、そう見える」

 

絢原さんは、コース上に、視線を向けた。

 

私も、そっちを見た。

 

——え。

 

足跡が、芝に、深く残っていた。

 

私が走った所、踏み込んだ所、特にスタートと第三コーナー手前の加速地点。芝が抉れていた。表面がめくれていた。土がわずかに見えていた。

 

「……えっ」

 

声に出てしまった。

 

「こんなに、深い?」

 

絢原さんが、コース上に歩いてきた。私の隣で、屈んだ。同じ視線で、芝を見た。

 

「ここの芝に、お前の踏み込みが、強すぎる」

 

絢原さんが、足跡の縁を、指でなぞった。芝の表面の繊維が、ささくれ立っていた。

 

「これが、夕方、俺が言葉にしなかったやつだ。芝を見ないと、形にならなかった」

 

絢原さんは、屈んだまま、こちらを見た。

 

「説明する。長くなるぞ」

 

「うん」

 

「お前の脚は、変わったんじゃない。香港で、本来の脚が、表に出ただけだ」

 

——え。

 

頭の中で、その言葉が、滞った。

 

——本来の、脚?

 

「お前のフォームは、デビュー以来、ずっと、ここの芝に対して、ちょっと強すぎる側で揺れてた。短距離で勝ってた頃も、マイルで戸惑ってた頃も。俺は、毎日のタイムと心拍数とフォームの数字を、ノートに書きつけてきた。並べてみれば、傾向は、ずっと前から、薄く出ていた」

 

絢原さんは、立ち上がって、芝の足跡から、視線を上げた。

 

「香港の重い洋芝で、その『強すぎる』が、ようやく噛み合った。本来の脚が、本来の場所を、初めて踏んだ。それが、香港の最終直線の、あの加速だ」

 

「……」

 

「日本に戻った今も、お前の脚は、香港で噛み合った形を、保ってる。ストライドが、ほんの少し伸びてるのも、踏み込みの角度が、押す動作に近づいてるのも、その結果だ」

 

「……」

 

「軽い芝の上では、その本来の脚が、抉れる。これは、お前の体が悪いんじゃない。芝に対して、お前の脚が、強い、ということだ」

 

絢原さんは、淡々と、それを並べた。声は、低いまま。普段の指示の声より、ちょっとだけ深いところから出ている声。

 

——ここの芝に、合わない。

 

頭の中で、その認識が、形を持った。

 

「そんなに簡単に、整理できる話なの?」

 

「観察を始めてから、一年以上考えてきた。簡単じゃないが、結論はそれだ」

 

絢原さんは、私の顔を、見ていた。

 

「お前にこれを告げる方が、告げないより誠実だ。俺はそう判断した」

 

——絢原さん。

 

胸の奥で、何かが、ちょっと、震えた。

 

絢原さんは私を、たぶんずっと観察してきた。デビュー以来、ずっと。今日まで毎日。それで、ようやく香港の後で、結論を出した。それを今日、芝が抉れたタイミングで、私の前に置いた。

 

「告げない」を、絢原さんは、選ばなかった。

 

私は、屈んだまま、芝の足跡を、もう一度、見た。

 

「……それで」

 

「対処の方向は、二つある」

 

絢原さんが、続けた。

 

「一つは、『戻す』方向。フォームを軽い芝に合わせて微調整する。香港で噛み合った脚を、ここで使えるように削ぎ落としていく。完全には合わないし、芝の抉れをゼロにはできない。だが許容範囲まで近づける線はあるし、試す価値はある」

 

「……」

 

「もう一つは、『戻さない』方向。本来の脚で走れる場所——つまり重い芝のレースを選ぶ。海外遠征も視野に入れる。お前の脚に対して誠実な答えは、たぶんこっちだ」

 

絢原さんは、ストップウォッチを、ポケットに収めた。両手を、空けた。

 

「俺は本来の解が二つ目だと思ってる。それは隠さない」

 

「……」

 

「だが、選ぶのは、お前だ」

 

絢原さんが、私の顔を、まっすぐ見た。

 

「お前がどっちを選んでも、俺はそれに付き合う。『戻す』を選ぶなら、二週間ちょっとで、本番までにできる限りのフォーム調整を組む。『戻さない』を選ぶなら、レース選択から組み直す。どっちでも構わない。決定はお前のものだ」

 

冬の風が、コースを横切っていく。スタッフたちの遠い話し声が、こちらまで届いていた。

 

私は、しばらく、芝の足跡を、見ていた。

 

——ここの芝に、合わない。

 

その認識がまだ頭の中で、形を保ったままだった。香港の最終直線で、私の脚が本領発揮した。あれが本来の私だった。それは嬉しい。でも、その本来の脚がここの芝の上では抉れる。

 

——主戦場が、ここじゃ、なくなる?

