アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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93話 高松宮記念 後編

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

第三コーナーを回りきった。

 

残り、四百を切る。

 

ここから、だ。

 

私は、二ヶ月ぶんを、ここで出しにいった。

 

前半は、ずっと我慢してきた。抜きすぎず、全開にもせず、その間のどこかにある一点を、探りながら運んできた。深く踏めば沈む。浅ければ進まない。その境目の一点だ。絢原さんと何百通りも試して、毎日芝を抉りながら探り当てた、いちばんいい踏み込み。流すのでも、暴れるのでもない。私が見つけた走り方。

 

それを、ここで出す。前半で温存した全部を、この直線にぶつける。

 

火は、来ていた。

 

香港のときと同じだった。腹の底のずっと留守にしていた場所から、熱いものが這い上がってくる。ふくらはぎに降りて、太ももに届いて、腰の芯がじんと熱くなる。黒猫が目を覚ます。

 

もう、来るのを待つだけの私じゃない。私が呼んだ。私の意志で。スプリンターズSでそうできるようになった。

 

その火を、探り当てた当たりに乗せて、地面に置く。香港みたいに根こそぎ、じゃない。こするように、それでいて力は逃がさないように。二ヶ月の全部を、いちばん丁寧に、いちばん速く、一歩に込めた。

 

脚が、芝を捉えた。

 

沈みきる前に、次の一歩が出る。当たりが、合っている。練習場で、いちばんうまくいった日の感触だ。これを、二ヶ月、探してきた。

 

——保ってる。

 

でも、それだけだった。

 

前で、マーちゃんが抜け出していく。差が開く。当たりを守ったこの踏み込みは、置いていかれないだけで精一杯で、前を詰める力までは、出せない。このままじゃ、流して終わるだけだ。

 

走れた、と言うには、前へ出ないと。勝ちにいかないと。

 

だから、踏み込みを、深くした。当たりの、その先へ。

 

その瞬間、ぐ、と足元が沈んだ。

 

力が、地面の中へ逃げていく。

 

丁寧に置いていたはずの脚が、勝とうとした途端、芝を抉る。踏み込んだ分だけ、窪みが深くなる。蹴ったぶんの半分が、その中へ吸い込まれて消える。前へ進むはずだった力が、足元から抜け落ちていく。

 

当たりは、流すぶんには保つ。でも、本気で前へ出ようとした一歩で、あっけなく壊れた。当たりを守れる強さと、勝てる強さの間に、埋まらない谷がある。深まった脚は、その谷を、自分から踏み抜いてしまう。

 

抱えて走ってきた爆弾が、勝ちにいった足の下で炸裂した。

 

——ああ。

 

ここまで、か。

 

当たりは、確かに見つけた。二ヶ月、嘘じゃない進歩だった。でも、それでは、勝てない。分かっていた。分かっていて、それでも、出し切れば、この大舞台でなら、谷を越えられるかもしれないと、願っていた。

 

その願いを、芝が、容赦なく踏みつぶす。

 

火は、ある。ちゃんとある。脚も、回っている。意志も、ある。全部、揃っている。香港のときと、何も変わらない。私の中は、何も。

 

なのに、進まない。守れば、足りない。出せば、壊れる。練習場で、毎日突き当たった壁が、本番でも、そのまま立っている。

 

もう一度、踏む。もっと強く。今度こそ、と。地面を、力いっぱい噛む。

 

芝が、もっと深く抉れた。

 

進まない。それどころか、強く踏み込んだ反動で、私の体は、ほんの少し後ろに置いていかれる。回した脚が、空を切ったみたいに、手応えをなくす。

 

自分の意志で呼べるようになった、この火。それが、いま、私をいちばん深く沈めていく。

 

歯車が、噛み合わない。

 

香港では、噛み合っていた。踏むほどに、体が前へ出た。脚と、地面と、私の意志が、ぴったり同じ方向を向いていた。だから、あんなに気持ちよく走れた。

 

ここは、違う。

 

私が、いちばん丁寧に置いても。二ヶ月かけて見つけた、いちばんいい当たりで踏んでも。本気で前へ出ようとした瞬間に、それは壊れる。私が踏む。でも、地面が返してくれない。私の力を受け止めずに、ただ、抉れて、逃がす。脚は前に行きたがっているのに、地面が、その足首を、後ろから掴んでいるみたいだ。

 

噛み合わない。何度踏んでも、噛み合わない。

 

二ヶ月、積み上げた。やれることは、全部やった。今日、その全部を出し切った。それでも、届かなかった。それが、容赦なく突きつけられる。

 

体の中で、行き場をなくした力が、ぐるぐる回っている。出口がない。前へ出る、という出口が、塞がれている。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

第四コーナーを回って、最後の直線!

