アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

135 / 158
97話 申し出

 

——The Alchemist: Agnes Tachyon

 

 

 

七月の終わり。

 

理科準備室。

 

夏の日差しが窓から差し込んで、ビーカーの列に濃い影を落としていた。今日は実験の日ではない。論文の草稿と、香港で採れたカレンモエくんの走行データの解析。暑い盛りでも、やることには困らない。

 

紅茶を淹れる。角砂糖を二つ。少し考えて、三つ目を落とした。

 

デスクに戻って、印刷した数字の束をめくる。

 

先週の検診を思い出す。

 

丸椅子に座って、あの子は面倒くさそうに腕を出した。体温。脈。筋。骨。作り直した脚の継ぎ目の一つひとつ。どこにも文句のつけようがない。

 

「数値は全部きれいだよ、モルモット君。健康優良ウマ娘だ」

 

「あっそ」

 

「……つまらなそうだね」

 

「べつに。いつも通りだけど」

 

嘘ではないのが厄介なところだ。いつも通り、が長すぎる。

 

検診のあいだ、あの子は一度だけ口を開いた。

 

「……ねえ。この検診、いつまであるの」

 

「君の脚が君のものである限り、だね。嫌かい」

 

「べつに」

 

肩をすくめて、丸椅子を降りる。ドアの前で一度だけ振り返った。

 

「タキオンさんは、夏バテとかしないの」

 

「私は常に最適な状態に管理されているのでね。自分の体も実験対象だ」

 

「ふーん。大変だね、それ」

 

大変なのはどちらだか。ドアが閉まって、それきりだった。

 

体は完璧だった。なのに、この前のG3の走行データだけがひどく燃費の悪い走り方をしている。火の入っていないエンジンを燃料だけで無理やり回した数字。

 

不調は体ではないところにいる。

 

——私の管轄ではない。管轄ではないが、目には入る。

 

それから、もう一つ。

 

三度検算した。誤差ではない。香港の千二百が残した数字の中に、一箇所、行儀の悪い箇所がある。この行儀の悪さを説明できる仮説なら、ある。ずいぶん前から、棚の上に。函館で少し肥えて、香港でまた肥えた。

 

問題は一つだけだ。検証する装置がこの国のどこにも存在しない。

 

検証できない仮説は独り言と同じだ。だから棚に上げてある。科学者の棚は墓場ではない。順番待ちの待合室だ。

 

ドアがノックされた。

 

私は紙の束を伏せた。それから言った。

 

「どうぞ」

 

入ってきたのは、ドリームジャーニーだった。

 

「お邪魔します、タキオン先輩」

 

「やあ、ジャーニーくん」

 

私は椅子を回した。穏やかな微笑み。ほつれのない黒髪。制服の着こなしが正確だ。この子はどんな状況でも姿勢が崩れない。

 

「その姿勢は、委員会の顔だね。座りたまえ」

 

「少し、お時間よろしいですか」

 

「ちょうど一息ついたところだよ」

 

ジャーニーくんが椅子に座った。背筋が真っ直ぐだ。

 

「オルフェーヴルのことで、ご相談があって参りました」

 

「オル」と呼ばないあたりが公の用件だという宣言だ。

 

「オルフェーヴルくんが、どうかしたのかい」

 

「今年、凱旋門賞に出走いたします」

 

椅子の上で尻尾の先が一度だけ揺れた。

 

——静かにしていたまえ。

 

「知っているよ。去年、惜しいレースをした。今年こそ、という気持ちは理解できる」

 

「はい」

 

間を置いた。用件の本丸に入る前のこの子独特の呼吸。

 

「ペースメーカーの検討を進めております」

 

「ほう」

 

「カレンモエさんのお名前が挙がっております。香港スプリントでの走りが目に留まりました。重い芝でも出力が落ちない。パワーで前半を引ける、と。役目は前半の千五百ほど。最後まで走り切る役ではありません」

 

「名前が挙がっている、ね」

 

私は紅茶を一口飲んだ。甘い。ちょうどいい。

 

「誰の口から挙がったのかな」

 

「私です」

 

即答だった。微笑みのまま、一拍も置かずに。

 

ふぅン。隠す気は最初からないらしい。この子のそういうところは嫌いではない。

 

