アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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92話 高松宮記念 前編

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

三月末の朝はまだ冷たかった。

 

ほとんど眠れなかった。

 

ベッドの中で何度も寝返りを打って、天井を見て、目を閉じて、また開けた。マーちゃんは向かいのベッドですぐに寝息を立てていた。羨ましかった。私は明け方近くまで、二ヶ月のことをぼんやり思い返していた。

 

抉れた芝。前半だけ速くて、後半で沈むタイム。六百で止まりかけたあの感覚。何百通り試して、それでも浅くならなかった足元の窪み。

 

それから、誰もいない練習場で一人しゃがんで、私の掘った跡を指でなぞっていた絢原さんの背中。

 

全部抱えたまま、朝が来た。

 

寮を出るとき、絢原さんが門のところで待っていた。

 

「おはよう」

 

「ん。よく寝れたか」

 

「まあまあかな。緊張で、っていうより、マーちゃんの寝言がうるさくて」

 

嘘だった。マーちゃんの寝言なんて聞こえなかった。本当は、ほとんど寝ていない。でも、そう言っておけば、絢原さんは余計な心配をしない。

 

絢原さんはちょっとだけ口の端を上げて、「そうか」とだけ言った。たぶん、嘘だと分かっている。分かった上で、乗ってくれた。

 

中京まで車で向かう。

 

窓の外を、見慣れた景色が流れていく。二ヶ月、毎日通った練習場が後ろへ消えた。あの坂路も、あのプールも、あのコースも、今日の私を作った。作ったはずなのに、まだ答えは出ていない。

 

「作戦は、いつも通りだ」

 

絢原さんが前を見たまま言った。

 

「好位につけて、直線で勝負する。前半で飛ばしすぎるな。お前の脚は、今、前半で出しすぎると、後半がもたない」

 

「分かってるって。耳にタコだよ」

 

軽く返したけど、絢原さんは笑わなかった。

 

分かっている。何度も確かめた作戦だ。戻しきれなかった脚で、それでも一番勝ち目のある形。前半を抑えて、最後の直線で全部を解く。

 

ただ、その「全部」が軽い芝の上でどうなるかは、もう分かっている。

 

抉れる。空回りする。沈む。練習場で毎日そうだった。

 

でも、本番は違うかもしれない。練習と、GⅠの本番は違う。中京のいちばん大事な直線でなら、本気の本気でなら、ひょっとしたら噛み合うかもしれない。

 

そんな根拠のない望みに賭けるしかない。

 

それしか、証明する方法がないのだから。

 

「いつも通りでいい」

 

絢原さんがもう一度言った。今度は、作戦の話じゃなかった。

 

「お前は、お前のレースをすればいい。それだけだ」

 

窓の外を見たまま、頷いた。

 

 

 

 

 

 

中京に着くと、空気が変わった。

 

ファンの数。報道の数。私の名前を呼ぶ声。世界女王が地元のGⅠに帰ってきた。みんなそれを見にきている。それが車を降りた瞬間から、肌に伝わってきた。

 

控室で新しい勝負服に着替える。

 

黒と空色。左右で色が違うビスチェ。太い黒のベルトに、銀のバックル。空色のチュールスカート。長い黒袖の袖口に、銀の刺繍。黒のチョーカー。髪には、スズランの飾り。

 

鏡の中の自分を見る。

 

前に着ていた服は漆黒と銀だった。母の影を殺すための戦闘服。あの服を着ているあいだ、私はずっと何かと戦っていた。母の名前と。「カレンチャンの娘」という外から貼られたものと。

 

今は、違う。

 

黒と空色が同じ服の上で隣り合っている。どっちも、私だ。黒も、空色も。獰猛なものも、楽しいものも。全部、私のもの。戦う相手はもう外にはいない。

 

スズランの位置を指先で直した。

 

——今日は、証明する。

 

