アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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99話 選択

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

ドアが閉まって、部屋が静かになった。

 

向かいの椅子は、まだ少しこちらを向いている。ドリームジャーニー委員長が座っていた、その角度のままだ。北向きのこの部屋に西日は入らない。それでも、窓の外の色で日が傾き始めたのは分かった。

 

椅子を戻して、自分の席に座り直す。

 

しばらく、誰もいない向かいを見ていた。

 

順番が、逆だった。普通なら、まず担当の俺に話を通して、それから体を診せて、上の承認を取りにいく。彼女は逆から来た。タキオンの判定を取り、委員会の枠を通し、帯同の選択肢まで揃えて、最後に俺の戸を叩いた。外から埋めて、内へ。見事といえば見事で、ここまで固められると、断り方のほうが難しい。

 

それでいて、彼女は埋めた堀を、自分で数え上げていった。

 

口添えは、もらえなかったらしい。判定はするが、説得はしない。自分の言葉でなさい——タキオンがそう言ったことを、彼女は自分から明かした。黙っていれば、タキオンのお墨付きに聞こえたはずの話だ。

 

おかげで、あの一言だけは信用できる。あれは、判定と応援を混ぜない。

 

断られたらどうなるのかも、訊いた。即答だった。——次のお名前は、ありません。白紙に戻して、前を引く者なしで挑みます。妹は、それでも走ると言いますから。退路がないことまで、自分の口で明かしていった。

 

言わなければ、こっちは断りやすかった。分かっていて、言う人だった。

 

あの人は、たぶん俺のことも調べてある。桜花賞のことも、オークスのことも。書類に残っている分も、残っていない分も。知った上で、この話を俺のところへ持ってきた。これが俺にとってどういう話か、知らないはずがない。知っていて、まっすぐ来る。タキオンのところへも、そうやって行ったんだろう。正直を武器にする人を、初めて見た。素手がいちばん硬いと知っている人の、戦い方だった。

 

私はオルフェーヴルの姉です、とも名乗った。肩書きで来て、私情で立っている。妹のため、と言い切る声に、後ろめたさの色は薄かった。身内のためなら、人はあそこまで非情に段取りを組める。……分からない感覚じゃ、ない。

 

ただ、あの正直を秤には乗せない。代わりがいないのは向こうの事情で、モエの事情じゃない。モエが断れば、それで終わりだ。終わらせていいし、終わらせる。

 

期限は、八月のうち。考える時間ごと、お渡ししたつもりです——彼女は、そう言った。時間はある。あるだけ、迷える時間も長い。優しい猶予だ。そのぶん、これを抱えて過ごす夜も、長くなる。

 

それから——最後まで、どちらも距離を口にしなかった。

 

彼女は言わず、俺も訊かなかった。訊くまでもない。あのレースの距離なら、誰に訊かれても即答できる。頭より先に、体が答える。

 

机の上にはノートがある。「カレンモエ育成計画」。練習の数字も、レースの予定も、モエに関わることは全部ここに書いてきた。なら、今日のことも書いておくべきだろう。

 

ペンを取った。

 

凱旋門賞。十月の第一日曜、パリ、ロンシャン。役はペースメーカー。前を引くのは、千五百まで。

 

そこまでは、書けた。

 

次の行で、ペンが止まった。

 

距離、二四〇〇。

 

書けばいいだけの数字だ。ただの四桁。モエのレースを二本、ぶっ通しで走る長さ。それだけのことだ。

 

この数字を書くのは、二度目になる。

 

一度目に何があったかは、思い出すまでもない。ずっとここにある。胃の底のあたりに、沈んだままで。

 

順番が、いつも逆なんだ。二四〇〇という並びは、意味を読むより先に、体が反応する。見た、と思った時にはもう、肩のどこかが硬くなっている。

 

数字に罪はない。距離は、ただの距離だ。頭の中では、そう整理してある。説明しろと言われれば、よどみなく言える。言えるのと、書けるのは、別の話だった。

 

ペン先からインクが滲みそうになって、紙から浮かせた。

 

一度ペンを置いて、ページを後ろへ遡った。

 

七月。六月。書き込みが、目に見えて薄くなっていく。タイム、体重、調整の中身。数字の行ばかりが並んで、横の余白が白い。前は、ここが埋まっていた。走りのどこが変わったか、モエの顔がどう動いたか、余白が足りなくなるほど書くことがあった。

 

ここ数ヶ月、書くことがなかった。タイムは並ぶのに、書き留めたくなるものが、走りのどこにもない。薄いページが、そのまま証拠になっている。俺の手で書いた、薄さだ。

 

さらに遡ろうとして、指が、ある厚みの手前で止まった。

 

