アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

122 / 140
プライベートで引っ越しなり非常にバタバタしております。ご迷惑をおかけしています。



88話 挑戦者たち

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

三月の中旬。

 

ホテルの控室の鏡の前で、勝負服のベルトのバックルをもう一度確認した。

 

左半分が黒、右半分が空色のビスチェ。太い黒のベルトに、銀のバックル。空色のチュールスカート。長い黒袖の袖口に、銀の刺繍。黒のチョーカー。黒のニーハイソックスに、黒のレースアップブーツ。髪にはスズランの飾り。

 

スタイリストの人が、最後にスズランの位置を直してくれたところだった。「世界女王として最初の公の場ですから」と、それだけ言って控室を出ていく。

 

スタイリストがつくようになったんだ、と思う。香港から帰ってから、こういう細かい扱いがちょっとずつ変わった。会見場の動線。控室の準備。記者対応の事前打ち合わせ。前の私には、ここまでの体制は組まれていなかった。

 

絢原さんと一緒に学園を出て、車でホテルまで来た。会見場までは関係者用の通路を通る、と聞いている。記者の囲み取材を避けるためらしい。それも、初めての扱いだった。

 

——二ヶ月。

 

鏡の中の自分をもう一度見る。日本の芝に帰ってきてから、二ヶ月。

 

絢原さんはあの日、見たままを全部私に話してくれた。

 

「お前の脚は、香港で本気で走ったことで、本格化がもう一段深まった、と俺は見てる」「もともと重馬場向きだったところに、さらに重馬場特化の方向へ振れた」「日本の軽い芝の上では、その振れた分が、抉れとして出る」

 

本来の解は「戻さない」だと、隠さずに教えてくれた。

 

それでも、私は脚を戻すことを選んだ。「ここで走れない、なんて認めたくない」と。

 

絢原さんは「分かった」とだけ頷いて、その日からずっと付き合ってくれている。

 

二月のシルクロードSは、その試金石だった。

 

バリアブルサイトに半身差。最終直線のラスト百五十メートルで本来の脚に戻し、芝が抉れることを許して、スタミナを使い切って、ようやく抜け出した。タイムは一分八秒七。

 

「世界女王、シルクロードS制覇、本番に弾み」と書いた紙もあった。「世界女王、ステップレースで苦戦、本番に不安」と書いた紙もあった。

 

絢原さんは「想定通りだ」とだけ言った。

 

それから一ヶ月半。

 

絢原さんは、ホワイトボードを毎日書き換えている。坂路の使い方を変える。プールでの体幹の動かし方を見直す。ピッチドリルを組み込む。フォームの微調整を毎日のメニューの最初に置く。

 

ノートも厚くなった。胸ポケットの中の黒い表紙の二冊目。「カレンモエ育成計画」。私が走るたびに、絢原さんは何かを書きつけている。タイム。心拍数。フォームの細かい変化。芝の抉れの深さ。私の機嫌の波。マーちゃんと話したあとの表情の変化。

 

私の方も、毎日走っていた。

 

脚を戻すことを試す。フォームを少しずつ変えて、出力の中間を探した。シルクロードSの最後で本来の脚に戻したときの感覚を、最初から最後まで抑えたままで、千二百を走れる線を探す。

 

——厳しい。

 

一ヶ月半、毎日試した。フォームの調整は、絢原さんと一緒に何百通りも試す。それでも、芝の抉れの深さは、ほとんど浅くならない。

 

タイムは、走るたびにちょっとずつ上がっていく。フォームの調整というより、積み重ねの分だけ体が研ぎ澄まされている、ということだった。

 

絢原さんが、ペンの先で頬を叩く。

 

「今日は、昨日より少しだけ抉れが浅かった。恐らく、坂路の三本目のフォームが効いてるんだろう」

 

「だといいな」

 

「明日は、また別の角度を試してみる」

 

絢原さんは、それだけ言って、またストップウォッチを構えた。

 

