飛行機の扉が開いた瞬間、空気の匂いが変わった。
日本より少し乾いていて、冷たい。それでいて、どこか重い。湿っているわけではないのに、空の下に何かが沈んでいるような匂いがした。
フランス。
胸の中でその名前を確かめた時、ようやく足の裏が地面を踏んだ気がした。
絢原さんの後ろについて、私はタラップを降りた。隣ではタキオンさんが、眠っているのか起きているのか分からない顔であくびをしている。機内でもずっと資料を読んでいたはずなのに、目だけは妙に冴えていた。
「空気が違うねぇ。湿度、温度、気圧、匂い。場所が変われば、体に入る情報も変わる」
「寝起きの第一声がそれなんだ」
タキオンさんはあくびを噛み殺した顔のまま、鞄の口から折れた資料の端を覗かせている。あれで寝起きではないと言い張るのだから、基準がよく分からない。
「寝起きではないとも。非常に有意義な時間だったよ」
それ以上は聞かなかった。資料と紅茶と、途中で私の肘掛けを占領していた時間を、あの人はまとめて有意義と呼ぶ。
タダで海外旅行。そう考えれば、悪くない。
正確には、タダではない。私は走るために来た。
オルフェーヴルさんのために前を引く。1500まで。そこから先は下がる。勝つ必要はないし、証明する必要もない。カレンチャンの娘として見られる必要もない。
だから、肩は軽かった。少なくとも、その時は。
「モエ。足元」
前を歩いていた絢原さんが、短く言った。
「見てる」
「今、空を見てただろ」
石畳の継ぎ目に、靴先が少し引っかかった。転ぶほどではない。でも、言い返すには弱い。
絢原さんは自分の荷物を持ち替えて、先に一段下りる。怒っているわけではない。いつもの確認の目だった。
「遠征初日に足を捻られたら困る」
「トレーナーの方が眠そうだけど」
「否定はしない。頭の半分くらい、まだ飛行機にいる」
それでも、段差を先に確かめるあたりが、いかにも絢原さんだった。
私はその背中を見ながら歩く。
昨日まで日本にいたのに、今はフランスにいる。普通ならもっとはしゃいでもよさそうなものだけど、絢原さんは私よりずっと先のことを見ている。
オルフェーヴルさんたちは、同じ飛行機に乗っていた。
機内で近くにいたわけではない。前方の席にはオルフェーヴルさんとドリームジャーニーさん、それから関係者。私たちは少し離れた席で、到着してからも荷物確認と入国手続きで少し遅れた。
だから到着ロビーに出た時には、もう向こう側に人だかりができていた。
フランス語。英語。日本語も少し。耳が拾える言葉と、全部まとめて雑音になる言葉が混ざる。
そして、光。
フラッシュが一斉に弾けた。私は一瞬、目を細める。
けれど、その光は私に向けられたものではなかった。
到着ロビーの向こう側に、人だかりができていた。その中心に、金色がいる。
オルフェーヴルさんだった。
同じ飛行機に乗っていたはずなのに、ロビーに出た瞬間、オルフェーヴルさんはもう別の物語の中にいた。
日本から来た挑戦者。いや、正確には主役。
彼女が少し顔を向けるだけで、空気が動く。報道陣が息を詰める。カメラが角度を変える。マイクが伸びる。誰もが、彼女の言葉を欲しがっていた。
オルフェーヴルさんは、それを当然のものとして受けていた。偉そう、というのとは少し違う。自分が見られていることを、面倒がっていない。逃げてもいない。
その場に立っているだけで、彼女は主役だった。
その少し横で、ドリームジャーニーさんがスタッフに短く何かを伝えていた。柔らかい笑み。低い声。丁寧な言葉。なのに、相手は一度も聞き返さない。
誰がどこを通るか。どの荷物を先に出すか。どこで立ち止まって、どこでは止まらないか。たぶん全部、あの人の頭の中にある。
小柄で、静かで、目立たない。でも、オルフェーヴルさんの周りだけは、ドリームジャーニーさんの指先で整えられているように見えた。
「すごいね」
私は小声で言った。