 

先頭はアストンマーちゃん! 内をすくって、抜け出した! 二番手、ブリーズシャトル、外から伸びる、伸びる! 三番手にジャズステップ、ベテランが渋とく食い下がる!

 

さあ、カレンモエ! 好位から、ここで仕掛けるはず——仕掛けた、仕掛けました!

 

……が、伸びない! 伸びてこない! あの香港の、世界をなぎ倒した末脚が、まったく出てこない!

 

世界女王、まさかの失速! 前との差が、詰まるどころか、開いていく! 外から、ファーメントウィンがカレンモエをかわしていく! いったい、何が起きているんでしょうか、カレンモエ、後退していきます!

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

前が、遠ざかる。

 

マーちゃんの背中が。ブリーズシャトルさんの空色じゃない勝負服が。ジャズステップさんの渋い影が。ファーメントウィンさんの背中も。みんな、私の前で、どんどん小さくなっていく。

 

追えない。

 

脚は、止めていない。むしろ、いまが、いちばん回している。火も、消えていない。全力で、踏んでいる。なのに、追えない。踏むほど、芝が抉れて、力が逃げて、置いていかれる。

 

力は、尽きていない。むしろ、有り余っている。脚も、止まらない。なのに、その力が、一歩ぶんも前に変わってくれない。

 

走っているのに、進んでいない。

 

練習場で、毎日、味わった走り方だ。それが、本番でも、何ひとつ変わらずに、私を捕まえている。

 

——届かない。

 

ここで、走れるはずだったのに。

 

一年前、この同じ直線で、私は目を覚ました。後方から、世界がひっくり返るみたいに、伸びた。あの上がりが、私を世界まで連れていった。

 

その同じ場所で、今年の私は、一歩も前に出られない。

 

二ヶ月。毎日、芝を抉って、当たりを探して、絢原さんと何百通りも試した。やれることは、全部やった。そう言える場所まで来た。今日、ここで、証明するはずだった。この脚で、日本の芝で、ちゃんと走れることを。世界女王だからじゃない。カレンモエが、ここで走れることを、自分に見せるはずだった。

 

なのに、積み上げた全部を出し切っても、この芝は、一歩ぶんも返してくれなかった。

 

ゴール板が、近づいてくる。

 

前には、もう、誰もいない。みんな、行ってしまった。私だけが、この噛み合わない体で、最後の直線を走っている。

 

それでも、止めなかった。

 

進まなくても、踏んだ。届かなくても、踏んだ。やめたら、本当に、何も残らない気がした。空回りでもいい、無様でもいい、最後まで全力で踏むことだけは、やめなかった。

 

ゴール板が、来た。

 

抜けた。

 

何も起こらないまま。

 

 

 

——The Aspirant: Breeze Shuttle

 

 

 

二着、だった。

 

ゴールを駆け抜けた瞬間、信じられなかった。私が、二着。アストンマーちゃん先輩の、すぐ後ろ。あと半身、というところまで迫っていた。

 

人生で、いちばんの走りだった。

 

GⅠで、二着。世代交代だなんて持ち上げられて、本当はずっと、足がすくんでいた。私なんかが、こんな舞台にいていいのか、って。でも、走れた。最後まで、伸びた。脚が、ちゃんと前に出た。

 

嬉しい。

 

嬉しい、はずだった。

 

でも、私は、振り返ってしまった。

 

減速しながら、後ろを探した。カレンモエ先輩が、いるはずの場所を。だって、私は、追いかけてきたんだから。憧れて、ここまで来たんだから。最後の直線で、隣に、あの空色が並んでくると思っていた。香港の配信で、何度も見た、あのぐーんと伸びる脚で。私の横を、風みたいに、追い抜いていくと思っていた。