この脚で、ここで走れること。世界女王だからじゃない。カレンモエが、日本の芝の上で、ちゃんと走れること。それを、自分に見せる。

 

たとえ、空回りすると知っていても。

 

賭ける。今日、ここで。

 

 

 

パドックに出た瞬間、音の壁にぶつかった。

 

スタンドが埋まっている。中京の高松宮で、これだけの人が入るのは珍しいらしい。みんな、何かを待っている顔をしていた。周回を始めると、いっせいに私の名前を呼ぶ声が湧いた。

 

カレンモエ。世界女王。フラッシュが波のように光る。手作りのボードを掲げている人がいる。「凱旋連覇」と書いてある。空色のタオルを振っている人もいる。私の勝負服の色だ、と気づくのに少しかかった。

 

誰も、私が負けるとは思っていない。

 

それが、空気で分かった。世界を獲った子が、地元のレースに帰ってきた。勝つに決まっている。連覇するに決まっている。そういう確信が、スタンド全体から熱になって降ってくる。

 

一人ずつ、名前がアナウンスされる。呼ばれた順に、パドックの中央のお立ち台へ進み出て、観客にお披露目をする。

 

「——カレンモエ」

 

私の番が来た。お立ち台に上がる。

 

歓声が、ひときわ大きくなった。フラッシュが、いっせいに焚かれる。何千もの目が、私一人に向く。

 

——みんな、私の脚が戻ってないこと、知らないんだ。

 

お立ち台の上で、ぼんやり思った。

 

二ヶ月、芝を抉り続けた。前半だけ速くて、通したら戻らない脚。六百で止まりかけたあの感覚。それを知っているのは、絢原さんと、私と、たぶんタキオンさんだけだ。スタンドの誰も知らない。

 

みんなが見ているのは、香港で世界を獲った「カレンモエ」だ。空色がぐーんと伸びて、ゴール板を最初に過ぎた、あのカレンモエ。

 

そのウマ娘は、もうここにいない。

 

ここにいるのは、なぜか日本の軽い芝で空回りするようになった脚で、二ヶ月もがいて、それでも答えを見つけられなかった私だ。

 

ここにいる私と、みんなが見ている私の間に、二ヶ月ぶんの距離がある。

 

その距離を誰も知らないまま、声援だけが降ってくる。勝って当然、という熱が、肩の上にどんどん積もっていく。重い。

 

応えたい。こんなに待ってくれている。期待してくれている。

 

でも、応えられないかもしれない。その脚で。

 

その「かもしれない」を誰にも言えないまま、私はお披露目を終えて、また歩き出した。世界女王の顔で。

 

パドックの脇に、絢原さんが立っていた。

 

目が合うと、絢原さんは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。いつも通りやれ、と、その頷きが言っていた。スタンドの熱とは、別の温度。それだけが地に足をつけてくれた。

 

 

 

周回のあいだに、何人かと目が合った。

 

「モエちゃん」

 

マーちゃんだった。いつもの顔で、まっすぐこっちを見ている。

 

「本気で、お願いするのです」

 

それだけ言って、自分の周回に戻っていった。短い。でも、その目が全部を言っていた。香港で世界を獲った、本気のモエと走りたい。ずっと、それを待っていた、と。

 

——ごめん、マーちゃん。

 

心の中で謝った。

 

本気は、出す。それは約束する。手なんて抜かない。今日の私は、最初から最後まで全力で走る。マーちゃんを相手だと認めて、ぜんぶぶつける。それだけは間違いない。

 

でも、その全力が、マーちゃんの信じている私になるかどうか。

 

マーちゃんが待っているのは、香港で世界を獲った、あのモエだ。空色がぐーんと伸びて、誰も追いつけなかった、あの脚。マーちゃんは、あれと走りたい。あれを、本気のモエだと思っている。

 

私は、その本気を出すつもりだ。全力で。

 

