少しの間お時間を頂きます。
その間も、これまでの話の手直しをしたりするかもしれません。
よろしくお願い致します。
——Curren Moe
出発の朝は、よく晴れていた。
空港のロビーは、人でごった返している。スーツケースを引く音、アナウンス、いろんな国の言葉。その全部が、自分とは関係のない遠い音みたいに聞こえた。
絢原さんは、搭乗手続きのカウンターで、何やら係の人と話している。書類が多いらしい。海外遠征というのは、思っていたより面倒な手続きの塊だった。
私は、荷物を足元に置いて、することもなく、ガラス張りの窓の外を眺めていた。
滑走路に、飛行機が並んでいる。白い機体が、朝の光を返している。あれに乗って、海を越える。半日以上かけて、知らない国へ。
カウンターの絢原さんを、ちらりと見た。係の人に何か質問されて、書類の束をめくって、答えている。背中が、少し丸い。昨日の夜も遅くまで、遠征の準備をしていたんだろう。最近、あの人の背中を見る機会が増えた。私が前を向かなくなった分、あの人が後ろで色々と背負っているのが、なんとなく分かる。
声をかけようかと思って、やめた。何を言えばいいのか、思いつかなかった。あの人はあの人で、私のために動いてくれている。それを邪魔するのも、違う気がした。
実感は、相変わらず薄かった。
遠足に行くんだ、と自分に言い聞かせてみても、胸は静かなままだった。やってやる、という気負いもない。怖さもない。決めたから行く。それだけのことだった。
鞄の中に、鈴蘭の髪飾りが入っている。なんで持ってきたのか、未だに自分でも分からない。空港に着いてからも、一度も取り出していない。そこにある、というだけで、なんとなく落ち着いた。
寮での見送りは何人か来てくれたけど、空港での見送りは、誰も来なかった。来てくれと言わなかったし、来たいと言う人もいなかった。マーちゃんには、廊下で会ったときに伝えてある。ママには——フランスに行く、としか言っていない。それ以上を言えば、たぶん心配する。世界女王の筈の娘が、よその子のために前を引きに行く。それを、どんな顔で聞くんだろう。考えて、やめた。フランスから帰ってから、土産話のついでに話せばいい。
がらんとしたロビーの椅子に座って、私は、出発の時間を待っていた。
「やあ。早いね、モルモット君」
声がした方を見ると、タキオンさんが立っていた。
片手に、機内持ち込み用らしい小さなトランク。もう片方の手には、紙コップ。中身は、たぶん紅茶だ。この人がコーヒーを飲んでいるところを、見たことがない。
「……なんで、タキオンさんがいるの」
私は、素直に訊いた。
だって、おかしい。この遠征に、タキオンさんが来る理由がない。私のトレーナーは絢原さんで、タキオンさんは、ときどき体を診てくれるだけの人だ。フランスまで付いてくる筋合いは、ないはずだった。
「決まっているだろう」
タキオンさんは、紅茶を一口含んでから、平然と言った。
「ロンシャンのデータが、取れるんでね」
「データ」
「重い芝の上で、君がどう走るか。世界最高峰の舞台で、各国のウマ娘がどんな数字を出すか。あんな実験場、そうそうない。日本で待っていろと言われても、無理な相談だよ」
すらすらと、よどみなかった。
でも、なんだろう。その言い方が、あんまり滑らかすぎて、逆に、何かを取り繕っているみたいにも聞こえた。
私が黙って見ていると、タキオンさんは、ふっと目を細めた。
「なんだい、その顔は」
「べつに」
本当は、少しだけ、引っかかっていた。
データを取るだけなら、わざわざ付いてこなくてもいい。映像でも、記録でも、いくらでも手に入る。なのに、この人は自分で来る。しかも、紅茶片手に、当然みたいな顔で。
何か、別の理由があるんじゃないか。
そう思ったけど、訊かなかった。訊いたところで、この人は、本当のことを、さらっとはぐらかすに決まっている。それも、なんとなく分かっていた。
「まあ、いい。せいぜい、いいデータを取らせてくれたまえ。モルモット君」
タキオンさんは、そう言って、ロビーの椅子に座った。長い脚を組んで、紅茶をすすって。まるで、自分の研究室にいるみたいに、くつろいでいた。
私も、その隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。タキオンさんは資料を読んでいて、私はまた、窓の外の飛行機を眺めていた。
「君は」
ふいに、タキオンさんが口を開いた。資料から目を上げないまま。
「向こうで、何を期待している?」
「べつに。何も」
正直に答えた。期待なんて、ひとつもない。前を引いて、消える。それだけの仕事だ。期待するも何も、ない。
「ふぅん」
タキオンさんは、それだけ言って、また資料に目を戻した。何かを確かめたみたいな、それとも、何かを面白がったみたいな。よく分からない相槌だった。
その横顔を、少しだけ見た。やっぱり、この人がここにいる理由が、しっくりこない。でも、追及する気力も、なかった。
手続きを終えた絢原さんが、戻ってきた。
タキオンさんを見て、一瞬、何か言いかけて——やめた。この二人の間で、もう話はついているらしい。絢原さんは、軽くため息をついただけで、それ以上は何も言わなかった。
「そろそろ行くか。搭乗、始まるみたいだ」
絢原さんが、荷物を持ち上げた。
私も、足元の鞄を肩にかけた。鈴蘭の髪飾りが、かさ、と小さく鳴った気がした。
搭乗口へ向かう。長い通路を歩く。窓の外で、さっき眺めていた白い機体が、だんだん近づいてくる。
ゲートで、チケットを見せた。係の人が、何か英語で言って、笑顔で通してくれた。意味は、半分くらいしか分からなかった。
通路を抜けて、機体の中へ。
狭い座席に、体を収める。シートベルトを締める。窓際の席だった。外には、滑走路と、朝の空。