ペンを構え直す前に、ちょっとだけ眉が寄っていたのが、視界の隅に映っていた。

 

ノートに書き込みが増えていく。私の走りを見ながら、絢原さんも一緒に毎日答えを探していた。「俺も手探りだ」と独り言のように一度、ぽつりと呟いたのが、耳に残っている。ホワイトボードの前で頬杖をついて、長く数字を眺めている背中も、何度も見ている。私の前では、必ずまっすぐ「明日は別の角度」と次の試行を言ってくれる。それでも、私の見えないところで、何かを抱えているのは、見えていた。

 

私が脚を戻すことを選んで、絢原さんはそれに付き合うと言ってくれた。隣で見ているだけじゃない。一緒にもがいてくれている。

 

髪のスズランの位置を指先でちょっと整えた。

 

鏡の中の自分をもう一度見る。最近、「世界女王」と呼ばれることが増えた。慣れない。

 

スカートの端を撫でる。肩書きがちょっと重い。

 

自分から名乗るような名前じゃない。これからも、そうするつもりはない。でも、向こうから貼られるのを振り払うのも違う。乗せたまま、会見場に立つ。

 

ドアがノックされた。

 

「カレンモエさん、お時間です」

 

「はい、出ます」

 

スタイリストの人がドアを開けてくれる。眼鏡の奥の目がちょっと優しい。

 

「行ってらっしゃい、カレンモエさん」

 

「ありがとうございます」

 

廊下に出て、関係者用の通路を歩き始めた。

 

——SNSの懐疑、たぶん、向こうも踏まえてくる。

 

歩きながら、そう思った。

 

香港から帰って、シルクロードSの半身差勝利のあと、SNSには「世界女王の凱旋、思ったほどじゃない」「もう香港でピークアウトしたんじゃないか」という空気がまだら模様で立ち上がっている。寮の部屋で、何度か見て知っていた。記者の中には、その空気を持ってくる人もいるかもしれない。

 

備えておく。絢原さんが教えてくれた言葉だった。

 

会見場へ向かう通路に入る。ライトが控室より明るい。フラッシュの音が遠くから聞こえていた。

 

 

 

 

 

 

会見場。

 

ホテルの三階の大きな部屋。記者席がぎっしり並んでいる。前には大手紙のカメラマン。後ろには地方紙やネットメディアの記者。フラッシュの数がいつもの倍くらいあった。

 

ステージに長机がひとつ。マイクが五本。私の席は左から三番目。

 

向かって左端から、ファーメントウィンさん、ジャズステップさん、私、ブリーズシャトルさん、マーちゃん。

 

「皆さん、本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。来たる三月最終週の高松宮記念に向けて、出走を予定する五人による、共同記者会見を始めさせていただきます。順番に、各人から抱負をお話しいただきます」

 

司会の人が、左から紹介していった。

 

私の番が来た。

 

「カレンモエさん、お願いします」

 

マイクの位置をちょっと直す。フラッシュが一気にこちらに集まった。

 

「カレンモエ、です。本日は、ありがとうございます」

 

息を一つ吐いてから、続けた。

 

「先日の香港スプリント、無事に勝たせていただきました。先月のシルクロードSも、応援くださった皆様、ありがとうございました」

 

「次は、高松宮記念に出走させていただきます」

 

「目標は、勝つこと、です。他の皆さんといいレースができるよう、本番に向けて調整していきます」

 

平凡な抱負。それでいい。

 

マイクから口を離すと、フラッシュがまた、ぱっ、ぱっと焚かれた。

 

司会が次へ進む。

 

「ブリーズシャトルさん」

 

「ブリーズシャトル、です! 高松宮記念、出走、させていただきます!」

 

ブリーズシャトルさんの声が明るく響く。

 

「香港の海外勢に負けないように、頑張ります! 日本のスプリント路線を、もっと盛り上げていけたら、嬉しいです。よろしくお願いします!」

 

正統派の、若くて明るい抱負。記者の何人かが、にこにこしながらメモを取った。

 

