——Anti-Hero: Curren Moe
高松宮から何日か経った。
桜が咲き始めていた。学園の並木が薄い桃色をまとって、朝の光に揺れている。風にはまだ少し冷たさが残っていた。
練習にはいつも通り出ている。
走れる。脚は動く。前半は相変わらず速い。坂路を駆け上がる感覚も悪くない。
でも後半でスピードを乗せにいくと、やっぱり芝が抉れる。力が足元に逃げる。空回りして、沈む。
高松宮から何も変わっていない。
絢原さんは今日も当たりを探している。「今日は別の角度でいくか」「次は踏み込みの深さを変えてみるか」。結果のことは何も言わない。責めもしないし、慰めもしない。前を向いて、次にやることだけをまっすぐ。私もそれに付き合う。やれることはまだある、という顔で。
でも心のどこかで、薄く気づき始めていた。
——もう、あの走りは戻ってこないのかもしれない。
口には出さない。出してしまったら、本当になりそうで。
走りたいのはここなのに。日本のこの芝の上で、知っている相手と。その「ここ」で、私はもう本来の走りができない。
終わってない。それだけはまだ譲っていない。
でもその先で、いつも足が止まる。
~
練習の帰りだった。
用具庫の角を曲がったところで、ばったり会った。
ブリーズシャトルさんだった。
「あ」
向こうも足を止めた。栗色の髪。大きな目。高松宮の前、フェンスの外から「先輩!」と駆け寄ってきた、あの子。
「……お疲れさまです」
小さく頭を下げる。
その声が前と違った。
高松宮の前は声が弾んでいた。私を見つけるとまっすぐ飛んできた。「香港のレース、何度も観ました」「世界一なんですよ、先輩」。憧れが言葉からあふれていた。
今はその声がしぼんでいる。頭を下げたまま、目を合わせない。
「……お疲れさま」
私もそれしか言えなかった。
二人の間に薄い膜みたいなものができていた。前にはなかったものだ。
ブリーズシャトルさんは二着だった。私の、前。私を追い抜いて。憧れていた先輩がすぐ後ろで沈んでいくのを間近で見て、そのまま追い抜いてしまった。
あの子に悪いところなんて一つもない。全力で走っていい走りをして、二着になった。それだけだ。誇っていい。胸を張っていい。
でもたぶんできないでいる。私を追い抜いてしまったから。
「あの……」
口を開きかけて、止まる。顔を上げかけて、私と目が合いそうになって、また伏せる。唇がちょっと動いて、止まる。言葉を探している。見つからないでいる。
「高松宮、その」
そこで止まった。
おめでとう、とは言えないんだと思う。私に。負けた方に。お疲れさまでした、はもう言った。すごかったです、は——あの子が前に私に何度も言ってくれた言葉だ。今日の私のどこにもすごいところはなかったから、それも言えない。
私だって同じだった。
おめでとう、と言えばいいのに。二着、すごかったよ、と。本心だ。あの子の走りは本当に良かった。
でも負けた私が勝ったあの子に「おめでとう」と言ったら。憧れていた人に気を遣われて、慰めみたいに祝福されるなんて。私だったら、たぶんいちばんつらい。
だから言えなかった。
悪意なんてどこにもない。あの子は私を憧れたまま。私もあの子に何の含むものもない。なのに言葉が見つからない。前はあんなにまっすぐ通じ合えたのに。
風が二人の間を抜けていった。桜の花びらが一枚、ひらりと落ちた。
「……じゃあ、私、これで」
ぺこりと頭を下げて、足早に行ってしまう。
栗色の髪が揺れている。その後ろ姿が高松宮の前と同じはずなのに、ぜんぜん違って見えた。
私はしばらくその場に立っていた。
砕いてしまったな、と思った。あの子が私に見ていた、きらきらした何かを。私のせいじゃない、とは思う。私はただ自分の脚で走れなかっただけだ。手を抜いたわけでも、あの子を裏切ったわけでもない。
でも結果として、あの子の憧れは砕けた。私がその目の前で沈んでみせたから。
責任はない。
責任はないのに、申し訳なさだけが胸に残った。
~
寮の部屋に戻ると、マーちゃんが机に向かって何か書いていた。レースのメモだろうか。
「おかえりなのです」
「ただいま」
ベッドに腰を下ろして、足首を回す。一日走ったあとはいつもここが固くなる。
