「これ、ママでしょ」
モエが差し出した紙には、白い羽のついた衣装が描かれていた。
胸元に大きなリボン。幾重にも重なるスカートの裾には、細かなレースが入っている。背中の羽を除けば、ウェディングドレスのようにも見えた。
俺が答える前に、彼女は紙を裏返した。何も書かれていないのを確かめてから、もう1度こちらを見る。
「名前がなければ分かんないと思った?」
「隠したわけじゃない。今朝届いたものを、そのまま印刷したんだ」
「ふうん。何て言ってたの」
俺は机に置いていたスマホを取り、LANEを開いた。
『モエちゃん、こういうのも似合うと思うの♡』
画面を見せると、モエは声も出さずに息を吐き、デザイン画をテーブルの端へ置いた。
「着ないからね」
「分かった」
ファンタジーSを終えて、学園へ戻ってから数日が経っていた。次に目指す阪神ジュベナイルフィリーズへ向け、練習と並行して進めなければならないことがある。
勝負服の準備だ。
これまでのレースでは体操着だった。初めてGⅠの舞台に立つモエには、そこで着る1着がまだない。製作を頼む先へ相談し、まずは大まかな希望を決めようと、今日は図案や生地の見本を広げていた。
母親から届いた案は、その中でも際立って華やかだった。
モエは隣の図案を手に取り、眉を寄せた。こちらは業者から届いたもので、腰の後ろに大きなリボンがついている。背面の図まで眺めてから、やはりテーブルの端へ戻した。
「こっちにもついてる」
「最初の案だから、変えてもらえる。形を選んで、飾りを減らすこともできるそうだ」
「減らすんじゃなくて、いらない。リボンも、こういうひらひらしたのも」
指先で、胸元のフリルを辿る。その口調の強さに、俺は用意していた筆記用具を彼女の方へ寄せた。
「どういうものを着たい?」
「黒」
答えは早かった。
「全体を黒にしたい。スカートじゃなくて、短いパンツ。それで、上は……ちょっと待って」
モエは白紙を1枚引き寄せ、ペンを取った。
肩から腕へ線を引き、腰のところで手を止める。横にもう1つ、小さな図を描きかけたが、途中で顔をしかめて消した。
「こういうの、描くと違うんだよね……」
「言葉でもいい。聞いたことは、先方へ伝える」
「後ろを長くしたいの。こう、走ると裾が後ろへ流れる感じ。前まで長いと脚に掛かりそうだから、そこは短くして」
彼女は紙に線を足した。腰の後ろから伸びた裾を、真ん中で2つに分ける。描き直した線が重なっていたが、燕尾服に似たジャケットを考えているのは分かった。
「尻尾のところは、ちゃんと空けてもらわなきゃ。腕を振っても引っ張られないようにしてほしいし」
俺は彼女の説明を、図の余白へ書き込んだ。モエはその間にも、襟の形を描き直していた。丸みをつけた線を消し、先を鋭く尖らせる。
普段から黒い服はよく着ている。だが、今、紙の上に形を取り始めているものは、いつものシャツや上着とは違っていた。
「ここに、銀色を入れたい」
襟元から胸へ指を滑らせた。
「全部同じ黒だと、離れた時に形が分からないでしょ。細くでいいから。光が当たると見えるくらいの」
俺は生地の見本を開き、黒の頁へ折り返した。光沢のあるもの、ほとんど光を返さないもの。同じ色でも、並べると随分違って見えた。
モエは順に指で触れ、艶の控えめな生地のところで止まった。
「こっちがいい。銀も、あんまりきらきらしてないの」
「シルバーグレー、という感じか」
「うん。それ」
ようやく欲しいものに近づいたのか、ペンを持ち直す手が少し軽くなった。塗り潰したジャケットの脇へ、生地の番号を控えていく。
やがて、モエの目がテーブルの端へ動いた。
白い羽のついた図案が、他の紙からはみ出していた。彼女はそれを裏返したが、すぐには自分の絵へ戻らなかった。
「……何で、こういうのばっかりなんだろうね」
ペンの先が、紙の上で止まっている。
「着たら、似合うんだと思うよ。多分、すごく。ママもそれが分かってるから、送ってくるんだろうし」
俺は返事をせずに待った。
モエは自分の描いた襟へ線を重ね、黒を濃くした。
