——Anti-Hero: Curren Moe
呼ばれて、トレーナー室に行った。
この前プリンを食べた部屋だ。同じ椅子に座る。窓の外では蝉が鳴いている。夏もそろそろ終わりだ。この部屋に来るのも、ずいぶん慣れた。
机の向こうで絢原さんがコーヒーを淹れていた。私の分も。ことん、と前に出される。いつものやつ。少し濃い。
「飲みながら聞け」
「それ、短く終わらない話でしょ」
絢原さんは自分の席に座った。カップには、まだ触らない。
「短く済ませたいとは思ってる」
短く済む顔ではなかった。
ここ最近、この人がときどき何か言いかけてやめるのには気づいていた。練習のあと。ご飯のあと。口を開きかけて、結局べつのことを言う。何か言いたいことを抱えている顔だった。
私が訊けば言ったのかもしれない。でも訊かなかった。言いたくなったら言うだろう。この人はそういう人だ。
今日はその「何か」を言う日なんだろう。
一口飲んだ。舌が熱い。少し苦い。この人の淹れるコーヒーはいつもこうだ。
「この前、お前に言ったことがある」
絢原さんが言った。
「意味が見つからないなら、走らなくていい。決めるのはお前だ、って話だ。あれは今も変わらない」
覚えている。プリンと一緒にもらった言葉だ。あんなことを言われて忘れるわけがない。
「忘れてないよ。プリンも含めて」
「そこは分けろ」
そこで絢原さんは一度、視線をカップへ落とした。湯気が細く上がっている。
「その上で、お前に聞かせたい話がある」
カップを机に戻した。
「聞いてから断ってくれていい。むしろ、断る方が自然な話だ。それでも、お前抜きで決めることじゃない」
ずいぶん言葉を選んでいる。この人にしては珍しい。いつもはもっと、ぽんと用件から入る。
それだけで分かった。軽い話じゃない。
~
「秋に、海外のレースがある」
絢原さんはそう切り出した。
「フランスの凱旋門賞。十月の第一日曜だ」
世界でいちばんと呼ばれるレース。名前くらいは私も知っている。いつだったかテレビで見た。重そうな芝の上を、知らない国の走者たちがものすごい勢いで駆けていく。スタンドは人でいっぱいだった。
あれを勝つ子は世界のてっぺんに立つのだと、誰かが言っていた。
そのレースの距離も知っている。
2400。
名前を聞いた瞬間、その四桁が頭の隅をよぎった。私が一度だけ走って壊れた距離。あの数字は、頭で考えるより先に体のどこかをきゅっとさせる。
でも、それだけだった。すぐに収まった。
ふうん、と思って聞いていた。遠い国の遠い話。私には関係のない世界だと思っていた。
「そこに、お前を呼びたいと連絡が来た」
私を。
意味がすぐには結びつかなかった。2400のレースにスプリンターの私。距離がまるで合っていない。
「指名で、だ。俺もすぐには返事をしなかった」
「返事してたら怒ってたかも」
絢原さんは小さく頷いた。怒らない。言い返さない。そこも含めて、もう何度も考えた後の顔だった。
「怒っていい話だ。だから先に言う。これは、お前が勝ちに行く話じゃない」
コーヒーの匂いが、少し冷めてきた。
「役目はペースメーカー。前を引く役だ。日本からもう一人、出る子がいる。その子を勝たせるために、前半の流れを作る」
「私が?」
「ああ。千五百まででいい。そこで下がる」
千五百。マイルより短い。私が何度も走ってきた範囲だ。
「その先は走らない。引いて、流れを作って、下がる。求められているのはそこまでだ」
絢原さんの指先が、机の端に一度触れた。すぐ離れる。そこに迷いが出たみたいで、少しだけ目についた。
「勝つのは後ろの子だ。お前じゃない。新聞に載るのも、称えられるのも、その子になる。お前の名前は、たぶんほとんど残らない」
捨て石ってことか。
口には出さなかった。出さなかったのに、絢原さんは私の顔を見て小さく頷いた。言わなくても伝わったらしい。長い付き合いだ。顔に出ていたんだろう。
「そういうことだ。きれいな役じゃない。誰かを勝たせるために、前で使われる」
きれいごとを言わないところがこの人らしい。
たいていの大人は、こういう時もっと飾る。お前にしかできない大事な役だ、とか。世界の舞台に立てるんだぞ、とか。この人は飾らない。嫌な言葉を、嫌なまま出す。
だから聞いていられる。
「今の言い方、トレーナーが一番傷ついてない?」
「傷ついてる暇はない」
返事が早い。