 

そう、考えてしまった。

 

私は日本で生まれて、日本で育ってきた。栗東の練習場、阪神のコース、中山の坂。それが私の生きている場所。それを明日から放棄する?

 

そんなのは、認めたくなかった。

 

ここで走れない、なんて、認めたくなかった。

 

ここで走れなかったら、私は、何のために走ってるのか、分からなくなる。

 

——なんとかしないと。

 

そう、頭の中で、繰り返した。

 

——次の高松宮、まで。

 

そう、もう一度。

 

「『戻す』方向で、行く」

 

私は、立ち上がって、絢原さんに、それを告げた。

 

絢原さんは、しばらく、私の顔を、見ていた。何かを、確認している顔。

 

「分かった」

 

それだけ言って、頷いた。

 

「条件を一つ、確認する」

 

「うん」

 

「『戻す』方向は本来の解じゃない。これは俺の見立てだ。本番までに許容範囲には近づけられる。だが完全には戻らない可能性が高い。それでも、やるか」

 

「やる」

 

即答だった。

 

「分かった。なら、組む」

 

絢原さんはそれだけ言って、ストップウォッチを構え直した。

 

「もう一回、走るか」

 

「うん」

 

「次は、踏み込みを浅くしてみろ。腰を、すこし高めに置いて、母指球で蹴る感覚に意識を集中する。芝に食い込む前に、抜く」

 

「……うん」

 

「それで、タイムがどう変わるか見る」

 

仮説を、渡された。「答え」じゃない。「試し方」だ。

 

私は、スタート位置に戻った。腰を、すこし高めに。母指球で蹴る。芝に食い込む前に、抜く。頭の中で、何度か繰り返した。

 

 

二度目。

 

走り出した。

 

加速。一段。二段。

 

——あれ。

 

加速が、つかない。

 

抜き気味、と思った瞬間、脚が地面を蹴る感覚がぼんやりした。蹴った力が芝に伝わる前に、どこかで抜けていく。脚は動いているけど、進まない。

 

——え、これ、走れない。

 

二段目で、もう体が「これは違う」と言っていた。三段目に上がろうとしても、ギアが入らない。出力を絞ろうとしたら、エンジンが止まりそうになる。

 

私の脚は、全力か、停止しか、知らない。中間がない。「ちょっと抑える」「ちょっと加減する」が、できない。

 

ゴールラインを通過した。

 

タイムは、見るまでもなく、遅かった。

 

絢原さんが、ストップウォッチを見ていた。

 

「下がったな」

 

「……うん」

 

「予想の範囲内だ。お前の脚は、出力を絞ると、推進力が逃げる構造になってる」

 

絢原さんは、それから、続けた。

 

「今のは、ベンチマークだ。フォームを抜くと、どこまでタイムが下がるか、確認したかった。下がる幅も、想定通り」

 

「……つまり」

 

「お前のフォームを、無理に抜く方向は、無し。次は、別の方向を試す」

 

絢原さんはノートを閉じて、私の方を向いた。

 

「もう一本、いつも通りで走れ。今度は、踏み込む瞬間に、地面を蹴り抜く方向を、ちょっとだけ後ろに倒してみろ。垂直に押すんじゃなく、斜め後ろに押す感覚」

 

「……それで、何が変わるの」

 

「芝に、食い込む深さが、変わる。ピッチを刻み直して、推進力を維持したまま、抉らないラインを探る」

 

絢原さんはそれだけ言って、ストップウォッチを構え直した。

 

私は、スタート位置に戻った。垂直じゃなく、斜め後ろ。頭の中で、何度か、繰り返した。

 

