アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

135 / 135
97話 申し出

 

——The Alchemist: Agnes Tachyon

 

 

 

七月の終わり。

 

理科準備室。

 

夏の日差しが窓から差し込んで、ビーカーの列に濃い影を落としていた。今日は実験の日ではない。論文の草稿と、香港で採れたカレンモエくんの走行データの解析。暑い盛りでも、やることには困らない。

 

紅茶を淹れる。角砂糖を二つ。少し考えて、三つ目を落とした。

 

デスクに戻って、印刷した数字の束をめくる。

 

先週の検診を思い出す。

 

丸椅子に座って、あの子は面倒くさそうに腕を出した。体温。脈。筋。骨。作り直した脚の継ぎ目の一つひとつ。どこにも文句のつけようがない。

 

「数値は全部きれいだよ、モルモット君。健康優良ウマ娘だ」

 

「あっそ」

 

「……つまらなそうだね」

 

「べつに。いつも通りだけど」

 

嘘ではないのが厄介なところだ。いつも通り、が長すぎる。

 

検診のあいだ、あの子は一度だけ口を開いた。

 

「……ねえ。この検診、いつまであるの」

 

「君の脚が君のものである限り、だね。嫌かい」

 

「べつに」

 

肩をすくめて、丸椅子を降りる。ドアの前で一度だけ振り返った。

 

「タキオンさんは、夏バテとかしないの」

 

「私は常に最適な状態に管理されているのでね。自分の体も実験対象だ」

 

「ふーん。大変だね、それ」

 

大変なのはどちらだか。ドアが閉まって、それきりだった。

 

体は完璧だった。なのに、この前のG3の走行データだけがひどく燃費の悪い走り方をしている。火の入っていないエンジンを燃料だけで無理やり回した数字。

 

不調は体ではないところにいる。

 

——私の管轄ではない。管轄ではないが、目には入る。

 

それから、もう一つ。

 

三度検算した。誤差ではない。香港の千二百が残した数字の中に、一箇所、行儀の悪い箇所がある。この行儀の悪さを説明できる仮説なら、ある。ずいぶん前から、棚の上に。函館で少し肥えて、香港でまた肥えた。

 

問題は一つだけだ。検証する装置がこの国のどこにも存在しない。

 

検証できない仮説は独り言と同じだ。だから棚に上げてある。科学者の棚は墓場ではない。順番待ちの待合室だ。

 

ドアがノックされた。

 

私は紙の束を伏せた。それから言った。

 

「どうぞ」

 

入ってきたのは、ドリームジャーニーだった。

 

「お邪魔します、タキオン先輩」

 

「やあ、ジャーニーくん」

 

私は椅子を回した。穏やかな微笑み。ほつれのない黒髪。制服の着こなしが正確だ。この子はどんな状況でも姿勢が崩れない。

 

「その姿勢は、委員会の顔だね。座りたまえ」

 

「少し、お時間よろしいですか」

 

「ちょうど一息ついたところだよ」

 

ジャーニーくんが椅子に座った。背筋が真っ直ぐだ。

 

「オルフェーヴルのことで、ご相談があって参りました」

 

「オル」と呼ばないあたりが公の用件だという宣言だ。

 

「オルフェーヴルくんが、どうかしたのかい」

 

「今年、凱旋門賞に出走いたします」

 

椅子の上で尻尾の先が一度だけ揺れた。

 

——静かにしていたまえ。

 

「知っているよ。去年、惜しいレースをした。今年こそ、という気持ちは理解できる」

 

「はい」

 

間を置いた。用件の本丸に入る前のこの子独特の呼吸。

 

「ペースメーカーの検討を進めております」

 

「ほう」

 

「カレンモエさんのお名前が挙がっております。香港スプリントでの走りが目に留まりました。重い芝でも出力が落ちない。パワーで前半を引ける、と。役目は前半の千五百ほど。最後まで走り切る役ではありません」

 

「名前が挙がっている、ね」

 

私は紅茶を一口飲んだ。甘い。ちょうどいい。

 

「誰の口から挙がったのかな」

 

「私です」

 

即答だった。微笑みのまま、一拍も置かずに。

 

ふぅン。隠す気は最初からないらしい。この子のそういうところは嫌いではない。

 

「想定のラップは」

 

「引いてございます。千五百までの区間割りも、外れた場合の代替も」

 

「誰が引いた」

 

「私が」

 

「資料は」

 

「お求めでしたら、すぐに」

 

鞄に手がかかる。私は手の甲でそれを制した。見るまでもない。この子の計算が粗いはずがない。粗ければ、話はもっと楽だった。

 

「では、一つ聞こう。君の計算書に、あの子のエンジンの癖は載っているかい」

 

「癖——」

 

「載っていないなら、計算書ごと作り直しだ」

 

「点火のお話でしたら」

 

ジャーニーくんは目を伏せずに言った。

 

