アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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12話 陽だまりのドッペルゲンガー

異変の報告が来たのは、昼休みだった。

 

トレーナー室でJFのデータを睨んでいたら、スマートフォンが震えた。同期のトレーナーからのメッセージ。

 

『お前の担当、今日どうした? 廊下ですれ違ったらウインクされたんだが』

 

は?

 

モエがウインクする世界線は存在しない。あいつが廊下で見知らぬ人間にやることは、精々が軽い会釈だ。機嫌が悪ければそれすらない。

 

返信を打つ前に、別のメッセージが来た。今度は後輩トレーナーから。

 

『絢原先輩、カレンモエさんが購買部で「このメロンパン、カレン的にはもうちょっとふわふわがいいかなぁ♪」って言ってました。カレン的にって何ですか?』

 

スマートフォンを置いた。

 

立ち上がった。

 

座り直した。

 

深呼吸した。

 

「カレン的に」。

 

この世でその言い回しをするウマ娘は、一人しかいない。

 

……まさか。いや、まさか。

 

そのまさかを確認する暇もなく、トレーナー室のドアがノックされた。

 

コンコン。

 

心臓が跳ねた。プロとして恥ずかしい反応速度だが、仕方がない。

 

「……どうぞ」

 

ドアが開いた。

 

カレンモエが立っていた。制服。セミショート。整った顔立ち。

 

笑っている。

 

にこにこと。花が咲くように。太陽が昇るように。世界中のカメラが自分に向いていて当然だという顔で。

 

モエは、トレーナー室に入ってくる時に笑わない。

 

「お疲れ様、トレーナーさん♪」

 

モエは、「さん」をつけない。

 

確定した。

 

目の前にいるのは、俺の担当ウマ娘ではない。俺が中学二年から高校三年までファンレターの下書きを四十七枚書いた(一枚も出していない)相手だ。そしてその相手が、娘の制服を着て、俺のトレーナー室に入ってきた。

 

状況の異常さを処理するのに、二秒かかった。

 

プロとして、三つの選択肢がある。

一、即座に指摘する。

二、泳がせる。

三、窓から逃げる。

 

三は却下。二階だ。

 

二を選んだ。理由は——正直に言えば、もう少し見ていたかったからだ。元ファンとしての、純粋な好奇心。カレンチャンが「カレンモエ」を演じると、どうなるのか。

 

「ああ、お疲れ」

 

キーボードを打つフリをしながら答えた。手が震えているが、たぶんバレていない。

 

「カレンモエ」はソファに座った。足を組む。右足が上。

 

モエは左足が上だ。

 

背筋が伸びている。モエはソファでは脱力する。

 

香りが違う。モエの周囲の空気は、不機嫌な猫のような、ちょっとスパイシーな気配がある。この人の周囲の空気は、甘い。存在そのものが甘い。部屋に入ってきただけで、トレーナー室の空気が三割ほど華やかになった。

 

観察を続ける。元ファンの目が止まらない。

 

「データ分析、順調?」

 

声のトーンをモエに寄せている。上手い。でも語尾の跳ね方がモエより明るい。モエの「順調?」はもっと気怠い。

 

「順調だ」

 

「ふーん。流石だね、タキオンさん」

 

小首を傾げた。角度が大きい。可愛い方向に振りすぎている。モエの小首は三度。この人の小首は八度。差が五度。五度でカリスマ性が発生している。

 

……いつまでも観察していたいが、このまま泳がせると学園に被害が拡大する。購買部のメロンパンに「カレン的に」のレビューが定着してしまう。

 

見破りにいこう。

 

「今日は随分と機嫌がいいな」

 

「え? 普通だけど」

 

「そうか。じゃあ一つ聞いていいか」

 

「どうぞ♪」

 

「昨日の晩飯、何食べた」

 

沈黙。1.2秒。

 

モエなら即答する。自分の晩飯を思い出すのに1秒以上かかるウマ娘はいない。この1.2秒は「娘の晩飯を推測する」時間だ。

 

「……ハンバーグ?」

 

語尾が上がった。疑問形。

 

「カレーです」

 

「……あ」

 

沈黙。

 

それから、花が咲いた。

 

「あーあ、 バレちゃった♪」

 

カレンチャンが、カレンチャンの笑顔で笑った。モエの仮面が一瞬で溶けて、太陽が出た。

 

「入ってきた瞬間から分かってました」

 

「えー、嘘! カレン、結構頑張ったのになぁ」

 

「足の組み方が逆です。あと、ソファの座り方が良すぎます」

 

「良すぎるって褒め言葉じゃない♡」

 

褒めていない。指摘だ。

 

カレンチャンが立ち上がった。ソファから。その動作一つが、やっぱり華やかだ。立ち上がるだけで絵になる。モエも十分に綺麗だが、種類が違う。モエの美しさは鋭利な刃物。この人の美しさは満開の桜。

 

「……で、今日は何の用ですか」

 

「用なんてないよ。 モエちゃんの学園、見てみたかっただけ」

 

「変装して」

 

「サプライズ♪」

 

「娘の制服を無断で借りて」

 