その先のページは、めくらない。何が書いてあるかは、めくらなくても言える。

 

白い行まで、戻ってきた。

 

順番に考える。条件を、一つずつ見ていく。

 

役は前半だけだ。引くのは千五百まで。千五百なら、マイルより短い。モエが何度も走ってきた範囲だ。一定のラップで引いて、勝負の合図が出るずっと手前で、役目は終わる。直線で誰かと削り合うこともない。そこから先の九百を、あいつは走らない。大丈夫だ。

 

後ろには、オルフェーヴルがいる。去年、あと一歩まで迫った本物の差し脚だ。前が流れたあとを決めるのはあの子の末脚で、モエの仕事じゃない。モエの仕事は、流れを作って、消えるところまでだ。

 

重い芝は、モエに向いている。香港で見た。雨を吸った芝の上で、周りの脚が止まっていく中、モエだけが沈まなかった。むしろ、伸びた。ロンシャンの芝は日本よりずっと重い。条件としては、悪くないどころじゃない。

 

体は、タキオンが診ている。医学的には問題ない——委員長はそう伝えてきた。あれは気休めを言わない。問題ないと言ったなら、ない。逆に言えば、問題が出たとき真っ先に止めるのも、あれだ。保険は、二重にかかっている。

 

一度、内線に手が伸びかけて、やめた。診立てをもう一度、直接聞きたい気持ちはあった。ただ、返ってくる答えは分かっている。判定はした、決めるのは君たちだ——自分の言葉でなさい、というあれは、たぶんジャーニーにだけ向けた言葉じゃない。

 

それに、これは勝ちにいくレースじゃない。ウマ娘がどこで壊れるかなら、知っている。机の上の知識じゃない。壊れるのは、勝とうとした脚だ。限界の外へ手を伸ばした脚だ。この役には、その場面がそもそも来ない。半分で降りる役だ。燃やし尽くさなければ、壊れようがない。

 

だから、大丈夫だ。

 

理屈は立っている。一つずつ確かめても、どこにも穴はない。立っているのに、ペンはまだ動かなかった。

 

動かない理由なら、もう一つ、心当たりがある。

 

俺が、君を勝たせる。

 

契約の日、俺はそう言った。あの頃は、言葉の重さを半分も分かっていなかった。一度、守れなかった。あの五月に。それでも、降ろしたことはない。勝たせる。そのために、ここまでやってきた。

 

今度の役は、勝たせなくていい。それどころか、よその子を勝たせるための仕事だ。勝たせると言い続けてきた机に、正反対の依頼が来た。

 

——なのに、だ。

 

条件を一つずつ見ながら、どこかで、ほっとしている自分がいた。勝たせなくていいレースなら、いつものあの重さに追われずに済む。半分で降りる役なら、二四〇〇の先まで、行かずに済む。

 

その安堵に気づいて、手が止まった。

 

守れなかった時に、言った人のほうが壊れちゃう約束なの。

 

——なぜ、今。あの人の声が出てくる。城みたいな家の、紅茶の席。歌うような声が、一度だけ歌うのをやめて、そう言った。あのときは、意味の半分も入ってこなかった。

 

入ってこなかった意味が、五月を挟んで、今ごろ届く。

 

それ以上は、考えないことにした。考えても、ペンは進まない。今わかっているのは、自分の安堵が薄気味悪い、ということだけだ。あいつのための話なのか、自分が楽になる話なのか——そこが濁ったまま、机に向かっている。

 

途中で一度、席を立った。湯を沸かして、コーヒーを淹れる。濃いめの、いつものやつ。カップを机の端に置いて、座り直して——それきり、忘れた。

 

告げて、選ばせて、支える。隠して守るやり方は、もうやめると決めた。あいつに話す。包み隠さず、全部だ——昼間、委員長の前で、俺自身がそう言っている。

 

選ばせるのが俺の務めだ。この春からそうしてきて、間違いだったと思ったことは一度もない。隠して守るのは、守るふりをした臆病だ。

 

ただ——それを決めた男の机に、世界はずいぶん意地の悪い宿題を寄越す。選ばせるために見せるものが、よりにもよって、この数字だった。

 

断っていい、と言うために、まず全部見せなきゃならない。前を引いて沈む役だということも、オルフェーヴルを勝たせるためのレースだということも、報われない仕事だということも、距離が二四〇〇だということも——断っても何も変わらない、ということも。全部、俺の口からだ。

 

もし、モエが頷いたら。そのときは、詰めるべきことを詰める。走り方の最終判断は、こちらが持つ。現地で危ないと判断したら、降ろす権限も。委員長は呑むだろう。あの人は、そういう筋は通す。