司会が続ける。

 

「アストンマーチャンさん」

 

「マーちゃん、です」

 

マーちゃんは人形を机にちょこんと置いて、マイクを直した。

 

「次の高松宮記念、出走させていただくのです。皆さんに、いい走りをお見せできたら、と思うのです。よろしくお願いするのです」

 

「楽しみにしているのです」

 

それだけ言って、マーちゃんはマイクから口を離した。

 

——マーちゃんは、寮の話を、ここに持ち出さなかった。

 

「次は本気で受けてもらうのです」。あの夜、私にぶつけてきた言葉。それを、ここでは繰り返していない。「楽しみにしているのです」と、それだけ。

 

公の場では、優しい子のままだった。

 

私とマーちゃんの、寮の二人だけの約束。それは、ここには出てこない。記者には聞かせない。

 

マーちゃん、こういうとこ、ちゃんとしてる、と胸の中で頷く。内と外をちゃんと分けている。寮の闘志と、会見場の顔を別物として扱っている。マーちゃんなりの仁義だった。

 

ジャズステップさんは目を細く開けて、「ジャズステップ。よろしく」とだけ言って、マイクから口を離した。本当にそれだけ。会見場が、ちょっとざわつく。記者の何人かが「え、これだけ?」みたいな顔をする。司会の人も、ちょっと戸惑っていた。

 

それでもジャズステップさんは、もう口を開かない。視線をテーブルの一点に落としている。

 

あの人なりの抱負の述べ方なんだろうな、とぼんやり思った。要らないことは言わない。要ることだけ、言う。

 

ファーメントウィンさんがぴょこぴょこと弾むように、「ファーメントウィンですー! 高松宮、初めての大舞台で、すっごく緊張してますけど、頑張りますー! よろしくお願いしますー!」と明るく長めに話した。会見場がちょっと和む。

 

司会が締める。

 

「では、続いて、質疑応答に移らせていただきます」

 

 

 

 

 

 

「全日新聞運動部の中島と申します。カレンモエさんにお伺いします」

 

最初の質問が私に来た。

 

「香港スプリントでの優勝、おめでとうございます。世界の頂点に立たれた今、国内のレースに対するお気持ちを、お聞かせください」

 

「世界の頂点」を、まず前提に置いてくる。これは、その前提を答えに引きずらせるための聞き方だ。罠。

 

「ありがとうございます」

 

息を整える。

 

「香港のレースは、私にとって貴重な経験でした。海外の重い芝で走らせていただいて、自分の脚について、たくさんのことを学びました」

 

「ですが、私は日本で生まれて、日本で育ってきたウマ娘です。私の主戦場は、ここの芝です。高松宮記念は、その主戦場での、大切なレースです」

 

「他の皆さんと、いいレースをしたいと思っています」

 

「『世界の頂点』とは、考えていません。私は、次のレースで、私の走りをするだけです」

 

「世界の頂点」を、ぱしっと否定できた、と思う。

 

絢原さんが、日本の芝に帰ってきた頃に言ってくれた言葉を、ちょっとだけ思い出す。「ラベルは外から貼られるものだ」「俺が見てるのは、ラベルの方じゃない。お前の方だ」。

 

記者がメモを取った。次の質問者が手を挙げる。

 

「スポーツ日報の森本です。アストンマーチャンさんにお伺いします」

 

「カレンモエさんとは、栗東寮で同室と伺っております。最近、お話しする中で、お互いの調整について、何か共有されていることはありますか」

 

意地悪な質問だった。マーちゃんが私から情報を引き出している、と仄めかしている。あるいは、私たちの寮での関係を、根掘り葉掘り聞き出そうとしている。

 

マーちゃんは、いつものにこにこ顔のまま、マイクを直す。

 

「モエちゃんとは、毎日お喋りしているのです」

 

「ですが、お互いの調整について、共有することはないのです」

 

「ライバルですから」

 

「ライバル」と、マーちゃんがそれをはっきり口に出した。会見場が、ちょっと静かになる。

 

