——Anti-Hero: Curren Moe
芝に、跡が残る。
走り終えて振り返ると、私が蹴った場所が、点々と抉れている。一歩ごとに、深く沈んだ跡が、コースに残っている。
栗東の坂路の、朝。三月の半ばを過ぎて、空気の冷たさが少しずつ緩んできた。木の根元に、白い小さな花が咲き始めている。
会見が終わって、高松宮記念まで、あと二週間を切っていた。
私は、まだ、脚を戻せていない。
「もう一本」
絢原さんがストップウォッチを構える。
スタート地点に戻って、息を整える。坂路の傾斜を見上げる。今度は、踏み込みを少しだけ浅くする。地面を蹴る角度を、こころもち寝かせる。そういうつもりで、走り出した。
前半は、いい。体が軽い。傾斜を駆け上がる。
でも、後半。スピードを乗せようとした瞬間、脚が勝手に深く踏み込む。芝が、ぐっ、と抉れる。蹴った力が、地面の中に沈んでいく。前に進むはずの力が、足元に逃げていく。
ゴールを抜けて、流して止まる。
振り返る。後半の三十メートルだけ、跡が深い。
「タイム、聞く?」
下りてくると、絢原さんが言った。
「うん」
「前半のラップは、今週で一番速い」
「……でも」
「ああ。通したタイムは、戻ってない」
絢原さんは、それだけ言って、ノートに数字を書きつけた。胸ポケットの、黒い表紙の二冊目。私が走るたびに、ページが増えていく。
速くなっている、ところは、ある。前半のラップだけ。走るたびに、ちょっとずつ、削れていく。
でも、それを最後まで保たせた通しのタイムは、戻らない。後半でスピードを乗せにいくと、芝が抉れて、力が逃げる。前半で稼いだ分を、後半で全部、吐き出してしまう。前半が速くなるほど、後半の落ち込みが、大きくなる。
研ぎ澄まされているのは、前半の出力だけ。本当に戻したいのは、最後まで保つ走りの方なのに。
「絢原さん」
「ん」
「抜き気味にすると、進まない。全力で踏むと、抉れる。その、真ん中が」
「取れない、な」
こくり、と頷く。言葉にされると、その通りすぎて、ちょっと悔しい。
絢原さんはペンの先で頬を、こつ、と叩いた。
「真ん中の出力を、体に覚えさせるしかない。今やってるのは、そのための、当たりの探りだ」
「……何百通り、やったよ」
「ああ。やった。あと、何通りか、やる」
絢原さんは、そう言って、また坂路の方を見た。
私の前では、いつもこうだ。次にやることを、まっすぐ言う。「明日は別の角度」「次は踏み込みの深さ」「来週は坂路を抜いて平地で」。試すことが、まだ残っている、という顔をする。
でも。
休憩のとき、自販機の前で絢原さんが一人でノートを開いているのを、何度か見ている。長く、同じページを見ている。眉が、ちょっと寄っている。私が近づくと、ぱたん、と閉じて、「水、飲んどけ」と言う。
私の見えないところで、絢原さんも、もがいている。それは、見えていた。
~
寮の夜。
マーちゃんが、ベッドの上で、人形の綿を直していた。耳のところがちょっとへたっていたらしい。
私は、向かいのベッドに座って、足首を回している。一日走ったあとは、いつも、ここが固くなる。
「モエちゃん」
「ん?」
「最近、ちょっと、難しい顔してるのです」
人形の耳をぽんぽん、と整えながら、マーちゃんが言う。こっちを見ていない。手元を見たまま。
「……分かる?」
「マーちゃん、モエちゃんのこと、よく見てるのです」
足首を回す手を、止めた。
「ちょっと、調子、戻ってないんだ」
言ってしまってから、ちょっと後悔する。マーちゃんは、高松宮で、私と走る。戦う相手に、弱みを見せるみたいで。
でも、マーちゃんは、顔を上げなかった。人形の耳をもう一度ぽんと整えて、それから、ぽつりと言う。
「マーちゃん、モエちゃんを信じてるのです」
「……」
「調子が戻ってるとか、戻ってないとか、マーちゃんには分からないのです。でも、モエちゃんが、毎日走って帰ってくるのは、見てるのです」
「マーちゃん」
「だから、信じてるのです。それだけなのです」
マーちゃんは、それ以上、何も聞かなかった。「調子はどう」とも、「大丈夫」とも言わない。案じる顔も、見せない。
ただ、信じている、とだけ。
