アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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96話 一匙

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

夏の夕方。練習を終えて、コースを引き上げる。

 

体はちゃんと動いた。今日もきっちり走れた。それだけだ。走り終えても何も残らない。汗を流して、また少しすり減った気がするだけ。最近はずっとこうだった。

 

「カレンモエさん!」

 

後輩の子が駆け寄ってきた。目を輝かせて。

 

「あの、香港、配信で見ました! 最後の直線、画面の前で鳥肌が立って……あたし、ずっと憧れてるんです。世界の女王に、こんな近くで会えるなんて……!」

 

私は口角を上げる。首をほんの少し傾けて、目を細める。ママが得意だった角度。何度も鏡で練習した、角度。体が勝手にやってくれる。

 

「ありがとう。あなたも、いい脚してたよ。頑張ってね」

 

声も、ちょうどいい高さで出る。後輩の子は、ぱっと顔を赤くして、何度も頭を下げて、走っていった。

 

——何も、感じない。

 

愛されカレンモエの笑顔を、頭のうしろのほうで、他人事みたいに眺めている。憧れも、賞賛も、私の上をつるつる滑って、どこにも引っかからずに落ちていく。仮面は、よくできている。裏に隠すものが、何もないから。

 

後輩の子の背中が、見えなくなる。

 

口角が、すとんと落ちた。

 

——世界の女王、か。

 

胸の中で、薄く嗤う。

 

香港をひとつ、勝っただけ。日本に帰れば、G3をやっと削り勝つのがせいぜいで。その勝ったレースの中身すら、ろくに覚えていない。そんなウマ娘が、世界の女王。

 

……白々しいったら、ない。

 

頬が、少しだけだるかった。

 

笑うのって、こんなに疲れることだったっけ。

 

 

 

 

トレーナー室の扉を開けると、絢原さんはデスクで書き物をしていた。

 

「お疲れ」

 

「……ただいま」

 

椅子に崩れるように座る。さっき笑ったせいで、まだ頬のあたりがこわばっていた。

 

絢原さんが立ち上がって、部屋の隅の小さな冷蔵庫を開けた。中から何かを取り出して——こと、と、私の前の机に置く。

 

プリンだった。固いやつ。容器の側面から、しっかりした断面が見えている。

 

「……なんで」

 

「たまたまだ。買い物のついでに、目に入った」

 

嘘だ。この人の「たまたま」は、昔から信用できない。準備してきた時ほど、淡白なことを言う。

 

約束は覚えている。葉桜の頃。勝ったら、なんかおごってよ。プリンがいい。——固いやつだろ、と、この人は即答した。お前のことならもう大抵知ってる、なんて言って。

 

それから、私は勝った。あの初夏のレースを、削って、削って。

 

でもプリンのことは、どっちも言わなかった。私が、言えなかった。勝った気がしなかったから。あんな走りで、ご褒美をもらう理由なんて、どこにも見つからなかったから。

 

だから、もう流れた話だと思っていた。

 

なのに、この人は何も言わずにプリンを出した。「勝ったから」とも、「約束だから」とも、言わずに。

 

……ずるい。受け取る理由も、断る理由もくれない。

 

スプーンを取って、ひと匙すくった。口に入れる。

 

固い。甘い。

 

味は、よく分からなかった。最近は、何を食べても遠い。舌の上に乗っているのは分かるのに、それが美味しいのかどうか、判定する部分が、どこかで止まっている。

 

それでも、冷たいのが喉を通るのは、悪くなかった。

 

絢原さんは、向かいで、自分のぶんのコーヒーを飲んでいる。ブラック。よく飽きないな、と思う。

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

「……ねえ」

 

「ん」

 

「この前のレース。私、勝ったんだよね」

 

「ああ」

 

「……どんなレースだったか、覚えてないんだよね」

 

絢原さんのカップが止まった。

 

「ゴールした瞬間も、よく分かんなくて。勝ったのか、負けたのかも、しばらく分かんなかった。気づいたら、勝ってたことになってた」

 

スプーンの先で、プリンの表面を、つついた。

 

「勝っても、別に。嬉しいとか、悔しいとか、何も。……このプリンも、味、分かんないし」

 

自分で言って、ちょっと笑えた。

 

「笑っちゃうよね。世界の女王サマが、自分の勝ったレースも、もらったプリンの味も、分かんないの」

 

毒みたいな言い方になった。自分に向けた毒。

 

絢原さんは、まだ、何も言わない。

 

つついたプリンを、もうひと匙口に運んだ。やっぱり、遠い。

 

「……ねえ。私、走ってる意味、あるのかな。これ」

 

ぽろっと、出た。訊くつもりなんて、なかったのに。

 

言ってから、しまった、と思った。重い。湿っぽい。——言わない、って決めてたのに。この人が一緒にもがいてくれてるのを知ってるから、ずっと、練習場では言わないでいたのに。プリンひとつで、口が緩んだ。

 

