——Anti-Hero: Curren Moe
夏の夕方。練習を終えて、コースを引き上げる。
体はちゃんと動いた。今日もきっちり走れた。それだけだ。走り終えても何も残らない。汗を流して、また少しすり減った気がするだけ。最近はずっとこうだった。
「カレンモエさん!」
後輩の子が駆け寄ってきた。目を輝かせて。
「あの、香港、配信で見ました! 最後の直線、画面の前で鳥肌が立って……あたし、ずっと憧れてるんです。世界の女王に、こんな近くで会えるなんて……!」
私は口角を上げる。首をほんの少し傾けて、目を細める。ママが得意だった角度。何度も鏡で練習した、角度。体が勝手にやってくれる。
「ありがとう。あなたも、いい脚してたよ。頑張ってね」
声も、ちょうどいい高さで出る。後輩の子は、ぱっと顔を赤くして、何度も頭を下げて、走っていった。
——何も、感じない。
愛されカレンモエの笑顔を、頭のうしろのほうで、他人事みたいに眺めている。憧れも、賞賛も、私の上をつるつる滑って、どこにも引っかからずに落ちていく。仮面は、よくできている。裏に隠すものが、何もないから。
後輩の子の背中が、見えなくなる。
口角が、すとんと落ちた。
——世界の女王、か。
胸の中で、薄く嗤う。
香港をひとつ、勝っただけ。日本に帰れば、G3をやっと削り勝つのがせいぜいで。その勝ったレースの中身すら、ろくに覚えていない。そんなウマ娘が、世界の女王。
……白々しいったら、ない。
頬が、少しだけだるかった。
笑うのって、こんなに疲れることだったっけ。
トレーナー室の扉を開けると、絢原さんはデスクで書き物をしていた。
「お疲れ」
「……ただいま」
椅子に崩れるように座る。さっき笑ったせいで、まだ頬のあたりがこわばっていた。
絢原さんが立ち上がって、部屋の隅の小さな冷蔵庫を開けた。中から何かを取り出して——こと、と、私の前の机に置く。
プリンだった。固いやつ。容器の側面から、しっかりした断面が見えている。
「……なんで」
「たまたまだ。買い物のついでに、目に入った」
嘘だ。この人の「たまたま」は、昔から信用できない。準備してきた時ほど、淡白なことを言う。
約束は覚えている。葉桜の頃。勝ったら、なんかおごってよ。プリンがいい。——固いやつだろ、と、この人は即答した。お前のことならもう大抵知ってる、なんて言って。
それから、私は勝った。あの初夏のレースを、削って、削って。
でもプリンのことは、どっちも言わなかった。私が、言えなかった。勝った気がしなかったから。あんな走りで、ご褒美をもらう理由なんて、どこにも見つからなかったから。
だから、もう流れた話だと思っていた。
なのに、この人は何も言わずにプリンを出した。「勝ったから」とも、「約束だから」とも、言わずに。
……ずるい。受け取る理由も、断る理由もくれない。
スプーンを取って、ひと匙すくった。口に入れる。
固い。甘い。
味は、よく分からなかった。最近は、何を食べても遠い。舌の上に乗っているのは分かるのに、それが美味しいのかどうか、判定する部分が、どこかで止まっている。
それでも、冷たいのが喉を通るのは、悪くなかった。
絢原さんは、向かいで、自分のぶんのコーヒーを飲んでいる。ブラック。よく飽きないな、と思う。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……ねえ」
「ん」
「この前のレース。私、勝ったんだよね」
「ああ」
「……どんなレースだったか、覚えてないんだよね」
絢原さんのカップが止まった。
「ゴールした瞬間も、よく分かんなくて。勝ったのか、負けたのかも、しばらく分かんなかった。気づいたら、勝ってたことになってた」
スプーンの先で、プリンの表面を、つついた。
「勝っても、別に。嬉しいとか、悔しいとか、何も。……このプリンも、味、分かんないし」
自分で言って、ちょっと笑えた。
「笑っちゃうよね。世界の女王サマが、自分の勝ったレースも、もらったプリンの味も、分かんないの」
毒みたいな言い方になった。自分に向けた毒。
絢原さんは、まだ、何も言わない。
つついたプリンを、もうひと匙口に運んだ。やっぱり、遠い。
「……ねえ。私、走ってる意味、あるのかな。これ」
ぽろっと、出た。訊くつもりなんて、なかったのに。
言ってから、しまった、と思った。重い。湿っぽい。——言わない、って決めてたのに。この人が一緒にもがいてくれてるのを知ってるから、ずっと、練習場では言わないでいたのに。プリンひとつで、口が緩んだ。
絢原さんは、すぐには答えなかった。