絢原さんは、ようやく自分のコーヒーを一口飲んだ。顔をしかめるほどではない。でも、苦いものを飲み込む顔だった。
「薄めて言ったら、お前が判断できなくなる。そこはしたくない」
「ほんと不器用」
「今さらだろ」
少しだけ、いつもの会話の形になった。けれど机の上の空気は軽くならない。
「でも、その方がいいよ。綺麗にされる方が嫌」
「分かった」
短い返事のあと、少しだけ沈黙が落ちた。
捨て石、と言わなかっただけで、意味は同じだ。この人はそれを分かっている。私に隠さないために、あえていちばん嫌な形に近づけている。
無理してる。
そこまで分かって、言わなかった。言ったらこの人は困った顔をする。それも、なんとなく分かる。
「体のことはタキオンが見た。前半だけなら問題ないそうだ。あいつは気休めを言わない」
「うん。そこは信じてる」
あの人は、できないことをできると言わない。問題ないと言ったなら問題ないんだろう。少なくとも、数字の上では。
「それと、時期が重なる。スプリンターズSには出られない」
スプリンターズS。九月の終わり。私の得意な距離のレースだ。
「あっそ」
それだけ言った。
自分でも薄いなと思う。年内でいちばん大きいスプリントに出ないという話なのに。前の私ならもう少し何か湧いたかもしれない。今は何も来なかった。
どこを走ろうが、走るまいが、大して変わらない気がする。
絢原さんが、私のその「あっそ」をほんの少し気にした顔をした。気づいたけど流した。この人がときどき見せるその顔の意味を、いちいち拾っていられない。
「じゃあ、本当に千五百までなんだよね」
「ああ。そこから先は走らせない」
そこで一度、絢原さんの視線が私の脚へ落ちた。見慣れた確認の目だった。
「2400って聞くと面倒だけど、私が走る分はいつもの範囲じゃん」
「数字の上ではな」
「じゃあ数字の話でいいでしょ」
約束、とは言わなかった。でも声だけは、約束と同じくらい強かった。
「俺にとっては、数字だけで済む話じゃない」
「オークス?」
「……ああ」
それだけだった。
この人にとって2400は、私にとってよりも重い数字なのかもしれない。あのオークスのあと、いちばん長く隣にいた人だから。
でもそれも、止まったペンと同じところに流した。深く考えると、たぶんお互いめんどくさい。
「トレーナー」
「何だ」
「行くって言ったら、一緒に来るんでしょ」
絢原さんは、そこで初めてほとんど間を空けなかった。
「当たり前だろ」
「ならいい」
返事が早すぎて、少しだけ笑いそうになった。
~
頭の中で軽く勘定してみた。
勝たなくていいレース。それは気が楽だ。日本の芝では走るほどに空回りして、期待してくれる人にも憧れてくれた子にも応えられない。そういう走りばかりが続いた春のことを思えば、最初から勝つ役じゃないというのは、むしろありがたいくらいだった。
応えるべき期待が、そもそも無いんだから。
それに、誰も私を知らない場所。
それは悪くない響きだった。いつだったかそんなことを考えた気がする。誰も私のことを知らないところへ行きたい、と。カレンチャンの娘でも世界女王でもない、ただの私でいられる場所。
フランスならそれが叶うかもしれない。遠い国だ。私のことなんか誰も知らない。
しかもタダで行ける。向こうが呼んでいる話なんだから、こっちの懐は痛まない。海外旅行だと思えば悪くない。
それに秋の予定はまだ何も決まっていなかった。この前ウオッカに「次どこ出んの」と訊かれて「まだ決めてない」と答えた。あの空白が一枚埋まる。
世界のてっぺんというのも、別にどうでもよかった。さっき絢原さんが言った、後ろの子が立つ場所だ。私には関係ない。むしろそういうものを背負わずに済むなら、その方がずっと気が楽だった。
どれも火じゃなかった。
楽だとか都合がいいとか、そういう話ばかりだ。胸が熱くなったわけじゃない。やってやるとも思わない。断る理由がどこにも見当たらない。
それだけのことだった。
「タダで海外行けるなら、まあいいかな」
私は言った。
絢原さんはすぐには返さなかった。私の言葉が軽いから、その軽さごと確認しているみたいだった。
「それで決めるのか」
「軽すぎる?」
カップの底に、黒い液体が少し残っている。もう湯気はほとんどない。
「軽い。でも、お前の理由だ」
「じゃあ十分じゃん。行く」
言ってから思った。これは自分で決めたな、と。
やめてもいいと言われている。走らなくていいとも。決めるのは私だと。その上で私が選んだ。