——絢原さんは、答えを、もう、私に渡した。

 

それは夕方じゃなくて、今日、芝が抉れた直後に、全部開いてくれた。本来の解も、見立ても、選択肢も、全部。

 

それを聞いた上で、私は、「戻す」を選んだ。

 

絢原さんはそれに付き合うと言った。「本来の解じゃないが、二週間で許容範囲には近づける」と、見立てまで添えて。

 

——付き合うって、こういうことなんだ。

 

頭の中でぼんやり思った。「答えを渡さない」じゃなくて、「全部渡した上で、選んだ道に付き合う」ということ。それが絢原さんの「付き合う」だった。

 

考えながら、走り出した。

 

斜め後ろに、押す。ピッチを刻む。

 

芝に、食い込む。やっぱり、抉れる。

 

タイムは、戻った。芝も、抉れた。

 

それから絢原さんは、また別の試し方を渡してきた。「踏み込みの瞬間、軸足の膝を気持ち内側に入れろ」。やった。芝は抉れた。「ストライドを、すこし詰めろ」。やった。タイムが下がった。「胸を、ちょっと前傾」。芝は抉れた。

 

何本走っても、二択だった。タイムが出る代わりに芝が抉れるか、芝が抉れない代わりにタイムが下がるか。

 

中間が、取れなかった。

 

私は、もう一度、スタート位置に戻った。息が、あがっている。

 

「絢原さん」

 

「なんだ」

 

「これ、無限ループ」

 

「……ああ」

 

「ぐるぐる回ってるだけ」

 

絢原さんは、ノートに視線を落とした。それから、言った。

 

「今日、出たデータだけで、十一通り試した。全部、芝に食い込むか、推進力が逃げるかの、どちらかに収束する」

 

「……」

 

「今日のところは、ここで打ち止めだ。これ以上同じ条件で続けても、出るデータは同じものが増えるだけだ」

 

絢原さんはストップウォッチをポケットに戻した。普段、走り終わりの後でも、絢原さんはストップウォッチをすぐにはしまわない。次の指示のために、手に持ったままでいる。今日はしまった。

 

「明日からは、メニューを組み直す。今のフォームを前提にして、芝に対する負荷の分散を、別の経路で考える。坂路の使い方を変える。プールでの体幹の動かし方を、見直す」

 

「……絢原さん、もう何個か、案、持ってるんだ」

 

「持ってる。だが、机上で出した案だ。お前の体に当てて、はね返ってくるかどうかは、明日からだ」

 

絢原さんは、私の顔を、しばらく見ていた。それから、言った。

 

「俺は、お前が『なんとかする』のを、見てきた」

 

——え。

 

「デビュー戦で惨敗しても諦めなかった時。短距離で勝っても満足せずに虚しさを抱えていた葛藤。マイルチャンピオンシップで、自分の走り方を見つけた時。香港で、地元の女王を、最後の直線で抜き去った時」

 

絢原さんが私の顔を見ている。普段は私の脚や、フォームや、芝の状態を見ている目が、今は、私の目を見ている。

 

「お前は、毎回、自分でなんとかしてきた。誰かに教えられた答えじゃなくて、自分で見つけた答えで」

 

「……」

 

「今回は、本来の解は俺がもうお前に渡した。だが、お前が選んだのは別の方向だ。それを尊重する。試行錯誤はこっちで組むし、データもこっちで取る。お前は走ることに集中していい」

 

「……」

 

「お前のやることに、俺も付き合う」

 

「……」

 

「全部、付き合う」

 

絢原さんはそれだけ言って、ノートを閉じた。

 

肩の上のラベルが軽くなったとは、思わなかった。むしろ、ラベルの上に別の重さが、ちょっとだけ乗った気がした。

 

絢原さんが、私の隣にいる、という重さ。

 

それは、悪くない重さだった。

 

 

——Trainer: Ayahara

 

練習場の脇。

 

モエがもう一度、スタート位置に戻る。今日、何度目かの試走に向かう背中。漆黒の練習着が、冬の夕方の光の中で輪郭を保っている。

 

俺は、ストップウォッチを構え直す。

 

——ノートに、もう一行、書き足さないとな。

 

