アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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幕間 協議

——Strategist: Dream Journey

 

 

 

会議室はいつも少し寒い。

 

空調が効きすぎているのか、それともここで交わされる話の温度が低いのか。私は出された緑茶に口をつけず、卓上のタブレットを開いた。

 

向かいに、二人。一人は国際競走を統括する立場の方。もう一人はその補佐。どちらも長く海外遠征に関わってきた人たちだ。役職で言えば、私よりずっと上にあたる。

 

「お時間をいただき、ありがとうございます」

 

私は軽く頭を下げた。

 

「遠征支援委員会から、秋のロンシャンについて一つ共有しておきたいことがございまして」

 

統括官の方が湯呑みを手にしたまま、こちらを見た。穏やかだが、目だけは笑っていない。この人は要点しか聞かない。前置きを長くすると機嫌が悪くなる。だから私はすぐに本題に入った。

 

「今年の凱旋門賞に、前でペースを作る役が必要になるかもしれません」

 

短い沈黙。

 

統括官が湯呑みを置いた。

 

「……日本から、その役を出す、と?」

 

「可能性として、です。まだ決定ではありません」

 

私はタブレットを操作して、去年のレース映像を卓上の画面に映した。

 

「去年の凱旋門賞です。ご覧の通り、前半のペースが緩い。先頭を本気で引く子がいなかった。レゾリュートさんが自分でペースを作る型だからです。彼女が背後にいる限り、逃げ志向の子も無理に飛ばさない。結果、集団全体が脚を温存して、最終直線の末脚勝負になる」

 

映像が最終直線に差し掛かる。レゾリュートが抜け出し、後方から伸びた一人が、わずかに届かない。

 

「この形はレゾリュートさんに最も有利です。そして、後方から差す脚質の子には最も不利です。前が消耗していないので、差が詰まらない。届かない」

 

補佐の方が口を開いた。

 

「それは、わかります。去年の話は。……ですが、その役は」

 

言葉を選んでいる。

 

「前例がほとんどありません。日本のウマ娘が海外のレースで、自分の勝利を捨てて、他者のために前を引く。聞こえがよくない。『勝ちを譲るために遠征させるのか』と」

 

「ええ。おっしゃる通りです」

 

私は頷いた。隠さなかった。

 

「ですから今日は、決定をお願いしに来たのではありません。可能性を共有しに来ました。どういう条件が揃ったとき、その役が必要になるのか。それを先に整理しておきたいのです」

 

タブレットに、私が組んだ資料を映す。

 

「条件は、三つです」

 

一つ目の行を指で示す。

 

「一つ。今年も、欧州勢から本気で前を引く逃げ志向の子が出ないこと。これは現地の調整情報を毎日追っています。例年通りなら、出ません。レゾリュートさんがいる限り、誰も先に飛ばす理由がない。これが、ほぼ確実に揃う条件です」

 

二つ目。

 

「二つ。日本から、有力な後方脚質の子が出走すること。前を引く意味は、その子の末脚を活かすためにあります。差す脚を持つ日本のウマ娘がいなければ、前を引く役を出す意義もない。これは——」

 

私は一拍置いた。

 

「複数、候補がおります」

 

統括官が目を細めた。

 

「その中に、貴女の妹さんも入っている」

 

「入っております」

 

私は即座に認めた。

 

「隠す気はございません。私はオルフェーヴルの姉です。妹のために、この話を持ってきた。それは事実です」

 

会議室が少し静かになった。

 

私は構わず続けた。

 

「ですが、それだけではありません。妹は後方から差す脚質です。去年、展開負けで二着でした。前を引く役がいれば、勝てる可能性が上がる。これは私情です。同時に——日本のウマ娘が凱旋門賞で勝つための、戦術でもあります。日本のウマ娘があの舞台で結果を出す。その意義は、私情とは別のところにもある」

 

統括官は何も言わなかった。

 

「私情と大義を分けて語るつもりはありません。両方、本当です。妹のために、私は動いています。そしてそれは、日本のウマ娘全体の利益とも一致している。私はその両方を理由に、ここに来ました」

 

率直に言いすぎただろうか、と一瞬思った。けれど、この人たちに建前は通じない。私が委員長であり、オルの姉であることなど、とうに見抜いている。隠せば、見透かされて、信用を失うだけだ。

 

統括官がふっと息を吐いた。

 

「……相変わらず、貴女は嘘が下手だな。下手なのか、つかないのか」

 

「つかないだけです。つく必要がない場面では」

 

三つ目の条件を映した。

 

「三つ。前を引く役を引き受けられる子がいること。これが、いちばん難しい」

 

私は言葉を選んだ。ここは慎重に。

 

「前を引く役は、報われません。前半で脚を使い、後半は沈む。称賛は後ろから差す主役のものになる。負けることが最初から決まっている役です。それを引き受けて、なお壊れない子でなければ、務まらない。気性、精神、それから——勝ち負けへの、執着の薄さ。条件は、厳しい」

 

「候補は、いるのか」

 

「何人か。ですが、まだ絞っておりません」

 

これは本当だった。半分は。

 

私の頭の中には一人、浮かんでいる子がいる。一度、世界の舞台を見て、それでも国内で燻っている子。重い踏み込みを持つ子。けれど、それを今この場で口にするのは、早い。条件がまだ揃っていない。欧州勢が本当に前を引かないと固まってから。日本の出走するウマ娘が確定してから。その上で、絞る。順番を間違えてはいけない。

 

「今日、お願いしたいのは、一つだけです」

 

私はタブレットを閉じた。

 

「この三つの条件が揃ったとき、その役の帯同を選択肢として認めていただきたい。今、結論は要りません。ただ、頭の片隅に置いておいていただきたいのです。いざ必要になったとき、ゼロから議論を始めていては、間に合わないので」

 

統括官が補佐と目配せをした。

 

それから、こちらを見た。

 

「……検討は、しておこう。前例のない話だ。理事会にも、いずれ諮る必要がある。だが、貴女の整理は筋が通っている。可能性として、頭には入れておく」

 

「ありがとうございます」

 

私は深く頭を下げた。

 

「条件が固まり次第、改めてご相談に参ります。それまでに、情報を揃えておきます」

 

会議室を出ると、廊下の窓から夕方の光が差していた。

 

一つ、進んだ。

 

まだ入り口だ。可能性を、テーブルに乗せただけ。ここから、欧州勢の動向が固まり、日本の出走が確定し、そして——役を引き受ける子を絞る。一つずつ。順番に。

 

焦りは禁物だ。旅に焦りは、禁物。

 

私は廊下を歩きながら、頭の中で次の駒を確かめた。

 

欧州の調整情報。あと、ひと月もすれば固まるだろう。本当に、誰も前を引かないのか。今年こそ、誰かが飛ばすのか。それが分かるまでは、動かない。

 

窓の外の光に目を細めた。

 

——もう少し、待ちましょう。

 

旅程はまだ始まったばかりだ。

 




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