 

そうしたら、私は、それを見られる。憧れの先輩の、世界一の走りを、いちばん近くで。

 

なのに。

 

カレンモエ先輩は、ずっと、後ろにいた。

 

五着。

 

私より、後ろ。私が、追い抜いた。ううん、追い抜いたんじゃない。先輩が、来なかった。来られなかった。

 

先輩は、走っていた。脚は、動いている。手なんて、抜いていない。顔は、必死だった。汗が、飛んでいる。全力なのは、誰が見たって分かった。

 

でも、前には進んでいない。

 

走っているのに、進んでいない。あんな走り方を、私は、初めて見た。

 

——これが、あの香港の……?

 

分からなかった。受け止められなかった。

 

私が憧れたのは、世界をなぎ倒した、あの脚だ。空色がぐーんと伸びて、ゴール板を最初に過ぎた、あのカレンモエだ。何回も配信を見て、鳥肌が立って、私も世界の空の下を走りたいって思わせてくれた、あの背中だ。

 

目の前にいるのは、同じはずなのに。同じ勝負服で、同じ芦毛で。

 

でも、走りが、まるで違った。

 

私は、その背中を、追い抜いてしまった。

 

喜んでいいのか、分からない。GⅠ二着。私の、いちばんの走り。嬉しいに決まっている。なのに、その嬉しさの真ん中に、ぽっかり、穴があいていた。憧れの先輩を、抜いてしまった。その姿が、沈んでいくのを、すぐ前で見ていた。

 

「先輩……」

 

声をかけようとして、言葉が出てこなかった。

 

何を言えばいいんだろう。すごかったです、なんて、もう言えない。今日のは、すごくなかった。お疲れさまでした、も、違う。私が、追い抜いた相手に。

 

私は、ただ、立ち尽くした。憧れが、足元から崩れていく音を、聞きながら。

 

 

 

——Recorder: Aston Machan

 

 

 

勝った。

 

マーちゃんは、本気で走って、本気で勝ったのです。

 

先頭でゴール板を駆け抜けた瞬間、スタンドが、わっと沸いた。マーちゃんの名前を、何万もの声が呼んでいる。気持ちいいのです。勝つのは、やっぱり気持ちいいのです。

 

でも。

 

振り返って、マーちゃんは探したのです。あの子を。

 

カレンモエちゃんを。

 

いた。五着のところに。肩で、息をしていた。ターフの上に、立っていた。倒れてもいないのです。膝に、手もついていない。ただ、立って、足元を見ていた。

 

マーちゃんは、知っているのです。

 

あの子の、本気を。

 

セントウルのとき、マーちゃんは、あの子に勝ったのです。でも、あれは、あの子が本気じゃなかったから。あの子の中の、いちばん獰猛なものが、マーちゃんを相手だと思ってくれなかったから。だから、マーちゃんは言ったのです。次は、もっと本気で走ってもらう、と。本気のモエちゃんと、走りたかったのです。

 

香港の、あの子を見たのです。配信で。世界を、なぎ倒していた。あれが、本気のモエちゃんなのです。あれと、走りたかったのです。

 

なのに。

 

今日のは、ちがう。

 

あの子は、本気だった。それは、分かるのです。さっき、後ろを走るあの子を、ちらりと見たのです。顔は、必死だった。手は、抜いていなかった。本気で、走っていた。本気で走って、それで、進んでいなかった。

 

本気なのに、本気の走りにならない。

 

そんなこと、あるのですか。

 

マーちゃんが、待っていたのは、これじゃない。本気を出さないあの子に、勝ちたかったんじゃない。本気を出したのに、走れないあの子に、勝ちたかったんじゃないのです。

 

勝ったのに。

 

ちっとも、すっきりしないのです。

 

胸の奥が、ざわざわするのです。何か、とてもよくないことが、あの子の身に起きている。マーちゃんには、それが何かは分からない。でも、よくないことだ、というのだけは分かるのです。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

走り終えて、流して、止まる。

 

膝には、手をつかなかった。つく気にならなかった。息は、上がっている。心臓が、まだ速い。でも、倒れ込むような、燃え尽きた感じはなかった。

 