絢原さんは、すぐには答えなかった。

 

コーヒーカップを置いて、それから、ペンも置いた。椅子ごと、こっちを向く。逃げ場のない、まっすぐな目だった。

 

「意味があるかどうかは、俺にも分からない」

 

……だよね。そんなの、誰にも。

 

「分かったふりをして何か言っても、お前には届かないだろ。だから、それは言わない」

 

正直な人だ。こういうとき、この人は、嘘をつかない。

 

「ただ——モエ」

 

名前を、呼ばれた。

 

「意味が見つからないなら、走らなくていい」

 

「……え」

 

一瞬、言われたことが、分からなかった。

 

「やめたいなら、やめていい。走るかどうかを決められるのは、お前だけだ。俺にも、ほかの誰にも、それを決める権利はない」

 

「……トレーナーが、それ言う?」

 

「言うさ」

 

絢原さんは、目を逸らさなかった。

 

「俺は、お前が走るところが見たくて、トレーナーをやってるんじゃない。勝ち負けも、順位も、二の次だ。お前がどうしたいか。俺にとっては、いつだってそれが一番だ」

 

「……走ること、じゃなくても?」

 

「ああ。お前が走るなら、俺の持ってる全部で支える。やめるなら——その先のことを、一緒に考える。どっちを選んでも、俺がお前の隣にいるのは、変わらない」

 

突き放されたんじゃ、なかった。

 

むしろ、逆だ。どっちに転んでも、この人は降りない。そう言われている。

 

「ただ」

 

絢原さんは、そこで一拍だけ言葉を切った。声が、少しだけ低くなる。

 

「後悔だけは、してほしくない。走っても、やめても。……それだけだ」

 

後悔。

 

その言葉を、この人は、軽々しく使わない。それくらいは知っている。あの春からこの人は、私が選んだものを、一緒に背負ってきた人だ。

 

だから、説教には聞こえなかった。命令でもない。

 

——願いみたいに、聞こえた。

 

走らなくていい。

 

なんだか、力が抜けた。

 

ずっと、走らなきゃいけないと思っていた。ママの娘だから。期待されてるから。勝てない私に残ってるのは、走ることくらいしか、なかったから。意味が見つからないなら、なおさら、走って埋めなきゃいけない気がしていた。

 

走るのをやめたら、私には何が残るんだろう。——いつかの夜、そう考えてこわくなった。こわくて、考えるのをやめた。

 

でも、この人は言う。やめても、その先を一緒に考える、と。隣にいるのは、変わらない、と。

 

残るものが、あるらしい。

 

そう思ったら、あの夜のこわさの底が、少しだけ抜けた気がした。

 

じゃあ。今、やめたら。

 

私は、後悔するんだろうか。

 

……分からなかった。するような気もするし、しないような気もする。考えても、答えは出てこない。ただ、その問いだけが、胸のどこかに小さく引っかかって、落ちていかなかった。

 

まあ、いいや。今日のところは。

 

私はもう一度、プリンをすくった。

 

固い。甘い。やっぱり、味は遠い。

 

でも——もし、今の私が、それでも少しだけ走れるとしたら。

 

それは、誰かに走らされてるからじゃない。ママの娘だからでも、期待のためでもない。

 

やめてもいい、と言われた上で。それでも、私が、自分で。

 

……このプリンが、あるから。

 

走ることは、相変わらず遠い。ターフの上では、何を走っても、手応えがない。なのに、この部屋は、遠くなかった。固めのプリンも、向かいでブラックを飲んでるこの人も、ちゃんとここにある。ここだけは、なぜか近かった。

 

プリン一個分くらいなら。自分で選んで、走ってみてもいい。

 

それくらいの、小さな理由。

 

「……もう一個は、いらない」

 

「そうか」

 

「これで、足りるよ」

 

絢原さんは、小さく、ふっと息を吐いた。笑ったのかもしれない。

 

それから、書き物に戻ろうとして——ペンを持ったまま、手が止まった。

 

何か言いかけて、やめる。そんな間があった。顔を上げると、目が合って、それから逸らされた。

 

「……なに」

 

「なんでもない」

 

「変なの」

 

「気のせいだ」

 

そう言って、絢原さんは、手元に目を戻した。少しだけ、疲れて見えた。目の下がうっすら暗い。あんまり眠れてないのかもしれない。

 

何かあったのかな、とは思った。でも、訊かなかった。まだ言う気がない時の顔だった。それくらいは分かる。

 

たぶん、大したことじゃない。そう思うことにした。

 

残りのプリンを、ゆっくり食べた。固くて甘い。それだけの、小さなもの。

 

大きな称号でも、立派な目標でもない。ただの、プリン一個。今日は、それで十分だった。

 

それ以上のことは、考えなくてよかった。——やめてもいいと、言われたんだから。

 

窓の外で、夏の陽がゆっくり暮れていく。

 

絢原さんのペンは、まだ、止まったままだった。




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