それが、ちょっと、ありがたかった。同情されるより、ずっと。
「ありがと」
「ふふ。こちらエージェント・マー、モエちゃん担当なのです」
人形を、ぽすんと枕元に置いて、マーちゃんは布団に潜った。
私は、しばらく、天井を見ていた。
~
次の日も、その次の日も、走った。
平地で、坂路で、プールで。フォームの角度を変える。踏み込みの深さを変える。ピッチを上げる。下げる。一歩の幅を、広げる。狭める。
絢原さんが、毎朝、ホワイトボードにメニューを書く。前の日のノートを見て、今日の当たりを決める。
何かが、ちょっとずつ変わる日も、あった。
「今日の三本目、前半の抜き方が、よかった」
「ほんと?」
「ああ。後半まで、その抜き方を続けられたら、いけるかもしれない」
その言葉に、ちょっとだけ、胸が跳ねる。明日は、それを続けてみよう、と思う。
でも、次の日続けようとすると、後半でまた脚が勝手に深く踏み込む。芝が抉れる。
戻る。また、振り出しに戻る。
——海外で、体が、変わったんだ。
走りながら、何度も、そう思った。香港の、重い芝。あそこで、本気で踏み込んだ。そのときの感覚が、まだ、体に残っている。だから、日本の軽い芝の上で、力が余る。踏みすぎる。
体が、海外仕様のまま、帰ってきてしまった。だったら、日本仕様に、戻せばいい。戻せるはずだ。
そう思って、毎日、戻そうとしている。
戻らない。
~
ある日の、夕方だった。
練習を終えて寮に戻りかけて、ベンチにタオルを忘れたことに気づいた。日が、もう傾いていた。みんな引き上げたあとで、練習場には誰もいないはずだった。
取りに戻って、足が、止まった。
コースの方に、人影があった。
絢原さんだった。
一人で、コースにしゃがんでいた。私が午後に走って、抉った、あの跡。その一つの前にしゃがみ込んで、指でなぞっている。深さを、確かめるみたいに。何度も。ゆっくり、何度も。もう片方の手には、ストップウォッチを、握ったまま。
しゃがんだまま、しばらく動かなかった。それから立ち上がって、少し離れた別の溝の前に、またしゃがむ。同じように、指でなぞる。
声を、かけられなかった。
私の前では、いつもまっすぐだ。「明日は別の角度」「あと、何通りか、やる」。次にやることを、迷いのない声で言う。
でも、誰もいないと思っている練習場で、絢原さんは一人、私の掘った溝の前にずっとしゃがんでいた。背中が、いつもより、小さく見えた。
タオルは、明日でいい、と思った。
気づかれないように、そっと、来た道を引き返した。
胸の奥に、何かが、残った。重くて、あたたかい、変な感じだった。私が一人で戻らない脚と格闘している間、絢原さんも一人、同じ溝の前にしゃがんでいる。
私だけじゃ、なかった。
~
その日の、最後の一本だった。
午後の練習。曇っていて、風がなかった。
私は、もう一度、全力で踏んでみることにした。抜くのを、やめた。中間を探すのを、一回、やめてみる。本来の、香港のときの踏み込みで、千二百を最初から最後まで走ってみる。
それで、どれだけ抉れるのか。どれだけ進むのか。確かめたかった。
スタートした。
一歩目から、地面を、強く蹴る。
速い。びっくりするくらい、速い。体が、前に飛ぶ。風が、頬を切る。
——これだ。これが、私の、本当の。
でも。
三百メートルを過ぎたあたりから、おかしくなった。
蹴っても、蹴っても、進まない。力は、ちゃんと出ている。脚は、強く動いている。なのに、進まない。
足元を、力が、抜けていく。
芝が、深く、抉れる。一歩ごとに、ぐ、ぐ、と地面が沈む。蹴った力の半分が、その溝の中へ、消えた。
スタミナが、ありえない速さで、減っていく。
四百メートルで、もう、脚が重い。五百で、息が上がる。六百を抜けたとき、私はほとんど止まりかけていた。
流して、止まる。
膝に、手をつく。肩が、大きく上下する。たった六百で、こんなに。
息を整えてから、振り返った。
スタートから、ずっと。
私が走った跡が、点々と抉れている。一歩ごとの深い窪みが、コースに、ずっと続いている。こんなに深い跡は、初めてだった。これまでで、一番、深い。
その溝を、しばらく、見ていた。
「……なんで」
声が、ちょっと、漏れた。