「同じレースを走る相手の調整状況を、こちらに教えてもらおうなんて、マーちゃん、思わないのです。それは、モエちゃんに失礼なのです」

 

「マーちゃんは、マーちゃんの調整をします。モエちゃんは、モエちゃんの調整をします。レースの日に、お互いの全部をぶつけ合えば、いいのです」

 

「それが、ライバル、なのです」

 

「のです」の柔らかい語尾の中に、揺るがない芯があった。記者が何か言いかけて、口を閉じる。

 

マーちゃんは、それだけ言って、マイクから口を離した。

 

胸の中で、何かが跳ねる。

 

マーちゃんは、寮の闘志をここに持ち出さなかった。代わりに、「ライバル」という言葉で、私を対等な相手としてちゃんと位置づけている。「世界女王かどうか」とは関係なく、「同じレースを走る相手」として、私を扱っている。

 

寮で「次は本気で受けてもらうのです」と言ってくれた、あの闘志と、形は違う。でも、出てきた場所は、同じだった。

 

私はちょっと口の端を緩めた。マーちゃんに、見えないように。

 

 

 

「日刊運動報の黒田です。ファーメントウィンさんにお伺いします」

 

「はい!」

 

ファーメントウィンさんがマイクに近づく。

 

「先ほど『緊張してる』とおっしゃっていましたが、初めての大舞台、どんな気持ちで臨まれますか」

 

「えっと、はい! 緊張、すごいですー! 昨日、寝られなかったです!」

 

「で、でも、もっと、楽しみで!」

 

「楽しみ、というのは?」

 

「えっと、走るのが、楽しい、ので! 大きいレースで、強い人と、走れるのが、ほんと、楽しみで、いっぱいで!」

 

ファーメントウィンさんは、ぴょこぴょこした顔のまま、そう言う。

 

「それで、緊張が、ぜんぶ、楽しさに、ぐにゅって、変わって、なんか、よく分かんなくなって、寝られなくなった、感じなんですー!」

 

会見場が、ちょっと笑いに包まれた。記者の何人かが、にこにこしながらメモを取る。

 

私は、その横顔をちょっと見ていた。

 

——「楽しい」、って、即答した。

 

「走るのが、楽しい」。ファーメントウィンさんは、何の躊躇もなく、それを口にした。緊張と楽しみがぐにゅって混ざって、よく分かんなくなる、という素朴さで。

 

——私の「楽しい」と、ちょっと違う。

 

私の「楽しい」は、もっと苦い。簡単には口に出せない。覚醒した時に、自分の中に確かに見つけた、あれ。「楽しい」と「食い殺したい」が、同じ場所から出てきていて、引き剥がせない、あれ。

 

ファーメントウィンさんの「楽しい」は、もっと明るい場所から出てきている。憧れていたレースに出られる嬉しさ。強い人たちと走れるワクワク。そのまま口に出せる種類の楽しさだ。

 

でも。

 

——根は、同じ場所、なのかもしれない。

 

そう思った。

 

ファーメントウィンさんの「楽しい」も、私の「楽しい」も、どっちも、走ることに対して、自分の体の奥から出てきている何か。形は違う。色も違う。でも、根っこは、たぶん、同じ場所に繋がっている。

 

ウララちゃんと、ちょっと似ている、と思う。「走るのが好き」と言うウララちゃんと、「走るのが楽しい」と言うファーメントウィンさん。違う子なのに、目の奥の光が、似ていた。「走ること」が、自分の中の何かと繋がっている、人の目。

 

私の中にも、覚醒してから、その光が少しだけある。たぶん、もっとにじんで、もっと苦い光だけれど。

 

 

 

質疑は、もう少し続いた。

 

ブリーズシャトルさんへの「世代交代の象徴的な存在として、どう思うか」という質問。「えっ、私が? そんな、まだ、そんな……いえ、頑張ります!」と慌てたように答えていた。

 