「でも、最初にあれを着て出ていったら、走る前から言われるじゃん。そっくりだとか、昔を思い出すとか。……もう、それはいいよ」
京都でも、新潟でも、同じような声は耳にしていた。モエがどんな服を着ても、言う者はいるだろう。だから無駄だとは、思わなかった。
せめて、自分が着たいものを着て立ってほしい。
俺は裏返された紙を他の不採用案と揃え、彼女の手元を空けた。
「黒も、ママが着てたけどね」
モエが自分で言った。俺はペンを置き、顔を上げた。
「それは、気になるか?」
「……黒は、私も好きだもん」
描きかけの図案を、こちらへ向ける。
「同じ色でも、これなら違うでしょ」
黒く塗られた短いパンツと、後ろへ長く伸びたジャケット。飾りの少ない襟元には、細い銀の線が入っている。重なったペンの跡を目で辿り、俺は頷いた。
「ああ。君が着たところを見てみたい」
モエは僅かに目を伏せ、図案を手元へ戻した。
「パドックで見られるのが嫌なわけじゃないよ」
「うん」
「どうせ見るなら、ちゃんと見てほしい。私がどんな服を選んで、どこを走りに来たのか」
襟の横へ、もう1本、細い線を描き足す。
「かわいいねって、それだけで終わらせたくない。あの子には勝てないって、走ってるところを見て思わせたい」
モエは紙を少し離して眺めた。まだうまく描けていない箇所が気になるのか、唇を尖らせた後、ペンを置く。
「……逃げるから、後ろもちゃんと格好よくしてもらわなきゃね」
俺はジャケットの裾を指した。
「ここを、後ろから追う相手に見せるわけだ」
「そう。ゴールまでずっと」
言い切った顔には、先ほどまでの苛立ちが薄れていた。
俺は図案を受け取り、書き添えた希望を彼女と確かめた。生地は実際に動いた時の感触も確かめたい。裾の長さも、採寸と仮縫いの時に相談することにした。
「これで、先方に描き起こしてもらおう」
モエが頷いた。俺が紙をファイルへ挟もうとすると、少し身を乗り出す。
「途中でリボン足されたら、戻してもらってね」
「そこは、はっきり書いておく」
余白に追記すると、ようやくソファへ背を預けた。
「ママにも、その絵で作るって言っといて」
「君から送らなくていいのか?」
「送るよ。でも、そっちにも『この辺にちょっとだけ』とか言ってくるかもしれないから」
ありそうだった。
俺はファイルを閉じた。
「変更する時は、必ず君に確かめる」
「うん。お願い」
モエは生地の見本をもう1度開き、自分が選んだ黒へ触れた。今度は他の色と比べず、指先で布の端を持ち上げ、窓からの光へ向けていた。
~~
完成した勝負服が届いたのは、11月も終わりに近づいた頃だった。
描き直された図案が届き、採寸をして、仮縫いを直す。そのたびに何かを確かめていたので、箱を開けた時には、ようやくここまで来たという気がした。
モエは薄紙をめくる手を止め、しばらく中を見ていた。それからジャケットの肩を持ち、ゆっくりと取り出した。
「……できたんだ」
漆黒の生地が広がり、裾が箱の縁を滑った。襟に沿うシルバーグレーの線は、窓の方へ向けた時だけ淡く光る。
俺は空いたハンガーを差し出した。
「着てみるか?」
「そのために来たんだけど」
いつもの調子で返したが、受け取った服を抱える手つきは慎重だった。残りを確かめ、用意していた袋へ移すと、彼女は更衣室へ向かった。
待っている間に、俺は箱と薄紙を片づけた。打ち合わせに使った図案も取り出したが、机の上へ並べたところで、廊下から足音が聞こえた。
ノックの後、扉が開いた。
モエが入口に立っていた。
尖った襟と、腰に沿って絞られた黒いジャケット。その下には同じ生地のショートパンツがあり、膝を出した脚元まで、余計な飾りはついていない。背中から伸びた裾の間で、白い尻尾が揺れた。
黒の中に、顔と髪の白さが鮮やかに浮かんでいた。紙の上では分からなかった身体の線が、立った姿に沿って通っている。彼女がこちらへ歩くと、銀色の縁取りが細く光り、長い裾が後ろへ流れた。
俺は椅子から立ち上がったまま、見入っていた。
「……どう?」
モエが足を止めた。