コーヒーカップを置いて、それから、ペンも置いた。椅子ごと、こっちを向く。逃げ場のない、まっすぐな目だった。
「意味があるかどうかは、俺にも分からない」
……だよね。そんなの、誰にも。
「分かったふりをして何か言っても、お前には届かないだろ。だから、それは言わない」
正直な人だ。こういうとき、この人は、嘘をつかない。
「ただ——モエ」
名前を、呼ばれた。
「意味が見つからないなら、走らなくていい」
「……え」
一瞬、言われたことが、分からなかった。
「やめたいなら、やめていい。走るかどうかを決められるのは、お前だけだ。俺にも、ほかの誰にも、それを決める権利はない」
「……トレーナーが、それ言う?」
「言うさ」
絢原さんは、目を逸らさなかった。
「俺は、お前が走るところが見たくて、トレーナーをやってるんじゃない。勝ち負けも、順位も、二の次だ。お前がどうしたいか。俺にとっては、いつだってそれが一番だ」
「……走ること、じゃなくても?」
「ああ。お前が走るなら、俺の持ってる全部で支える。やめるなら——その先のことを、一緒に考える。どっちを選んでも、俺がお前の隣にいるのは、変わらない」
突き放されたんじゃ、なかった。
むしろ、逆だ。どっちに転んでも、この人は降りない。そう言われている。
「ただ」
絢原さんは、そこで一拍だけ言葉を切った。声が、少しだけ低くなる。
「後悔だけは、してほしくない。走っても、やめても。……それだけだ」
後悔。
その言葉を、この人は、軽々しく使わない。それくらいは知っている。あの春からこの人は、私が選んだものを、一緒に背負ってきた人だ。
だから、説教には聞こえなかった。命令でもない。
——願いみたいに、聞こえた。
走らなくていい。
なんだか、力が抜けた。
ずっと、走らなきゃいけないと思っていた。ママの娘だから。期待されてるから。勝てない私に残ってるのは、走ることくらいしか、なかったから。意味が見つからないなら、なおさら、走って埋めなきゃいけない気がしていた。
走るのをやめたら、私には何が残るんだろう。——いつかの夜、そう考えてこわくなった。こわくて、考えるのをやめた。
でも、この人は言う。やめても、その先を一緒に考える、と。隣にいるのは、変わらない、と。
残るものが、あるらしい。
そう思ったら、あの夜のこわさの底が、少しだけ抜けた気がした。
じゃあ。今、やめたら。
私は、後悔するんだろうか。
……分からなかった。するような気もするし、しないような気もする。考えても、答えは出てこない。ただ、その問いだけが、胸のどこかに小さく引っかかって、落ちていかなかった。
まあ、いいや。今日のところは。
私はもう一度、プリンをすくった。
固い。甘い。やっぱり、味は遠い。
でも——もし、今の私が、それでも少しだけ走れるとしたら。
それは、誰かに走らされてるからじゃない。ママの娘だからでも、期待のためでもない。
やめてもいい、と言われた上で。それでも、私が、自分で。
……このプリンが、あるから。
走ることは、相変わらず遠い。ターフの上では、何を走っても、手応えがない。なのに、この部屋は、遠くなかった。固めのプリンも、向かいでブラックを飲んでるこの人も、ちゃんとここにある。ここだけは、なぜか近かった。
プリン一個分くらいなら。自分で選んで、走ってみてもいい。
それくらいの、小さな理由。
「……もう一個は、いらない」
「そうか」
「これで、足りるよ」
絢原さんは、小さく、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。
それから、書き物に戻ろうとして——ペンを持ったまま、手が止まった。
何か言いかけて、やめる。そんな間があった。顔を上げると、目が合って、それから逸らされた。
「……なに」
「なんでもない」
「変なの」
「気のせいだ」
そう言って、絢原さんは、手元に目を戻した。少しだけ、疲れて見えた。目の下がうっすら暗い。あんまり眠れてないのかもしれない。
何かあったのかな、とは思った。でも、訊かなかった。まだ言う気がない時の顔だった。それくらいは分かる。
たぶん、大したことじゃない。そう思うことにした。
残りのプリンを、ゆっくり食べた。固くて甘い。それだけの、小さなもの。
大きな称号でも、立派な目標でもない。ただの、プリン一個。今日は、それで十分だった。
それ以上のことは、考えなくてよかった。——やめてもいいと、言われたんだから。
窓の外で、夏の陽がゆっくり暮れていく。
絢原さんのペンは、まだ、止まったままだった。
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