アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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100話 タダなら

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

呼ばれて、トレーナー室に行った。

 

この前プリンを食べた部屋だ。同じ椅子に座る。窓の外では蝉が鳴いている。夏もそろそろ終わりだ。この部屋に来るのも、ずいぶん慣れた。

 

机の向こうで絢原さんがコーヒーを淹れていた。私の分も。ことん、と前に出される。いつものやつ。少し濃い。

 

「飲みながら聞け」

 

「それ、短く終わらない話でしょ」

 

絢原さんは自分の席に座った。カップには、まだ触らない。

 

「短く済ませたいとは思ってる」

 

短く済む顔ではなかった。

 

ここ最近、この人がときどき何か言いかけてやめるのには気づいていた。練習のあと。ご飯のあと。口を開きかけて、結局べつのことを言う。何か言いたいことを抱えている顔だった。

 

私が訊けば言ったのかもしれない。でも訊かなかった。言いたくなったら言うだろう。この人はそういう人だ。

 

今日はその「何か」を言う日なんだろう。

 

一口飲んだ。舌が熱い。少し苦い。この人の淹れるコーヒーはいつもこうだ。

 

「この前、お前に言ったことがある」

 

絢原さんが言った。

 

「意味が見つからないなら、走らなくていい。決めるのはお前だ、って話だ。あれは今も変わらない」

 

覚えている。プリンと一緒にもらった言葉だ。あんなことを言われて忘れるわけがない。

 

「忘れてないよ。プリンも含めて」

 

「そこは分けろ」

 

そこで絢原さんは一度、視線をカップへ落とした。湯気が細く上がっている。

 

「その上で、お前に聞かせたい話がある」

 

カップを机に戻した。

 

「聞いてから断ってくれていい。むしろ、断る方が自然な話だ。それでも、お前抜きで決めることじゃない」

 

ずいぶん言葉を選んでいる。この人にしては珍しい。いつもはもっと、ぽんと用件から入る。

 

それだけで分かった。軽い話じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「秋に、海外のレースがある」

 

絢原さんはそう切り出した。

 

「フランスの凱旋門賞。十月の第一日曜だ」

 

世界でいちばんと呼ばれるレース。名前くらいは私も知っている。いつだったかテレビで見た。重そうな芝の上を、知らない国の走者たちがものすごい勢いで駆けていく。スタンドは人でいっぱいだった。

 

あれを勝つ子は世界のてっぺんに立つのだと、誰かが言っていた。

 

そのレースの距離も知っている。

 

2400。

 

名前を聞いた瞬間、その四桁が頭の隅をよぎった。私が一度だけ走って壊れた距離。あの数字は、頭で考えるより先に体のどこかをきゅっとさせる。

 

でも、それだけだった。すぐに収まった。

 

ふうん、と思って聞いていた。遠い国の遠い話。私には関係のない世界だと思っていた。

 

「そこに、お前を呼びたいと連絡が来た」

 

私を。

 

意味がすぐには結びつかなかった。2400のレースにスプリンターの私。距離がまるで合っていない。

 

「指名で、だ。俺もすぐには返事をしなかった」

 

「返事してたら怒ってたかも」

 

絢原さんは小さく頷いた。怒らない。言い返さない。そこも含めて、もう何度も考えた後の顔だった。

 

「怒っていい話だ。だから先に言う。これは、お前が勝ちに行く話じゃない」

 

コーヒーの匂いが、少し冷めてきた。

 

「役目はペースメーカー。前を引く役だ。日本からもう一人、出る子がいる。その子を勝たせるために、前半の流れを作る」

 

「私が?」

 

「ああ。千五百まででいい。そこで下がる」

 

千五百。マイルより短い。私が何度も走ってきた範囲だ。

 

「その先は走らない。引いて、流れを作って、下がる。求められているのはそこまでだ」

 

絢原さんの指先が、机の端に一度触れた。すぐ離れる。そこに迷いが出たみたいで、少しだけ目についた。

 

「勝つのは後ろの子だ。お前じゃない。新聞に載るのも、称えられるのも、その子になる。お前の名前は、たぶんほとんど残らない」

 

捨て石ってことか。

 

口には出さなかった。出さなかったのに、絢原さんは私の顔を見て小さく頷いた。言わなくても伝わったらしい。長い付き合いだ。顔に出ていたんだろう。

 

「そういうことだ。きれいな役じゃない。誰かを勝たせるために、前で使われる」

 

きれいごとを言わないところがこの人らしい。

 

たいていの大人は、こういう時もっと飾る。お前にしかできない大事な役だ、とか。世界の舞台に立てるんだぞ、とか。この人は飾らない。嫌な言葉を、嫌なまま出す。

 

だから聞いていられる。

 

「今の言い方、トレーナーが一番傷ついてない?」

 