「映像で見立てております。高松宮も、この前のG3も、繰り返し。追う理由のある相手がいないとき、あの方の走りは温度が変わりません。号砲では、火が入らない」

 

ほう。

 

「ですから——火の要らない役目なら、お願いできると考えました。点火を期待しない千五百です。むしろ、冷えたまま走っていただくことが役目の条件になります」

 

興味深い、と言いそうになって、やめた。褒めてやる義理はない。

 

正しいのだ。手順書として完璧に正しい。火の入らないエンジンに、火の要らない仕事。欠点がそっくりそのまま適性になる配置。

 

正しさというのは、ときどき、ひどく冷える。

 

「私のモルモットの仕様書は、非売品なのだがね」

 

「存じています。ですから、外から見えるものだけで組みました」

 

頭の下げ方まで正確だった。

 

「それで。今日は、何を取りに来た」

 

「二つ、ございます。お体に問題がないか、ご確認をいただきたい。それから、もしよろしければ——絢原トレーナーへのお口添えを」

 

「少し待ってくれたまえ」

 

ジャーニーくんが静かに口を閉じる。微笑みのまま。

 

「整理しよう」

 

カップを置いた。

 

「君は遠征支援委員長の肩書きで来た。委員会の検討事項を個人のお願いの形に溶かし直して持ってきた。私が『問題ない』と言えば、それが試薬になる。一滴垂らせば、絢原くんという沈殿物が狙い通りに析出する。——そういう手順書かな」

 

「先輩のお知恵をお借りしたい、というのが正直なところです」

 

正直、と言った。

 

私の中で何かが冷えた。

 

怒り、と呼ぶには小さい。もっと冷たくて、もっと個人的な何かだ。

 

手口に腹を立てたのではない。手口は見事だ。外堀の埋め方も、包み紙の選び方も、満点をやっていい。

 

気に入らないのは、勘定の仕方だ。

 

この手順書の中で、私は判子の欄に置かれている。署名ひとつの装置。そして私のモルモット君は消耗品の欄に記入されている。前半千五百で使い切る部品、と。

 

あの体に何が詰まっているか、桁の一つまで知っているのは私だ。設計し直したのも、壊れないように仕込んだのも。先週も継ぎ目を一つずつ確かめたばかりだ。その私を判子と呼び、あの体を部品と呼ぶ。

 

ふぅン。

 

舐められたものだね、私も。

 

「ジャーニーくん」

 

「はい」

 

「君はオルフェーヴルくんに勝ってほしいのかい」

 

一拍、間があった。

 

「……はい」

 

敬語が落ちた。一語だけ。それだけがこの会話の中で剥き出しの言葉だった。

 

「もう一つ。カレンモエくん本人は、知っているのかい」

 

「現時点では」わずかに間を置いた。「まだ、です」

 

「本人より先に、私のところへ来た。このあと絢原くんのところへも、本人より先に行くのだろう。外から埋めていく君の手際は見事だが——順番としては、どう思うね」

 

「……正しい順番ではないと、思っています」

 

微笑みは崩れない。

 

「わかっていて、来たのかい」

 

「はい」

 

即答だった。

 

言い訳をしない。やめもしない。私情と大義を、この子は最初から分けていない。

 

「最後に、意地の悪い質問をしようか」

 

「どうぞ」

 

「絢原くんが、首を縦に振らなかったら?」

 

「次のお名前は、ありません」

 

微笑みのまま、ジャーニーくんは言った。

 

「その場合は白紙に戻して、前を引く者なしで挑みます。妹は、それでも走ると言いますから」

 

退路の話を、退路のない声でする。橋という橋を最初から燃やして歩いてくる子だ。

 

「そうか」

 

私は立ち上がって、窓のそばに寄った。外のコースが見える。今日は自主練の日だ。遠くで誰かが走っている。

 

走る理由が品切れの世界女王と、三度目に懸ける妹と。同じ秋の、同じレースに、名前が並ぼうとしている。妙な夏だ。

 

香港のあと、この部屋で訊いたことがある。走ってみて、どうだった——と。

 

あの子は面倒くさそうに答えた。

 

「……負ける気、しなかったけど」

 

傲慢に聞こえる台詞を、事実の顔で言う子だ。そして体は、その言葉どおりの数字を残した。

 

先週の丸椅子の上の気の抜けた横顔。香港の行儀の悪い数字。同じ体だ。

 

「先輩は」

 

背中に、声が当たった。

 

「——この話に、ご反対ですか」

 

「賛成も反対もない。私は、私の仕事だけをする」

 

伏せた紙の束が視界の端にある。

 

「結果だがね」

 

振り返らずに言った。

 

「前半の千五百を引くだけなら、あの体は——」

 

一拍。

 

「——医学的に、問題ない。と、だけ言おう」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、それだけだ。私は判子ではないし、試薬でもない。口添えはしない。絢原くんの判断は絢原くんのものだ。君が、自分の言葉で説得したまえ」

 

「……承知しました」

 

ジャーニーくんは頭を下げた。下げたまま、続けた。

 