「想定のラップは」

 

「引いてございます。千五百までの区間割りも、外れた場合の代替も」

 

「誰が引いた」

 

「私が」

 

「資料は」

 

「お求めでしたら、すぐに」

 

鞄に手がかかる。私は手の甲でそれを制した。見るまでもない。この子の計算が粗いはずがない。粗ければ、話はもっと楽だった。

 

「では、一つ聞こう。君の計算書に、あの子のエンジンの癖は載っているかい」

 

「癖——」

 

「載っていないなら、計算書ごと作り直しだ」

 

「点火のお話でしたら」

 

ジャーニーくんは目を伏せずに言った。

 

「映像で見立てております。高松宮も、この前のG3も、繰り返し。追う理由のある相手がいないとき、あの方の走りは温度が変わりません。号砲では、火が入らない」

 

ほう。

 

「ですから——火の要らない役目なら、お願いできると考えました。点火を期待しない千五百です。むしろ、冷えたまま走っていただくことが役目の条件になります」

 

興味深い、と言いそうになって、やめた。褒めてやる義理はない。

 

正しいのだ。手順書として完璧に正しい。火の入らないエンジンに、火の要らない仕事。欠点がそっくりそのまま適性になる配置。

 

正しさというのは、ときどき、ひどく冷える。

 

「私のモルモットの仕様書は、非売品なのだがね」

 

「存じています。ですから、外から見えるものだけで組みました」

 

頭の下げ方まで正確だった。

 

「それで。今日は、何を取りに来た」

 

「二つ、ございます。お体に問題がないか、ご確認をいただきたい。それから、もしよろしければ——絢原トレーナーへのお口添えを」

 

「少し待ってくれたまえ」

 

ジャーニーくんが静かに口を閉じる。微笑みのまま。

 

「整理しよう」

 

カップを置いた。

 

「君は遠征支援委員長の肩書きで来た。委員会の検討事項を個人のお願いの形に溶かし直して持ってきた。私が『問題ない』と言えば、それが試薬になる。一滴垂らせば、絢原くんという沈殿物が狙い通りに析出する。——そういう手順書かな」

 

「先輩のお知恵をお借りしたい、というのが正直なところです」

 

正直、と言った。

 

私の中で何かが冷えた。

 

怒り、と呼ぶには小さい。もっと冷たくて、もっと個人的な何かだ。

 

手口に腹を立てたのではない。手口は見事だ。外堀の埋め方も、包み紙の選び方も、満点をやっていい。

 

気に入らないのは、勘定の仕方だ。

 

この手順書の中で、私は判子の欄に置かれている。署名ひとつの装置。そして私のモルモット君は消耗品の欄に記入されている。前半千五百で使い切る部品、と。

 

あの体に何が詰まっているか、桁の一つまで知っているのは私だ。設計し直したのも、壊れないように仕込んだのも。先週も継ぎ目を一つずつ確かめたばかりだ。その私を判子と呼び、あの体を部品と呼ぶ。

 

ふぅン。

 

舐められたものだね、私も。

 

「ジャーニーくん」

 

「はい」

 

「君はオルフェーヴルくんに勝ってほしいのかい」

 

一拍、間があった。

 

「……はい」

 

敬語が落ちた。一語だけ。それだけがこの会話の中で剥き出しの言葉だった。

 

「もう一つ。カレンモエくん本人は、知っているのかい」

 

「現時点では」わずかに間を置いた。「まだ、です」

 

「本人より先に、私のところへ来た。このあと絢原くんのところへも、本人より先に行くのだろう。外から埋めていく君の手際は見事だが——順番としては、どう思うね」

 

「……正しい順番ではないと、思っています」

 

微笑みは崩れない。

 

「わかっていて、来たのかい」

 

「はい」

 

即答だった。

 

言い訳をしない。やめもしない。私情と大義を、この子は最初から分けていない。

 

「最後に、意地の悪い質問をしようか」

 

「どうぞ」

 

「絢原くんが、首を縦に振らなかったら?」

 

「次のお名前は、ありません」

 

微笑みのまま、ジャーニーくんは言った。

 

「その場合は白紙に戻して、前を引く者なしで挑みます。妹は、それでも走ると言いますから」

 