「世界が待ってた相手だ」
絢原さんの声は、報道陣のざわめきに半分沈んだ。
私は少しだけ肩をすくめる。
「私は横にいるだけで済みそう。カメラ、こっち向いてないし」
絢原さんの返事は、すぐには来なかった。視線はオルフェーヴルさんの方にあるのに、意識だけこちらへ残っている。
「お前が楽なら、それでいい。今は」
今は。
その二文字が、少し引っかかった。
香港では違った。
Blue Hammer。誰かがそう呼んで、誰かがそれを広げて、知らない間に私の名前に別の色が塗られていた。
カレンチャンの娘ではなくなったと思ったら、今度は青い槌。勝手に持ち上げられて、勝手に意味をつけられて、勝手に騒がれる。
どうせなら、もう少し可愛い名前にしてほしかった。青い槌って。工具じゃん。
でも、ここでは違う。
ここでは、私は日本から来た遠征団の一員でしかない。オルフェーヴルさんの後ろにいる誰か。通訳か、スタッフか、出走するかどうかもよく知られていないウマ娘。
声は私の上を通り過ぎていく。カメラのレンズは、私を避けるみたいに角度を変える。
息がしやすかった。
たぶん。
オルフェーヴルさんが質問に答える。聞こえた日本語だけを拾えば、去年のこと、今年の仕上がり、レゾリュートさんとの再戦。そんな話だった。
レゾリュートさん。
その名前が出た瞬間、周囲の温度が少し変わった。
金色の挑戦者の話は、すぐに白銀の女王へつながる。去年、オルフェーヴルさんを退けた相手。この国の人たちは、その続きを見たがっている。
資料では見た。映像も見た。綺麗な走りだった。強い、というより、正しい走り。彼女が動けば、周りが従う。彼女が待てば、周りも待つ。
まるでレースそのものが、彼女のために形を変えるみたいだった。
「軽くなった顔をしているねぇ」
タキオンさんが、いつの間にか隣にいた。
「嫌な見方」
タキオンさんは報道陣の方ではなく、私の顔を見ている。こういう時だけ、やけにまっすぐ見る。
「悪いとは言っていないよ。環境が変わって、負荷の種類が変わった。君は今、それを楽だと感じている」
タキオンさんの指が、折り畳んだ資料の角を一度だけ撫でた。
「楽なものほど、後から形を変えることがある」
旅行初日に聞きたい話ではなかった。
私は返事をせず、ロビーの光へ視線を戻した。
~
空港からホテルへ移動する間も、世界はずっとオルフェーヴルさんを追っていた。
車の窓から見える街は、日本と全然違った。建物の色も、道の広さも、人の歩き方も。看板の文字は読めないものばかりで、私はしばらくそれを眺めていた。
知らない国。誰も私を知らない場所。
胸の奥にあった変な力が少し抜ける。
香港では、私の名前が増えた。ここでは、名前が消えた。それは、たぶん楽なことだ。
ホテルに着いても、玄関前には人がいた。警備の人。スタッフ。報道陣。見物人。その中心に、オルフェーヴルさんが降りる。
また、光が弾けた。
オルフェーヴルさんは眉一つ動かさない。
ドリームジャーニーさんは少し後ろに立ち、ホテルの係員と短く言葉を交わしていた。部屋割りも、荷物の動きも、誰がどのエレベーターに乗るかも、たぶん全部あの人の旅程表の上にある。
絢原さんが荷物を確認し、タキオンさんはロビー奥のティーサービスに気づいて、足だけそちらへ向けていた。
「タキオン。荷物が先だ」
「紅茶の香りは待ってくれないよ、トレーナー君」
絢原さんはスーツケースの持ち手を握ったまま、逃走経路をふさぐ場所に立っている。
「紅茶も逃げない」
タキオンさんはカップの並んだ台を名残惜しそうに見ている。紅茶一つでここまで粘れるのは、才能かもしれない。
「湯気は逃げるのだがねぇ」
「冷める前に戻ればいい」
そこでタキオンさんの眉が、ほんの少し上がった。
「む。それは合理的じゃないか」
知らない国のホテルのロビーでも、二人はあまり変わらない。
私は、少し後ろにいた。