それが、いちばんこたえた。

 

オークスのときは、違った。あのときは、全部、燃やし尽くして、倒れた。出し切って、空っぽになって、壊れた。だから、地面に倒れることに、理由があった。

 

今日は、力が残っている。

 

二ヶ月ぶんを、出し切ったのに。最後は香港の全力まで、振り絞ったのに。その力が、前に変わらなかったから、行き場をなくして、体の中にまだ残っている。じくじくと、燻っている。

 

出し切れなかったんじゃない。出したのに、消えなかっただけだ。

 

それが、悔しい。

 

でも、その悔しさにも、行き場がなかった。

 

オークスは、自分のせいだった。距離を間違えて、無謀に突っ込んで、壊れた。だから、悔しさも、後悔も、自分に向けられた。一年前の、この場所での敗けは、相手が強かった。バクシンオーさんが、速かった。だから、悔しさは、あの背中に向かった。「勝ちたかった」と、思えた。

 

今日は。

 

何に悔しがればいいのか、分からない。

 

私は、全力だった。脚も、ちゃんと回した。火も、出した。意志も、あった。間違ったことは、何もしていない。なのに、走れなかった。地面が、私の力を返してくれなかった。

 

誰のせいでもない。相手が、ずるをしたわけでもない。私が、手を抜いたわけでもない。

 

ただ、噛み合わなかった。

 

噛み合わなかった、という事実だけが、ぽつんと残っている。悔しさを、ぶつける先が、どこにもない。やり場のない悔しさが、力と一緒に、体の中で燻っている。

 

ターフの上に、立ったまま、動けなかった。

 

足元を、見た。

 

私が走った跡が、点々と抉れている。一歩ごとに、深く沈んだ窪みが、後ろへ続いている。練習場で、毎日見ていた。あれと、同じだ。あの窪みが、高松宮の本番の芝の上にも、ぜんぶ刻まれている。

 

二ヶ月、抉り続けた跡を、ここでも、また刻んだ。

 

前を、見る。

 

スタンドが、沸いている。マーちゃんの名前を、呼んでいる。勝った子の名前を。当然だ。マーちゃんは、本気で走って、本気で勝った。それは、祝福されるべきだ。

 

その歓声の、すぐ脇で。

 

私は、一人、自分の掘った窪みを見下ろしている。

 

空色の裾が、その窪みの上で揺れている。香港で世界を獲った色だ。

 

反対の半身は、黒い。いま足元に掘った、この窪みと、同じ黒だ。

 

世界を獲った色と、地面を抉った色を、私はひとつの体に纏って、その穴の上に立っている。

 

近くにいた誰かの声が、風に乗って、ちぎれて、耳に入ってきた。

 

「世界女王も、地元じゃ、あんなもんか」

 

「香港が、出来すぎだったんだろ」

 

——終わった。

 

その言葉が、すとん、と胸に落ちてきた。

 

否定したかった。違う、と叫びたかった。

 

でも、できなかった。

 

だって、今日の私は、走れなかった。それは、事実だ。この、足元の窪みが、それを証明している。違う、と叫んだところで、この窪みが、私の言葉を全部否定してくる。

 

——終わって、ない。

 

そう、思おうとした。心の中で、もう一度。

 

でも、その先が続かなかった。

 

終わってないなら、なぜ、走れないのか。この噛み合わなさは、何なのか。その答えを、私は、持っていない。一つも、持っていない。

 

ただ、立っていた。やり場のない悔しさと、行き場のない力を、体の中に抱えたまま。

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

スタンドで、あいつの全力を最後まで見ていた。

 

ストップウォッチは、握ったままだった。押すのを、忘れていた。

 

直線で、あいつが二ヶ月ぶんを出しにいったのが、はっきり分かった。前半で抑えていたものを、探り当てた当たりに乗せて、放った。フォームが、整っていた。練習場でいちばんうまくいった日の、あの形だった。

 

一度は、保った。

 

だが、前を捕まえにいった瞬間に、それが壊れた。マーちゃんを追って、踏み込みが一段深くなる。当たりの、その先へ。そして、沈んだ。

 

