——The Alchemist: Agnes Tachyon
七月の終わり。
理科準備室。
夏の日差しが窓から差し込んで、ビーカーの列に濃い影を落としていた。今日は実験の日ではない。論文の草稿と、香港で採れたカレンモエくんの走行データの解析。暑い盛りでも、やることには困らない。
紅茶を淹れる。角砂糖を二つ。少し考えて、三つ目を落とした。
デスクに戻って、印刷した数字の束をめくる。
先週の検診を思い出す。
丸椅子に座って、あの子は面倒くさそうに腕を出した。体温。脈。筋。骨。作り直した脚の継ぎ目の一つひとつ。どこにも文句のつけようがない。
「数値は全部きれいだよ、モルモット君。健康優良ウマ娘だ」
「あっそ」
「……つまらなそうだね」
「べつに。いつも通りだけど」
嘘ではないのが厄介なところだ。いつも通り、が長すぎる。
検診のあいだ、あの子は一度だけ口を開いた。
「……ねえ。この検診、いつまであるの」
「君の脚が君のものである限り、だね。嫌かい」
「べつに」
肩をすくめて、丸椅子を降りる。ドアの前で一度だけ振り返った。
「タキオンさんは、夏バテとかしないの」
「私は常に最適な状態に管理されているのでね。自分の体も実験対象だ」
「ふーん。大変だね、それ」
大変なのはどちらだか。ドアが閉まって、それきりだった。
体は完璧だった。なのに、この前のG3の走行データだけがひどく燃費の悪い走り方をしている。火の入っていないエンジンを燃料だけで無理やり回した数字。
不調は体ではないところにいる。
——私の管轄ではない。管轄ではないが、目には入る。
それから、もう一つ。
三度検算した。誤差ではない。香港の千二百が残した数字の中に、一箇所、行儀の悪い箇所がある。この行儀の悪さを説明できる仮説なら、ある。ずいぶん前から、棚の上に。函館で少し肥えて、香港でまた肥えた。
問題は一つだけだ。検証する装置がこの国のどこにも存在しない。
検証できない仮説は独り言と同じだ。だから棚に上げてある。科学者の棚は墓場ではない。順番待ちの待合室だ。
ドアがノックされた。
私は紙の束を伏せた。それから言った。
「どうぞ」
入ってきたのは、ドリームジャーニーだった。
「お邪魔します、タキオン先輩」
「やあ、ジャーニーくん」
私は椅子を回した。穏やかな微笑み。ほつれのない黒髪。制服の着こなしが正確だ。この子はどんな状況でも姿勢が崩れない。
「その姿勢は、委員会の顔だね。座りたまえ」
「少し、お時間よろしいですか」
「ちょうど一息ついたところだよ」
ジャーニーくんが椅子に座った。背筋が真っ直ぐだ。
「オルフェーヴルのことで、ご相談があって参りました」
「オル」と呼ばないあたりが公の用件だという宣言だ。
「オルフェーヴルくんが、どうかしたのかい」
「今年、凱旋門賞に出走いたします」
椅子の上で尻尾の先が一度だけ揺れた。
——静かにしていたまえ。
「知っているよ。去年、惜しいレースをした。今年こそ、という気持ちは理解できる」
「はい」
間を置いた。用件の本丸に入る前のこの子独特の呼吸。
「ペースメーカーの検討を進めております」
「ほう」
「カレンモエさんのお名前が挙がっております。香港スプリントでの走りが目に留まりました。重い芝でも出力が落ちない。パワーで前半を引ける、と。役目は前半の千五百ほど。最後まで走り切る役ではありません」
「名前が挙がっている、ね」
私は紅茶を一口飲んだ。甘い。ちょうどいい。
「誰の口から挙がったのかな」
「私です」
即答だった。微笑みのまま、一拍も置かずに。
ふぅン。隠す気は最初からないらしい。この子のそういうところは嫌いではない。
「想定のラップは」
「引いてございます。千五百までの区間割りも、外れた場合の代替も」
「誰が引いた」
「私が」