 

——気の早い段取りを組みかけて、やめた。順番が違う。まず、話すのが先だ。

 

いつ言う。どう言う。

 

考え始めて、すぐに突き当たった。今のモエに、か。

 

ここ数ヶ月、あいつの走りから火が消えている。

 

勝っても、顔が動かない。この前のレースもそうだった。ゴールの先で立っていたのは、勝った子の顔じゃなかった。練習は落ちていない。タイムも悪くない。走りの真ん中にあるはずのものだけが、ずっと留守だ。練習後の報告も短くなった。前は、聞いてもいないことまで喋っていったのに、今は、訊けば答える。それだけだ。

 

「いま、あの子は国内で行き場をなくしているように、お見受けします」

 

その言葉を、俺は否定できなかった。図星だったからだ。誰も自分を知らない場所へ行きたい。そんな顔を、していませんか。——していた。ずっと、している。

 

機会になるかもしれません、とも彼女は言った。あの舞台を走ること自体が、あの子の何かになる可能性はある——決めることではありませんが、と最後だけ引きながら。打算なのか本心なのか、聞きながら考えて、途中でやめた。あの人はたぶん、その二つを分けて喋っていない。両方、本当なんだろう。

 

それと、順番のことも考えた。

 

言うべきことは、先に言えていた。つい先日——プリンを買った日だ。やめたいなら、やめていい。意味が見つからないなら、走らなくていい。決めるのはお前だけだと、もう言ってある。

 

フランスの話を聞く前に言えたのは、運が良かった。懐に何も入れず、言えた。順番が逆だったら——この話を聞いた後で同じ台詞を口にしていたら、どんなに本心でも、口説きの前置きに化けていた。

 

ただ、今度は逆向きの心配がある。

 

やめてもいい、と言った口で、世界でいちばん大きいレースの話を持っていく。あいつの耳に、どう届く。やめてもいいって言ったくせに、と聞こえないか。

 

——違う。あれは、走るなと言ったんじゃない。決めるのはお前だ、の続きだ。選べるものが、一つ増えるだけだ。筋は通っている。

 

通っているが、言い方を一つ間違えれば、あの言葉ごと嘘になる。あの言葉だけは、嘘にできない。

 

それにしたって、切り出し方がある。ここまで細った心に、いきなりこれをぶつけられるか。練習の後か。飯の席か。何か別の話から入るのも手だ。茶でも淹れるか。——淹れて、それから何と言う。

 

頭の中で、言い方を作っては、消した。

 

フランスの依頼が来た——他人事の顔をした言い方だ。聞いて、持ち帰ったのは俺で、これはもう、半分は俺の話でもある。

 

秋に、悪くない話がある——嘘になる。悪くないかどうかを決めるのは、俺じゃない。

 

相談したいことがある——相談、も違う。相談なら、半分はこっちで持つ。これは持たない。まるごとあいつに預けて、選んでもらう話だ。

 

書いては、消す。頭の中の便箋が、何枚も丸まっていく。昔から、こうだった。肝心な相手への肝心な一行ほど、書き直しているうちに、出せなくなる。

 

出せなくなるのは、無しだ。今回は。

 

何度組み立てても、最初の一語が決まらなかった。

 

廊下を、足音が一つ通り過ぎて、遠ざかっていった。隣の部屋の電気が落ちる気配がする。建物が、静かになっていく。夏の夜の湿った匂いが、窓の隙間から入ってきた。

 

気づけば、手元の字が読めなくなっていた。

 

立ち上がって、電気をつける。窓の外はもう夜の色で、昼間あれだけ鳴いていた蝉が、いつの間にか黙っていた。

 

席に戻る。カップに口をつけて、冷めきっているのに気づいた。一口で、置いた。

 

ノートは開いたままだ。

 

千五百、で止まった行をしばらく見ていた。

 

その下に、距離は書かなかった。書けなかった、のほうが正しい。数字を一つ書くだけのことが、今夜はどうしてもできない。

 

代わりに行を変えて、一つだけ書いた。

 

モエに話す。

 

我ながら、簡単な五文字だった。一晩かけて出てこなかった言葉の数々より、よっぽど早く書けた。

 

それだけだ。レースの名前より、役の中身より、距離より先に、確かなことはそれしかなかった。

 

ペンを置く。

 

いつ、どう切り出すか。たぶん明日になっても決まっていない。それでも、ここに書いたことは守る。今まで、そうしてきた。

 

閉じる前に、もう一度だけその五文字を見た。今夜書いた行の中で、いちばん字が濃かった。

 

ノートを閉じて、息を吐いた。

 

電気を消す気には、まだなれなかった。

 




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