「なんで、戻らないんだろう」
戻したいのに。戻せるはずなのに。毎日、何百通りも、試したのに。
体は、研ぎ澄まされていく。タイムは、上がっていく。でも、本当に戻したいこの溝だけが、浅くならない。むしろ、走り込むほど、深くなっていく気さえする。
スカートの裾を、ぎゅっと握った。
苛立ちが、胸の底でちょっと熱くなる。焦りが、その上に、薄く乗る。
でも、それを外に出すのは、違う。絢原さんが、ノートを閉じてもがいてくれているのを、私は知っている。マーちゃんが、信じてる、と言ってくれた。
握った手を、ゆっくり、ほどいた。
もう一回、振り返って、溝を見る。
「……まだ、やれることは、ある」
自分に言い聞かせるみたいに、呟いた。
スタート地点に、歩いて、戻り始める。
~
——Trainer: Ayahara
コースの脇で、俺はストップウォッチを止めた。
六百で、止まりかけた。
数字を見るまでもない。あいつが全力で踏み込んだ走りを、最後まで見ていた。前半の三百は、速かった。コースレコードの更新も、頭をよぎる速さだった。
そして、後半で、沈んだ。
ノートを開く。今日の数字を、書きつける。前半三百のラップ。後半の失速。芝の抉れの深さ。それから、あいつがスタート地点に向かって歩き出すまでの、間。
ペンを止めて、コースの跡を見る。
スタートから、ずっと、点々と抉れている。一歩ごとの、深い窪み。
——強すぎるんだ。
その言葉が、また、頭に浮かぶ。
あいつの脚は、ここの芝には、強すぎる。
香港の、重い芝。あそこで、あいつは、本気で踏み込んだ。重い足元が、あいつの力を全部、受け止めた。空回りしなかった。だから、勝てた。世界を、獲れた。
そして、本格化が、もう一段、深まった。振れた先は、重い足元だ。
帰ってきて、日本の軽い芝を踏むと、その振れた分が抉れになる。力が、地面に、逃げる。あいつの脚は、ここの芝には、強くなりすぎた。
これは、もう、あいつにも話してある。
——お前の脚は、重い足元向きだ。香港で、その方向に、もう一段、深まった。日本の軽い芝の上では、その分が、抉れとして出る。
二ヶ月前、見たままを全部、話した。隠さなかった。本来の解は「戻さないこと」だと、それも、言った。重い足元で走れば、あいつは、空回りしない。抉れない。本来の脚で、走れる。
でも、あいつは、選んだ。
——ここで走れない、なんて、認めたくない。
そう言って、脚を戻すことを選んだ。
俺は、「分かった」と、頷いた。
それだけだ。
止める権利は、俺にはない。あいつの脚は、あいつのものだ。どこで走るかを決めるのも、あいつだ。あいつが「戻す」と決めたなら、俺がやることは、一つしかない。
——付き合う。
隣で、見ているだけじゃない。一緒に、当たりを探す。何百通りも、当てる。あと、何通りでも、当てる。
戻る保証は、ない。
正直に言えば、戻らないだろう、と俺は思っている。本格化の方向は、そう簡単には、巻き戻せない。二ヶ月近く毎日試して、抉れは、ほとんど浅くなっていない。その事実が、答えに近い。
それでも。
あいつが「やれることは、全部やった」と、自分で言える場所まで。そこまでは、連れて行く。それが、戻すことを選んだあいつに付き合うと決めた、俺の仕事だ。
勝たせてやりたい。
その気持ちは、ある。世界を獲った脚が、自分の生まれた場所で、本来の走りができない。それを、誰よりも近くで毎日見ている。あいつが溝を見て、唇を噛むのも、見ている。
——勝たせて、やれないかもしれない。
その重さだけが、ノートの数字の隙間に、静かに積もっていく。
それを、あいつの前では、出さない。出してはいけない。トレーナーが不安な顔をすれば、走る方が、それを背負う。
俺は、ノートを閉じた。
胸ポケットに、しまう。
顔を上げると、あいつが、スタート地点に戻っていくところだった。
肩の力は、抜けている。さっき、溝を見て握った手を、もうほどいている。歩き方に、迷いがない。
止まりかけた六百の、すぐあとに。一番深い溝を、見たすぐあとに。
あいつは、また、走り出した。
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