——Anti-Hero: Curren Moe
三月の中旬。
ホテルの控室の鏡の前で、勝負服のベルトのバックルをもう一度確認した。
左半分が黒、右半分が空色のビスチェ。太い黒のベルトに、銀のバックル。空色のチュールスカート。長い黒袖の袖口に、銀の刺繍。黒のチョーカー。黒のニーハイソックスに、黒のレースアップブーツ。髪にはスズランの飾り。
スタイリストの人が、最後にスズランの位置を直してくれたところだった。「世界女王として最初の公の場ですから」と、それだけ言って控室を出ていく。
スタイリストがつくようになったんだ、と思う。香港から帰ってから、こういう細かい扱いが、ちょっとずつ変わった。会見場の動線。控室の準備。記者対応の事前打ち合わせ。前の私には、ここまでの体制は組まれていなかった。
絢原さんと一緒に学園を出て、車でホテルまで来た。会見場までは関係者用の通路を通る、と聞いている。記者の囲み取材を避けるためらしい。それも、初めての扱いだった。
——二ヶ月。
鏡の中の自分をもう一度見る。日本の芝に帰ってきてから、二ヶ月。
絢原さんはあの日、見たままを全部、私に話してくれた。
「お前の脚は、香港で本気で走ったことで、本格化がもう一段深まった、と俺は見てる」「もともと踏み込みが強く、パワーの出力調整が苦手だったところに、さらに重馬場特化の方向へ振れた」「日本の芝の上では、その振れた分が、抉れとして出る」
本来の解は、ステージを変える事だと、隠さずに教えてくれた。
それでも、私は脚を戻すことを選んだ。「ここで走れない、なんて認めたくない」と。
絢原さんは「分かった」とだけ頷いて、その日からずっと付き合ってくれている。
二月のシルクロードSは、その試金石だった。
バリアブルサイトさんに半馬身差。最終直線のラスト百五十メートルで本来の脚に戻し、芝が抉れることを許して、スタミナを使い切って、ようやく抜け出した。タイムは一分八秒七。
「世界女王、シルクロードS制覇、本番に弾み」と書いた紙もあった。「世界女王、ステップレースで苦戦、本番に不安」と書いた紙もあった。
絢原さんは「想定通りだ」とだけ言った。
それから一ヶ月半。
絢原さんはホワイトボードを毎日書き換えている。坂路の使い方を変える。プールでの体幹の動かし方を見直す。ピッチドリルを組み込む。フォームの微調整を、毎日のメニューの最初に置く。
ノートも厚くなった。胸ポケットの中の、黒い表紙の二冊目。「カレンモエ育成計画」。私が走るたびに、絢原さんは何かを書きつけている。タイム。心拍数。フォームの細かい変化。芝の抉れの深さ。私の機嫌の波。マーちゃんと話したあとの表情の変化。
私の方も、毎日走っていた。
脚を戻すことを試す。フォームを少しずつ変えて、出力の中間を探した。シルクロードSの最後で本来の脚に戻したときの感覚を、最初から最後まで抑えたままで千二百を走れる線を、探す。
——厳しい。
一ヶ月半、毎日試した。フォームの調整は、絢原さんと一緒に、何百通りも当てる。それでも、芝の抉れの深さは、ほとんど浅くならない。
タイムは、走るたびにちょっとずつ上がっていく。フォームの調整というより、積み重ねの分だけ体が研ぎ澄まされている、ということだった。
絢原さんがペンの先で頬を叩く。
「今日は、昨日より少しだけ抉れが浅かった。恐らく、坂路の三本目のフォームが効いてるんだろう」
「うん」
「明日は、また別の角度を試してみる」
絢原さんは、それだけ言って、またストップウォッチを構えた。
ペンを構え直す前に、ちょっとだけ眉が寄っていたのが、視界の隅に映っていた。
ノートに書き込みが増えていく。私の走りを見ながら、絢原さんも一緒に、毎日、答えを探していた。「俺も手探りだ」と独り言のように一度、ぽつりと呟いたのが、耳に残っている。ホワイトボードの前で頬杖をついて、長く数字を眺めている背中も、何度も見ている。私の前では、必ず、まっすぐ「明日は別の角度」と次の試行を言ってくれる。それでも、私の見えないところで、何かを抱えているのは、見えていた。
私が脚を戻すことを選んで、絢原さんはそれに付き合うと言ってくれた。隣で見ているだけじゃない。一緒にもがいてくれている。
