——Anti-Hero: Curren Moe
練習を終えて、コースから引き上げてくると、フェンスの外で誰かが待っていた。
「カレンモエ先輩!」
明るい声だった。ブリーズシャトルさんだ。会見で隣の隣に座っていた若い子。高松宮に出る。
「お疲れさまです! あの、練習、見学させてもらってました」
ぺこりと頭を下げる。栗色の髪が揺れた。
「見学?」
「はい! カレンモエ先輩の走り、近くで見たくて」
——見ない方が、よかったのに。
そう思った。今日も、踏み込むたびに芝が抉れて、前に進まなかった。溝を掘っては止まり、掘っては止まり、それを何本も繰り返しただけだ。世界女王の走りなんて、呼べるものじゃない。
でも、ブリーズシャトルさんの目はきらきらしていた。
「香港のレース、何度も観ました。配信のアーカイブ、もう、何回観たか分からないくらいで。最後の直線、空色がぐーんって伸びていくところ、鳥肌が立って」
早口だった。憧れが言葉からあふれている。
「すごかったです。本当に。世界一なんですよ、先輩」
私は何と返したらいいのか、分からなかった。世界一。その言葉が自分のことだと、うまく結びつかない。
「……そんなに、見るところあった? 今日の練習、ぐだぐだだったけど」
つい、そう言ってしまった。卑下するつもりじゃなくて、本当に分からなかったからだ。
ブリーズシャトルさんは、きょとんとした。それから、ぶんぶんと首を振った。
「そんなことないです! 踏み込む時の力強さとか、近くで見たら迫力がすごくて。私、あんなふうには地面を蹴れないので」
地面を、蹴る。
その言葉に、ちょっとどきっとした。あの子は軽やかに蹴る。私は、抉る。同じ「蹴る」でも、まるで違う。それを、あの子は知らない。
「あの、私、こんなに大きいレース、初めてで」
ブリーズシャトルさんは、ちょっと声を落とした。
「昨日、緊張で、あんまり眠れなくて。でも、今日、先輩の練習を見たら、なんか、元気が出ました。やっぱり、すごい人は、すごいなあって」
すごい人。
抉れて、もがいていたさっきの私を見て、そう思ったらしい。何が見えていたんだろう、と思う。たぶん走る姿そのものに、勝手にすごさを足して見ている。憧れって、そういうものなのかもしれない。
いつもなら、こういうのは慣れている。
放っておいても、人は私に寄ってくる。撮影でも、会見でも、レース場でも。私が何もしなくても視線が集まる。私の中の何かが、勝手に放たれているからだ。私を見ろ。私を愛せ。そういう声にならない声が、いつも私からにじみ出ている。
それには、慣れている。慣れて、利用さえしてきた。
でも、これは、違った。
ブリーズシャトルさんのは、私が放つ前に、向こうからまっすぐ飛んできた。純粋な、混じりけのない憧れ。打算も駆け引きもない。ただ、すごいと思っている。ただ、好きだと思っている。
そういうのを、正面から浴びると。
私の中のいつもの声が、うまく出てこない。代わりに別の何かが起き上がる。やりにくさ、みたいな。逃げ出したさ、みたいな。
この子は、私を世界一だと思っている。
その目を、裏切れない。
「先輩」
ブリーズシャトルさんが、フェンスにちょっと身を乗り出した。
「私も、いつか、世界の空の下を走ってみたいです」
きらきらした目が、まっすぐ私を見ていた。
「先輩みたいに。海の向こうで、一番になるところ、夢で見るんです。だから、明日の高松宮、すごく楽しみで。本場の——日本の頂点を、先輩がどう走るのか、近くで見られるの、嬉しくて」
胸の底で、何かがざらりとした。
——走れるよ。あなたなら。
そう、言いそうになった。口の手前まで、来ていた。
でも、止めた。
私は、その「世界の空」を持て余している。憧れる資格があるのかも分からないくらい、どうでもいいと思っている。そんな私が、無責任に行けるよなんて。言えなかった。
「……ありがと」
それだけ言った。ほかに、言えることがなかった。
ブリーズシャトルさんは、嬉しそうにもう一度頭を下げた。
「明日、よろしくお願いします! 先輩の走り、目に焼き付けます!」
「……ちゃんと寝なよ」
つい、言っていた。
「緊張で眠れないって、さっき言ってたでしょ。寝不足は、脚に出る。目をつぶってるだけでも、体は休まるから」
我ながら、トレーナーみたいなことを言う。絢原さんの受け売りだ。
ブリーズシャトルさんは、きょとんとした。それから、ぱっと笑った。
「……はい! ありがとうございます!」
栗色の髪を揺らして駆けていく。後ろ姿が軽い。地面を軽やかに蹴って、遠ざかっていく。
あの子の脚は、地面を蹴っても芝を抉らないんだろうな。ぼんやり、そう思った。
~
寮への道を歩いていると、ベンチで給水している人がいた。ジャズステップさんだった。
会見で、一番端に座っていた人。ベテランで、口数が少ない。最近は、あまり勝てていない、と聞く。
「お疲れさまです」
声をかけると、ジャズステップさんはこっちを見た。それだけだった。小さく顎を引くような、会釈。
憧れの目では、なかった。さっきのブリーズシャトルさんみたいに、きらきらしていない。かといって、世界女王を値踏みするような品定めの目でもなかった。
