アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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90話 肩の重さ

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

何本目かの走りを終えて、コースから引き上げてくると、フェンス際に見慣れない人影があった。

 

白衣。

 

「……タキオンさん?」

 

「やあ、モルモット君」

 

アグネスタキオンさんが、フェンスに肘をついてこっちを見ていた。手に白いマグカップを持っている。湯気が立っている。

 

珍しい。タキオンさんが、外にいるなんて。いつもは、理科準備室の薄暗い部屋にこもっている。カーテンを閉めて、モニターの光の中で、紅茶を飲んでいる人だ。日の当たる練習場の脇に立っているのを見るのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

「どうしたの、こんなとこ」

 

「データを取りに来たんだよ。君の走りの」

 

タキオンさんは、マグカップに口をつけた。一口飲んで、ちょっと顔をほころばせる。甘いんだろうな、と思う。砂糖をこれでもかと積む人だから。

 

「ずいぶん、難しい顔をしているね、モルモット君」

 

「……分かる?」

 

「顔に出ているよ。世界を獲った子の顔じゃない」

 

ぐ、と言葉に詰まる。

 

「走ってるとこ、見てくれてもいいけど」

 

「見ているよ。さっきから」

 

タキオンさんは、それだけ言って、また紅茶を飲んだ。何かを言うでも、聞くでもない。ただ、見ている。

 

この人は、私の脚を作り直した人だ。

 

オークスのあと、ぼろぼろになった私の脚をいったん全部ばらして組み直した。スクラップ・アンド・ビルド、って、本人はそう呼んでいた。今の私が走れているのは、半分くらい、この人のおかげだ。だから、信頼している。していると思う。

 

でも、たまに、分からなくなる。

 

タキオンさんが、私の脚を見るとき。検査のモニターの数字を見るとき。その目の奥に、私には読めない何かが、ある気がする。私の知らない私のことをこの人だけが、知っているような。気のせいかもしれないけど。

 

「タキオンさん」

 

「ん?」

 

「私の脚、戻ると思う?」

 

タキオンさんは、マグカップをちょっとだけ傾けた。中の紅茶を見るみたいに。

 

「それは、君と、トレーナー君が、決めることだよ」

 

「答えになってない」

 

「私は、結果を見るだけの人間だからね」

 

ふふ、と薄く笑って、紅茶を飲んだ。やっぱり、答えてくれない。

 

「……じゃあ、もう一本、行ってくる」

 

「ああ。データは、しっかり、もらっていくよ」

 

私は、スタート地点の方へ戻り始めた。

 

背中に、タキオンさんの視線を感じる。絢原さんとは、違う見られ方だ。絢原さんは、私を見る。タキオンさんは、私の走りを見る。同じ「見る」でも、何か別のものを見ている気がした。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

モエが、スタート地点の方へ歩いていく。

 

俺の隣に、タキオンが並んだ。マグカップから甘ったるい匂いがする。砂糖の量を考えると、毎度、見ているこっちの歯が痛くなる。

 

「相変わらず、無精だな。外に出てくるなんて」

 

「失礼な。これでも、忙しい合間を縫って来たんだよ、トレーナー君」

 

タキオンは、フェンスに肘をついたまま、モエの背中を見ている。

 

「ずいぶん、深く抉るようになったね、彼女」

 

コースに残った、さっきの跡を、顎で指す。深い跡が、点々と続いている。

 

「ああ」

 

「香港で、本格化が、もう一段深まった。重い足元の方へ振れた。——君も、そう見ているね」

 

「ああ」

 

短く返す。

 

「あいつにも、そう話した」

 

タキオンの動きが、ほんの少しだけ止まった。マグカップが、口の手前で止まる。

 

「……話したのか」

 

「全部だ」

 

俺は、コースの溝を見たまま、続けた。

 

「お前の脚は、重い足元向きだ。香港で、その方向に深まった。日本の軽い芝の上では、その分が抉れになる。——見たままを、全部、言った。本来の解は、戻さないことだと。それも、隠さなかった」

 

「ふうん」

 

タキオンは、マグカップを、ゆっくり下ろした。

 

「それで、モルモット君は」

 

「戻す、と言った。ここで走れないなんて、認めたくない、と」

 

「で、君は、付き合っている」

 

「ああ」

 

タキオンは、しばらく、何も言わなかった。紅茶を一口、飲んだ。それから、ちょっと笑ったような気配がした。

 

「君らしいよ、トレーナー君」

 

皮肉には、聞こえなかった。

 

「あの子の脚は、ここの芝には、合っていない」

 

タキオンが、ぽつりと言った。

 

「それは、私も、同じ結論だ。だいぶ前から」

 

「……気づいてたか」

 

「ええ」

 

タキオンは、マグカップの中を覗き込むようにした。紅茶の水面に、何かが映っているみたいに。

 

そこで、一瞬、言葉が途切れた。

 

タキオンが、何かを言いかけて、飲み込んだ。そんな間だった。長い付き合いだ。こいつが言葉を選ぶときの間の取り方は、知っている。今のは、選んだんじゃない。飲み込んだ方だ。

 

俺は、横顔を見た。

 

「……何か、あるのか」

 

タキオンは、紅茶の水面から、目を上げた。いつもの、薄く笑った顔に、戻っている。

 