「傷ついてる暇はない」

 

返事が早い。

 

絢原さんは、ようやく自分のコーヒーを一口飲んだ。顔をしかめるほどではない。でも、苦いものを飲み込む顔だった。

 

「薄めて言ったら、お前が判断できなくなる。そこはしたくない」

 

「ほんと不器用」

 

「今さらだろ」

 

少しだけ、いつもの会話の形になった。けれど机の上の空気は軽くならない。

 

「でも、その方がいいよ。綺麗にされる方が嫌」

 

「分かった」

 

短い返事のあと、少しだけ沈黙が落ちた。

 

捨て石、と言わなかっただけで、意味は同じだ。この人はそれを分かっている。私に隠さないために、あえていちばん嫌な形に近づけている。

 

無理してる。

 

そこまで分かって、言わなかった。言ったらこの人は困った顔をする。それも、なんとなく分かる。

 

「体のことはタキオンが見た。前半だけなら問題ないそうだ。あいつは気休めを言わない」

 

「うん。そこは信じてる」

 

あの人は、できないことをできると言わない。問題ないと言ったなら問題ないんだろう。少なくとも、数字の上では。

 

「それと、時期が重なる。スプリンターズSには出られない」

 

スプリンターズS。九月の終わり。私の得意な距離のレースだ。

 

「あっそ」

 

それだけ言った。

 

自分でも薄いなと思う。年内でいちばん大きいスプリントに出ないという話なのに。前の私ならもう少し何か湧いたかもしれない。今は何も来なかった。

 

どこを走ろうが、走るまいが、大して変わらない気がする。

 

絢原さんが、私のその「あっそ」をほんの少し気にした顔をした。気づいたけど流した。この人がときどき見せるその顔の意味を、いちいち拾っていられない。

 

「じゃあ、本当に千五百までなんだよね」

 

「ああ。そこから先は走らせない」

 

そこで一度、絢原さんの視線が私の脚へ落ちた。見慣れた確認の目だった。

 

「2400って聞くと面倒だけど、私が走る分はいつもの範囲じゃん」

 

「数字の上ではな」

 

「じゃあ数字の話でいいでしょ」

 

約束、とは言わなかった。でも声だけは、約束と同じくらい強かった。

 

「俺にとっては、数字だけで済む話じゃない」

 

「オークス?」

 

「……ああ」

 

それだけだった。

 

この人にとって2400は、私にとってよりも重い数字なのかもしれない。あのオークスのあと、いちばん長く隣にいた人だから。

 

でもそれも、止まったペンと同じところに流した。深く考えると、たぶんお互いめんどくさい。

 

「トレーナー」

 

「何だ」

 

「行くって言ったら、一緒に来るんでしょ」

 

絢原さんは、そこで初めてほとんど間を空けなかった。

 

「当たり前だろ」

 

「ならいい」

 

返事が早すぎて、少しだけ笑いそうになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

頭の中で軽く勘定してみた。

 

勝たなくていいレース。それは気が楽だ。日本の芝では走るほどに空回りして、期待してくれる人にも憧れてくれた子にも応えられない。そういう走りばかりが続いた春のことを思えば、最初から勝つ役じゃないというのは、むしろありがたいくらいだった。

 

応えるべき期待が、そもそも無いんだから。

 

それに、誰も私を知らない場所。

 

それは悪くない響きだった。いつだったかそんなことを考えた気がする。誰も私のことを知らないところへ行きたい、と。カレンチャンの娘でも世界女王でもない、ただの私でいられる場所。

 

フランスならそれが叶うかもしれない。遠い国だ。私のことなんか誰も知らない。

 

しかもタダで行ける。向こうが呼んでいる話なんだから、こっちの懐は痛まない。海外旅行だと思えば悪くない。

 

それに秋の予定はまだ何も決まっていなかった。この前ウオッカに「次どこ出んの」と訊かれて「まだ決めてない」と答えた。あの空白が一枚埋まる。

 

世界のてっぺんというのも、別にどうでもよかった。さっき絢原さんが言った、後ろの子が立つ場所だ。私には関係ない。むしろそういうものを背負わずに済むなら、その方がずっと気が楽だった。

 

どれも火じゃなかった。

 

楽だとか都合がいいとか、そういう話ばかりだ。胸が熱くなったわけじゃない。やってやるとも思わない。断る理由がどこにも見当たらない。

 

それだけのことだった。

 

「タダで海外行けるなら、まあいいかな」

 

私は言った。

 

絢原さんはすぐには返さなかった。私の言葉が軽いから、その軽さごと確認しているみたいだった。

 

「それで決めるのか」

 

「軽すぎる?」

 

カップの底に、黒い液体が少し残っている。もう湯気はほとんどない。

 

「軽い。でも、お前の理由だ」

 

「じゃあ十分じゃん。行く」

 