「資料は」
「お求めでしたら、すぐに」
鞄に手がかかる。私は手の甲でそれを制した。見るまでもない。この子の計算が粗いはずがない。粗ければ、話はもっと楽だった。
「では、一つ聞こう。君の計算書に、あの子のエンジンの癖は載っているかい」
「癖——」
「載っていないなら、計算書ごと作り直しだ」
「点火のお話でしたら」
ジャーニーくんは目を伏せずに言った。
「映像で見立てております。高松宮も、この前のG3も、繰り返し。追う理由のある相手がいないとき、あの方の走りは温度が変わりません。号砲では、火が入らない」
ほう。
「ですから——火の要らない役目なら、お願いできると考えました。点火を期待しない千五百です。むしろ、冷えたまま走っていただくことが役目の条件になります」
興味深い、と言いそうになって、やめた。褒めてやる義理はない。
正しいのだ。手順書として完璧に正しい。火の入らないエンジンに、火の要らない仕事。欠点がそっくりそのまま適性になる配置。
正しさというのは、ときどき、ひどく冷える。
「私のモルモットの仕様書は、非売品なのだがね」
「存じています。ですから、外から見えるものだけで組みました」
頭の下げ方まで正確だった。
「それで。今日は、何を取りに来た」
「二つ、ございます。お体に問題がないか、ご確認をいただきたい。それから、もしよろしければ——絢原トレーナーへのお口添えを」
「少し待ってくれたまえ」
ジャーニーくんが静かに口を閉じる。微笑みのまま。
「整理しよう」
カップを置いた。
「君は遠征支援委員長の肩書きで来た。委員会の検討事項を個人のお願いの形に溶かし直して持ってきた。私が『問題ない』と言えば、それが試薬になる。一滴垂らせば、絢原くんという沈殿物が狙い通りに析出する。——そういう手順書かな」
「先輩のお知恵をお借りしたい、というのが正直なところです」
正直、と言った。
私の中で何かが冷えた。
怒り、と呼ぶには小さい。もっと冷たくて、もっと個人的な何かだ。
手口に腹を立てたのではない。手口は見事だ。外堀の埋め方も、包み紙の選び方も、満点をやっていい。
気に入らないのは、勘定の仕方だ。
この手順書の中で、私は判子の欄に置かれている。署名ひとつの装置。そして私のモルモット君は消耗品の欄に記入されている。前半千五百で使い切る部品、と。
あの体に何が詰まっているか、桁の一つまで知っているのは私だ。設計し直したのも、壊れないように仕込んだのも。先週も継ぎ目を一つずつ確かめたばかりだ。その私を判子と呼び、あの体を部品と呼ぶ。
ふぅン。
舐められたものだね、私も。
「ジャーニーくん」
「はい」
「君はオルフェーヴルくんに勝ってほしいのかい」
一拍、間があった。
「……はい」
敬語が落ちた。一語だけ。それだけがこの会話の中で剥き出しの言葉だった。
「もう一つ。カレンモエくん本人は、知っているのかい」
「現時点では」わずかに間を置いた。「まだ、です」
「本人より先に、私のところへ来た。このあと絢原くんのところへも、本人より先に行くのだろう。外から埋めていく君の手際は見事だが——順番としては、どう思うね」
「……正しい順番ではないと、思っています」
微笑みは崩れない。
「わかっていて、来たのかい」
「はい」
即答だった。
言い訳をしない。やめもしない。私情と大義を、この子は最初から分けていない。
「最後に、意地の悪い質問をしようか」
「どうぞ」
「絢原くんが、首を縦に振らなかったら?」
「次のお名前は、ありません」
微笑みのまま、ジャーニーくんは言った。
「その場合は白紙に戻して、前を引く者なしで挑みます。妹は、それでも走ると言いますから」
退路の話を、退路のない声でする。橋という橋を最初から燃やして歩いてくる子だ。
「そうか」
