アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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次から凱旋門編へと入ります。

少しの間お時間を頂きます。
その間も、これまでの話の手直しをしたりするかもしれません。
よろしくお願い致します。


101話 フランスへ

——Curren Moe

 

 

 

出発の朝は、よく晴れていた。

 

空港のロビーは、人でごった返している。スーツケースを引く音、アナウンス、いろんな国の言葉。その全部が、自分とは関係のない遠い音みたいに聞こえた。

 

絢原さんは、搭乗手続きのカウンターで、何やら係の人と話している。書類が多いらしい。海外遠征というのは、思っていたより面倒な手続きの塊だった。

 

私は、荷物を足元に置いて、することもなく、ガラス張りの窓の外を眺めていた。

 

滑走路に、飛行機が並んでいる。白い機体が、朝の光を返している。あれに乗って、海を越える。半日以上かけて、知らない国へ。

 

カウンターの絢原さんを、ちらりと見た。係の人に何か質問されて、書類の束をめくって、答えている。背中が、少し丸い。昨日の夜も遅くまで、遠征の準備をしていたんだろう。最近、あの人の背中を見る機会が増えた。私が前を向かなくなった分、あの人が後ろで色々と背負っているのが、なんとなく分かる。

 

声をかけようかと思って、やめた。何を言えばいいのか、思いつかなかった。あの人はあの人で、私のために動いてくれている。それを邪魔するのも、違う気がした。

 

実感は、相変わらず薄かった。

 

遠足に行くんだ、と自分に言い聞かせてみても、胸は静かなままだった。やってやる、という気負いもない。怖さもない。決めたから行く。それだけのことだった。

 

鞄の中に、鈴蘭の髪飾りが入っている。なんで持ってきたのか、未だに自分でも分からない。空港に着いてからも、一度も取り出していない。そこにある、というだけで、なんとなく落ち着いた。

 

寮での見送りは何人か来てくれたけど、空港での見送りは、誰も来なかった。来てくれと言わなかったし、来たいと言う人もいなかった。マーちゃんには、廊下で会ったときに伝えてある。ママには——フランスに行く、としか言っていない。それ以上を言えば、たぶん心配する。世界女王の筈の娘が、よその子のために前を引きに行く。それを、どんな顔で聞くんだろう。考えて、やめた。フランスから帰ってから、土産話のついでに話せばいい。

 

がらんとしたロビーの椅子に座って、私は、出発の時間を待っていた。

 

 

 

「やあ。早いね、モルモット君」

 

声がした方を見ると、タキオンさんが立っていた。

 

片手に、機内持ち込み用らしい小さなトランク。もう片方の手には、紙コップ。中身は、たぶん紅茶だ。この人がコーヒーを飲んでいるところを、見たことがない。

 

「……なんで、タキオンさんがいるの」

 

私は、素直に訊いた。

 

だって、おかしい。この遠征に、タキオンさんが来る理由がない。私のトレーナーは絢原さんで、タキオンさんは、ときどき体を診てくれるだけの人だ。フランスまで付いてくる筋合いは、ないはずだった。

 

「決まっているだろう」

 

タキオンさんは、紅茶を一口含んでから、平然と言った。

 

「ロンシャンのデータが、取れるんでね」

 

「データ」

 

「重い芝の上で、君がどう走るか。世界最高峰の舞台で、各国のウマ娘がどんな数字を出すか。あんな実験場、そうそうない。日本で待っていろと言われても、無理な相談だよ」

 

すらすらと、よどみなかった。

 

でも、なんだろう。その言い方が、あんまり滑らかすぎて、逆に、何かを取り繕っているみたいにも聞こえた。

 

私が黙って見ていると、タキオンさんは、ふっと目を細めた。

 

「なんだい、その顔は」

 

「べつに」

 

本当は、少しだけ、引っかかっていた。

 

データを取るだけなら、わざわざ付いてこなくてもいい。映像でも、記録でも、いくらでも手に入る。なのに、この人は自分で来る。しかも、紅茶片手に、当然みたいな顔で。

 