髪のスズランの位置を、指先でちょっと整えた。
鏡の中の自分をもう一度見る。最近、「世界女王」と呼ばれることが増えた。慣れない。
スカートの端を撫でる。肩書きが、ちょっと重い。
自分から名乗るような名前じゃない。これからも、そうするつもりはない。でも、向こうから貼られるのを、振り払うのも違う。乗せたまま、会見場に立つ。
ドアがノックされた。
「カレンモエさん、お時間です」
「はい、出ます」
スタイリストの人がドアを開けてくれる。眼鏡の奥の目がちょっと優しい。
「行ってらっしゃい、カレンモエさん」
「ありがとうございます」
廊下に出て、関係者用の通路を歩き始めた。
——SNSの懐疑、たぶん、向こうも踏まえてくる。
歩きながら、そう思った。
香港から帰って、シルクロードSの半馬身差勝利のあと、SNSには「世界女王の凱旋、思ったほどじゃない」「もう香港でピークアウトしたんじゃないか」という空気が、まだら模様で立ち上がっている。寮の部屋で、何度か見て知っていた。記者の中には、その空気を持ってくる人もいるかもしれない。
備えておく。絢原さんが教えてくれた言葉だった。
会見場へ向かう通路に入る。ライトが控室より明るい。フラッシュの音が、遠くから聞こえていた。
~
会見場。
ホテルの三階の大きな部屋。記者席がぎっしり並んでいる。前には大手紙のカメラマン。後ろには地方紙やネットメディアの記者。フラッシュの数が、いつもの倍くらいあった。
ステージに長机がひとつ。マイクが五本。私の席は左から三番目。
向かって左端から、ファーメントウィンさん、ジャズステップさん、私、ブリーズシャトルさん、マーちゃん。
「皆さん、本日はお忙しい中、お集まりいただき、ありがとうございます。来たる三月最終週の高松宮記念に向けて、出走を予定する五人の選手による共同記者会見を始めさせていただきます。順番に、各人から抱負をお話しいただきます」
司会の人が、左から紹介していった。
私の番が来た。
「カレンモエさん、お願いします」
マイクの位置をちょっと直す。フラッシュが一気にこちらに集まった。
「カレンモエ、です。本日は、ありがとうございます」
息を一つ吐いてから、続けた。
「先日の香港スプリント、無事に勝たせていただきました。先月のシルクロードSも、応援くださった皆様、ありがとうございました」
「次は、高松宮記念に出走させていただきます」
「目標は、勝つこと、です。他の皆さんといいレースができるよう、本番に向けて調整していきます」
平凡な抱負。それでいい。
マイクから口を離すと、フラッシュがまた、ぱっ、ぱっと焚かれた。
司会が次へ進む。
「ブリーズシャトルさん」
「ブリーズシャトル、です! 高松宮記念、出走、させていただきます!」
ブリーズシャトルさんの声が明るく響く。
「香港の海外勢に負けないように、頑張ります! 日本のスプリント路線を、もっと盛り上げていけたら、嬉しいです。よろしくお願いします!」
正統派の、若くて明るい抱負。記者の何人かが、にこにこしながらメモを取った。
司会が続ける。
「アストンマーチャンさん」
「マーちゃん、です」
マーちゃんは人形を机にちょこんと置いて、マイクを直した。
「次の高松宮記念、出走させていただくのです。皆さんに、いい走りをお見せできたら、と思うのです。よろしくお願いするのです」
「楽しみにしているのです」
それだけ言って、マーちゃんはマイクから口を離した。
——マーちゃんは、寮の話を、ここに持ち出さなかった。
「次は本気で受けてもらうのです」。あの夜、私にぶつけてきた言葉。それを、ここでは繰り返していない。「楽しみにしているのです」と、それだけ。
公の場では、優しい子のままだった。
私とマーちゃんの、寮の二人だけの約束。それは、ここには出てこない。記者には聞かせない。
マーちゃん、こういうとこ、ちゃんとしてる、と胸の中で頷く。内と外を、ちゃんと分けている。寮の闘志と、会見場の顔を、別物として扱っている。マーちゃんなりの仁義だった。