プリン一個分くらいなら走ってみてもいい。あの一個目の理由の、次の一個。
たいした理由じゃない。タダで海外、なんて。でも誰かに言われたからでも流されたからでもない。私がいいかなと思って、行くと言った。
前はこういうのができなかった気がする。
走る理由も走らない理由も、ぜんぶ誰かが決めていた。カレンチャンの娘だから。みんなが期待するから。勝たなきゃいけないから。私の気持ちはいつも後回しだった。
今は違う。たいしたことのない理由でも自分で見つけて自分で決める。プリン一個分の理由で走ってみる。フランス一回分の理由で海を渡る。
小さい。本当に小さい。でも私のものだ。誰かにもらった理由じゃない。自分で見つけた、自分の理由。
それで十分な気がした。今の私には、それくらいがちょうどよかった。
「分かった」
絢原さんが言った。
声が硬い。安堵とも違う。何かべつのものが混じっている。
「嫌そう」
「嫌じゃない」
今度は、絢原さんがカップの底を見ていた。
「軽く喜べる話じゃないだけだ」
「めんどくさいね」
「そうだな」
それ以上は追わなかった。この人が何を抱えているのか。今日のこの話をどんな気持ちで持ってきたのか。訊けばたぶん答えるんだろう。この人は訊けば答える人だ。
でも訊かなかった。
なんとなく、今はそっとしておいた方がいい気がした。それだけは勘で分かった。
~
部屋を出て廊下を歩いていると、向こうからマーが来た。アストンマーチャン。等しいライバル、と本人は言う。
「あ、モエさん。今、トレーナー室ですか?」
「うん。秋の話」
マーは少しだけ耳を立てた。
「秋っ。マーちゃんはスプリンターズSですよ。今年こそと思っているのです」
スプリンターズS。私が出られないレースだ。
「私は出ない。フランス行くから」
「フランス」
マーが目を丸くした。心配するという感じではない。へえそうなんだ、という事実の確認。等しいライバルのちょうどいい距離感だった。
「遠いのです」
「遠いね」
マーは少し考える顔をした。深刻というより、遠さを頭の中で測っている顔だった。
「では、お土産を待つマーちゃんになります」
「その役、強そう?」
「かなり強いのです」
それだけ言って、マーはトレーナー室の方へ歩いていった。背中がいつも通りまっすぐだった。
引き止めもしんみりもなかった。それがよかった。大袈裟に心配されたら、たぶんうっとうしかった。マーはそういうのを、ちゃんと分かっている。
だから、楽だ。
~
寮へ戻る道で、もう一度だけ距離の話が頭をよぎった。
2400。
べつに。走るのは1500まで。
それで流した。
もうあの数字を見て足がすくむような子じゃない。あのレースは私の中で終わったことになっている。終わったというか、あれがあるから今の私がいる。
脚が壊れて何もかも失って、それでもあそこで全部を出し切った。あの日のことを思い出すと、今でも胸の奥が少しざわつく。でもそれは、こわさとは違う。
あれは私の場所だ。
後悔はしていない。一度も、したことがない。
だから2400と聞いても、もうこわくない。
今回はその900の手前で降りる。それで済む話だった。
~
寮に戻って荷造りを始めた。出発はまだ少し先だけど、早めにやっておくのは悪くない。
服を畳んで鞄に入れていく。向こうはもう寒いだろうか。フランスの十月。どんな気候なのか、見当もつかない。あとで調べておかないと。
引き出しを開けて、ふと手が止まった。
鈴蘭の髪飾り。
いつかもらったものだ。白い小さな花がいくつも連なっている。あまりつける機会はない。でもなんとなく捨てられずにここにある。
少し迷った。
それから、それを鞄の隅に入れた。
理由は特になかった。荷物が一つ増えたところで重くもならない。なんとなく持っていこうと思った。
蓋を閉める。
窓の外で蝉がまた鳴き始めた。夏の最後の声だ。じきにこの声も止む。秋が来て、その向こうに私の知らない国がある。
誰も私を知らない遠い場所。
そこで前を引いて、1500で下がって、消える。それだけの旅だ。勝つわけでも何かを背負うわけでもない。
楽しみってわけでもない。
それでも、鞄の隅の小さな白い花のことを少しだけ考えた。
なんで持っていこうと思ったのか、自分でもよく分からないまま。
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