ジャズステップさんへの「最近、結果が出ていない時期がありましたが」という質問。短く「気にしてない」だけで終わらせた。

 

そして、また私に、質問が回ってくる。

 

「競駿スポーツの吉田です。カレンモエさんにお伺いします」

 

「はい」

 

「香港スプリントの最終直線、海外メディアでも大きな注目を集めた走りでした。あの加速、ご自身の中で、もう一度引き出せる感覚として、まだ近くにありますか」

 

胸の中が、少しザワついた。

 

「もう香港でピークアウトしたんじゃないか」。SNSで漂っているあの空気を、丁寧に、礼儀正しく、形を整えて、ぶつけてくる質問。

 

息を整える。

 

「えーと……」

質問ありがとうございます、なんていう余裕はなかった。

 

「あの走りは、私の体が、今もちゃんと覚えています。引き出せる感覚として、まだ近くにあります」

 

「ただ、香港の重い芝の上で出たものなので、ここの軽い芝の上で、同じ形で出るかは、別の話です」

 

「高松宮記念では、その場所で出せる、私の走りをします。それを、見ていただけたら、嬉しいです」

 

「ありがとうございます」と記者がメモを取った。表情から、満足してくれているのか、そうじゃないのかは、読み取れない。

 

近いか、遠いか。引き出せるか、もう出ないか。それは記者が一番気にしている部分だった。「近くにあります」と、私は答えた。

 

——絢原さん、これで合ってる、よね。

 

胸の中で、確かめる。香港の走りは、確かに、私の中にある。引き出せる感覚として、まだ消えていない。ただ、ここで再現するかは、別の話。それも、本当のことだった。

 

次の質問者が手を挙げた。

 

「中央テレビの山口です。カレンモエさん」

 

「はい」

 

「香港から帰ってこられて以来、シルクロードSも含めて、ここの国内のコースで、調整を続けてこられたと思います。海外の重い芝とは、また違う芝の質だと思いますが、こちらのコースには、慣れてこられた感触はありますか」

 

胸の中で、何かが立ち上がる。

 

「こちらのコースには慣れたか」。優しい言い方だ。でも、ぶつけてくる方向は、はっきりしている。「海外で勝った後、国内のコースで、まだ本来の走りができていないですよね」。行間で、そう言っている。

 

シルクロードSのタイム、一分八秒七。香港の一分六秒台と比べたら、明らかに遅い。記者は、それを知った上で聞いている。

 

息を整える。

 

「ご質問、ありがとうございます」

 

「香港の重い芝と、ここの軽い芝は、確かに違う質の芝です。私の体は、香港で走った経験を、まだ覚えています。その上で、ここの芝に、もう一度合わせていく途中、というのが、今の私の状態です」

 

「シルクロードSは、その途中の一つでした。半身差での勝利は、私自身、勝ち方として、まだ満足のいくものではありません」

 

「ですが、トレーナーと一緒に、本番までに、もう一段、調整していきます。高松宮記念の日、私の走りで、皆様にお答えできるよう、準備していきます」

 

自分に確かめる。「慣れた」とも「慣れない」とも、言い切らなかった。「途中」だと答える。「シルクロードSは、満足じゃなかった」と、自分の口で認める。その上で、「高松宮で答える」と、未来に投げる。

 

記者がメモを取る。フラッシュが、もう一度こちらに焚かれた。

 

SNSの懐疑を、聞いてきたな、と思う。

 

私は、それをぱしっと否定しなかった。代わりに、認めた。「途中だ」と。「シルクロードSは、満足じゃない」と。

 

絢原さんは、ノートに書いてくれていた。「想定通り。だが、本番だと、危ない」と。それを、私は、自分の口で、認めるかたちで外側に置いた。

 

完璧じゃない、世界女王。それを、隠さなかった。

 

 

 

最後にもう一度、私への質問が来る。

 

「太陽スポーツの渡辺です。カレンモエさん」

 

「はい」

 