ジャズステップさんは目を細く開けて、「ジャズステップ。よろしく」とだけ言って、マイクから口を離した。本当にそれだけ。会見場が、ちょっとざわつく。記者の何人かが「え、これだけ?」みたいな顔をする。司会の人も、ちょっと戸惑っていた。
それでもジャズステップさんは、もう口を開かない。視線を、テーブルの一点に落としている。
あの人なりの抱負の述べ方なんだろうな、とぼんやり思った。要らないことは言わない。要ることだけ、言う。
ファーメントウィンさんがぴょこぴょこと弾むように、「ファーメントウィンですー! 高松宮、初めての大舞台で、すっごく緊張してますけど、頑張りますー! よろしくお願いしますー!」と明るく長めに話した。会見場がちょっと和む。
司会が締める。
「では、続いて、質疑応答に移らせていただきます」
~
「全日新聞運動部の中島と申します。カレンモエさんにお伺いします」
最初の質問が私に来た。
「香港スプリントでの優勝、おめでとうございます。世界の頂点に立たれた今、国内のレースに対するお気持ちを、お聞かせください」
「世界の頂点」を、まず前提に置いてくる。これは、その前提を答えに引きずらせるための聞き方だ。罠。
「ありがとうございます」
息を整える。
「香港のレースは、私にとって貴重な経験でした。海外の重い芝で走らせていただいて、自分の脚について、たくさんのことを学びました」
「ですが、私は日本で生まれて、日本で育ってきたウマ娘です。私の主戦場は、ここの芝です。高松宮記念は、その主戦場での、大切なレースです」
「他の皆さんと、いいレースをしたいと思っています」
「『世界の頂点』とは、考えていません。私は、次のレースで、私の走りをするだけです」
「世界の頂点」を、ぱしっと否定できた、と思う。
絢原さんが、日本の芝に帰ってきた頃に言ってくれた言葉を、ちょっとだけ思い出す。「ラベルは外から貼られるものだ」「俺が見てるのは、ラベルの方じゃない。お前の方だ」。
記者がメモを取った。次の質問者が手を挙げる。
「スポーツ日報の森本です。アストンマーチャンさんにお伺いします」
「カレンモエさんとは、栗東寮で同室と伺っております。最近、お話しする中で、お互いの調整について、何か共有されていることはありますか」
意地悪な質問だった。マーちゃんが私から情報を引き出している、と仄めかしている。あるいは、私たちの寮での関係を、根掘り葉掘り聞き出そうとしている。
マーちゃんは、いつものにこにこ顔のまま、マイクを直す。
「モエちゃんとは、毎日お喋りしているのです」
「ですが、お互いの調整について、共有することはないのです」
「ライバルですから」
「ライバル」と、マーちゃんがそれをはっきり口に出した。会見場が、ちょっと静かになる。
「同じレースを走る相手の調整状況を、こちらに教えてもらおうなんて、マーちゃん、思わないのです。それは、モエちゃんに失礼なのです」
「マーちゃんは、マーちゃんの調整をします。モエちゃんは、モエちゃんの調整をします。レースの日に、お互いの全部をぶつけ合えば、いいのです」
「それが、ライバル、なのです」
「のです」の柔らかい語尾の中に、揺るがない芯があった。記者が何か言いかけて、口を閉じる。
マーちゃんは、それだけ言って、マイクから口を離した。
胸の中で、何かが跳ねる。
マーちゃんは、寮の闘志を、ここに持ち出さなかった。代わりに、「ライバル」という言葉で、私を、対等な相手としてちゃんと位置づけている。「世界女王かどうか」とは関係なく、「同じレースを走る相手」として、私を扱っている。
寮で「次は本気で受けてもらうのです」と言ってくれた、あの闘志と、形は違う。でも、出てきた場所は、同じだった。
私はちょっと、口の端を緩めた。マーちゃんに、見えないように。
「日刊運動報の黒田です。ファーメントウィンさんにお伺いします」
「はい!」
ファーメントウィンさんがマイクに近づく。
「先ほど『緊張してる』とおっしゃっていましたが、初めての大舞台、どんな気持ちで臨まれますか」
「えっと、はい! 緊張、すごいですー! 昨日、寝られなかったです!」
「で、でも、もっと、楽しみで!」
「楽しみ、というのは?」
「えっと、走るのが、楽しい、ので! 大きいレースで、強い人と、走れるのが、ほんと、楽しみで、いっぱいで!」