「……無断じゃないよ? ……たぶん」

 

たぶん。

 

「購買部でメロンパンの批評をして」

 

「あれは本当に思ったの! もうちょっとふわふわがいいと思わない?」

 

思わない。あのメロンパンは学園で一番人気だ。

 

「廊下で何人骨抜きにしたんですか」

 

「数えてないけど、みんな可愛かったよ! モエちゃんの同級生でしょ? いい子たちだね♪」

 

嵐のような人だ。

 

……でも、分かる。

 

この人は、娘のことが心配で来たのだ。ファンタジーSを勝ったけど、辛勝だった。JFはもっと厳しい戦いになる。母親として、娘の環境を自分の目で見たかった。

 

そして、たぶん——俺を見に来た。

 

娘を預けている男が、信用に足る人間かどうか。

 

変装して、遊んで、ふざけて。でもその全部の奥に、母親の目がある。

 

「カレンチャンさん」

 

「ん?」

 

「モエのことは、俺が見ています」

 

真正面から言った。

 

カレンチャンの表情が、一瞬だけ変わった。アイドルの仮面がわずかに揺れて、その奥にある素の顔——娘を心配する母親の顔が、ほんの一瞬だけ覗いた。

 

「……うん。分かってる」

 

すぐに笑顔に戻った。でも、今の一瞬を、俺は見逃さなかった。元ファンの観察眼を、こういう時に使えるとは思わなかった。

 

「じゃ、そろそろ帰るね♪ 長居するとモエちゃんに見つかっちゃう♪」

 

カレンチャンがポケットから小さな箱を取り出して、デスクに置いた。コスメブランドのロゴ。リップクリーム。

 

「差し入れ♪ あの子に渡してあげて? 練習ばっかりしてないで、たまにはオシャレもしなさいって⭐︎」

 

「……分かりました」

 

「じゃあね、トレーナーさん♪ あの子のこと、よろしくね♡」

 

ウインク。

 

出ていった。嵐のように。

 

ドアが閉まった瞬間、俺は机に突っ伏した。

 

……あの人、やっぱりすごい。

 

モエにカレンチャンの影がつきまとうのは、そりゃそうだ。あの太陽が母親なのだから。

 

でも、モエはモエだ。

 

あの子の良さは、この人とは全然違うところにある。

 

……それを証明するのが、俺の仕事だ。

 

 

 

~~

 

 

 

三十分後。

 

トレーニングを終えた本物のカレンモエが、殺気を纏ってトレーナー室に現れた。

 

「トレーナー」

 

「おう」

 

「説明して」

 

「何を」

 

「学園中が『今日のモエちゃん可愛かった』って言ってくるんだけど。私、今日一日練習場にいたんだけど」

 

「……ああ」

 

「掲示板には『カレンモエ覚醒。アイドル路線へ転向か』って書いてあるんだけど」

 

「…………ああ」

 

「ママでしょ」

 

「……ああ」

 

モエの目が据わっている。怖い。この顔は怖い。カレンチャンには絶対に出せない顔だ。これがモエだ。

 

「なんで止めなかったの」

 

「止められると思うか? あの人を」

 

「…………」

 

モエが三秒ほど考えて、諦めたようにため息をついた。

 

「……無理か」

 

「無理だ」

 

「……ママ、昔からこうなのよ。突然来て、めちゃくちゃにして、嵐みたいに帰っていく」

 

「知ってる」

 

「知ってるんだ」

 

知っている。ファン時代から。

 

俺はデスクのリップクリームを指差した。

 

「置いていった。お前にだと」

 

モエが手に取った。パッケージを見て、眉間に皺が寄った。寄ったけど、捨てない。

 

「……何か言ってた?」

 

「『よろしく頼む』と」

 

「…………ふん」

 

モエがリップクリームをポケットにしまった。乱暴に。でも、ちゃんとポケットの奥まで押し込んでいた。落とさないように。

 

「……あのバカママ。勝手に私の制服着て、勝手に学園うろついて、勝手にトレーナーに会って」

 

「ああ」

 

「しかも私より似合ってたら許さないからね」

 

「…………」

 

似合ってた、とは死んでも言わない。

 

「ま、いいわ。トレーニング始めるよ」

 

「ああ。JFに向けたペース配分の確認だ」

 

ドアに向かうモエの背中を見ながら、俺は思った。

 

あの母にして、この娘。

面倒くさい親子だ。

でも、嫌いじゃない。

 

「……あ、トレーナー」

 

振り返った。

 

「ん」

 

「このリップ、私のだからね。トレーナーには絶対あげないから」

 

「もらう気はない」

 

「絶対だよ? ママがトレーナーにあげたんじゃなくて、私にくれたんだから。私のだから」

 

ママの差し入れでも、トレーナーには渡さない。三回念押し。

 

「……分かった」

 

モエが出ていった。

 

静かになったトレーナー室で、俺はコーヒーを淹れた。

 

あの二人は似ていない。全然似ていない。

笑い方も、怒り方も、空気の色も、全部違う。

 

でも、大事な人を大事にする時の不器用さだけは、そっくりだ。

 

……本人には、言わないが。




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