アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ゆっくり、投稿を再開していきます。


102話 白金の国

 

飛行機の扉が開いた瞬間、空気の匂いが変わった。

 

日本より少し乾いていて、冷たい。それでいて、どこか重い。湿っているわけではないのに、空の下に何かが沈んでいるような匂いがした。

 

フランス。

 

胸の中でその名前を確かめた時、ようやく足の裏が地面を踏んだ気がした。

 

絢原さんの後ろについて、私はタラップを降りた。隣ではタキオンさんが、眠っているのか起きているのか分からない顔であくびをしている。機内でもずっと資料を読んでいたはずなのに、目だけは妙に冴えていた。

 

「空気が違うねぇ。湿度、温度、気圧、匂い。場所が変われば、体に入る情報も変わる」

 

「寝起きの第一声がそれなんだ」

 

タキオンさんはあくびを噛み殺した顔のまま、鞄の口から折れた資料の端を覗かせている。あれで寝起きではないと言い張るのだから、基準がよく分からない。

 

「寝起きではないとも。非常に有意義な時間だったよ」

 

それ以上は聞かなかった。資料と紅茶と、途中で私の肘掛けを占領していた時間を、あの人はまとめて有意義と呼ぶ。

 

タダで海外旅行。そう考えれば、悪くない。

 

正確には、タダではない。私は走るために来た。

 

オルフェーヴルさんのために前を引く。1500まで。そこから先は下がる。勝つ必要はないし、証明する必要もない。カレンチャンの娘として見られる必要もない。

 

だから、肩は軽かった。少なくとも、その時は。

 

「モエ。足元」

 

前を歩いていた絢原さんが、短く言った。

 

「見てる」

 

「今、空を見てただろ」

 

石畳の継ぎ目に、靴先が少し引っかかった。転ぶほどではない。でも、言い返すには弱い。

 

絢原さんは自分の荷物を持ち替えて、先に一段下りる。怒っているわけではない。いつもの確認の目だった。

 

「遠征初日に足を捻られたら困る」

 

「トレーナーの方が眠そうだけど」

 

「否定はしない。頭の半分くらい、まだ飛行機にいる」

 

それでも、段差を先に確かめるあたりが、いかにも絢原さんだった。

 

私はその背中を見ながら歩く。

 

昨日まで日本にいたのに、今はフランスにいる。普通ならもっとはしゃいでもよさそうなものだけど、絢原さんは私よりずっと先のことを見ている。

 

オルフェーヴルさんたちは、同じ飛行機に乗っていた。

 

機内で近くにいたわけではない。前方の席にはオルフェーヴルさんとドリームジャーニーさん、それから関係者。私たちは少し離れた席で、到着してからも荷物確認と入国手続きで少し遅れた。

 

だから到着ロビーに出た時には、もう向こう側に人だかりができていた。

 

フランス語。英語。日本語も少し。耳が拾える言葉と、全部まとめて雑音になる言葉が混ざる。

 

そして、光。

 

フラッシュが一斉に弾けた。私は一瞬、目を細める。

 

けれど、その光は私に向けられたものではなかった。

 

到着ロビーの向こう側に、人だかりができていた。その中心に、金色がいる。

 

オルフェーヴルさんだった。

 

同じ飛行機に乗っていたはずなのに、ロビーに出た瞬間、オルフェーヴルさんはもう別の物語の中にいた。

 

日本から来た挑戦者。いや、正確には主役。

 

彼女が少し顔を向けるだけで、空気が動く。報道陣が息を詰める。カメラが角度を変える。マイクが伸びる。誰もが、彼女の言葉を欲しがっていた。

 

オルフェーヴルさんは、それを当然のものとして受けていた。偉そう、というのとは少し違う。自分が見られていることを、面倒がっていない。逃げてもいない。

 

その場に立っているだけで、彼女は主役だった。

 

その少し横で、ドリームジャーニーさんがスタッフに短く何かを伝えていた。柔らかい笑み。低い声。丁寧な言葉。なのに、相手は一度も聞き返さない。

 