何か、別の理由があるんじゃないか。

 

そう思ったけど、訊かなかった。訊いたところで、この人は、本当のことを、さらっとはぐらかすに決まっている。それも、なんとなく分かっていた。

 

「まあ、いい。せいぜい、いいデータを取らせてくれたまえ。モルモット君」

 

タキオンさんは、そう言って、ロビーの椅子に座った。長い脚を組んで、紅茶をすすって。まるで、自分の研究室にいるみたいに、くつろいでいた。

 

私も、その隣に座った。

 

しばらく、二人とも黙っていた。タキオンさんは資料を読んでいて、私はまた、窓の外の飛行機を眺めていた。

 

「君は」

 

ふいに、タキオンさんが口を開いた。資料から目を上げないまま。

 

「向こうで、何を期待している?」

 

「べつに。何も」

 

正直に答えた。期待なんて、ひとつもない。前を引いて、消える。それだけの仕事だ。期待するも何も、ない。

 

「ふぅん」

 

タキオンさんは、それだけ言って、また資料に目を戻した。何かを確かめたみたいな、それとも、何かを面白がったみたいな。よく分からない相槌だった。

 

その横顔を、少しだけ見た。やっぱり、この人がここにいる理由が、しっくりこない。でも、追及する気力も、なかった。

 

 

 

手続きを終えた絢原さんが、戻ってきた。

 

タキオンさんを見て、一瞬、何か言いかけて——やめた。この二人の間で、もう話はついているらしい。絢原さんは、軽くため息をついただけで、それ以上は何も言わなかった。

 

「そろそろ行くか。搭乗、始まるみたいだ」

 

絢原さんが、荷物を持ち上げた。

 

私も、足元の鞄を肩にかけた。鈴蘭の髪飾りが、かさ、と小さく鳴った気がした。

 

搭乗口へ向かう。長い通路を歩く。窓の外で、さっき眺めていた白い機体が、だんだん近づいてくる。

 

ゲートで、チケットを見せた。係の人が、何か英語で言って、笑顔で通してくれた。意味は、半分くらいしか分からなかった。

 

通路を抜けて、機体の中へ。

 

狭い座席に、体を収める。シートベルトを締める。窓際の席だった。外には、滑走路と、朝の空。

 

隣に絢原さんが座って、その向こうにタキオンさんがいる。タキオンさんは、もう何か分厚い資料を広げて、読み始めていた。本当に、研究のことしか頭にないらしい。

 

絢原さんは、シートに背を預けて、目を閉じていた。眠っているわけじゃない。何か、考えごとをしている横顔だった。きっと、向こうでの段取りのことだ。私のことで、頭をいっぱいにしている。

 

——勝たなくていいレースなのに。

 

そう思うと、少しだけ、申し訳ないような気がした。私のために、この人はいつも、ここまでする。私が、それに見合うものを、何も返せていないのに。

 

その気持ちにも、すぐ蓋をした。考えても、どうにもならない。今の私には、返せるものがない。それだけのことだった。

 

やがて、機体が動き出した。

 

ゆっくりと滑走路を進んで、向きを変えて、止まる。エンジンの音が、低く高く、変わっていく。

 

それから——一気に、加速した。

 

体が、シートに押しつけられる。窓の外の景色が、後ろへ流れていく。速く、速く。

 

ふっ、と。

 

地面が、消えた。

 

機体が、浮いた。

 

窓の外で、空港が、街が、どんどん小さくなっていく。海が見えた。きらきらと光る、朝の海。その向こうに、もう何もない。

 

日本が、足の下から、遠ざかっていった。

 

私は、それを、ぼんやりと眺めていた。

 

香港へ行ったときのことを、少しだけ思い出した。あのときは、まだ、何か掴もうとしていた気がする。勝ちたいとか、確かめたいとか。そういう熱が、胸のどこかにあった。

 

今は、それがない。同じように海を渡るのに、あのときとは、まるで違う。窓の外の海が、同じ色をしているのが、不思議なくらいだった。

 