「いいや。何も」

 

そう言って、フェンスから、肘を離した。

 

「私は、口を出さないよ。これは、君の領分だ」

 

白衣の裾を、ちょっと払う。

 

「ただし、見てはいる。それだけは、言っておく」

 

タキオンは、マグカップを片手に、練習場の出口の方へ歩き出した。白衣の背中が、春の手前の薄い日差しの中を、遠ざかっていく。

 

——あいつは、何か、知っている。

 

そんな気が、ずっと、している。香港の頃からだ。いや、もっと前からかもしれない。モエの脚について、俺が見ているものの、その先に、タキオンだけが見ているものがある気がする。

 

でも、タキオンが話さないなら、俺は問わない。

 

こいつが黙っているのは、黙っている理由があるからだ。それを、無理に開けさせる権利は、俺にはない。俺の領分は、ここだ。コースの上の、あいつの脚だ。

 

ノートを開く。

 

この二ヶ月の前半ラップが、左の列に並んでいる。一番上が、香港から帰った直後の数字。一番下が、昨日の数字。上から下へ、少しずつ削れている。速くなっている。毎日走り込んだ分だけ、前半の出力は、確かに研ぎ澄まされていく。

 

問題は、右の列だ。

 

同じ走りの通したタイム。前半で稼いだ速さを最後まで保たせた数字。こっちは、二ヶ月、ほとんど動いていない。むしろ、前半が速くなった日ほど、後半の落ち込みが大きい。前半で踏み込めば踏み込むほど、後半でその分、芝を抉って力が逃げる。

 

速さの断片は、毎日、手に入っている。

 

でも、それが、レースで使える一本の形にならない。

 

前半だけ速いコマ切れの数字が、列をなして、増えていく。それを見ていると、戻っていないことの方が、よけいに際立つ。速くなっている部分があるからこそ、戻らなさが、くっきりする。

 

ペンの尻で、こめかみを押した。

 

当たりは、まだ、出ていない。

 

スタート地点で、モエが、こっちに手を上げた。準備ができた、の合図だ。

 

ノートを閉じる。

 

俺は、ストップウォッチを、構え直した。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

その夜、寮の自室で、スマホを開いた。

 

開かなければ、よかった。

 

タイムラインに、私の名前が、流れている。

 

「世界女王、凱旋帰りの国内戦」「高松宮、連覇は確実か」「香港の覇者が、地元で見せる王者の走り」。

 

特集番組の、予告も流れてきた。私の、香港のレース映像。空色の勝負服。ゴール板を、最初に過ぎる瞬間。ナレーションが、何か、勇ましいことを言っている。「世界を制した彼女が、次に挑むのは——」。

 

スクロールする指を、止めた。

 

みんな、私が勝つと思っている。

 

世界を獲った子が、地元のレースで、負けるわけがない。そういう前提で、話が進んでいる。連覇は確実。王者の走り。当然のように、私の勝利が、置かれている。

 

——でも、私の脚は、戻ってない。

 

毎日、芝を抉っている。六百で、止まりかけた。一番深い溝を、見た。それを、誰も、知らない。

 

スマホを、伏せた。

 

ベッドの上で、膝を抱える。

 

学園の中でも、最近、視線を感じる。すれ違うウマ娘たちが、ちょっと姿勢を正す。道を譲ってくれる。「カレンモエさんだ」って、囁く声が、聞こえる。憧れと、それから、当然みたいな期待。「あの人が、負けるわけない」。

 

肩の上に、何かが乗っている。

 

「世界女王」という四文字。それが、ずっしりと重い。

 

不思議だった。

 

ずっと昔。デビューしたばかりの頃。私は、逆のことで苦しんでいた。「カレンチャンの娘」。母の名前の影。誰も、私自身を見てくれなかった。「あのカレンチャンの娘」としか、見られなかった。だから、私は、叫んでいた。私を見て。私を、見てよ。母じゃなくて、私を。

 

今は、逆だ。

 

みんなが、私を見ている。世界女王として。覇者として。当然、勝つ者として。

 

——見ないで。

 

そう、思っている。

 

私を見て、と叫んでいた子が、今は、見ないでと思っている。

 

同じ、ラベルなのに。外から貼られる、私じゃない、何か。向きが正反対なだけで、重さは、変わらない。むしろ、こっちの方が、重いかもしれない。「娘」のときは、否定されていた。今は、期待されている。期待は、否定よりも、ずっと重い。

 

膝を抱えたまま、しばらく、じっとしていた。

 

それから、ふと、絢原さんの声を思い出した。

 

——お前は、カレンモエだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

会見の帰り、車の中で、言われた言葉。

 

——世界女王だの、世界の頂点だの、外から貼られるものは、その後の話だ。

 

肩の上の四文字を、もう一度感じる。重い。でも。

 

その重さの下に、絢原さんの言葉が、薄く敷かれている。私を、地面に繋ぎ止めてくれているみたいに。

 

カレンモエだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

抱えた膝に、額をこつ、と乗せた。

 

明日も、走る。

 

戻らない脚で、それでも、走る。肩の上の四文字は、下ろせない。下ろし方も、まだ、分からない。

 

でも、その下に、繋ぎ止めてくれるものがある。

 

それだけは、確かだった。

 




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