なのに、その全力が、ここの芝では、たぶんあの姿にならない。空回りして、沈む。本気を出したのに、本気に見えない。マーちゃんが信じている私と、全力で走った結果の私が、別物になるかもしれない。

 

それが、いちばんこわい。

 

手を抜くことより、ずっと。

 

「先輩!」

 

ブリーズシャトルさんが駆け寄ってきた。栗色の髪が揺れている。

 

「今日、よろしくお願いします! 先輩の走り、近くで見られるの、ずっと楽しみにしてました!」

 

きらきらした目。昨日と同じだった。世界の空の下を走りたい、と、私に憧れている目。

 

私は小さく頷くことしかできなかった。

 

少し離れたところで、ジャズステップさんがこっちを見た。何も言わない。小さく、顎を引くような会釈だけ。一本道だ、と、あの人の目が言っている気がした。世界がどうとか、関係ない。コースの上は、いつだって一本道だ、と。

 

背中に、いろんな目が乗っている。

 

憧れ。期待。静かなまなざし。応えたい。でも、応えられないかもしれない。その脚で。

 

それでも、と思う。

 

応えるためじゃない。私が、私のために証明する。順番を間違えないようにする。今日、私が走るのは、誰かの期待のためじゃない。私が、ここで走れることを、私に見せるためだ。

 

 

 

 

 

 

ゲート裏。

 

十八人。

 

鉄枠が冷たい。手袋越しでも分かる。三月末の中京。晴天。芝は良。風はほぼない。

 

一年前と同じだった。同じ季節。同じ場所。同じ十八人のゲート。

 

周りを見る。

 

この距離で、何年も戦ってきた人たちだ。1200メートル。数字だけ見たら、すぐ終わる距離。でも、この距離で勝負するウマ娘たちの密度は、他のどのレースとも違う。息遣い一つ、肩の落とし方一つに、無駄がない。一歩の加速に全部を懸けてきた脚。スタートの一瞬の反応に、命を削ってきた人たち。

 

その密度の中に、私はいる。

 

一年前も、ここに立っていた。

 

——最終直線で、私の隣に来てください。

 

桜色の勝負服の人が、そう言ってくれた。ゲートの隣にいてくれた。私には、追いかける背中があった。バクシンオーさん。あの背中を追って、私は、初めて自分の意志で走り出した。あの直線は、楽しかった。悔しかった。全部、私だった。

 

今日は、その背中がない。

 

桜色は、もう、いない。あの人は走り終えて、引退した。私の前に、追いかけるべき背中は、どこにもない。

 

同じ場所のはずなのに、何かが、決定的に違う。

 

一年前、私は追いかける側だった。後ろから、一番速い背中を追って、覚醒した。今日は——追われる側だ。世界女王。十八人の中で、みんなが意識しているのは、私だ。私が、目標にされている。私の前には、追うべきものがない。

 

ゲートの中で、呼吸を整える。

 

心臓の音が聞こえる。速い。

 

でも、あのときとは違う速さだった。あのときは「走りたい」だった。嫌な速さじゃなかった。今日は、もっと重い。証明したい、という意志と、できるだろうか、という問い。賭けに勝てるだろうか、という怖さ。その全部が、混ざっている。

 

黒猫は、ちゃんといる。

 

香港で、自分の意志で動かせるようになった。もう、来るのを待つだけの私じゃない。行こうと思えば、行ける。それは分かっている。

 

問題は、いつも、脚の方だ。

 

行こうとしたとき、この軽い芝が、私の力を受け止めてくれるかどうか。たぶん、受け止めてくれない。二ヶ月、ずっとそうだった。でも、今日だけは、と願ってしまう。

 

考える暇はなかった。

 

 

 

——ゲートが、開いた。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

十八人が、同時に弾けた。

 

一歩目から、全力。1200メートルに、助走区間はない。芝の匂い。歓声の壁。鉄枠が後ろに消える。

 