誰かのカメラが一瞬こちらを向いた。でも、すぐに逸れた。たぶん、ピントを合わせる価値がなかったのだと思う。
それでいいはずだった。
ホテルのロビーは、妙に静かだった。外のざわめきがガラス一枚で切り取られている。床は磨かれていて、天井は高くて、照明は白い。
その白さの中に、彼女はいた。
レゾリュートさん。
映像で見たよりも、ずっと静かだった。
白銀、という言葉が、冗談ではなく似合う子だった。髪も、立ち姿も、表情も、どこか冷たい。でも、氷みたいに拒む冷たさではない。
その場にあるのが当然だと感じさせる温度。冬の朝に窓を開けた時みたいな。怒っているわけではないのに、息が少し止まる。
そういう冷たさだった。
彼女の周囲には、数人のスタッフと、欧州の関係者らしき人たちがいた。囲まれているはずなのに、守られているようには見えない。
従えられている。
そう見えた。
女王。
誰かがそう呼ぶのも分かる気がした。
レゾリュートさんの目が、オルフェーヴルさんで止まった。ほんの一瞬。それだけで、ロビーの空気が少し硬くなる。
たぶん、この国の人たちには、もう見たい絵がある。金色の挑戦者。白銀の女王。去年の続き。欧州の防衛。日本の悲願。分かりやすい。綺麗で、ありがたくて、ポスターにしやすそうなやつ。
そこに私を入れる余白は、最初からなかった。
レゾリュートさんの視線が流れる。
オルフェーヴルさんから、ドリームジャーニーさんへ。
それから、絢原さんへ。
タキオンさんのところで、一瞬だけ止まった気がした。
それで、終わった。
私のところまでは、来なかった。
合わなかったのではない。
避けられたのでもない。
視界に入らなかった。
それだけだった。
怒ったわけではない。悔しいわけでもない。むしろ、面倒がなくていいはずだった。
胸の奥だけが、少し冷えた。
レゾリュートさんが何かを言う。通訳が入るより先に、周囲が動く。彼女はオルフェーヴルさんに軽く言葉を向けたらしい。
オルフェーヴルさんが笑った。笑った、というより、牙を見せた。
ドリームジャーニーさんは微笑んだまま、何も言わない。目だけが少し細くなった。
私はその三人を見ていた。世界は、もうだいたいの配役を決めている。
主役と、主役。その隣にいる策士。背景。歓声。去年の続きを待つ観客。
で、私はたぶん、小道具か何かだ。
壊れても、代わりが利く。映っていなくても、誰も気づかない。そういう役なら、失敗しても誰かの物語は壊れない。成功しても、きっと誰も覚えていない。
ホテルのスタッフが私に何かを尋ねた。聞き取れずに固まると、絢原さんがすぐに横から答えてくれた。
「部屋の確認だ。行くぞ、モエ」
「うん」
歩き出そうとしたところで、絢原さんが止まった。
「顔、戻ってないぞ」
何の顔、と返しそうになって、やめた。たぶん言い返しても無駄な顔をしていた。
人の流れが、私たちの横を抜けていく。ロビーの真ん中で立ち止まるには、少し邪魔な場所だった。
「何もない」
「ない顔じゃない」
絢原さんは荷物の持ち手に手をかけたまま、私の返事を待っている。
「じゃあ、あとで構って」
声が小さくなる。こんな場所で、そんなことを言うつもりはなかった。
絢原さんは、変に眉を寄せない。笑いもしない。
「分かった。あとで構ってやる」
「ほんと?」
「必要ならな」
雑な言い方なのに、そこで終わらせてくれるところがずるい。
絢原さんはそれ以上、聞いてこない。大丈夫か、とも、どうした、とも言わない。
そのままエレベーターへ向かう。歩幅だけ、いつもより少し遅い。
腹が立つくらい、息が戻る。
エレベーターへ向かう途中、もう一度だけロビーを振り返った。
フラッシュが光る。オルフェーヴルさんがいる。レゾリュートさんがいる。ドリームジャーニーさんがいる。人々がいる。声がある。期待がある。物語がある。
私はそこから一歩外れている。
カレンチャンの娘と呼ばれない場所。Blue Hammer と呼ばれない場所。勝てと言われない場所。証明しろと言われない場所。
