異変の報告が来たのは、昼休みだった。
トレーナー室でJFのデータを睨んでいたら、スマートフォンが震えた。同期のトレーナーからのメッセージ。
『お前の担当、今日どうした? 廊下ですれ違ったらウインクされたんだが』
は?
モエがウインクする世界線は存在しない。あいつが廊下で見知らぬ人間にやることは、精々が軽い会釈だ。機嫌が悪ければそれすらない。
返信を打つ前に、別のメッセージが来た。今度は後輩トレーナーから。
『絢原先輩、カレンモエさんが購買部で「このメロンパン、カレン的にはもうちょっとふわふわがいいかなぁ♪」って言ってました。カレン的にって何ですか?』
スマートフォンを置いた。
立ち上がった。
座り直した。
深呼吸した。
「カレン的に」。
この世でその言い回しをするウマ娘は、一人しかいない。
……まさか。いや、まさか。
そのまさかを確認する暇もなく、トレーナー室のドアがノックされた。
コンコン。
心臓が跳ねた。プロとして恥ずかしい反応速度だが、仕方がない。
「……どうぞ」
ドアが開いた。
カレンモエが立っていた。制服。セミショート。整った顔立ち。
笑っている。
にこにこと。花が咲くように。太陽が昇るように。世界中のカメラが自分に向いていて当然だという顔で。
モエは、トレーナー室に入ってくる時に笑わない。
「お疲れ様、トレーナーさん♪」
モエは、「さん」をつけない。
確定した。
目の前にいるのは、俺の担当ウマ娘ではない。俺が中学二年から高校三年までファンレターの下書きを四十七枚書いた(一枚も出していない)相手だ。そしてその相手が、娘の制服を着て、俺のトレーナー室に入ってきた。
状況の異常さを処理するのに、二秒かかった。
プロとして、三つの選択肢がある。
一、即座に指摘する。
二、泳がせる。
三、窓から逃げる。
三は却下。二階だ。
二を選んだ。理由は——正直に言えば、もう少し見ていたかったからだ。元ファンとしての、純粋な好奇心。カレンチャンが「カレンモエ」を演じると、どうなるのか。
「ああ、お疲れ」
キーボードを打つフリをしながら答えた。手が震えているが、たぶんバレていない。
「カレンモエ」はソファに座った。足を組む。右足が上。
モエは左足が上だ。
背筋が伸びている。モエはソファでは脱力する。
香りが違う。モエの周囲の空気は、不機嫌な猫のような、ちょっとスパイシーな気配がある。この人の周囲の空気は、甘い。存在そのものが甘い。部屋に入ってきただけで、トレーナー室の空気が三割ほど華やかになった。
観察を続ける。元ファンの目が止まらない。
「データ分析、順調?」
声のトーンをモエに寄せている。上手い。でも語尾の跳ね方がモエより明るい。モエの「順調?」はもっと気怠い。
「順調だ」
「ふーん。流石だね、タキオンさん」
小首を傾げた。角度が大きい。可愛い方向に振りすぎている。モエの小首は三度。この人の小首は八度。差が五度。五度でカリスマ性が発生している。
……いつまでも観察していたいが、このまま泳がせると学園に被害が拡大する。購買部のメロンパンに「カレン的に」のレビューが定着してしまう。
見破りにいこう。
「今日は随分と機嫌がいいな」
「え? 普通だけど」
「そうか。じゃあ一つ聞いていいか」
「どうぞ♪」
「昨日の晩飯、何食べた」
沈黙。1.2秒。
モエなら即答する。自分の晩飯を思い出すのに1秒以上かかるウマ娘はいない。この1.2秒は「娘の晩飯を推測する」時間だ。
「……ハンバーグ?」
語尾が上がった。疑問形。
「カレーです」
「……あ」
沈黙。
それから、花が咲いた。
「あーあ、 バレちゃった♪」
カレンチャンが、カレンチャンの笑顔で笑った。モエの仮面が一瞬で溶けて、太陽が出た。
「入ってきた瞬間から分かってました」
「えー、嘘! カレン、結構頑張ったのになぁ」
「足の組み方が逆です。あと、ソファの座り方が良すぎます」
「良すぎるって褒め言葉じゃない♡」
褒めていない。指摘だ。
カレンチャンが立ち上がった。ソファから。その動作一つが、やっぱり華やかだ。立ち上がるだけで絵になる。モエも十分に綺麗だが、種類が違う。モエの美しさは鋭利な刃物。この人の美しさは満開の桜。
「……で、今日は何の用ですか」
「用なんてないよ。 モエちゃんの学園、見てみたかっただけ」
「変装して」
「サプライズ♪」
「娘の制服を無断で借りて」
「……無断じゃないよ? ……たぶん」
たぶん。
「購買部でメロンパンの批評をして」