最近のマーちゃんは高松宮を勝って、次の目標に向かってまっすぐだ。背中に迷いがない。ちょっとだけ眩しかった。
「モエちゃん」
ペンを置いて、こっちを見る。
「ブリーズシャトルちゃんと、会ったのです?」
手を止めた。
「……なんで分かるの」
「ふふ。マーちゃん、モエちゃんのこと、よく見てるのです」
「……うん。用具庫のとこで。なんか、前みたいに話せなかった」
ぽつりとこぼれた。
「あの子、私に憧れてくれてたんだ。でもその目の前であんな走りして。あの子は二着で、私を追い抜いて。なのになんか、私の方があの子に悪いことしたみたいな気持ちになってて。でもそれも違う気がして。私、手を抜いたわけじゃないし。ただ走れなかっただけで」
言いながら、自分でもこんがらがってきた。
「……うまく、言えない」
マーちゃんはちょっと首をかしげた。
「モエちゃんは、優しいのです」
「……そう?」
「自分のせいじゃないのに、申し訳ないって思うのは優しいからなのです。でもブリーズシャトルちゃんも、たぶんおんなじなのです」
「おんなじ?」
「モエちゃんに悪いことしたみたいな気持ちになってるのです。憧れてた先輩を追い抜いちゃったから。だから二人とも相手に申し訳なくて、言葉が出ないのです」
——あ。
そうか、と思った。
私があの子に申し訳ないと思っていたように。あの子も私に申し訳ないと思っていた。どっちも相手を気遣って、どっちも言葉をなくした。悪意がないどころか、お互い相手を思いやりすぎて通じ合えなくなっていた。
「……難しいね」
「ふふ。難しいのです」
マーちゃんは笑った。それから、机の上の人形の頭を指でちょんとつついた。
「マーちゃんは楽なのです。だって、勝ったから。気を遣わなくていいのです」
さらっと言った。でもその言い方がいつもよりちょっとだけ平らだった。
聞こうとして、やめた。
マーちゃんが高松宮で何を思ったか。本気のモエと走りたかったのに走れなかったモエに勝って、何を感じたか。たぶんすっきりはしていない。勝ったのに、待っていたものをもらえなかった。
でもそれを今、私が聞くのは違う気がした。マーちゃんが言わないでいるのを無理に開けるのは。
「ううん。なんでもない」
「……そうですか」
二人とも言わないでいることがある。それでいいと思った。
~
その夜、ベッドの中で天井を見ていた。
日本で走りたい。それは変わらない。
でもその日本で私はもう本来の走りができない。走れば走るほど芝を抉って、空回りする。期待してくれる人に応えられない。憧れてくれた子の憧れを砕いてしまう。
ここにいると、私が走るたびに誰かががっかりする。
ヘンだ。走りたい場所のはずなのに。今は、走ることが誰かを傷つけることとくっついてしまっている。
ふと思った。
——いっそ、どこか行っちゃいたいな。
走るとか勝つとか、そういうのじゃなくて。ただ誰も私を知らないところに。世界女王とか香港の人とか藍鎚とか、そういうのを誰も貼ってこないところに。期待もされなくて憧れもされなくて、ただの知らない誰かでいられるところに。
そこでなら、ちょっとだけ息ができる気がした。
海外、とか。
ぼんやりそんなことを考えた。
走りたいわけじゃない。海外のレースに出たいなんてこれっぽっちも思っていない。むしろ走ること自体から今はちょっと離れたいくらいだ。走ればまた誰かをがっかりさせるなら、いっそ。ただ今いるここが、少し息苦しい。誰も自分を知らない場所にぽっと消えてしまえたら。それだけのため息みたいなものだった。
寝返りを打つ。
向かいでマーちゃんがもう寝息を立てていた。本当にすぐ寝る。羨ましい。
桜の匂いが窓の隙間から薄く入ってきていた。
~
それから、毎日が同じだった。
坂路を上がる。前半は速い。後半で抉れる。流して止まる。振り返れば、後半の蹴り跡が点々と深い。もう見慣れた。次の日も同じ。その次の日も。
桜が散って、葉桜になった。
高松宮から一ヶ月が過ぎていた。
あの日の五着を私はまだ引きずっている——というのもちょっと違う。負けたこと自体はもうどうでもよかった。マーちゃんが勝った。ブリーズシャトルさんが二着だった。それはいい。悔しさならまだ分かりやすかった。