ファーメントウィンさんは、ぴょこぴょこした顔のまま、そう言う。
「それで、緊張が、ぜんぶ、楽しさに、ぐにゅって、変わって、なんか、よく分かんなくなって、寝られなくなった、感じなんですー!」
会見場が、ちょっと笑いに包まれた。記者の何人かが、にこにこしながらメモを取る。
私は、その横顔をちょっと見ていた。
——「楽しい」、って、即答した。
「走るのが、楽しい」。ファーメントウィンさんは、何の躊躇もなく、それを口にした。緊張と楽しみがぐにゅって混ざって、よく分かんなくなる、という素朴さで。
——私の「楽しい」と、ちょっと違う。
私の「楽しい」は、もっと苦い。簡単には口に出せない。覚醒した時に、自分の中に確かに見つけた、あれ。「楽しい」と「食い殺したい」が、同じ場所から出てきていて、引き剥がせない、あれ。
ファーメントウィンさんの「楽しい」は、もっと明るい場所から出てきている。憧れていたレースに出られる嬉しさ。強い人たちと走れるワクワク。そのまま口に出せる種類の楽しさだ。
でも。
——根は、同じ場所、なのかもしれない。
そう思った。
ファーメントウィンさんの「楽しい」も、私の「楽しい」も、どっちも、走ることに対して、自分の体の奥から出てきている何か。形は違う。色も違う。でも、根っこは、たぶん、同じ場所に繋がっている。
ウララちゃんと、ちょっと似ている、と思う。「走るのが好き」と言うウララちゃんと、「走るのが楽しい」と言うファーメントウィンさん。違う子なのに、目の奥の光が、似ていた。「走ること」が、自分の中の何かと繋がっている、人の目。
私の中にも、覚醒してから、その光が少しだけある。たぶん、もっとにじんで、もっと苦い光だけれど。
質疑は、もう少し続いた。
ブリーズシャトルさんへの「世代交代の象徴的な存在として、どう思うか」という質問。「えっ、私が? そんな、まだ、そんな……いえ、頑張ります!」と慌てたように答えていた。
ジャズステップさんへの「最近、結果が出ていない時期がありましたが」という質問。短く「気にしてない」だけで終わらせた。
そして、また私に、質問が回ってくる。
「競駿スポーツの吉田です。カレンモエさんにお伺いします」
「はい」
「香港スプリントの最終直線、海外メディアでも大きな注目を集めた走りでした。あの加速、ご自身の中で、もう一度引き出せる感覚として、まだ近くにありますか」
胸の中が、少しザワついた。
「もう香港でピークアウトしたんじゃないか」。SNSで漂っているあの空気を、丁寧に、礼儀正しく、形を整えて、ぶつけてくる質問。
息を整える。
「えーと……」
質問ありがとうございます、なんていう余裕はなかった。
「あの走りは、私の体が、今もちゃんと覚えています。引き出せる感覚として、まだ近くにあります」
「ただ、香港の重い芝の上で出たものなので、ここの軽い芝の上で、同じ形で出るかは、別の話です」
「高松宮記念では、その場所で出せる、私の走りをします。それを、見ていただけたら、嬉しいです」
「ありがとうございます」と記者がメモを取った。表情から、満足してくれているのか、そうじゃないのかは、読み取れない。
近いか、遠いか。引き出せるか、もう出ないか。それは記者が一番気にしている部分だった。「近くにあります」と、私は答えた。
——絢原さん、これで合ってる、よね。
胸の中で、確かめる。香港の走りは、確かに、私の中にある。引き出せる感覚として、まだ消えていない。ただ、ここで再現するかは、別の話。それも、本当のことだった。
次の質問者が手を挙げた。
「中央テレビの山口です。カレンモエさん」
「はい」
「香港から帰ってこられて以来、シルクロードSも含めて、ここの国内のコースで、調整を続けてこられたと思います。海外の重い芝とは、また違う芝の質だと思いますが、こちらのコースには、慣れてこられた感触はありますか」
胸の中で、何かが立ち上がる。
「こちらのコースには慣れたか」。優しい言い方だ。でも、ぶつけてくる方向は、はっきりしている。「海外で勝った後、国内のコースで、まだ本来の走りができていないですよね」。行間で、そう言っている。