胸ポケットの中の、黒い表紙のノート。「カレンモエ育成計画」と書いた、二冊目の方。今日のページには、もういくつかの記述が増えている。

 

「一月十六日。ストライド、わずかに増。踏み込みの角度、押す動作に近づく。軽い芝の上で、踏み込み地点が抉れる」

 

これだけでは、足りない。もう一行、書き足す必要がある。

 

「本人に、観察と本来の解を、告げた。本人、対処の方向を『戻す』に決定。当面、それで動く」

 

——告げた。

 

それは夕方に俺が決めて、今日実行したことだった。観察したことを全部、彼女の前に置く。本来の解も、見立ても、選択肢も。それは俺の役目だった。それは終わった。

 

そこから先は、彼女のものだ。

 

「戻す」方向は、本来の解じゃない。これは、伝えた。それでも、彼女は「戻す」を選んだ。「ここで走れないのは、認めたくない」という顔だった。それは、彼女の主体的な選択だ。俺が、否定するものじゃない。

 

——選ばせるということは、選んだ後を引き受けるということだ。

 

彼女が選んだ道は本来の解じゃない。完全には戻らない可能性が高い。それは俺が見立てた通り。だが、許容範囲には近づけられる線がある。本番までの二週間ちょっと、それを毎日組み直して、当てていく。

 

机の引き出しの中に、香港のレースのデータがある。沙田の芝の硬度。彼女の踏み込みの深さの数値。中山と東京と中京の芝の硬度の比較表。それらを毎晩、突き合わせて計算してきた。「戻す」方向でどこまで近づけられるか、机上の見積もりはすでにいくつか組んである。明日からは、それを彼女の体に当てていく。

 

——オークスの前にも、似たような場面があった。

 

頭の中で、ふと、その回想が、立ち上がる。

 

あの時、彼女は「私自身を証明したい」と言葉にしていた。「カレンチャンの娘」と言わせない距離で、自分を自分の脚で証明するために。俺はその挑戦に乗ることを選んだ。乗らない選択肢もあったのに、選ばなかった。結果として、彼女は壊れた。

 

両親から介錯人の依頼を受けた夜。雨の居酒屋で先輩が頭を下げた場面が、ふと脳裏をかすめる。「あいつをオークスという処刑台まで、連れて行ってやってくれ」。引き受けたのは、俺だ。「彼女の罪も、罰も、痛みも。そして、オークスでの結末も。全て、俺が背負います」と返した。「命に代えても」と。

 

ゴール板の先で、糸が切れた体を滑り込んで受け止めた瞬間。腕の中の、炉心融解みたいな熱量。担架を拒否して、自分の背中で地下通路を歩いた。

 

「壊してしまった」と思った。「俺が、彼女を壊したのだ」と。それでも、後悔はないと、決めていた。俺たちは、選んだのだから。

 

——あの夢を、また、見るのが、いやだった。

 

夜中に目が覚めて、しばらく動けなくなる、あの夢。覚醒した姿を見ても世界制覇した姿を見ても、消えない夢。

 

今日、芝が抉れた瞬間、その夢の縁がまた揺れた気がした。

 

——だが。

 

ストップウォッチを構え直す。冬の風が、頬を切る。

 

今日のあいつは、オークスの時とは違う。あの時は自分を証明するために、誰にも文句を言わせない距離で勝ちにいった。今は世界で勝った後の脚で、見慣れた景色の中で戸惑っている。それは壊れる戸惑いじゃない。前に進もうとしている戸惑いだ。

 

そして、あの時と、今日との、もう一つの違い。

 

——あの時、俺は、選択肢を全部、彼女の前に置けただろうか。

 

オークスの前、彼女は「私自身を証明したい」と言った。俺はその挑戦に乗った。だが、本来の解として別の道を、ちゃんと彼女の前に並べただろうか。「乗らない選択肢」を彼女自身に、選ばせる形で提示できただろうか。

 

——できなかった。

 

あの時、両親の介錯人の依頼を引き受けるのに必死で、彼女の「証明したい」という叫びを真正面から受け止めることまでで、精一杯。本来の解を並べる余裕は、まだ持てなかった。

 

今日は、それを、やった。

 