「先ほどの『途中』『満足じゃない』というお話、率直に伺えたと思います。本番までの二週間ちょっと、特にどんなところに重きを置いて、調整される予定ですか」

 

——きた、ストレートな質問。

 

息を整える。

 

「ありがとうございます」

 

「香港から帰ってきてから、ずっと、ここの軽い芝の上での走り方の微調整を続けてきました。本番までの二週間ちょっとも、その続きになります」

 

「具体的なメニューは、トレーナーと相談して詰めていきます。私の側は、自分の脚で出せる答えを、当日までに、もう一段、磨いておきます」

 

「次の高松宮記念で、私の走りを、ご覧いただけたら、嬉しいです」

 

記者がメモを取った。

 

絢原さんは、関係者席で、たぶん、これを聞いている。絢原さん、ちゃんとできたよ、と胸の中で呟いた。

 

質疑が終わる。

 

司会が締めの挨拶を始めた。

 

「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございました。来たる高松宮記念に向けて、出走される皆さん、調整を進めてまいります。当日の、皆様のご声援を、よろしくお願いいたします」

 

ステージで、私たちは立ち上がって、記者席に向かって頭を下げた。フラッシュが、もう一度、波のように焚かれる。

 

控室の方へ降りていく。マーちゃんが人形を抱きしめながら、私の隣を歩いている。

 

「マーちゃん」

 

「ん」

 

「『ライバル』、って、言ってくれて、ありがとう」

 

「マーちゃんは、本当のことを言っただけなのです」

 

「うん」

 

それだけお互いに言って、控室の方へ戻った。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

関係者席の後ろの方。

 

俺は立って、ステージを見ている。

 

モエが最後の質問——「コースに慣れたか」の追加に答えている。

 

——うまく、かわしたな。

 

そう思った。

 

二ヶ月前、モエが日本の芝に帰ってきた頃に、俺はこう告げている。「ラベルは外から貼られるものだ」「俺が見てるのは、ラベルの方じゃない。お前の方だ」。モエは、それを自分の言葉に変えて、会見場で実行している。

 

「世界の頂点」もかわす。「世界女王」も口に出さない。「コースに慣れたか」の質問にも、認めるべきところを認めた上で、未来に投げた。「私の走り」と、ただそれだけを、自分の口で示す。

 

ステージから降りてくるモエの背中を、後ろから見ていた。

 

カメラマンの隙間を縫って、関係者出口の方へ歩く。

 

 

 

廊下。

 

会見場の出口から控室まで、関係者用の薄暗い廊下を歩いた。

 

モエが向こうから来る。アストンマーチャンさんと並んで。

 

モエが、俺を見つけた瞬間に、肩からふっと力が抜けたのが、遠目にも分かった。

 

「絢原さん」

 

「ああ」

 

「終わった」

 

「お疲れ」

 

モエが俺の隣に並ぶ。アストンマーチャンさんはちょっと頭を下げて、自分のトレーナーの方へ、人形を抱えたまま歩いていった。

 

俺とモエだけが、廊下に残る。

 

「車、回してある」

 

「分かった」

 

歩き始めた。廊下のリノリウムが、足音をぴた、ぴたと返してくる。

 

 

 

 

 

 

車中。

 

ホテルの地下駐車場から、車を出す。冬と春の境目みたいな、薄曇りの空が、車窓の向こうに流れていた。

 

モエは助手席で、まだ肩の力を緩めない。会見場の緊張が、まだ残っている顔だ。

 

ハンドルを握ったまま、口を開いた。

 

「『コースに慣れたか』の質問、いい答えだったな」

 

「ん」

 

「予想通り、聞かれたな」

 

「絢原さんの、言った通り」

 

「お前の答えも、悪くなかった」

 

「……ほんと?」

 

「ああ。『途中』と置いて、『高松宮で答える』と未来に投げた。あれで合ってる」

 

モエがスカートの端を、指先でちょっといじった。

 

「もう一つ、聞きたい」

 

「ん」

 

「シルクロードSの話、自分から『満足じゃない』って言ったな」

 