体が反応する。

 

いい。動く。脚は、ちゃんと動く。

 

作戦通り、好位につける。前に四人。先行勢が、きれいに飛び出している。私は、五番手。内ラチ沿い。悪くない位置だ。

 

ここから、前半。

 

抑える。

 

絢原さんの言葉が頭にある。前半で出しすぎるな。溜めろ。だから、踏み込みを抜く。香港の本気の踏み込みじゃなく、その手前で、脚を回す。

 

でも、これが難しい。

 

抜きすぎると、進まない。脚が地面を捉えきらないまま、空回りして、後ろに下がる。かといって、踏み込みを深くすると、今度は芝が抉れる。力が地面に逃げる。やっぱり、進まない。

 

その、間。

 

抜きすぎでもなく、踏み込みすぎでもない、ぎりぎりの中間。そこだけが、唯一、まともに前へ進める。二ヶ月、ずっと探していた、あの細い線。

 

一歩ごとに、その線を探る。

 

今の一歩は、ちょっと深すぎた。芝がわずかに沈んだ。次は、少し抜く。抜きすぎた。進みが鈍る。もう少し、踏む。今度は、いい。でも、すぐ崩れる。

 

爆弾を抱えて走っているみたいだ。

 

少しでも力を入れすぎたら、抉れる。少しでも抜いたら、進まない。その、針の穴みたいに細い中間を、コンマ何秒ごとに、通し続けなきゃいけない。集中が一瞬でも切れたら、もう、線から外れる。

 

周りは、ハイペースで飛ばしている。

 

この距離のGⅠだ。みんな、最初から全力。私の好位も、抑えているから保てているだけで、少しでも気を抜いたら、置いていかれる。歴戦のスプリンターたちが、すぐ後ろ、すぐ横で、息を弾ませている。その圧の中で、私は、爆弾を抱えながら、細い線を通し続ける。

 

汗が、こめかみを伝う。

 

前半なのに、もう、神経がすり減っていく。普通の脚なら、ただ溜めていればいいだけの前半。それが、私には、いちばん難しい。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

スタートしました、高松宮記念!

 

先手を取ったのはパワーチャージャー! 好スタートから先頭へ! 二番手にサウザンボルテール、内からアストンマーちゃんが押し上げていきます!

 

そして注目のカレンモエ! 五番手の内、好位につけました! 世界の女王、地元GⅠでどんな走りを見せるか!

 

前半600メートル通過、33秒5! 速い! 今年も淀みのないハイペースです!

 

カレンモエ、位置は申し分ない! ですが、いつものあの加速、まだ見せません! 溜めているのか、それとも——

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

第二コーナーを回る。

 

残り、四百を切ろうとしている。

 

ここまでは、なんとか線を通してきた。好位は保っている。前に四人。脚は、まだ残してある。作戦通りだ。

 

前で、パワーチャージャーさんがペースを上げた。後ろから、マーちゃんの気配が内に寄ってくる。外から、ブリーズシャトルさんが上がってくるのが見えた。ジャズステップさんも、後ろからじわじわと位置を上げている。ファーメントウィンさんが、その外をすっと押し上げていく。

 

レースが、動き始めた。

 

みんなが、ここから勝負を仕掛けてくる。第三コーナーを回れば、最後の直線。そこで、全部が決まる。

 

私も、仕掛けなきゃいけない。

 

ここまで、抑えて、溜めて、細い線を通してきた。全部、この直線のためだ。最後に、全開を解いて、賭ける。そのために、前半を我慢してきた。

 

心臓が跳ねる。

 

——来るぞ。

 

腹の底が、熱くなり始める。黒猫が、目を覚ましかけている。私が呼べば、来る。香港のときみたいに。意志は、ある。火も、来る。

 

あとは、脚が応えてくれるかどうか。

 

賭けの時間が、近づいてくる。

 

第三コーナーが、目の前に迫る。

 




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