「戻す」「戻さない」の二つを、彼女の前に並べて、俺の見立ても添えて、選ばせた。モエは、「戻す」を選んだ。それは、本来の解じゃないかもしれない。だが、彼女が、ちゃんと、見て、選んだ。

 

——介錯人から、共犯者へ。

 

それはたぶん、そういう変化だった。介錯人は、相手が選んだ場所まで連れて行って最期を看取る。共犯者は選択肢を全部見せて、選ばせて、その先に付き合う。

 

オークスの夜から、半年以上、経った。

 

俺は、あの夜の介錯人のままじゃ、もう、いられない。

 

モエが、もう一度、立ち上がる。息を整えて、こちらを見た。

 

「もう一回」

 

「ああ」

 

ストップウォッチを構え直した。

 

走り出していく背中。

 

香港のあの直線で、地元の女王を抜き去った時の、あの背中と、同じだ。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

寮の部屋。

 

夜。

 

ベッドの上で、自分の足を、見ていた。

 

膝から下、脹脛、足首、足の裏。何も変わらない。普段通りの脚。それなのに今日、私の脚はコースの芝を、いつもと違う形で抉った。

 

——本来の脚、なんだって。

 

頭の中で、絢原さんの言葉を、もう一度、繰り返した。

 

香港の最終直線で、私の脚が本領発揮した。それが本来の私だった。デビュー以来、私はここの芝に対してちょっと強すぎる側で、揺れていた。それが香港で、ようやく噛み合った。

 

——嬉しい、はずなのに。

 

頭の隅でそう思った。「本来の脚」だと知ることは、本当は嬉しいはずだった。「香港の私が、私の本来の姿」だと、絢原さんが認めてくれた、ということだから。

 

でも、その本来の脚が、ここの芝の上では、抉れる。

 

それは、嬉しい話と嬉しくない話が、一緒に抱きついて入ってくることだった。

 

——「戻す」を選んだ。

 

絢原さんが二つの方向を、私の前に並べた。「戻す」と「戻さない」。本来の解は「戻さない」だと、絢原さんは隠さずに言った。それでも、私は「戻す」を選んだ。

 

「ここで走れない、なんて、認めたくない」

 

それが、私の理由だった。

 

主戦場を放棄したくない。栗東の練習場、阪神のコース、中山の坂。それが私が育ってきた場所。私の生きている場所。それを明日から別の場所に切り替えるというのは、私の中ではまだ、できなかった。

 

——絢原さんは、それを、尊重してくれた。

 

「分かった」と、それだけ言って、頷いた。「本来の解じゃないけど、二週間で許容範囲には近づける」と、見立てまで、添えて。

 

それは絢原さんの「付き合う」の形だった。答えを隠して、私が辿り着くのを待つじゃなくて、答えを全部見せて、私が選んだ道に付き合う。

 

——一人じゃ、ない。

 

そう、自分に、言った。

 

——でも、最後は、私が、決めたんだ。

 

そう、もう一つ、自分に、言い聞かせた。

 

私は、目を閉じた。

 

マーちゃんの「香港のモエちゃんと走りたい」が、頭の中で、もう一度、響いた。

 

それに応えるためにも、まず、ここで走れる私を取り戻す。完全には戻らないかもしれない。でも、許容範囲までは近づける。絢原さんが見立ててくれた線まで、私が自分の脚で辿り着く。

 

それが、今、やるべきことだった。

 

 

並木道。

 

翌朝。

 

寮を出て、トレーナー棟に向かう途中。冬の冷えた朝の空気。

 

トレーナー棟のホワイトボードが、目に入った。

 

絢原さんは、まだ来ていなかった。でも、ホワイトボードには、新しいメニューがすでに書き込まれていた。昨日のメニューとは違う。坂路、プール、ピッチドリル、フォーム微調整。順番が組み替わっている。

 

書いた跡が、まだ、新しい。インクが、湿っている気がした。

 

絢原さんは、たぶん、夜のうちに、ここに来た。書いて、戻った。

 

私は、ホワイトボードの前で、しばらく、立っていた。

 

冬の冷たい空気が、肺に入った。

 

——次の高松宮、まで。

 

そう、自分に言った。




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