アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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幕間 駒を進める

——Strategist: Dream Journey

 

 

 

梅雨が明けた頃、欧州からの情報が出揃った。

 

私は遠征支援委員会の部屋で、現地の協力者から届いた報告に目を通していた。今年の凱旋門賞に向けた各陣営の調整状況。誰がどんな仕上げをして、どんな走りを想定しているか。春先から少しずつ集めてきたものが、ようやく一枚の絵になった。

 

結論は、例年と同じだった。

 

今年も、前を引く子はいない。

 

逃げ志向の子が一人もいないわけではない。けれど、その子たちも本気で飛ばす気配はない。理由ははっきりしている。レゾリュートさん。彼女があの位置にいる限り、誰も先頭で無理をしない。下手に飛ばせば、自分が潰れて彼女の餌になるだけだから。みな、それを分かっている。

 

去年と同じ絵だ。緩いペース。温存される脚。最後の直線での一気の決着。レゾリュートさんに最も都合のいい流れ。

 

——条件は、固まった。

 

紅茶を一口含んで、私は息を吐いた。

 

春にURAの上層部に伝えた三つの条件。その一つ目、「欧州勢が本気で前を引かないこと」はほぼ確定した。二つ目の「日本から後方脚質の有力な子が出走すること」も、オルをはじめ複数が出走の意向を固めている。

 

残るは、三つ目だけ。

 

前を引く役を、引き受けられる子がいること。

 

前を引く役は要る。それは、もう揺るがない。あとは——誰が引き受けるか。

 

私は机に候補の名を並べた。

 

何人か、いる。逃げ脚質で海外経験のある子。気性の素直な子。距離をこなせる子。けれど、どれも一長一短だった。前を引く役は報われない。前半で脚を使い、後半は沈む。称賛は後ろから差す主役のものになる。負けることが、最初から決まっている。それを呑み込んで、なお壊れない子でなければ務まらない。

 

候補の名を、一つずつ消していく。

 

この子は気性が脆い。海外の大舞台で潰れる。この子は勝ちへの執着が強すぎる。前を引いて沈む役を受け入れられない。この子は力はあるが、重い芝が苦手だ。

 

最後に、一つの名前が残った。

 

カレンモエさん。

 

ふふ、と声が漏れた。

 

去年の正月。神社の境内の裏手で出会った子。あの時のあの子はただの駄々っ子だった。「ママと同じはイヤ」「敷かれたレールは走りたくない」。才能の適不適も勝算も度外視して、ただ「イヤだからイヤ」と。私はそう言ってやった。あの子は耳まで赤くして怒っていた。

 

それから、あの子はずいぶん遠くまで来た。

 

オークスで燃え尽きて、灰になった。誰もがもう終わったと思っていた。けれど、あの子は消えなかった。灰の底で、火がくすぶっていた。

 

そして、高松宮記念。バクシンオーさんの引退レース。あの最終直線で、あの子は自分の脚で走っていた。私はスタンドの最上段から、それを見ていた。叫ばなかった。ただ、見ていた。

 

あの子は、変わった。

 

自分の中の醜いもの。獰猛なもの。逃げたいという気持ちも、誰かを食い殺したいという衝動も。前は、そういう自分から目を逸らして駄々をこねていた。今は違う。それも自分だと認めて走っている。嫌な部分から、もう逃げない。そういう子になった。それに——一度、世界の舞台も見てきた。

 

立派なことだ。心から、そう思う。

 

だからこそ。

 

紅茶の水面に、自分の顔が薄く映っている。

 

だからこそ、頼める。

 

今のあの子なら、捨て石にされても壊れない。前を引いて沈むという報われない役を渡しても、それを呑み込んで走りきれる。香港で世界の舞台も経験している。大きな舞台に、もう怯まない。オークスのあの子なら、危うくて頼めなかった。けれど、今のあの子なら。

 

それに——と、私はもう一杯、紅茶を注いだ。

 

香港から帰ってきたあの子は、国内で燻っている。

 

重賞を使われては、勝ったり、負けたり。世界を獲って帰ってきたはずなのに、格下の相手に取りこぼす。直線で伸びを欠く。あの、世界をなぎ倒した脚が、日本では出てこない。世間は「世界女王も地元じゃこんなものか」と囁いている。あの子は、行き場をなくしている。

 

そういう子は、誘いに乗りやすい。

 

ここではないどこかへ。誰も自分を知らない場所へ。今のあの子なら、そんな気分を抱えているだろう。「海外で、気分を変えませんか」と囁けば、案外、軽い顔で頷くかもしれない。

 

打算だ。

 

はっきり、そう思った。私は今、燻って行き場をなくした子の弱みにつけ込もうとしている。変わって強くなった子を、妹のための駒として使おうとしている。あの境内で「理屈ではない」と語り合った相手を、損得で量っている。

 

ずいぶん、いい性格をしている。

 

ふふ、と、また笑いが漏れた。今度は、自嘲に近い。

 

それから、もう一つ。これが決め手だった。

 

高松宮のあの直線で、引っかかったことがあった。あの子の踏み込み。スプリンターにしては、重かった。速さではなく、力で地面をねじ伏せるような走り。終盤になっても、その重さが衰えなかった。

 

あの重さは、軽い芝では持て余すだろう。けれど、ヨーロッパの、力の要る重い芝でなら。

 

——前を、引ける。

 

ある程度の確信があった。それも、計算のうちに入れた。あの重い芝の上で、力強くペースを作る。あの踏み込みなら、できる。

 

距離も問題にならない。前を引くのは、最初の千五百ほど。最後まで走り切る必要はない。その区間でいい。その区間なら、あの子の脚は十分にもつ。スプリンターの脚でも、途中まで全力で引いてそこで力尽きる。それが、ちょうど役目にはまる。むしろ、誂えたように。

 

重い芝で、前を引ける。途中までなら、距離ももつ。壊れない。燻っていて、乗りやすい。

 

条件が、すべて揃ってしまった。

 

地図は、もうできあがっている。

 

あとは、駒を置くだけだ。

 

カップを置いて、私は窓の外を見た。夏の日差しが白く照りつけている。秋まで、あと二ヶ月あまり。準備の時間は、まだある。

 

オルのためだ。

 

妹が、あの舞台で最高の走りをするために。そのためなら、私は何でもする。立ち直った子の弱みにつけ込むことも。強くなった相手を、駒として使うことも。後ろ指をさされることも。

 

誰かが悪役を引き受けねばならない。

 

ならば、私がなろう。

 

それが、姉の役目だ。

 

「……ごめんなさいね、カレンモエさん」

 

誰もいない部屋で、小さく呟いた。

 

謝るくらいなら、やめればいい。分かっている。けれど、やめない。妹のためなら、私は誰にだって頭を下げるし、誰のことだって利用する。

 

そういう、姉なのだ、私は。

 

書類を揃える。

 

まずは、これを持って、もう一度上層部に諮る。対象を、カレンモエさんに。三つ目の条件が、これで埋まると。承認を取りつける。

 

それから——あの子の体を、いちばんよく知る人に、話を通す。あの人が首を縦に振らなければ、この話は始まらない。

 

順番に。一つずつ。

 

紅茶を飲み干した。少し、冷めていた。

 

旅の支度を進めましょう。

 

妹を勝たせるための旅の。

 




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