何かが始まる、という感じは、しなかった。知らない場所へ運ばれていく。それだけの、静かな気持ちだった。

 

しばらくして、機体が安定した。シートベルトのサインが消える。

 

機内は、薄暗くなっていた。窓の外は、ずっと雲の上だ。白い綿みたいな雲海が、どこまでも広がっている。陽の光が、雲の表面で跳ねて、まぶしい。

 

時間の感覚が、だんだん曖昧になっていった。腕時計の針は日本の時間を指したままで、外がいつ夜になるのかも、よく分からない。

 

機内食が配られた。よく分からない味のパスタと、固いパン。半分だけ食べて、残した。あまり、お腹は空いていなかった。

 

絢原さんは、いつの間にか資料を広げていた。タキオンさんと、小声で何か話している。重い芝がどうとか、現地の調整がどうとか。聞こえてくる単語の半分は、私のことだった。私を抜きにして、私の話が進んでいく。それを、他人事みたいに聞いていた。

 

ふと、絢原さんが資料を閉じて、こっちを見た。

 

「あんまり食べてないな」

 

机に残した、半分のパスタのことだ。よく見ている。私が何を食べて、何を残したか、こういうところを、この人はいつも見ている。

 

「あんまり、お腹空いてなくて」

 

「無理にとは言わないけどな。向こうに着くのは夜だから、それまで何も入れないと体がもたないぞ。後でちょっとだけでも、何か食っとけ」

 

それから、少し間を置いて、付け足した。

 

「長旅だ。疲れてるなら寝てていい。着く頃には、ちゃんと起こすから」

 

声は、いつも通り低くて、ぶっきらぼうだった。でも、その下に、私を気にかける温度がちゃんとあった。長いこと聞いてきたから、分かる。この人は、優しいことを、わざと素っ気なく言う。

 

「うん」

 

短く答えて、私は窓の方へ顔を向けた。

 

少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

 

絢原さんは、また資料に目を戻している。肘掛けの上に、片手を置いたまま。

 

その手を、しばらく見ていた。

 

なんとなく、悪戯がしたくなった。こういう気分は、久しぶりだった。最近の私は、何をするのも億劫で、こんなふうに誰かにちょっかいを出したいなんて、思いもしなかったのに。

 

私は、自分の手を、そっと隣に伸ばした。

 

絢原さんの指の間に、自分の指を、一本ずつ、絡めていく。爪の先で、手の甲を、軽くくすぐるみたいに。

 

たいていの相手なら、これで顔を赤くするか、慌てて手を引くか、どちらかだ。私のこういう仕草に、平気でいられる人は、あんまりいない。

 

絢原さんは、資料から目を上げなかった。

 

指を絡められたまま、ページをめくる手だけ止めて、ふう、と短く息を吐いた。それだけだった。困りもしない。照れもしない。

 

「寝るんじゃなかったのか」

 

「寝るよ。これは、その前」

 

「……手、温かいな。冷えてなくてよかった」

 

それだけ言って、絢原さんは、絡んだ私の指を、振りほどきもせず、そのままにした。空調で冷えるといけないから、という、それだけの理由みたいに。

 

つまらないの、と思う。本当に、この人には効かない。私のこれが、誰にでも効くわけじゃないことを、嫌というほど思い知らされる。

 

なのに。

 

その、何ともない感じが、今は、いちばん心地よかった。翻弄されない手。動じない体温。それに触れていると、ざわついていたものが、すうっと凪いでいく。

 

指を絡めたまま、私は、窓に頭を預けた。

 

目を閉じる。

 

長い、長いフライトになる。着く頃には、もう夜だろう。知らない国の、知らない空の下。

 

 

 

今になって思う。

 

あれは、ずいぶん静かな出発だった。

 

胸の中には、火種ひとつ、なかった。勝ちたいとも、何かを掴みたいとも思わない。ただ、頼まれた仕事を半分だけこなして、また日本へ帰る。それだけの、つもりだった。

 

なのに、まさかあんな旅になるなんて。

 

このときの私は、まだ、何も知らなかった。

 




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