私は立ち上がって、窓のそばに寄った。外のコースが見える。今日は自主練の日だ。遠くで誰かが走っている。
走る理由が品切れの世界女王と、三度目に懸ける妹と。同じ秋の、同じレースに、名前が並ぼうとしている。妙な夏だ。
香港のあと、この部屋で訊いたことがある。走ってみて、どうだった——と。
あの子は面倒くさそうに答えた。
「……負ける気、しなかったけど」
傲慢に聞こえる台詞を、事実の顔で言う子だ。そして体は、その言葉どおりの数字を残した。
先週の丸椅子の上の気の抜けた横顔。香港の行儀の悪い数字。同じ体だ。
「先輩は」
背中に、声が当たった。
「——この話に、ご反対ですか」
「賛成も反対もない。私は、私の仕事だけをする」
伏せた紙の束が視界の端にある。
「結果だがね」
振り返らずに言った。
「前半の千五百を引くだけなら、あの体は——」
一拍。
「——医学的に、問題ない。と、だけ言おう」
「ありがとうございます」
「ただし、それだけだ。私は判子ではないし、試薬でもない。口添えはしない。絢原くんの判断は絢原くんのものだ。君が、自分の言葉で説得したまえ」
「……承知しました」
ジャーニーくんは頭を下げた。下げたまま、続けた。
「それでも——先輩にお話を通さずに進めることは、したくありませんでした」
「筋を通された側は、それを外堀と呼ぶのだがね」
「ふふ」
初めて声が笑った。
「……否定は、いたしません」
顔を上げる。微笑みの種類がさっきまでと少しだけ違った。
「もう一点だけ。お話が進みました場合には——現地への帯同も、委員会の選択肢として、お通ししてございます」
「ふぅン」
紅茶のカップを取り上げて、私は少し笑った。
「私の旅程まで、もう組んであるのかい」
「選択肢として、です」
「気の早いことだ」
「お体をいちばんよくご存知の方が現地にいてくだされば——絢原トレーナーのご懸念も、一つ減りますので」
「試薬の次は、保険扱いかい」
「適材適所、と申し上げております」
「……言うようになったね、君も」
行けば、装置がある。
——その考えごと、棚に置いた。
「必要になったら、改めて来たまえ」
「はい」
ジャーニーくんが立ち上がる。一礼。ドアへ向かう。その背中に私は言った。
「それから」
足が止まる。
「オルフェーヴルくんには、よい旅を」
ジャーニーくんの表情が初めて少しだけ動いた。微笑みの形はそのままに、何かが柔らかくなった。
「……はい。ありがとうございます、タキオン先輩」
礼をして、出ていった。
ドアが閉まる。足音が廊下を遠ざかる。
紅茶は半分ほど残っていた。一口飲む。冷めた紅茶は、甘みだけが舌に居座る。
伏せていた紙の束を表に返した。行儀の悪い数字は、行儀の悪いまま、そこにいる。
ロンシャンのデータが取れる——帯同の理由を訊かれたら、そう答えるだけでいい。私がそういう生き物だと、絢原くんはよく知っている。嘘でもない。
ただし、順番は守る。私の口から、あの男にもあの子にも、ロンシャンの名前は出さない。口添えはしないし、仮説のためにあの子の行き先を曲げることも、しない。
……後のほうは、少しだけ自信がないがね。ククッ。
それから、判子と部品の勘定書きには——いずれ、利子をつけて返すとしよう。
海の向こうに、装置がひとつある。その名前を、今日の客は何度も口にしていった。
忘れることに、しよう。
絢原くんのところへは明日にでも行くのだろう。あの男がどんな顔で頷くのか——それはデータに残らない類のものだ。
手帳を開いて、来月の検診の枠を書き入れる。あの子がどんな顔で来るか。それくらいは見届ける側の仕事だ。
ロンシャンまで、あと二ヶ月あまり。
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