——Strategist: Dream Journey
トレーナー棟の廊下は、外より少しだけ涼しかった。
午後の遅い時間。コースの方から、練習を終えた子たちの声が風に乗って届く。私は階段を上がりながら、これから会う方の輪郭を、頭の中でもう一度なぞった。
絢原トレーナー。トレーナー歴はまだ浅く、担当は、カレンモエさん一人。
書類の上の経歴は薄い。実績の欄も、まだ数行しかない。けれど、その数行の中身が尋常ではなかった。デビューから二年足らずで、教え子は世界を獲っている。
それから、書類には載らない話を、二つ知っている。
桜花賞の日、ラチを飛び越えてコースに入った新人がいたこと。オークスの日、ゴール板の先で、特例の許可を取りつけてまで教え子を待っていたトレーナーがいたこと。
どちらも、処分の記録は残っていない。残らないように誰かが動いた、その形跡だけがある。
——つまり、そういう方だ。
規則より先に動く脚を持っていて、それを周りに許させるだけの何かを、あの子との間に持っている。
私はこれから、その方のところへ、あの子を捨て石にする話を持っていく。
ノックの前に、一度だけ息を整えた。
絢原トレーナーの部屋は、思っていたより狭かった。
新人に割り当てられる、北向きの一室。窓からの光は弱く、机の上には走行データの紙束と、何度も開いたらしいノートが積まれている。レースのポスターの類は、一枚も貼られていない。その素っ気なさが、かえってこの人らしいと思った。
紙束のいちばん上に、見覚えのある形式のラップ表が覗いていた。この前のG3のものだ。私が映像で繰り返し見たレースを、この方は紙の上で、もっと細かく見ている。机の上のものは、たぶん全部、あの子のためのものだった。一人の子のためだけに積み上がった紙の高さとして、それは少し、見たことのないものだった。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
私が頭を下げると、彼は椅子から立ち上がって、向かいの席を勧めた。
「いえ。——ただ、遠征支援委員会が、うちみたいな小所帯に何の用かは、見当がつきませんが」
声に媚びはなかった。役職への過剰な遠慮も、キャリアの浅さを思わせる気負いも、どこにもない。回り道が嫌いな人だ。ありがたくもあり——少しだけ、やりにくくもある。
私は腰を下ろして、膝の上で手を揃えた。
「今日は、カレンモエさんのことで参りました」
彼の眉がわずかに動いた。
「秋の凱旋門賞で、前にペースを作る役が要ります。ペースメーカーです。その役を、カレンモエさんにお願いできないかと思って、参りました」
短い沈黙があった。彼は私を見たまま、すぐには答えない。値踏みではなかった。言葉の裏側まで確かめるような目だ。
「ペースメーカー」彼がゆっくり繰り返した。「前を引いて、後ろの子を勝たせる役だ。途中で脚を使い切って、自分は沈む」
「……はい」
隠さなかった。隠せば、この人には見透かされる。タキオン先輩のときと同じだ。この陣営には、嘘の通じない人が多い。
包み紙を一枚も使わずに、中身だけを口にする人だ。役の名前を言った次の息で、その役の値段まで、自分から全部言ってしまう。楽といえば、楽だった。私が剥がす手間が省ける。
「なぜ、モエなんですか」
敬語に戻ったのは一瞬で、すぐにまた、彼は言葉を崩した。
「あいつでなきゃいけない理由が、あるんですか」
「香港スプリントを拝見しました。重い馬場でも、出力が落ちない。パワーで前半を引ける子は、そう多くいません。それに——」
私は一拍、置いた。
「絢原トレーナーは、あの子が重い芝に向いていることを、もうご存知のはずです」
彼の目の奥が、ほんの少し揺れた。図星らしかった。
口にしなかった理由が、もう一つある。高松宮記念の最終直線。スタンドの最上段から見た、あの踏み込みの重さ。速さではなく、力で地面をねじ伏せるような走り。あれを見た日から、私の頭の中では、あの子とロンシャンの重い芝が、ずっと隣に並んでいた。けれどそれは、私の手の内の話だ。この机に出す必要は、ない。
「前を引くのは、最初の千五百ほどです。最後まで走り切る役ではありません」
「数字は、誰が引いたんですか」
「私が。想定のラップも、外れた場合の組み直しも」
同じ問いに答えるのは、二日で二度目だった。この陣営の方たちは、疑う場所まで似ている。
「体への負担は、アグネスタキオンさんに確認いただきました。医学的には問題ない、と」
「タキオンが」
「ええ。委員会としても、帯同を選択肢として認めています」
それから、一つだけ付け加えた。言わずに済ませることも、できる話だった。
「ただ——口添えは、いただけませんでした。判定はするが、説得はしない。自分の言葉でなさい、と」
彼の口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「……タキオンらしいな」
短く言って、すぐに元の顔に戻る。けれど、その一瞬で、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。判定と説得を混ぜない人の判定だからこそ、この方はあの一言を信用する。タキオン先輩は、たぶんそこまで分かった上で、ああ仰ったのだ。
外堀は、すべて埋めてきた。タキオン先輩の一言。上層部の承認。あとは、この人が頷くだけ——のはずだった。
彼は、頷かなかった。
沈黙が、思ったより長かった。けれど、空白の沈黙ではなかった。何かを順番に確かめている沈黙だ。私は急かさなかった。待つのは、得意なほうだ。
机の上のノートに一度、目を落とす。それから、また私を見た。
「体の話は分かった。途中までなら、あいつの脚はもつ。重い芝なら、なおさらだ」