「それでも——先輩にお話を通さずに進めることは、したくありませんでした」

 

「筋を通された側は、それを外堀と呼ぶのだがね」

 

「ふふ」

 

初めて声が笑った。

 

「……否定は、いたしません」

 

顔を上げる。微笑みの種類がさっきまでと少しだけ違った。

 

「もう一点だけ。お話が進みました場合には——現地への帯同も、委員会の選択肢として、お通ししてございます」

 

「ふぅン」

 

紅茶のカップを取り上げて、私は少し笑った。

 

「私の旅程まで、もう組んであるのかい」

 

「選択肢として、です」

 

「気の早いことだ」

 

「お体をいちばんよくご存知の方が現地にいてくだされば——絢原トレーナーのご懸念も、一つ減りますので」

 

「試薬の次は、保険扱いかい」

 

「適材適所、と申し上げております」

 

「……言うようになったね、君も」

 

行けば、装置がある。

 

——その考えごと、棚に置いた。

 

「必要になったら、改めて来たまえ」

 

「はい」

 

ジャーニーくんが立ち上がる。一礼。ドアへ向かう。その背中に私は言った。

 

「それから」

 

足が止まる。

 

「オルフェーヴルくんには、よい旅を」

 

ジャーニーくんの表情が初めて少しだけ動いた。微笑みの形はそのままに、何かが柔らかくなった。

 

「……はい。ありがとうございます、タキオン先輩」

 

礼をして、出ていった。

 

ドアが閉まる。足音が廊下を遠ざかる。

 

紅茶は半分ほど残っていた。一口飲む。冷めた紅茶は、甘みだけが舌に居座る。

 

伏せていた紙の束を表に返した。行儀の悪い数字は、行儀の悪いまま、そこにいる。

 

ロンシャンのデータが取れる——帯同の理由を訊かれたら、そう答えるだけでいい。私がそういう生き物だと、絢原くんはよく知っている。嘘でもない。

 

ただし、順番は守る。私の口から、あの男にもあの子にも、ロンシャンの名前は出さない。口添えはしないし、仮説のためにあの子の行き先を曲げることも、しない。

 

……後のほうは、少しだけ自信がないがね。ククッ。

 

それから、判子と部品の勘定書きには——いずれ、利子をつけて返すとしよう。

 

海の向こうに、装置がひとつある。その名前を、今日の客は何度も口にしていった。

 

忘れることに、しよう。

 

絢原くんのところへは明日にでも行くのだろう。あの男がどんな顔で頷くのか——それはデータに残らない類のものだ。

 

手帳を開いて、来月の検診の枠を書き入れる。あの子がどんな顔で来るか。それくらいは見届ける側の仕事だ。

 

ロンシャンまで、あと二ヶ月あまり。

 




ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで(作者:八幡悠)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

憧れだけじゃ走れない。でも憧れがなければ、私は走り出せなかった。「私なんかが……でも、バクシンオーさんなら、きっとこうする」──そうして私は、私じゃない誰かになって走り続けた。自己評価ミジンコ級のウマ娘が短距離王者とマイル女王の思いを受け継ぎ、かつて分かたれたマイルとスプリントを統一し、世界へ、さらにその先へ。▼【挿絵表示】▼


総合評価:2456/評価:8.7/連載:158話/更新日時:2026年06月10日(水) 06:01 小説情報

競馬ミリしらウマ娘ファンがウマ娘化されていないモブ(?)ウマ娘に転生したので、頑張って百合ハーレムを作ろうとする話(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ウマ娘に転生したから百合ハーレムを築きたい競馬ミリしら民のお話。▼ なお、名前はディープインパクトという。


総合評価:2198/評価:7.89/連載:20話/更新日時:2026年04月04日(土) 11:39 小説情報

その瞳に勝利を(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

「わたしは勝つわ、トレーナー!」▼「頑張って支えるよ」


総合評価:2859/評価:8.78/完結:74話/更新日時:2026年05月14日(木) 23:00 小説情報

転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘(作者:アリマリア)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

コメディもあるしシリアスもある、転生者2人のお話。▼書きたいものを詰め込んだヤツ。▼ * * *▼Chama様から支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上から、ホシノウィルム、堀野トレーナー、2人のイラストです。▼匿名希望の読者様からも支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上はタイトルなし、下はタイトルありの…


総合評価:26782/評価:8.62/完結:253話/更新日時:2025年08月28日(木) 18:00 小説情報

地方トレセンを舐めるなよ!(作者:鼻毛王)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

▼才能に溢れすぎた、一人のウマ娘。▼地方トレセンの一つ、笠松トレセンの再興に助力し、中央一強体制を崩しにかかる。▼『中央のウマ娘の方が強い』▼そんな常識を叩き壊すお話。▼*シンデレラグレイに触発されて執筆した作品です。▼


総合評価:3163/評価:8.39/連載:48話/更新日時:2026年04月16日(木) 18:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>