言ってから思った。これは自分で決めたな、と。

 

やめてもいいと言われている。走らなくていいとも。決めるのは私だと。その上で私が選んだ。

 

プリン一個分くらいなら走ってみてもいい。あの一個目の理由の、次の一個。

 

たいした理由じゃない。タダで海外、なんて。でも誰かに言われたからでも流されたからでもない。私がいいかなと思って、行くと言った。

 

前はこういうのができなかった気がする。

 

走る理由も走らない理由も、ぜんぶ誰かが決めていた。カレンチャンの娘だから。みんなが期待するから。勝たなきゃいけないから。私の気持ちはいつも後回しだった。

 

今は違う。たいしたことのない理由でも自分で見つけて自分で決める。プリン一個分の理由で走ってみる。フランス一回分の理由で海を渡る。

 

小さい。本当に小さい。でも私のものだ。誰かにもらった理由じゃない。自分で見つけた、自分の理由。

 

それで十分な気がした。今の私には、それくらいがちょうどよかった。

 

「分かった」

 

絢原さんが言った。

 

声が硬い。安堵とも違う。何かべつのものが混じっている。

 

「嫌そう」

 

「嫌じゃない」

 

今度は、絢原さんがカップの底を見ていた。

 

「軽く喜べる話じゃないだけだ」

 

「めんどくさいね」

 

「そうだな」

 

それ以上は追わなかった。この人が何を抱えているのか。今日のこの話をどんな気持ちで持ってきたのか。訊けばたぶん答えるんだろう。この人は訊けば答える人だ。

 

でも訊かなかった。

 

なんとなく、今はそっとしておいた方がいい気がした。それだけは勘で分かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋を出て廊下を歩いていると、向こうからマーが来た。アストンマーチャン。等しいライバル、と本人は言う。

 

「あ、モエさん。今、トレーナー室ですか?」

 

「うん。秋の話」

 

マーは少しだけ耳を立てた。

 

「秋っ。マーちゃんはスプリンターズSですよ。今年こそと思っているのです」

 

スプリンターズS。私が出られないレースだ。

 

「私は出ない。フランス行くから」

 

「フランス」

 

マーが目を丸くした。心配するという感じではない。へえそうなんだ、という事実の確認。等しいライバルのちょうどいい距離感だった。

 

「遠いのです」

 

「遠いね」

 

マーは少し考える顔をした。深刻というより、遠さを頭の中で測っている顔だった。

 

「では、お土産を待つマーちゃんになります」

 

「その役、強そう?」

 

「かなり強いのです」

 

それだけ言って、マーはトレーナー室の方へ歩いていった。背中がいつも通りまっすぐだった。

 

引き止めもしんみりもなかった。それがよかった。大袈裟に心配されたら、たぶんうっとうしかった。マーはそういうのを、ちゃんと分かっている。

 

だから、楽だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

寮へ戻る道で、もう一度だけ距離の話が頭をよぎった。

 

2400。

 

べつに。走るのは1500まで。

 

それで流した。

 

もうあの数字を見て足がすくむような子じゃない。あのレースは私の中で終わったことになっている。終わったというか、あれがあるから今の私がいる。

 

脚が壊れて何もかも失って、それでもあそこで全部を出し切った。あの日のことを思い出すと、今でも胸の奥が少しざわつく。でもそれは、こわさとは違う。

 

あれは私の場所だ。

 

後悔はしていない。一度も、したことがない。

 

だから2400と聞いても、もうこわくない。

 

今回はその900の手前で降りる。それで済む話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

寮に戻って荷造りを始めた。出発はまだ少し先だけど、早めにやっておくのは悪くない。

 

服を畳んで鞄に入れていく。向こうはもう寒いだろうか。フランスの十月。どんな気候なのか、見当もつかない。あとで調べておかないと。

 

引き出しを開けて、ふと手が止まった。

 

鈴蘭の髪飾り。

 

いつかもらったものだ。白い小さな花がいくつも連なっている。あまりつける機会はない。でもなんとなく捨てられずにここにある。

 

少し迷った。

 

それから、それを鞄の隅に入れた。

 

理由は特になかった。荷物が一つ増えたところで重くもならない。なんとなく持っていこうと思った。

 

蓋を閉める。

 

窓の外で蝉がまた鳴き始めた。夏の最後の声だ。じきにこの声も止む。秋が来て、その向こうに私の知らない国がある。

 

誰も私を知らない遠い場所。

 

そこで前を引いて、1500で下がって、消える。それだけの旅だ。勝つわけでも何かを背負うわけでもない。

 

楽しみってわけでもない。

 

それでも、鞄の隅の小さな白い花のことを少しだけ考えた。

 

なんで持っていこうと思ったのか、自分でもよく分からないまま。

 




ここまでお読みいただきありがとうございました。
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