アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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91話 背中の責任

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

練習を終えて、コースから引き上げてくると、フェンスの外で誰かが待っていた。

 

「カレンモエ先輩!」

 

明るい声だった。ブリーズシャトルさんだ。会見で隣の隣に座っていた若い子。高松宮に出る。

 

「お疲れさまです! あの、練習、見学させてもらってました」

 

ぺこりと頭を下げる。栗色の髪が揺れた。

 

「見学?」

 

「はい! カレンモエ先輩の走り、近くで見たくて」

 

——見ない方が、よかったのに。

 

そう思った。今日も、踏み込むたびに芝が抉れて、前に進まなかった。溝を掘っては止まり、掘っては止まり、それを何本も繰り返しただけだ。世界女王の走りなんて、呼べるものじゃない。

 

でも、ブリーズシャトルさんの目はきらきらしていた。

 

「香港のレース、何度も観ました。配信のアーカイブ、もう、何回観たか分からないくらいで。最後の直線、空色がぐーんって伸びていくところ、鳥肌が立って」

 

早口だった。憧れが言葉からあふれている。

 

「すごかったです。本当に。世界一なんですよ、先輩」

 

私は何と返したらいいのか、分からなかった。世界一。その言葉が自分のことだと、うまく結びつかない。

 

「……そんなに、見るところあった? 今日の練習、ぐだぐだだったけど」

 

つい、そう言ってしまった。卑下するつもりじゃなくて、本当に分からなかったからだ。

 

ブリーズシャトルさんは、きょとんとした。それから、ぶんぶんと首を振った。

 

「そんなことないです! 踏み込む時の力強さとか、近くで見たら迫力がすごくて。私、あんなふうには地面を蹴れないので」

 

地面を、蹴る。

 

その言葉に、ちょっとどきっとした。あの子は軽やかに蹴る。私は、抉る。同じ「蹴る」でも、まるで違う。それを、あの子は知らない。

 

「あの、私、こんなに大きいレース、初めてで」

 

ブリーズシャトルさんは、ちょっと声を落とした。

 

「昨日、緊張で、あんまり眠れなくて。でも、今日、先輩の練習を見たら、なんか、元気が出ました。やっぱり、すごい人は、すごいなあって」

 

すごい人。

 

抉れて、もがいていたさっきの私を見て、そう思ったらしい。何が見えていたんだろう、と思う。たぶん走る姿そのものに、勝手にすごさを足して見ている。憧れって、そういうものなのかもしれない。

 

 

 

いつもなら、こういうのは慣れている。

 

放っておいても、人は私に寄ってくる。撮影でも、会見でも、レース場でも。私が何もしなくても視線が集まる。私の中の何かが、勝手に放たれているからだ。私を見ろ。私を愛せ。そういう声にならない声が、いつも私からにじみ出ている。

 

それには、慣れている。慣れて、利用さえしてきた。

 

でも、これは、違った。

 

ブリーズシャトルさんのは、私が放つ前に、向こうからまっすぐ飛んできた。純粋な、混じりけのない憧れ。打算も駆け引きもない。ただ、すごいと思っている。ただ、好きだと思っている。

 

そういうのを、正面から浴びると。

 

私の中のいつもの声が、うまく出てこない。代わりに別の何かが起き上がる。やりにくさ、みたいな。逃げ出したさ、みたいな。

 

この子は、私を世界一だと思っている。

 

その目を、裏切れない。

 

 

 

「先輩」

 

ブリーズシャトルさんが、フェンスにちょっと身を乗り出した。

 

「私も、いつか、世界の空の下を走ってみたいです」

 

きらきらした目が、まっすぐ私を見ていた。

 

「先輩みたいに。海の向こうで、一番になるところ、夢で見るんです。だから、明日の高松宮、すごく楽しみで。本場の——日本の頂点を、先輩がどう走るのか、近くで見られるの、嬉しくて」

 

胸の底で、何かがざらりとした。

 

——走れるよ。あなたなら。

 

そう、言いそうになった。口の手前まで、来ていた。

 

でも、止めた。

 

私は、その「世界の空」を持て余している。憧れる資格があるのかも分からないくらい、どうでもいいと思っている。そんな私が、無責任に行けるよなんて。言えなかった。

 

「……ありがと」

 

それだけ言った。ほかに、言えることがなかった。

 

ブリーズシャトルさんは、嬉しそうにもう一度頭を下げた。

 

「明日、よろしくお願いします! 先輩の走り、目に焼き付けます!」

 

「……ちゃんと寝なよ」

 

つい、言っていた。

 

「緊張で眠れないって、さっき言ってたでしょ。寝不足は、脚に出る。目をつぶってるだけでも、体は休まるから」

 

我ながら、トレーナーみたいなことを言う。絢原さんの受け売りだ。

 

ブリーズシャトルさんは、きょとんとした。それから、ぱっと笑った。

 

「……はい! ありがとうございます!」

 

栗色の髪を揺らして駆けていく。後ろ姿が軽い。地面を軽やかに蹴って、遠ざかっていく。

 

あの子の脚は、地面を蹴っても芝を抉らないんだろうな。ぼんやり、そう思った。

 

 

 

 

 

 

寮への道を歩いていると、ベンチで給水している人がいた。ジャズステップさんだった。

 

会見で、一番端に座っていた人。ベテランで、口数が少ない。最近は、あまり勝てていない、と聞く。

 

「お疲れさまです」

 

声をかけると、ジャズステップさんはこっちを見た。それだけだった。小さく顎を引くような、会釈。

 