ただ、静かだった。
「明日、出られるんですよね」
私が言うと、ジャズステップさんはボトルのキャップを閉めながら短く答えた。
「走るだけだ」
それだけ。勝つとも、負けるとも、あなたには敵わない、とも言わない。明日、自分のレースを走る。ただそれだけ、という目だった。
立ち上がって、すれ違う。その間際、ほんの少しだけ足を止めた。
「世界がどうとか、関係ない。コースの上は、いつだって、一本道だ」
それだけ言って、行ってしまった。
淡々とした背中だった。
その背中を見ていたら、肩の力が少しだけ抜けた。憧れも、期待も、品定めもない、ただの一本道。そういう目で見てくれる人も、いるんだ。
寮の前まで来て、足を止めた。
世界の空の下を走ってみたい。
あの子は、そう言った。私みたいに、と。
ざらつきが、消えない。
——私は、その「世界の空」に、なんの価値も、見出してない。
香港で世界一になった。トロフィーをもらった。異名がついた。みんながすごい、と言った。でも私の中では、そんなに大きなことじゃなかった。獲りたかったのは母じゃない自分の証明で、それはもう、とっくに済んでいる。世界一は、そのおまけみたいなものだった。
私が今、走りたいのはここだ。日本のこの芝の上で、知ってる相手と走りたい。それだけだ。
なのに、その脚が戻らない。
あの子が憧れる「世界の脚」は、今の私にとって邪魔ですらある。この脚があるから、日本の軽い芝で抉れる。戻らない。苦しんでる。
ずれている。
あの子が見ている私と、ここにいる私がずれている。あの子は私の「世界」に憧れて、私はその「世界」を持て余している。
それを説明する言葉を、私は持っていなかった。説明したところで、あの子の夢を壊すだけだ。それは、したくない。
——裏切れない。
やりにくい。逃げ出したい。でも、あの子の目を裏切れない。あの子だけじゃない。明日、スタンドで私を見る目がたくさんある。世界女王がどう走るのか。みんな、それを見にくる。
肩の上の四文字が、背中にも回り込んできた気がした。
たくさんの目が、私の背中を見ている。その背中に応える責任が、いつのまにか乗っている。
下ろし方は、やっぱり、分からない。
でも。
「……明日、走るしかない」
呟いて、私は寮の方へ歩き出した。
~
前の夜。
マーちゃんは、明日の準備を念入りにしていた。勝負服にしわがないか、何度も確かめている。机に広げた持ち物を指で数えて、小さく頷いている。
「マーちゃん、準備しすぎじゃない?」
「こういうのが、大事なのです。気持ちが、整うのです」
私はベッドに寝転がって、その様子をぼんやり見ていた。マーちゃんのこういうきちんとしたところは、嫌いじゃない。
やがて準備を終えて、マーちゃんが電気に手を伸ばした。それから、ふと、こっちを向いた。
「モエちゃん」
「ん?」
「明日は、本気でいくのです」
ベッドの上で膝を抱えて、まっすぐ言う。いつものんびりした声なのに、芯が通っていた。
「知ってる」
「セントウルのときみたいには、いかないのです。マーちゃん、ずっと、待ってたのです。本気のモエちゃんと走るの」
——本気のモエちゃん。
マーちゃんも、そうなんだ、と思う。
マーちゃんが待っているのは、香港で世界を獲ったあの全開のモエだ。でも、その脚は今、戻らない。明日、私が見せられるのは、抉れながらもがく走りかもしれない。マーちゃんの期待にも、応えられないかもしれない。
それでも、言わなかった。
「うん。……いくよ。私の、走りで」
そう返すのが、精一杯だった。
マーちゃんは、ちょっと首をかしげた。それから、ふわっと笑った。
「モエちゃんが何を抱えてるのか、マーちゃんには分からないのです。でも」
枕を、ぽんと整える。
「明日、走るモエちゃんが、モエちゃんなのです。それで、いいのです。マーちゃんは、それと、走るのです」
それで、いい。
抱えているものを聞かない。励まさない。ただ、明日のモエが明日のモエだと、認めてくれる。
何日か前、調子が戻らないと打ち明けた夜も、マーちゃんはこうだった。いつも、こうだ。私が何を抱えていても、それごと信じている。
「……ありがと、マーちゃん」
「ふふ。おやすみなのです」
マーちゃんは布団に潜って、すぐに寝息を立て始めた。本当に、すぐだ。羨ましいくらい。
私は暗い天井を見上げ——ようとして、やめた。
目を、閉じた。
背中に乗った、たくさんの目。ブリーズシャトルさんの憧れ。マーちゃんの期待。スタンドの、世界女王への視線。下ろせないものが、重い。
でも、絢原さんの言葉を思い出す。
——お前は、カレンモエだ。
世界女王でも、誰かの夢でもない。私は、私だ。明日、私の脚で、私の走りをする。それが抉れる走りでも。戻らない脚でも。
二ヶ月、もがいた。絢原さんと、やれることは全部やった。あとは、走るだけだ。
明日、高松宮記念。
息を、ゆっくり吐いた。
少しずつ、体から力が抜けていく。
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