踏み込むほど、芝が抉れて、力が逃げる。前に出るどころか、後ろに置いていかれる。練習場で二ヶ月、毎日見てきたあの現象が、本番のいちばん大事な場面で、そっくりそのまま出た。

 

あいつは、手を抜いていない。むしろ、最後の最後まで踏み続けた。進まないと分かっても、踏むのをやめなかった。

 

その全部を、俺は知っている。

 

知っているのは、俺だけだ。

 

周りからは、別の声が聞こえてくる。世界女王が、地元で、五着。終わったんじゃないか。ピークアウトだ。香港が出来すぎだったんだ。

 

知らないんだ、こいつらは。

 

あいつの脚が、ここの軽い芝には強すぎることを。香港で本気を出したことで、本格化が、もう一段、深まってしまったことを。その深まった分が、軽い芝の上では、抉れにしかならないことを。あいつが、それを承知の上で、二ヶ月もがいたことを。今日、その二ヶ月で積み上げたものを全部ぶつけて、それでも勝つには足りないと、どこかで分かっていて、それでも最後まで踏み抜いて、ここで走れることを証明しようとしたことを。

 

何も知らないまま、こいつらは、終わった、と言う。

 

その言葉が、真実を知っている俺の、いちばん柔らかいところに刺さった。

 

刺さって、抜けない。

 

——勝たせて、やれなかった。

 

二ヶ月、付き合った。当たりを、何百通りも探した。それでも、戻せなかった。正直に言えば、戻らないだろう、と途中から分かっていた。本格化の方向は、そう簡単には巻き戻せない。

 

それでも、付き合うと決めた。あいつが「戻す」と選んだから。「ここで走れないなんて、認めたくない」と言ったから。その願いに、勝たせてやることで応えたかった。

 

応えられなかった。

 

俺の判断は、間違っていたのか。脚の特性を、全部告げた。本来の解は「戻さないこと」だと、隠さず教えた。その上で、あいつが選んだ道に付き合った。それは、間違いじゃない。あいつの脚は、あいつのものだ。どこで走るかを決めるのも、あいつだ。

 

頭では、分かっている。

 

でも、ターフの上で、たった一人、自分の掘った跡を見下ろしているあいつを見ていると。

 

悔しくて、たまらない。トレーナーとして、勝たせてやれなかったことが。一人の人間として、あいつが理不尽に断じられているのを、止められないことが。

 

ストップウォッチを、ポケットにしまった。

 

立ち上がる。

 

スタンドを降りて、あいつのところへ行く。ざわめきの中を、まっすぐ突っ切って。

 

何を言うかは、決まっている。

 

二ヶ月、ずっと言い続けてきたことだ。たぶん、これからも言い続ける。

 

——お前は、カレンモエだ。それ以上でも、それ以下でもない。

 

世界女王と持ち上げる声も、終わったと切り捨てる声も、お前の中身とは、関係ない。

 

お前は、お前だ。それだけは、誰が何と言おうと、変わらない。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

顔を、上げた。

 

スタンドの歓声の中を、一人、まっすぐこっちへ歩いてくる人がいた。

 

絢原さんだった。

 

「終わった」という声も、マーちゃんへの歓声も、何も気にしていない顔で。ただ、私のところへ、まっすぐ。

 

その姿を見たら、なぜか、少しだけ息が楽になった。

 

肩の上に、ずっと乗っていた「世界女王」の四文字も。背中に乗っていた、たくさんの目も。全部、まだそこにある。重い。下ろせない。

 

でも、絢原さんが、まっすぐ歩いてくる。スタンドの熱とは、ぜんぜん違う、別の温度で。それだけが、ぐらついた足元を、もう一度、地面につなぎ止めてくれる。

 

足元の窪みを、もう一度、見下ろした。

 

噛み合わなかった。日本の芝で、何かが、どうしても噛み合わない。やり場のない悔しさも、行き場のない力も、まだ、体の中で燻っている。

 

でも。

 

終わってない。

 

なぜ走れないのかは、分からない。終わってないなら何なのかも、分からない。何も、分からない。

 

それでも、終わってないことだけは。

 

——それだけは、まだ、譲らない。

 

歩いてくる絢原さんの方へ、私は、一歩、足を踏み出した。




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