片方の袖口を指で摘まんでいる。仮縫いでは何度も腕を振っていたのに、今はその手をどう置くか、決めかねているようだった。
「よく似合っている。格好いいよ」
言うと、彼女は俺の顔を見た。
「ほんとに?」
「ああ。図案を見て想像していたより、ずっといい」
モエは袖口から手を離した。こちらを見たまま少し黙り、それから、ふっと口元を緩める。
「今日は、涼しそうって言わないんだ」
「あの時のことは、悪かったと思っている」
「知ってる」
小さく笑い、壁際の姿見へ向かった。
鏡の前で身体を横へ向け、後ろへ伸びた裾を確かめる。歩いた時にどのくらい揺れるか、少し離れて戻ってきてから、今度は腕を振った。
俺も隣へ行き、肩や脇が引かれないか尋ねた。
「平気。前に直してもらったところも、きつくない」
軽く腰を落とし、脚を前へ出す。裾が触れる位置を確かめてから、モエは鏡の中の自分を見つめた。
「走ったところ、早く見たいな」
「試走は撮るつもりだ。後ろからも」
「うん。……でも、今日はまだ、ここでいい」
襟元へ指を置き、少し顎を上げた。
しばらく、何も言わなかった。鏡の正面へ戻り、肩を開いて立つ。初めは服を確かめていた視線が、やがて自分の顔で止まった。
「顔は、変わんないね」
ぽつりと言った。
俺は、鏡越しに彼女を見た。モエは苦笑しかけたが、そのまま唇を結び、自分の姿を足元まで見下ろした。
「でも、この服は私のだもんね」
「君が選んで、君に合わせて作ったんだ」
「……うん」
今度は頷き、裾を軽く摘まんだ。
彼女の指が離れると、黒い生地は静かに元の形へ戻った。自分の描いた線がそこにあることを確かめるように、モエはもう1度、鏡へ向き直る。
「これで、阪神ジュベナイルフィリーズを走るんだ」
俺は頷いた。
京都で、追ってくる相手をぎりぎりまで凌いだ。その先に、まだ200mある。あの苦しさを知った上で、モエは次のレースに向けて練習を続けている。
それでも、鏡の前に立つ彼女を見ていると、あの舞台へ行くのだという実感が湧いた。
「トレーナー。写真、撮って」
モエがこちらを向いた。
「前と後ろ、両方ね。全身が入るように」
俺はスマホを取りに机へ戻った。姿見に自分が映り込まない位置へ動き、画面にモエを収める。
「そのままでいいか?」
「待って」
彼女は袖を直した。長い裾を後ろへ払ってから、足を少し開き、こちらを見る。
愛想笑いはしなかった。
顎を僅かに引き、レンズを真っ直ぐに見据えている。その顔に、京都でこちらへ拳を向けた時の表情が重なった。
俺は写真を撮った。
後ろ姿も撮り終えると、モエはすぐに寄ってきた。画面を覗き、指で写真を送りながら見比べて、最初の1枚へ戻す。
「これ、いい。送って」
LANEで写真を送ると、彼女は自分のスマホを取り出した。拡大して襟元を確かめ、全身の表示へ戻して、少し笑う。
「ママにも送っとこ」
俺は、片づけかけていた箱から顔を上げた。
モエは画面へ指を動かしている。宛先までは見えなかったが、写真を選び、短い文章を添えたところで手が止まった。
「……また、かわいいって言うんだろうな」
そう呟きながらも、送信した。
それからスマホを机へ置き、箱の隣に残っていた図案へ目を留める。
「それ、もらっていい?」
「もちろん」
渡そうとしたのは、業者が仕上げた綺麗な図案だった。モエはその下を指した。
「そっちも。最初に描いたやつ」
線を何度も引き直し、黒く塗りすぎて少し紙が波打っている。俺が余白へ書いた『リボンなし』という文字の脇に、彼女が後から二重線を引いていた。
2枚を重ねて渡すと、モエは自分の絵と、今着ている服を見比べた。
「……ちゃんとなるもんだね」
紙を折らずにファイルへ戻し、鞄の内側へ差し込む。
机の上で、スマホが鳴った。モエは手を伸ばしかけたが、先にもう1度だけ鏡を見た。
黒い襟を、指で整える。
その時の顔は、俺に写真を頼んだ時よりも、少し嬉しそうだった。
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