シルクロードSのタイム、一分八秒七。香港の一分六秒台と比べたら、明らかに遅い。記者は、それを知った上で聞いている。
息を整える。
「ご質問、ありがとうございます」
「香港の重い芝と、ここの軽い芝は、確かに違う質の芝です。私の体は、香港で走った経験を、まだ覚えています。その上で、ここの芝に、もう一度合わせていく途中、というのが、今の私の状態です」
「シルクロードSは、その途中の一つでした。半馬身差での勝利は、私自身、勝ち方として、まだ満足のいくものではありません」
「ですが、トレーナーと一緒に、本番までに、もう一段、調整していきます。高松宮記念の日、私の走りで、皆様にお答えできるよう、準備していきます」
自分に確かめる。「慣れた」とも「慣れない」とも、言い切らなかった。「途中」だと答える。「シルクロードSは、満足じゃなかった」と、自分の口で認める。その上で、「高松宮で答える」と、未来に投げる。
記者がメモを取る。フラッシュが、もう一度こちらに焚かれた。
SNSの懐疑を、聞いてきたな、と思う。
私は、それを否定しなかった。代わりに認めた。「途中だ」と。「シルクロードSは、満足じゃない」と。
絢原さんは、ノートに書いてくれていた。「想定通り。だが、本番だと、危ない」と。それを、私は、自分の口で、認めるかたちで外側に置いた。
完璧じゃない、世界女王。それを、隠さなかった。
最後にもう一度、私への質問が来る。
「太陽スポーツの渡辺です。カレンモエさん」
「はい」
「先ほどの『途中』『満足じゃない』というお話、率直に伺えたと思います。本番までの二週間ちょっと、特にどんなところに重きを置いて、調整される予定ですか」
——きた、ストレートな質問。
息を整える。
「ありがとうございます」
「香港から帰ってきてから、ずっと、ここの軽い芝の上での走り方の微調整を続けてきました。本番までの二週間ちょっとも、その続きになります」
「具体的なメニューは、トレーナーと相談して詰めていきます。私の側は、自分の脚で出せる答えを、当日までに、もう一段、磨いておきます」
「次の高松宮記念で、私の走りを、ご覧いただけたら、嬉しいです」
記者がメモを取った。
絢原さんは、関係者席で、たぶん、これを聞いている。絢原さん、ちゃんとできたよ、と胸の中で呟いた。
質疑が終わる。
司会が締めの挨拶を始めた。
「皆様、本日はお集まりいただき、ありがとうございました。来たる高松宮記念に向けて、出走される皆さん、調整を進めてまいります。当日の、皆様のご声援を、よろしくお願いいたします」
ステージで、私たちは立ち上がって、記者席に向かって頭を下げた。フラッシュが、もう一度、波のように焚かれる。
控室の方へ降りていく。マーちゃんが人形を抱きしめながら、私の隣を歩いている。
「マーちゃん」
「ん」
「『ライバル』、って、言ってくれて、ありがとう」
「マーちゃんは、本当のことを言っただけなのです」
「うん」
それだけお互いに言って、控室の方へ戻った。
~
——Trainer: Ayahara
関係者席の後ろの方。
俺は立って、ステージを見ている。
モエが最後の質問——「コースに慣れたか」の追加に答えている。
——うまく、かわしたな。
そう思った。
二ヶ月前、モエが日本の芝に帰ってきた頃に、俺はこう告げている。「ラベルは外から貼られるものだ」「俺が見てるのは、ラベルの方じゃない。お前の方だ」。モエは、それを自分の言葉に変えて、会見場で実行している。
「世界の頂点」もかわす。「世界女王」も口に出さない。「コースに慣れたか」の質問にも、認めるべきところを認めた上で、未来に投げた。「私の走り」と、ただそれだけを、自分の口で示す。
ステージから降りてくるモエの背中を、後ろから見ていた。
カメラマンの隙間を縫って、関係者出口の方へ歩く。
廊下。
会見場の出口から控室まで、関係者用の薄暗い廊下を歩いた。
モエが向こうから来る。アストンマーチャンさんと並んで。
モエが、俺を見つけた瞬間に、肩からふっと力が抜けたのが、遠目にも分かった。
「絢原さん」
「ああ」
「終わった」
「お疲れ」
