——Anti-Hero: Curren Moe
高松宮記念の、前の夜。
消灯した寮の部屋。マーちゃんは、もう寝ている。早寝の子だ。日付が変わる前に布団に潜って、すぐに寝息を立て始めた。
私は、なかなか寝つけなかった。暗い天井を見上げて、何度も寝返りを打って、それでも目が冴えている。
枕元のスマホを、手に取った。
画面の明かりをいちばん暗くする。音量を、ゼロの一つ手前まで絞って、イヤホンを片耳だけ着けた。マーちゃんを起こさないように。
動画サイトを開く。おすすめに、派手なサムネイルが並んでいた。そのうちの一つが、目に入った。
【緊急】世界女王、凱旋帰国!高松宮を完全予習【神レース】
スポーツ系の、エンタメチャンネルだ。再生数が、すごい数になっている。
私が、明日出るレースだ。
きっと、見ない方がいい。そう頭ではわかっていたけれど。
再生ボタンを、押した。
押して、しまった。
派手なオープニング。爆発みたいなエフェクト。けたたましい効果音。テンポの速い音楽。
『はいどうもー! 今夜は、今週末の大注目レース、高松宮記念を予習していきますよー!』
若い男の人の、勢いのある声。テロップが、画面じゅうを飛び回る。赤や黄色の、大きな文字。
『今年の高松宮、ぶっちゃけ主役は一人しかいません。この子!』
画面が、切り替わった。
私の顔が、どーんと大写しになった。
香港の映像だった。沙田の直線。空色のチュールを揺らして、先頭を駆け抜けていく私。最後の一完歩。ゴール板。世界の頂点を獲った、あの瞬間。
『カレンモエーッ! 香港スプリント、制覇ァ! 日本のウマ娘が、海の向こうで世界一になっちゃいました!』
ゴールの瞬間が、スローで、何度も繰り返される。きらきらしたエフェクトが、画面いっぱいに散る。『世界一』という巨大なテロップが、ばーんと出た。
『しかもこの子、ただ強いだけじゃないんですよ。顔! 見てくださいこの顔! かわいすぎません?』
撮影会の写真が、出てきた。黒の旧勝負服。レンズを射抜くような目。あのファッション誌のカット。
『「カレンチャンの娘」ですからね。あの伝説のアイドルウマ娘の。血は争えないってやつですよ。美の女王の、DNA』
——ママの、娘。
その言葉が、テロップで、きらきら光っていた。
スマホの、暗くした画面の中で、その文字が、やけに眩しかった。
『で、この藍鎚ちゃんがですね』
藍鎚ちゃん。
香港でついた異名に、「ちゃん」がくっついている。番組のノリだ。
『香港のクッソ重い芝を、力でぶっ叩いて勝ったわけですよ。もう、規格外。レベルが違う。それが古巣の高松宮に凱旋ですから、これは盛り上がるしかない!』
香港の映像が、また流れた。BGMに合わせて、いいところだけが、リズミカルに切り貼りされている。直線。坂。突き抜ける空色。派手な編集。
こう見ると、確かに私は速い。
派手な演出を抜きにしても、重い芝を蹴って、坂で突き抜けていく走りは、悪くなかった。
ああ、この映像だけ見ていたら。世界女王だ、圧勝だって錯覚してしまう人も、いるのかな。それくらいには、強そうに見える。
醒めた目で、そう思った。
『正直、相手じゃないでしょ。だって世界女王ですよ? 国内のレースなんて、片手間で勝っちゃうんじゃないですか?』
片手間。
そう言って、男の人は、楽しそうに笑った。
『一応、他のメンバーも見ときますか。えーと、アストンマーチャン、セントウルS勝ち。お、強いね。でもなー、世界女王の前だとなー』
マーちゃんの映像が、ちらっと映って、すぐに切り替わった。扱いが、軽い。一瞬だ。
『あとは、ベテランのジャズステップとか、新人の子とか。まあ、いるんですけど。今日はぶっちゃけ、脇役ということで!』
脇役。
マーちゃんも、ジャズステップさんも、ブリーズシャトルさんも、まとめて、そう呼ばれた。
『はい、というわけで結論!』
画面に、大きなテロップが出た。
『高松宮記念は、世界女王カレンモエの圧勝で決まり! みんな、空色のチュールに注目だ!』
『圧勝』の大きな2文字が、花火みたいなエフェクトと一緒に現れる。
『はい、今日も最後まで見てくれてありがとうございましたー! チャンネル登録、よろしくでーす!』
エンディング。派手な音楽。次の動画のサムネイルが、ずらっと並ぶ。
動画が、終わった。
イヤホンを、外した。
部屋が、静かになった。マーちゃんの寝息だけが、規則正しく聞こえている。
スマホの画面を、消した。
世界女王。藍鎚ちゃん。美の女王のDNA。圧勝で決まり。
ぜんぶ、軽かった。お祭りみたいに、私を持ち上げて、香港の映像を切り貼りして、圧勝だ、片手間だ、と煽る。マーちゃんたちを、脇役、の一言で片付ける。
楽しそうだった。あの動画を見た何万人もの人が、きっと、同じ気持ちでいる。世界女王の圧勝を、お祭りみたいに、楽しみに待っている。
でも。
あの「圧勝」の根拠になっている香港の走りは、重い芝の上だけのものだ。明日走るのは、中京の軽い芝。踏めば力の逃げる、あの芝。今、毎日の練習で、抉れて、もがいている、あの芝の上だ。
圧勝なんて、できない。片手間でも、ない。本当は、前について行くだけで、精一杯かもしれない。
それから——「カレンチャンの娘」「美の女王のDNA」。
ママの名前が、未だに、くっついてくる。
香港で、世界を獲って、藍鎚と呼ばれて。やっと、ママとは違う自分になれた、と思ったのに。エンタメの世界では、私はまだ「あの伝説のアイドルの娘」だ。血は争えない、と笑われる。
そういうものなんだろう。テレビの外の、お祭りの世界では。
そのズレが、胸の奥で、重かった。
暗い天井を、見上げた。
——お前は、カレンモエだ。
絢原さんの言葉を、思い出す。世界女王でも、藍鎚ちゃんでも、ママの娘でもない。私は、私だ。
明日。私は、私の脚で走る。それが、軽い芝で抉れる走りでも。動画が煽った、圧勝の世界女王に、届かなくても。
スマホを、枕元に戻した。
目を、閉じた。
マーちゃんの寝息が、すぐ近くで聞こえている。私も、そろそろ寝ないと。
明日は、高松宮記念だ。
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