退路の話を、退路のない声でする。橋という橋を最初から燃やして歩いてくる子だ。

 

「そうか」

 

私は立ち上がって、窓のそばに寄った。外のコースが見える。今日は自主練の日だ。遠くで誰かが走っている。

 

走る理由が品切れの世界女王と、三度目に懸ける妹と。同じ秋の、同じレースに、名前が並ぼうとしている。妙な夏だ。

 

香港のあと、この部屋で訊いたことがある。走ってみて、どうだった——と。

 

あの子は面倒くさそうに答えた。

 

「……負ける気、しなかったけど」

 

傲慢に聞こえる台詞を、事実の顔で言う子だ。そして体は、その言葉どおりの数字を残した。

 

先週の丸椅子の上の気の抜けた横顔。香港の行儀の悪い数字。同じ体だ。

 

「先輩は」

 

背中に、声が当たった。

 

「——この話に、ご反対ですか」

 

「賛成も反対もない。私は、私の仕事だけをする」

 

伏せた紙の束が視界の端にある。

 

「結果だがね」

 

振り返らずに言った。

 

「前半の千五百を引くだけなら、あの体は——」

 

一拍。

 

「——医学的に、問題ない。と、だけ言おう」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、それだけだ。私は判子ではないし、試薬でもない。口添えはしない。絢原くんの判断は絢原くんのものだ。君が、自分の言葉で説得したまえ」

 

「……承知しました」

 

ジャーニーくんは頭を下げた。下げたまま、続けた。

 

「それでも——先輩にお話を通さずに進めることは、したくありませんでした」

 

「筋を通された側は、それを外堀と呼ぶのだがね」

 

「ふふ」

 

初めて声が笑った。

 

「……否定は、いたしません」

 

顔を上げる。微笑みの種類がさっきまでと少しだけ違った。

 

「もう一点だけ。お話が進みました場合には——現地への帯同も、委員会の選択肢として、お通ししてございます」

 

「ふぅン」

 

紅茶のカップを取り上げて、私は少し笑った。

 

「私の旅程まで、もう組んであるのかい」

 

「選択肢として、です」

 

「気の早いことだ」

 

「お体をいちばんよくご存知の方が現地にいてくだされば——絢原トレーナーのご懸念も、一つ減りますので」

 

「試薬の次は、保険扱いかい」

 

「適材適所、と申し上げております」

 

「……言うようになったね、君も」

 

行けば、装置がある。

 

——その考えごと、棚に置いた。

 

「必要になったら、改めて来たまえ」

 

「はい」

 

ジャーニーくんが立ち上がる。一礼。ドアへ向かう。その背中に私は言った。

 

「それから」

 

足が止まる。

 

「オルフェーヴルくんには、よい旅を」

 

ジャーニーくんの表情が初めて少しだけ動いた。微笑みの形はそのままに、何かが柔らかくなった。

 

「……はい。ありがとうございます、タキオン先輩」

 

礼をして、出ていった。

 

ドアが閉まる。足音が廊下を遠ざかる。

 

紅茶は半分ほど残っていた。一口飲む。冷めた紅茶は、甘みだけが舌に居座る。

 

伏せていた紙の束を表に返した。行儀の悪い数字は、行儀の悪いまま、そこにいる。

 

ロンシャンのデータが取れる——帯同の理由を訊かれたら、そう答えるだけでいい。私がそういう生き物だと、絢原くんはよく知っている。嘘でもない。

 

ただし、順番は守る。私の口から、あの男にもあの子にも、ロンシャンの名前は出さない。口添えはしないし、仮説のためにあの子の行き先を曲げることも、しない。

 

……後のほうは、少しだけ自信がないがね。ククッ。

 

それから、判子と部品の勘定書きには——いずれ、利子をつけて返すとしよう。

 

海の向こうに、装置がひとつある。その名前を、今日の客は何度も口にしていった。

 

忘れることに、しよう。

 

絢原くんのところへは明日にでも行くのだろう。あの男がどんな顔で頷くのか——それはデータに残らない類のものだ。

 

手帳を開いて、来月の検診の枠を書き入れる。あの子がどんな顔で来るか。それくらいは見届ける側の仕事だ。

 

ロンシャンまで、あと二ヶ月あまり。

 




ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。