モエが俺の隣に並ぶ。アストンマーチャンさんはちょっと頭を下げて、自分のトレーナーの方へ、人形を抱えたまま歩いていった。
俺とモエだけが、廊下に残る。
「車、回してある」
「分かった」
歩き始めた。廊下のリノリウムが、足音をぴた、ぴたと返してくる。
~
車中。
ホテルの地下駐車場から、車を出す。冬と春の境目みたいな、薄曇りの空が、車窓の向こうに流れていた。
モエは助手席で、まだ肩の力を緩めない。会見場の緊張が、まだ残っている顔だ。
ハンドルを握ったまま、口を開いた。
「『コースに慣れたか』の質問、いい答えだったな」
「ん」
「予想通り、聞かれたな」
「絢原さんの、言った通り」
「お前の答えも、悪くなかった」
「……ほんと?」
「ああ。『途中』と置いて、『高松宮で答える』と未来に投げた。あれで合ってる」
モエがスカートの端を、指先でちょっといじった。
「もう一つ、聞きたい」
「ん」
「シルクロードSの話、自分から『満足じゃない』って言ったな」
「……」
「あれは、自分の判断か」
「……聞かれた時に、そっちの方がいいと思って」
「……」
ハンドルをちょっと握り直す。
「いい判断だった」
「ほんと?」
「ああ。隠そうとすれば、必ずボロが出るものだ。先に自分から認めた方が、強くなる。お前の口から出たから、それが効いてた」
モエはちょっと俯いた。それから、顔を上げる。
ハンドルをちょっと切る。信号で止まった。
ハンドルから左手を離して、息を一つ吐く。
それから、口を開いた。
「お前は、カレンモエだ」
——え。
モエがこちらを見た。
「それ以上でも、それ以下でもない」
「……」
「世界女王だの、世界の頂点だの、外から貼られるものは、その後の話だ」
信号が青になる。車を走らせた。
モエは、しばらく何も言わない。スカートの端を、ぎゅっと握っている。横顔が、ちょっとこわばっているのが、視界の隅で見えた。
それから、ぽつ、と、口を開く。
「絢原さん」
「ん」
「……それが、一番、嬉しい」
声が、少しだけ、震えている。
「絢原さんに、そう言ってもらえるのが、一番、嬉しい」
それだけ言って、モエはもう一度俯いた。スカートの端を握っていた指が、ゆっくり緩む。
「……ありがとう」
ちょっと、間が空いた。
「ああ」
それだけ、返した。
口の端を、ちょっと緩める。
「世界女王」と呼ばれることが重い、と感じていたモエが、それをちょっとだけ、別のものとして受け取った気がする。
剥がしたわけじゃない。否定したわけでもない。ただ、その手前に、お前自身がいる、と伝えただけだ。
カレンモエが、まず、いる。それ以上でも、それ以下でもない。
車が信号でもう一度止まる。
モエが、肩の力をちょっと緩めた。しばらく、二人とも、何も言わない。エンジン音と、信号の規則的な明滅だけが、車内にあった。
「絢原さん」
「ん」
「明日の、別の角度の試行、ってどんな?」
「坂路の二本目を、ピッチ寄りで踏ませてみるつもりだ」
「分かった」
「効くかどうかは、まだ分からん。だが、やってみる価値はある」
「……うん。試す」
信号が青になる。車を走らせた。モエは、もう、スカートの端をいじらない。
——シルクロードSの「脚を戻す」試みは、想定通りに出た。だが、本番までに、もう一段の調整が必要だ。
そう思う。
モエが日本の芝に帰ってきた頃、俺は見たままを全部、モエに話している。本来の解も含めて。それでもモエは、脚を戻すことを選んだ。俺は、それに付き合うと言っている。
二ヶ月、毎日付き合ってきた。フォームの調整を、何百通りも当てる。坂路の使い方を変える。プールの体幹の作り方を変える。それでも、芝の抉れの深さは、ほとんど浅くならない。
——本格化が、もう一段、深まったな、たぶん。
二ヶ月、毎日見てきて、その印象が、ゆっくり、輪郭を持ってきている。
トレセン学園の建前では、本格化を見極めてから、デビューさせるのが原則だ。だが、本格化の判定は、完全じゃない。本格化前にデビューする子もいるし、デビュー後に、さらに深まる子もいる。
モエは、後者だった、というのが、俺の今の見立てだ。
本格化は、必ずしも、こちらが望んだ方向に進むとは限らない。