「……」

 

「あれは、自分の判断か」

 

「……聞かれた時に、そっちの方がいいと思って」

 

「……」

 

ハンドルをちょっと握り直す。

 

「いい判断だった」

 

「ほんと?」

 

「ああ。隠そうとすれば、必ずボロが出るものだ。先に自分から認めた方が、強くなる。お前の口から出たから、それが効いてた」

 

モエはちょっと俯いた。それから、顔を上げる。

 

ハンドルをちょっと切る。信号で止まった。

 

ハンドルから左手を離して、息を一つ吐く。

 

それから、口を開いた。

 

「お前は、カレンモエだ」

 

——え。

 

モエがこちらを見た。

 

「それ以上でも、それ以下でもない」

 

「……」

 

「世界女王だの、世界の頂点だの、外から貼られるものは、その後の話だ」

 

信号が青になる。車を走らせた。

 

モエは、しばらく何も言わない。スカートの端をぎゅっと握っている。横顔が、ちょっとこわばっているのが、視界の隅で見えた。

 

それから、ぽつ、と口を開く。

 

「絢原さん」

 

「ん」

 

「……それが、一番、嬉しい」

 

声が、少しだけ、震えている。

 

「絢原さんに、そう言ってもらえるのが、一番、嬉しい」

 

それだけ言って、モエはもう一度俯いた。スカートの端を握っていた指が、ゆっくり緩む。

 

「……ありがとう」

 

ちょっと、間が空いた。

 

「ああ」

 

それだけ、返した。

 

口の端をちょっと緩める。

 

「世界女王」と呼ばれることが重い、と感じていたモエが、それをちょっとだけ、別のものとして受け取った気がする。

 

剥がしたわけじゃない。否定したわけでもない。ただ、その手前に、お前自身がいる、と伝えただけだ。

 

カレンモエが、まず、いる。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 

 

車が信号でもう一度止まる。

 

モエが、肩の力をちょっと緩めた。しばらく、二人とも、何も言わない。エンジン音と、信号の規則的な明滅だけが、車内にあった。

 

「絢原さん」

 

「ん」

 

「明日の、別の角度の試行、ってどんな?」

 

「坂路の二本目を、ピッチ寄りで踏ませてみるつもりだ」

 

「分かった」

 

「効くかどうかは、まだ分からん。だが、やってみる価値はある」

 

「……うん。試す」

 

信号が青になる。車を走らせた。モエは、もう、スカートの端をいじらない。

 

——シルクロードSの「脚を戻す」試みは、想定通りに出た。だが、本番までに、もう一段の調整が必要だ。

 

そう思う。

 

モエが日本の芝に帰ってきた頃、俺は見たままを全部、モエに話している。本来の解も含めて。それでもモエは、脚を戻すことを選んだ。俺は、それに付き合うと言っている。

 

二ヶ月、毎日付き合ってきた。フォームの調整を何百通りも当てる。坂路の使い方を変える。プールの体幹の作り方を変える。それでも、芝の抉れの深さは、ほとんど浅くならない。

 

——本格化が、もう一段、深まったな、たぶん。

 

二ヶ月、毎日見てきて、その印象が、ゆっくり輪郭を持ってきている。

 

トレセン学園の建前では、本格化を見極めてから、デビューさせるのが原則だ。だが、本格化の判定は、完全じゃない。本格化前にデビューする子もいるし、デビュー後に、さらに深まる子もいる。

 

モエは、後者だった、というのが、俺の今の見立てだ。

 

本格化は、必ずしも、こちらが望んだ方向に進むとは限らない。

 

モエの本格化は、より力強く走る方向に、進んでしまっている。

 

香港の芝の上で本気で走ったことで、もう一段力強く踏み締める方向へ押し上げた。元から重馬場向きだったところに、さらに研ぎ澄まされた。

 

その代償が、日本の芝の上での、あの抉れだ。

 