そこで、言葉が止まった。
「それでも、これは、モエが勝つための話じゃない。誰かを——オルフェーヴルを勝たせるために、あいつが前で潰れる。そういう話だ」
心臓が、小さく鳴った。けれど、ここで目を逸らすわけにはいかない。
「おっしゃる通りです。私はオルフェーヴルの姉です。妹のために、この話を持ってきました。それは、隠しません」
彼は、ふっと息を吐いた。怒りでも、呆れでもない。何かを確かめ終えたような、息の吐き方だった。
「正直だな」
「嘘をついても、あなたには通じないでしょう」
「……まあ、そうだな」
彼は腕を組んで、少し考えた。
「いくつか、聞いておきたい」
「どうぞ」
「モエが断ったら、この話はどうなる」
「次のお名前は、ありません」
即答した。昨日、理科準備室で答えたのと、同じ言葉で。
「その場合は白紙に戻して、前を引く者なしで挑みます。妹は、それでも走ると言いますから」
彼は私の顔を、しばらく見ていた。
「……それは、こっちに言わないほうが得な話でしょう」
「ええ。ですから、申し上げました」
短い間があって、彼が小さく息を漏らした。笑ったのかどうかは、分からない。
「返事の期限は」
「準備のことを考えますと、八月のうちには。ただ、急かすつもりはございません。考える時間ごと、お渡ししたつもりです」
「分かった」
それだけ言って、彼はまた黙った。机のノートの角に、指先が一度だけ触れた。
即答は、求めずに来た。むしろ、この方が今日この場で頷いたら、少しがっかりしただろうと思う。教え子を差し出すのが早い人に、あの子を任せている気は、ないので。
「俺は、モエにはモエの理由で走ってほしい。誰かの色じゃなく、あいつの色で。それだけは、譲れない」
知っている、と思った。あの子が「ママと同じはイヤ」と泣いていたことも。この人が、その子をここまで連れてきたことも。
去年の正月、神社の境内の裏手で、私はあの駄々っ子に会っている。敷かれたレールは走りたくないと、理屈にならない理屈で泣いていた子。あの子に「自分の色」なんてものを持たせたのは、目の前のこの方だ。その色を私はいま、よその勝負の下塗りに貸してくれと言いに来ている。
「存じています。だからこそ、無理にとは申しません」
私は静かに続けた。
「ただ——いま、あの子は国内で行き場をなくしているように、お見受けします。世界を獲って帰ってきて、それでも勝ちきれない。誰も自分を知らない場所へ行きたい。そんな顔を、していませんか」
言いながら、自分の手口の冷たさを、他人事のように眺めていた。これは口説き文句だ。行き場のなさは傷で、私はその傷口を指して、こちらに出口がありますと言っている。弱っている子がいちばん頷きやすい言葉を、選んで、使った。タキオン先輩なら、この手口に何と仰るだろう。考えて、やめた。答えは、もう知っている。
彼は答えなかった。けれど、否定もしなかった。
「海外が、その機会になるかもしれません。前を引く役は、確かに報われない。けれど、あの舞台を走ること自体が、あの子の何かになる可能性はある。——それを、私が決めることではありませんが」
「決めるのは」彼が言葉を継いだ。「モエだ」
「ええ」
「俺が引き受けるかどうかじゃない。あいつに話す。包み隠さず、全部だ。オルフェーヴルのための役だってことも、途中で潰れる役だってことも。その上で、あいつが走りたいと言うなら——俺は、支える」
それで、十分だった。むしろ、十分すぎるくらいだった。
この人はいま、私が外堀で塞いだはずの逃げ道を、わざわざ開け直そうとしている。あの子が、断れるように。
ふふ、と笑いが漏れそうになって、こらえた。
それから、気づいた。
この方は、最後まで距離のことを訊かなかった。私も、言わなかった。
凱旋門賞の、二四〇〇。あの子の、あの五月の数字。この部屋で、その四桁を知らない者はいない。知らないはずがないから、どちらも口にしなかった。言えば配慮になって、配慮は時々、いちばん深いところを踏む。
口に出されないまま、その数字だけが、この部屋に残っている。今夜からそれを抱えるのは、私ではなく、この方だった。
「ありがとうございます。それで、結構です」
私は立ち上がり、もう一度、頭を下げた。
「勝手なお願いを、申し上げました」
彼は、首を振った。
「正直なのは、悪くない。モエには、ちゃんと話す」
部屋を出ると、廊下に夏の西日が差していた。
階段を降りながら、昨日の理科準備室を思い出す。筋を通された側は、それを外堀と呼ぶのだがね——タキオン先輩は、そう仰った。その通りだ。私は今日も、外堀を埋め終えてから玄関を叩いた。
けれど、あの方には、それが通用しなかった。断っていい、と、あの子に言うつもりでいる。代わりがいないと知った上で。
外堀は埋めてある。けれど、最後の一歩は、私の手を離れた。あの子が頷くかどうかは、もう、あの子と、あの人に委ねるしかない。
それでいい。むしろ、それがいい。委ねるしかない、ではなく、委ねるのが正しい。順番を間違えながら進めてきた私が、最後の順番だけは、間違えずに済んだ。
——ごめんなさい。
心の中で、もう一度だけ呟いた。今度は、駄々っ子だったあの子にではなく、その子をまっすぐ育てた、あの不器用な人に。
あの部屋に、いちばん重い話を持ち込んだのは、私だ。言えた義理ではないけれど——どうか、抱え方を間違えませんように。
夕方の風が、階段の窓から入ってくる。秋には、この風が向こうの風に変わる。パリの十月の風は、きっともう冷たい。あの子は寒がりだろうか。そんなことも、私はまだ知らない。知らないまま、行き先だけを描いた。
妹のための旅は、また一歩、進んだ。
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