モエの本格化は、より力強く走る方向に、進んでしまっている。
香港の芝の上で本気で走ったことで、もう一段、力強く踏み締める方向へ押し上げた。元から重馬場向きだったところに、さらに研ぎ澄まされた。
その代償が、日本の芝の上での、あの抉れだ。
確信は、ない。育成科学の見地で言えば、まだ仮説の段階だ。だが、二ヶ月、横で見てきて、その方向で、たぶん間違いない、と感じている。
シルクロードSは、半馬身差で勝った。想定通り。だが、本番だと、たぶん、足りない。それも、想定の範囲内だ。
本番までに、もう一段、組み直す。それが、俺の役目だ——が、正直、どこに正解があるのか、俺自身、まだ見えていない。
二ヶ月、毎日、ノートを開いては、ため息をついている。
そして、モエがレース当日、自分の脚で、どう走るか。それは、モエが選ぶ。
「告げて、選ばせて、付き合う」。
その「付き合う」の中に、本番までの二週間ちょっとも、入っている。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
車が学園のトレーナー棟の駐車場に着いた。
空はもう、夕方の薄い紫色だった。三月の、まだちょっと冷たい風が、駐車場を吹き抜けていく。
「お疲れ」
「うん。絢原さんも」
「明日は、いつも通りの時間に、コースに来てくれ」
「分かった」
絢原さんは、それだけ言って、トレーナー棟の方へ歩いていった。
——明日も、いつも通り。
胸の中で、それを繰り返した。
絢原さんの「いつも通り」は、もう、私には分かる言葉だった。「フォームの試行錯誤、続ける」。「ノートにまた書きつける」。「『戻す』方向で、もう少し当ててみる」。「ホワイトボードをまた書き換える」。
二ヶ月、毎日それだった。これから二週間ちょっと、またそれを続ける。
——絢原さんは、選択肢を、もう、私に渡してくれた。
胸の中で、思った。
一月の半ばのあの日、絢原さんは、見たままを全部、私に話してくれた。本来の解も含めて。「脚を戻す」と「戻さない」、両方の方向を、見せてくれた。私は、脚を戻すことを選んだ。絢原さんは、それに付き合うと言ってくれた。
その通り、二ヶ月、付き合ってくれている。
シルクロードSも、私が選んだ道の、途中だった。「想定通り」と、絢原さんはフラットに言ってくれた。
会見場で、私は「シルクロードSは、満足じゃない」と認めて、「私の走り」を別のものとして話した。それは、絢原さんが日本の芝に帰ってきた頃に教えてくれた、「外から貼られるものに振り回されるな」「俺が見てるのは、お前の方だ」を、自分の言葉に変えた答えだった。
会見場の答えは、出せた。
でも、レース場の答えは、まだ出ていない。脚を戻すことを選んだ私が、シルクロードSの半馬身差から、本番までの二週間ちょっとで、どこまで持っていけるか。それは、まだ決まっていない。
絢原さんは、そっちの答えも、私と一緒に組んでくれる。
そう、自分に言い聞かせる。
会見場の答えが出せたように。
レース場の答えも、二週間ちょっとで、絢原さんと一緒に、私が出す。
寮への並木道を歩いた。三月の夕方の、薄い紫の空の下で、私の影が長く伸びている。
——次の高松宮、まで。
そう、自分にもう一度言った。
「世界女王」って、いつまで呼ばれるんだろう、とぼんやり思う。
脚を戻す試みは、厳しい。シルクロードSは半馬身差で勝てたけれど、それは、想定通りに出ただけのこと。本番までの二週間ちょっとで、本当の答えを出せるかは、まだ、分からない。負ければ、「世界女王」は、すぐに別の誰かの肩に貼られるだろう。それは、それで、しょうがない、と思う。
でも、絢原さんが「お前は、カレンモエだ。それ以上でも、それ以下でもない」と言ってくれた。あれは、ラベルが剥がれた後にも、私のところに残る、重さだった。
——この重さは、悪くないなあ。
そう、胸の中で繰り返して、寮へ向かう道を歩いた。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
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