確信は、ない。育成科学の見地で言えば、まだ仮説の段階だ。だが、二ヶ月、横で見てきて、その方向で、たぶん間違いない、と感じている。

 

シルクロードSは、半身差で勝った。想定通り。だが、本番だと、たぶん、足りない。それも、想定の範囲内だ。

 

本番までに、もう一段、組み直す。それが、俺の役目だ——が、正直、どこに正解があるのか、俺自身、まだ見えていない。

 

二ヶ月、毎日、ノートを開いては、ため息をついている。

 

そして、モエがレース当日、自分の脚で、どう走るか。それは、モエが選ぶ。

 

「告げて、選ばせて、付き合う」。

 

その「付き合う」の中に、本番までの二週間ちょっとも、入っている。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

車が学園のトレーナー棟の駐車場に着いた。

 

私は、髪のスズランを指先で最後にもう一度確かめて、車から降りる。絢原さんも、運転席から降りた。

 

空はもう、夕方の薄い紫色だった。三月の、まだちょっと冷たい風が、駐車場を吹き抜けていく。

 

「お疲れ」

 

「うん。絢原さんも」

 

「明日は、いつも通りの時間に、コースに来てくれ」

 

「分かった」

 

絢原さんは、それだけ言って、トレーナー棟の方へ歩いていった。

 

——明日も、いつも通り。

 

胸の中で、それを繰り返した。

 

絢原さんの「いつも通り」は、もう、私には分かる言葉だった。「フォームの試行錯誤、続ける」。「ノートにまた書きつける」。「『戻す』方向で、もう少し当ててみる」。「ホワイトボードをまた書き換える」。

 

二ヶ月、毎日それだった。これから二週間ちょっと、またそれを続ける。

 

——絢原さんは、選択肢を、もう、私に渡してくれた。

 

胸の中で、思った。

 

一月の半ばのあの日、絢原さんは、見たままを全部私に話してくれた。本来の解も含めて。「脚を戻す」と「戻さない」、両方の方向を、見せてくれた。私は、脚を戻すことを選んだ。絢原さんは、それに付き合うと言ってくれた。

 

その通り、二ヶ月、付き合ってくれている。

 

シルクロードSも、私が選んだ道の、途中だった。「想定通り」と、絢原さんはフラットに言ってくれた。

 

会見場で、私は「シルクロードSは、満足じゃない」と認めて、「私の走り」を別のものとして話した。それは、絢原さんが日本の芝に帰ってきた頃に教えてくれた、「外から貼られるものに振り回されるな」「俺が見てるのは、お前の方だ」を、自分の言葉に変えた答えだった。

 

会見場の答えは、出せた。

 

でも、レース場の答えは、まだ出ていない。脚を戻すことを選んだ私が、シルクロードSの半身差から、本番までの二週間ちょっとで、どこまで持っていけるか。それは、まだ決まっていない。

 

絢原さんは、そっちの答えも、私と一緒に組んでくれる。

 

そう、自分に言い聞かせる。

 

会見場の答えが出せたように。

 

レース場の答えも、二週間ちょっとで、絢原さんと一緒に、私が出す。

 

寮への並木道を歩いた。三月の夕方の、薄い紫の空の下で、私の影が長く伸びている。

 

——次の高松宮、まで。

 

そう、自分にもう一度言った。

 

「世界女王」って、いつまで呼ばれるんだろう、とぼんやり思う。

 

脚を戻す試みは、厳しい。シルクロードSは半身差で勝てたけれど、それは、想定通りに出ただけのこと。本番までの二週間ちょっとで、本当の答えを出せるかは、まだ、分からない。負ければ、「世界女王」は、すぐに別の誰かの肩に貼られるだろう。それは、それで、しょうがない、と思う。

 

でも、絢原さんが「お前は、カレンモエだ。それ以上でも、それ以下でもない」と言ってくれた。あれは、ラベルが剥がれた後にも、私のところに残る重さだった。

 

——この重さは、悪くないなあ。

 

そう、胸の中で繰り返して、寮へ向かう道を歩いた。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。