憧れの目では、なかった。さっきのブリーズシャトルさんみたいに、きらきらしていない。かといって、世界女王を値踏みするような品定めの目でもなかった。

 

ただ、静かだった。

 

「明日、出られるんですよね」

 

私が言うと、ジャズステップさんはボトルのキャップを閉めながら短く答えた。

 

「走るだけだ」

 

それだけ。勝つとも、負けるとも、あなたには敵わない、とも言わない。明日、自分のレースを走る。ただそれだけ、という目だった。

 

立ち上がって、すれ違う。その間際、ほんの少しだけ足を止めた。

 

「世界がどうとか、関係ない。コースの上は、いつだって、一本道だ」

 

それだけ言って、行ってしまった。

 

淡々とした背中だった。

 

その背中を見ていたら、肩の力が少しだけ抜けた。憧れも、期待も、品定めもない、ただの一本道。そういう目で見てくれる人も、いるんだ。

 

 

 

寮の前まで来て、足を止めた。

 

世界の空の下を走ってみたい。

 

あの子は、そう言った。私みたいに、と。

 

ざらつきが、消えない。

 

——私は、その「世界の空」に、なんの価値も、見出してない。

 

香港で世界一になった。トロフィーをもらった。異名がついた。みんながすごい、と言った。でも私の中では、そんなに大きなことじゃなかった。獲りたかったのは母じゃない自分の証明で、それはもう、とっくに済んでいる。世界一は、そのおまけみたいなものだった。

 

私が今、走りたいのはここだ。日本のこの芝の上で、知ってる相手と走りたい。それだけだ。

 

なのに、その脚が戻らない。

 

あの子が憧れる「世界の脚」は、今の私にとって邪魔ですらある。この脚があるから、日本の軽い芝で抉れる。戻らない。苦しんでる。

 

ずれている。

 

あの子が見ている私と、ここにいる私がずれている。あの子は私の「世界」に憧れて、私はその「世界」を持て余している。

 

それを説明する言葉を、私は持っていなかった。説明したところで、あの子の夢を壊すだけだ。それは、したくない。

 

——裏切れない。

 

やりにくい。逃げ出したい。でも、あの子の目を裏切れない。あの子だけじゃない。明日、スタンドで私を見る目がたくさんある。世界女王がどう走るのか。みんな、それを見にくる。

 

肩の上の四文字が、背中にも回り込んできた気がした。

 

たくさんの目が、私の背中を見ている。その背中に応える責任が、いつのまにか乗っている。

 

下ろし方は、やっぱり、分からない。

 

でも。

 

「……明日、走るしかない」

 

呟いて、私は寮の方へ歩き出した。

 

 

 

 

 

 

前の夜。

 

マーちゃんは、明日の準備を念入りにしていた。勝負服にしわがないか、何度も確かめている。机に広げた持ち物を指で数えて、小さく頷いている。

 

「マーちゃん、準備しすぎじゃない?」

 

「こういうのが、大事なのです。気持ちが、整うのです」

 

私はベッドに寝転がって、その様子をぼんやり見ていた。マーちゃんのこういうきちんとしたところは、嫌いじゃない。

 

やがて準備を終えて、マーちゃんが電気に手を伸ばした。それから、ふと、こっちを向いた。

 

「モエちゃん」

 

「ん?」

 

「明日は、本気でいくのです」

 

ベッドの上で膝を抱えて、まっすぐ言う。いつものんびりした声なのに、芯が通っていた。

 

「知ってる」

 

「セントウルのときみたいには、いかないのです。マーちゃん、ずっと、待ってたのです。本気のモエちゃんと走るの」

 

——本気のモエちゃん。

 

マーちゃんも、そうなんだ、と思う。

 

マーちゃんが待っているのは、香港で世界を獲ったあの全開のモエだ。でも、その脚は今、戻らない。明日、私が見せられるのは、抉れながらもがく走りかもしれない。マーちゃんの期待にも、応えられないかもしれない。

 

それでも、言わなかった。

 

「うん。……いくよ。私の、走りで」

 

そう返すのが、精一杯だった。

 

マーちゃんは、ちょっと首をかしげた。それから、ふわっと笑った。

 

「モエちゃんが何を抱えてるのか、マーちゃんには分からないのです。でも」

 

枕を、ぽんと整える。

 

「明日、走るモエちゃんが、モエちゃんなのです。それで、いいのです。マーちゃんは、それと、走るのです」

 

それで、いい。

 

抱えているものを聞かない。励まさない。ただ、明日のモエが明日のモエだと、認めてくれる。

 

何日か前、調子が戻らないと打ち明けた夜も、マーちゃんはこうだった。いつも、こうだ。私が何を抱えていても、それごと信じている。

 

「……ありがと、マーちゃん」

 

「ふふ。おやすみなのです」

 

マーちゃんは布団に潜って、すぐに寝息を立て始めた。本当に、すぐだ。羨ましいくらい。

 

私は暗い天井を見上げ——ようとして、やめた。

 

目を、閉じた。

 

背中に乗った、たくさんの目。ブリーズシャトルさんの憧れ。マーちゃんの期待。スタンドの、世界女王への視線。下ろせないものが、重い。

 

でも、絢原さんの言葉を思い出す。

 

——お前は、カレンモエだ。

 

世界女王でも、誰かの夢でもない。私は、私だ。明日、私の脚で、私の走りをする。それが抉れる走りでも。戻らない脚でも。

 

二ヶ月、もがいた。絢原さんと、やれることは全部やった。あとは、走るだけだ。

 

明日、高松宮記念。

 

息を、ゆっくり吐いた。

 

少しずつ、体から力が抜けていく。

 




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