分からないのはその先だ。
「タイム、前半は今週で一番いい」
坂路を下りてくると、絢原さんがストップウォッチを見ながら言った。その先は言わなかった。
通しは。——その一言を絢原さんは口にしない。たぶん私が聞きたくないのを知っている。
分かっている。前半がいくら速くなっても通しのタイムは戻らない。研ぎ澄まされていくのは、前半で稼いで後半で全部吐き出す、そのいびつな形ばかりだ。
~
練習が終わって、寮への道を一人で歩いた。
葉桜の影が地面に揺れている。風はもう冷たくない。季節はちゃんと進んでいる。私だけが同じ場所で足踏みしている気がした。
走ることがこんなに手応えのないものだったろうか。
デビューした頃はもっと単純だった。走れば前に進んだ。勝てば嬉しかった。私を見てと叫びながら走って、その声が誰かに届く感覚があった。
今は。
走っても走っても、本当に行きたい場所に近づかない。
——なんで走ってるんだっけ。
その問いがふっと浮かぶ。答えがすぐには出てこない。
私にもはっきりした目標があった気がする。ママじゃない、私を見せる。それだけをまっすぐ追いかけていた。あの頃の私は迷ってなかった。
でもその目標はもうとっくに果たした。香港で世界を獲った。藍鎚って呼ばれた。誰も私をママと重ねなくなった。
果たして、しまった。
果たしたあとにこんな空っぽみたいな時間が来るなんて、思わなかった。
~
次の日。
絢原さんがホワイトボードの前に立っていた。私が練習場に着くと、振り返って言った。
「来月、レースを入れようと思う。G3だ」
「……勝てるやつ?」
「さあな」
「さあ、って」
思わず絢原さんを見た。トレーナーがそれでいいのか。
「お前の今の脚なら、地力で勝ち負けには持ち込める。だが確実に勝てるかと聞かれたら、言えない。今のお前を見てて、嘘はつけないからな」
調子のいいことを言わない人だ。「絶対大丈夫」とも「勝てる」とも言わない。勝てるかもしれないし、勝てないかもしれない。それをごまかさずに私と同じ顔で見ている。それがちょっとずるい。
「……慰めないんだ」
「慰めてほしいのか」
「別に」
口を尖らせると、絢原さんがふっと肩の力を抜いたのが分かった。
「ただ、走らないと分からないことがある。練習で探してる答えも、レースの中でしか出てこないことがある。だから、出る。勝つためじゃない。確かめるためだ」
確かめるため。
その言葉がちょっとだけ胸に残った。勝つためじゃないなら。勝てなくても確かめるだけなら。今の私でも走れる気がした。
「……分かった。出る」
「ん」
それだけ言って、絢原さんはホワイトボードにレース名と日付を書き始めた。一ヶ月後。
その背中に私はつい言っていた。
「ねえ。勝ったら、なんかおごってよ」
言ってから自分でもちょっと驚いた。こんな軽口しばらく出てなかった。
絢原さんが振り返った。一瞬目を見開いて。それからちょっと笑った。
「ああ。勝ったらな」
「プリンがいい」
「固いやつだろ」
「……なんで、知ってるの」
「お前のことなら、もう大抵知ってる」
——ずるい。そういうことをなんでもないみたいに言う。
私の好みを知ってること自体は今さらだ。ずっと前から知られている。それはいい。
そうじゃなくて。
この人はずっと見てきた。私がデビューした時から。勝った時も、壊れた時も。誰よりも近くで私だけを見てきた。それを当たり前みたいに口にする。
見上げると、絢原さんの背は高い。私よりずっと。前を向いた横顔も、大きな肩も。なんでもない顔でそこにある。
心臓が勝手に跳ねた。
世界中が私を見るなんて言われても。私が見ていてほしいのは、たぶんこの人だけだ。
——なんて。
自分でもちょっと驚いた。こんなこと考えてる場合じゃないのに。
でも、なんだかそれで力が抜けた。
さっき書かれた白い文字をもう一度見た。さっきはぼんやりとしか見えなかった。今はほんの少しだけましに見えた。
勝てるかどうかは分からない。心が乗っているわけでもなかった。
でも——プリン一個分くらいは。走る理由になる気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。