私の名前を呼ぶ声は、ここにはなかった。
だから、私は黙っていられた。
~
部屋に荷物を運び込むと、タキオンさんが当然のように私のベッドの上へ資料を広げ始めた。折り畳まれたコース図。どこから出したのか分からない紅茶の小袋。それから、角砂糖の包みがいくつか。
「そこ、私のベッドなんだけど」
「資料には平面が必要なのだよ」
タキオンさんは、私の抗議を聞きながらも、コース図の折り目を丁寧に伸ばしている。完全に居座る手つきだった。
「机があるでしょ」
「机は紅茶用だ」
「用途がおかしいでしょ」
タキオンさんは楽しそうに笑った。
絢原さんは隣の部屋に行った。明日の調整、現地スタッフとの確認、ドリームジャーニーさんとのすり合わせ。やることはいくらでもあるらしい。
私は窓際に立った。外には知らない街が広がっている。遠くに、古い建物の屋根が見えた。夕方の光は薄く、白い。
この国で、私は走る。
1500だけ。そこから先は、走らない。走らなくていい。
世界がオルフェーヴルさんとレゾリュートさんを見ている間、私は前に出て、仕事をして、消える。誰かの物語のために、最初の線を引くだけ。
その線を引いた後のページには、私の名前は載らない。
ロビーで私の前まで来なかった視線の温度だけが、胸の奥に残っていた。
見下されたわけではない。否定されたわけでもない。嫌われたわけでもない。
私は、そこにいなかった。
それだけのことが、思ったよりも静かに残った。
「モルモット君」
タキオンさんが呼んだ。
返事をしながら振り向くと、タキオンさんは私のベッドの上に広げたコース図を、指先で軽く叩いていた。
「明日は軽く動く。現地の芝と、君の体の反応を見る。速さを出す必要はない。妙な意地も要らない」
「その軽く、信用していいやつ?」
窓際から離れずに聞く。
タキオンさんはコース図の端を折り直した。
「少なくとも、明日はね」
そこでこっちを見るのが、余計に嫌だった。
「最後の一言が余計」
「未来は常に未確定だろう?」
私はため息をついて、窓の外に戻った。
明日。ロンシャン。欧州の芝。
少しだけ、気になった。
走りたいわけではない。勝ちたいわけでもない。知らない地面が、知らない顔でそこにある。
それだけ。
きっと、それだけ。
私はカーテンを閉めた。部屋の中が少し暗くなる。外の白い光が消える。
ベッドの上では、タキオンさんの資料が私の寝る場所を完全に占拠していた。紅茶の小袋まで、なぜか枕の上にある。
「タキオンさん。せめて枕の紅茶は片付けて」
「香りがよく眠りを誘うかもしれないじゃないか」
私は枕の上から紅茶の小袋をつまみ上げる。薄い紙の角が、想像以上に鋭い。
「紙袋の角が顔に刺さる未来しか見えない」
「未来は未確定だと、さっき説明したばかりだよ」
「そこは確定でいいから」
タキオンさんが笑う。私は資料を半分奪って、机の上に積んだ。
その紙の端に、ロンシャンのコース図が見えた。長い直線。坂。フォルスストレート。最後の伸び。
2400。
私はすぐに視線を外した。
私の凱旋門賞は、そこまで行かない。1500まで。そこから先は、オルフェーヴルさんの物語。
世界の想定も、絢原さんの願いも、私の予定も、そこにある。
大丈夫。
口の中だけで、そう繰り返した。
ロビーの光。オルフェーヴルさんに向けられた声。レゾリュートさんの、こちらに届かなかった視線。
それらが、薄い膜みたいに胸の奥に残っている。不快ではない。痛くもない。少しだけ冷たかった。
知らない国に来て、私は軽くなった。
誰も私を見ていない。誰も私の名前を呼ばない。誰も、私に物語を求めていない。
それは、楽なはずだった。
本当に。
ここでは、私が黙っていても、誰も困らなかった。
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