隣に絢原さんが座って、その向こうにタキオンさんがいる。タキオンさんは、もう何か分厚い資料を広げて、読み始めていた。本当に、研究のことしか頭にないらしい。
絢原さんは、シートに背を預けて、目を閉じていた。眠っているわけじゃない。何か、考えごとをしている横顔だった。きっと、向こうでの段取りのことだ。私のことで、頭をいっぱいにしている。
——勝たなくていいレースなのに。
そう思うと、少しだけ、申し訳ないような気がした。私のために、この人はいつも、ここまでする。私が、それに見合うものを、何も返せていないのに。
その気持ちにも、すぐ蓋をした。考えても、どうにもならない。今の私には、返せるものがない。それだけのことだった。
やがて、機体が動き出した。
ゆっくりと滑走路を進んで、向きを変えて、止まる。エンジンの音が、低く高く、変わっていく。
それから——一気に、加速した。
体が、シートに押しつけられる。窓の外の景色が、後ろへ流れていく。速く、速く。
ふっ、と。
地面が、消えた。
機体が、浮いた。
窓の外で、空港が、街が、どんどん小さくなっていく。海が見えた。きらきらと光る、朝の海。その向こうに、もう何もない。
日本が、足の下から、遠ざかっていった。
私は、それを、ぼんやりと眺めていた。
香港へ行ったときのことを、少しだけ思い出した。あのときは、まだ、何か掴もうとしていた気がする。勝ちたいとか、確かめたいとか。そういう熱が、胸のどこかにあった。
今は、それがない。同じように海を渡るのに、あのときとは、まるで違う。窓の外の海が、同じ色をしているのが、不思議なくらいだった。
何かが始まる、という感じは、しなかった。知らない場所へ運ばれていく。それだけの、静かな気持ちだった。
しばらくして、機体が安定した。シートベルトのサインが消える。
機内は、薄暗くなっていた。窓の外は、ずっと雲の上だ。白い綿みたいな雲海が、どこまでも広がっている。陽の光が、雲の表面で跳ねて、まぶしい。
時間の感覚が、だんだん曖昧になっていった。腕時計の針は日本の時間を指したままで、外がいつ夜になるのかも、よく分からない。
機内食が配られた。よく分からない味のパスタと、固いパン。半分だけ食べて、残した。あまり、お腹は空いていなかった。
絢原さんは、いつの間にか資料を広げていた。タキオンさんと、小声で何か話している。重い芝がどうとか、現地の調整がどうとか。聞こえてくる単語の半分は、私のことだった。私を抜きにして、私の話が進んでいく。それを、他人事みたいに聞いていた。
ふと、絢原さんが資料を閉じて、こっちを見た。
「あんまり食べてないな」
机に残した、半分のパスタのことだ。よく見ている。私が何を食べて、何を残したか、こういうところを、この人はいつも見ている。
「あんまり、お腹空いてなくて」
「無理にとは言わないけどな。向こうに着くのは夜だから、それまで何も入れないと体がもたないぞ。後でちょっとだけでも、何か食っとけ」
それから、少し間を置いて、付け足した。
「長旅だ。疲れてるなら寝てていい。着く頃には、ちゃんと起こすから」
声は、いつも通り低くて、ぶっきらぼうだった。でも、その下に、私を気にかける温度がちゃんとあった。長いこと聞いてきたから、分かる。この人は、優しいことを、わざと素っ気なく言う。
「うん」
短く答えて、私は窓の方へ顔を向けた。
少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
絢原さんは、また資料に目を戻している。肘掛けの上に、片手を置いたまま。
その手を、しばらく見ていた。
なんとなく、悪戯がしたくなった。こういう気分は、久しぶりだった。最近の私は、何をするのも億劫で、こんなふうに誰かにちょっかいを出したいなんて、思いもしなかったのに。
私は、自分の手を、そっと隣に伸ばした。
絢原さんの指の間に、自分の指を、一本ずつ、絡めていく。爪の先で、手の甲を、軽くくすぐるみたいに。
たいていの相手なら、これで顔を赤くするか、慌てて手を引くか、どちらかだ。私のこういう仕草に、平気でいられる人は、あんまりいない。
絢原さんは、資料から目を上げなかった。
指を絡められたまま、ページをめくる手だけ止めて、ふう、と短く息を吐いた。それだけだった。困りもしない。照れもしない。
「寝るんじゃなかったのか」
「寝るよ。これは、その前」
「……手、温かいな。冷えてなくてよかった」
それだけ言って、絢原さんは、絡んだ私の指を、振りほどきもせず、そのままにした。空調で冷えるといけないから、という、それだけの理由みたいに。
つまらないの、と思う。本当に、この人には効かない。私のこれが、誰にでも効くわけじゃないことを、嫌というほど思い知らされる。
なのに。
その、何ともない感じが、今は、いちばん心地よかった。翻弄されない手。動じない体温。それに触れていると、ざわついていたものが、すうっと凪いでいく。
指を絡めたまま、私は、窓に頭を預けた。
目を閉じる。
長い、長いフライトになる。着く頃には、もう夜だろう。知らない国の、知らない空の下。
今になって思う。
あれは、ずいぶん静かな出発だった。
胸の中には、火種ひとつ、なかった。勝ちたいとも、何かを掴みたいとも思わない。ただ、頼まれた仕事を半分だけこなして、また日本へ帰る。それだけの、つもりだった。
なのに、まさかあんな旅になるなんて。
このときの私は、まだ、何も知らなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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