「あれは本当に思ったの! もうちょっとふわふわがいいと思わない?」
思わない。あのメロンパンは学園で一番人気だ。
「廊下で何人骨抜きにしたんですか」
「数えてないけど、みんな可愛かったよ! モエちゃんの同級生でしょ? いい子たちだね♪」
嵐のような人だ。
……でも、分かる。
この人は、娘のことが心配で来たのだ。ファンタジーSを勝ったけど、辛勝だった。JFはもっと厳しい戦いになる。母親として、娘の環境を自分の目で見たかった。
そして、たぶん——俺を見に来た。
娘を預けている男が、信用に足る人間かどうか。
変装して、遊んで、ふざけて。でもその全部の奥に、母親の目がある。
「カレンチャンさん」
「ん?」
「モエのことは、俺が見ています」
真正面から言った。
カレンチャンの表情が、一瞬だけ変わった。アイドルの仮面がわずかに揺れて、その奥にある素の顔——娘を心配する母親の顔が、ほんの一瞬だけ覗いた。
「……うん。分かってる」
すぐに笑顔に戻った。でも、今の一瞬を、俺は見逃さなかった。元ファンの観察眼を、こういう時に使えるとは思わなかった。
「じゃ、そろそろ帰るね♪ 長居するとモエちゃんに見つかっちゃう♪」
カレンチャンがポケットから小さな箱を取り出して、デスクに置いた。コスメブランドのロゴ。リップクリーム。
「差し入れ♪ あの子に渡してあげて? 練習ばっかりしてないで、たまにはオシャレもしなさいって⭐︎」
「……分かりました」
「じゃあね、トレーナーさん♪ あの子のこと、よろしくね♡」
ウインク。
出ていった。嵐のように。
ドアが閉まった瞬間、俺は机に突っ伏した。
……あの人、やっぱりすごい。
モエにカレンチャンの影がつきまとうのは、そりゃそうだ。あの太陽が母親なのだから。
でも、モエはモエだ。
あの子の良さは、この人とは全然違うところにある。
……それを証明するのが、俺の仕事だ。
~~
三十分後。
トレーニングを終えた本物のカレンモエが、殺気を纏ってトレーナー室に現れた。
「トレーナー」
「おう」
「説明して」
「何を」
「学園中が『今日のモエちゃん可愛かった』って言ってくるんだけど。私、今日一日練習場にいたんだけど」
「……ああ」
「掲示板には『カレンモエ覚醒。アイドル路線へ転向か』って書いてあるんだけど」
「…………ああ」
「ママでしょ」
「……ああ」
モエの目が据わっている。怖い。この顔は怖い。カレンチャンには絶対に出せない顔だ。これがモエだ。
「なんで止めなかったの」
「止められると思うか? あの人を」
「…………」
モエが三秒ほど考えて、諦めたようにため息をついた。
「……無理か」
「無理だ」
「……ママ、昔からこうなのよ。突然来て、めちゃくちゃにして、嵐みたいに帰っていく」
「知ってる」
「知ってるんだ」
知っている。ファン時代から。
俺はデスクのリップクリームを指差した。
「置いていった。お前にだと」
モエが手に取った。パッケージを見て、眉間に皺が寄った。寄ったけど、捨てない。
「……何か言ってた?」
「『よろしく頼む』と」
「…………ふん」
モエがリップクリームをポケットにしまった。乱暴に。でも、ちゃんとポケットの奥まで押し込んでいた。落とさないように。
「……あのバカママ。勝手に私の制服着て、勝手に学園うろついて、勝手にトレーナーに会って」
「ああ」
「しかも私より似合ってたら許さないからね」
「…………」
似合ってた、とは死んでも言わない。
「ま、いいわ。トレーニング始めるよ」
「ああ。JFに向けたペース配分の確認だ」
ドアに向かうモエの背中を見ながら、俺は思った。
あの母にして、この娘。
面倒くさい親子だ。
でも、嫌いじゃない。
「……あ、トレーナー」
振り返った。
「ん」
「このリップ、私のだからね。トレーナーには絶対あげないから」
「もらう気はない」
「絶対だよ? ママがトレーナーにあげたんじゃなくて、私にくれたんだから。私のだから」
ママの差し入れでも、トレーナーには渡さない。三回念押し。
「……分かった」
モエが出ていった。
静かになったトレーナー室で、俺はコーヒーを淹れた。
あの二人は似ていない。全然似ていない。
笑い方も、怒り方も、空気の色も、全部違う。
でも、大事な人を大事にする時の不器用さだけは、そっくりだ。
……本人には、言わないが。
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