なのであれから2ヶ月後にしています。
——Anti-Hero: Curren Moe
二ヶ月が過ぎた。
CBC賞。中京の芝。距離は千二百。私の本職とされている距離だ。
ゲートの中で芝の感触を足の裏で確かめる。軽い。乾いて、さらさらしている。日本のいつもの芝。踏むたびに力が逃げていく、あの感触。
横のゲートに何人か入っているのが気配で分かる。顔は見ない。見たところで、体が何も言わない。追いたい、と思わせるものがどこにもいない。胸の奥の獣は眠ったままだ。
——プリン一個分。
ゲートに入る前、ふとそう思った。勝ったら、絢原さんがおごってくれる。固いやつ。それくらいの理由でいい。今日は確かめるために走る。勝つためじゃない。
そう思っていた。ゲートが開くまでは。
ゲートが開いた。
飛び出す。前に誰もいない。一番枠じゃないけど、すぐに先頭に近い位置を取れた。短い距離だ。もたもたしていたら置いていかれる。
最初の数歩で分かった。
——足りない。
地面が力を返してくれない。軽い芝がつるつると逃げる。なんどやっても、やっぱり踏んでも踏んでも、推進力にならない。
強く踏むほど、芝が逃げる。出した力が前に進まずにこぼれていく。こぼれた分をもっと力を出して埋める。埋めた分もまた半分逃げる。燃料を気にしている余裕なんて、ない。
削る。
体の奥から力を引きずり出して、速度に変える。とにかく前に進むために、削る。削って、削って、削り続ける。
横に誰かいる。気配だけ。でも、体は反応しない。追え、と命じる獣が起きてこない。この相手を追いたいと思わない。だから火はつかない。熱くならない。ただ冷たく力を絞り出して、逃げる分を埋めていくだけ。
さ
千二百は短い。あっという間に半分が過ぎる。
そのはずなのに。
長い。
一歩進むごとに芝が逃げて、その分を削る。削るたびに、体の芯が灼ける。視界が狭くなる。前に何がいるのか、後ろに誰がいるのか、分からない。
ただ削って、前に進む。それだけでいっぱいだった。
三コーナー。四コーナー。
たぶん回った。コースの形は覚えている。だから回ったんだと思う。でも、自分が何番手なのか、勝っているのか、負けているのか。
——分からない。
直線。
脚が重い。絞り出す力すら底をつきかけている。残っていないものを無理やりかき集めて、それでも、削る。
横に何かいる。気配だけ。顔も、毛色も、見えない。それより前に進むことだけを体が機械みたいに繰り返す。
歓声が聞こえる。遠い。水の中で聞いているみたいに、こもっている。
ゴールがどこなのか。
あとどれくらいなのか。
分から——
脚が止まった。
走り終えた。たぶんゴールを過ぎている。体が勝手に減速していく。
止まって、初めて息をした気がした。肺がひゅう、と鳴る。心臓がめちゃくちゃに暴れている。脚が震えている。立っているのがやっとだった。
ここはどこだろう。
ゴールの先。コースの上。それは分かる。でも、私が何をしたのか。今のはレースだったのか。走った、という感覚すらうまく掴めない。
「カレンモエ! 勝ちました! 一着です!」
誰かが言った。係の人だろうか。
一着。
勝った、らしい。
……そう、なんだ。
実感はなかった。嬉しいとも、ほっとしたとも、思えない。勝ったのか。へえ。——それくらいの遠い感想しか出てこない。
勝ったかどうか、自分では分からなかった。誰かに言われて初めて知った。そんな勝ち方。
ふらつきながら、コースの外へ向かう。引き上げ、というやつだろうか。頭がうまく回らない。
コースを出たところで、絢原さんが待っていた。
私が近づくと、何か言いかけて。それから私の顔を見て、言葉を飲み込んだ。
たぶんひどい顔をしていたんだと思う。
「……ウイニングライブ、出られるか」
絢原さんが言った。勝ったな、とも、おめでとう、とも言わなかった。確かめたのは、このあとのライブに出られるかどうか、それだけ。
「……出られる」
声が掠れた。
出られる。脚はまだ自分のものだ。壊れてはいない。削っただけ。
千二百は短かったから。絞り出す力が底をつく前に、終わってくれた。オークスは違う。あの距離は長すぎて、出しても出しても逃げていく力を延々と焚いて埋め続けて、底が尽きて、それでも止まれなくて、壊れた。あの時の私は立つことすらできず、担架で運ばれていった。今日は自分の脚で立っている。ライブにも出られる。たったそれだけの違いだ。
でも。
これが勝ちなんだろうか。
走った感覚もないまま。勝ったかどうかも分からないまま。ただ体を削りきって、誰かに「勝った」と教えられる。これが、私の走り。
絢原さんが私の背中にそっと手を当てた。支えるみたいに。
「行くか」
「うん」
ウイニングライブはちゃんとこなしたと思う。
笑って、手を振って、ステップを踏む。一歩ごとに削った芯が軋んだ。勝った子がやることを体が覚えている通りに、ただなぞる。観客が沸いている。歓声も、拍手も、たぶん私に向いていた。
なのに、何も入ってこなかった。レースのあいだ遠くで聞いた、あのこもった歓声と同じ。遠くて、こもっていて。
笑えていたのかも分からない。
プリンのことはどっちも言わなかった。絢原さんも、私も。約束したのに。勝ったのに。それを口にする気にどうしてもなれなかった。勝った気がしないから。おごってもらう理由なんてどこにも見つからなかった。
その夜。
寮の部屋でベッドに横になっていた。マーちゃんはまだ戻っていない。
天井を見上げる。
勝った。G3を。一着で。
なのに、何も残っていない。喜びも、達成感も、悔しさすら。あるのは、削りきった体の鈍い疲れと——空っぽな何か、だけ。
ずっと思っていた。勝てば、何かが変わるかもしれないって。手応えのない毎日も、勝てば少しは報われるかもしれないって。
違った。
勝っても、同じだった。むしろ、ひどくなっている。勝ったことすら分からない走り。あんなものをこれからも繰り返すのか。削って、削って、勝ったかどうかも分からないまま、誰かに教えてもらう。それを何度も。
なんで走ってるんだろう。
その問いが今日はいつもよりずっと重かった。答えはやっぱり出てこない。
走ることがこんなにつらいものだったろうか。
——いっそ。
いつかの夜にふと浮かんだあの気持ちがまた戻ってきた。どっか行きたい。誰も私を知らないところに。走らなくていいところに。
ううん。違う。
走らなくていいところなんて、もう考えるのもこわい。走るのをやめたら、私には何が残るんだろう。それすら分からない。
目を閉じた。
何も見えない。
何かが変わってほしかった。でも、その何かがどこから来るのかも、どんな形をしているのかも、私にはまったく見えていなかった。
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