誰がどこを通るか。どの荷物を先に出すか。どこで立ち止まって、どこでは止まらないか。たぶん全部、あの人の頭の中にある。

 

小柄で、静かで、目立たない。でも、オルフェーヴルさんの周りだけは、ドリームジャーニーさんの指先で整えられているように見えた。

 

「すごいね」

 

私は小声で言った。

 

「世界が待ってた相手だ」

 

絢原さんの声は、報道陣のざわめきに半分沈んだ。

 

私は少しだけ肩をすくめる。

 

「私は横にいるだけで済みそう。カメラ、こっち向いてないし」

 

絢原さんの返事は、すぐには来なかった。視線はオルフェーヴルさんの方にあるのに、意識だけこちらへ残っている。

 

「お前が楽なら、それでいい。今は」

 

今は。

 

その二文字が、少し引っかかった。

 

香港では違った。

 

Blue Hammer。誰かがそう呼んで、誰かがそれを広げて、知らない間に私の名前に別の色が塗られていた。

 

カレンチャンの娘ではなくなったと思ったら、今度は青い槌。勝手に持ち上げられて、勝手に意味をつけられて、勝手に騒がれる。

 

どうせなら、もう少し可愛い名前にしてほしかった。青い槌って。工具じゃん。

 

でも、ここでは違う。

 

ここでは、私は日本から来た遠征団の一員でしかない。オルフェーヴルさんの後ろにいる誰か。通訳か、スタッフか、出走するかどうかもよく知られていないウマ娘。

 

声は私の上を通り過ぎていく。カメラのレンズは、私を避けるみたいに角度を変える。

 

息がしやすかった。

 

たぶん。

 

オルフェーヴルさんが質問に答える。聞こえた日本語だけを拾えば、去年のこと、今年の仕上がり、レゾリュートさんとの再戦。そんな話だった。

 

レゾリュートさん。

 

その名前が出た瞬間、周囲の温度が少し変わった。

 

金色の挑戦者の話は、すぐに白銀の女王へつながる。去年、オルフェーヴルさんを退けた相手。この国の人たちは、その続きを見たがっている。

 

資料では見た。映像も見た。綺麗な走りだった。強い、というより、正しい走り。彼女が動けば、周りが従う。彼女が待てば、周りも待つ。

 

まるでレースそのものが、彼女のために形を変えるみたいだった。

 

「軽くなった顔をしているねぇ」

 

タキオンさんが、いつの間にか隣にいた。

 

「嫌な見方」

 

タキオンさんは報道陣の方ではなく、私の顔を見ている。こういう時だけ、やけにまっすぐ見る。

 

「悪いとは言っていないよ。環境が変わって、負荷の種類が変わった。君は今、それを楽だと感じている」

 

タキオンさんの指が、折り畳んだ資料の角を一度だけ撫でた。

 

「楽なものほど、後から形を変えることがある」

 

旅行初日に聞きたい話ではなかった。

 

私は返事をせず、ロビーの光へ視線を戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

空港からホテルへ移動する間も、世界はずっとオルフェーヴルさんを追っていた。

 

車の窓から見える街は、日本と全然違った。建物の色も、道の広さも、人の歩き方も。看板の文字は読めないものばかりで、私はしばらくそれを眺めていた。

 

知らない国。誰も私を知らない場所。

 

胸の奥にあった変な力が少し抜ける。

 

香港では、私の名前が増えた。ここでは、名前が消えた。それは、たぶん楽なことだ。

 

ホテルに着いても、玄関前には人がいた。警備の人。スタッフ。報道陣。見物人。その中心に、オルフェーヴルさんが降りる。

 

また、光が弾けた。

 

オルフェーヴルさんは眉一つ動かさない。

 

ドリームジャーニーさんは少し後ろに立ち、ホテルの係員と短く言葉を交わしていた。部屋割りも、荷物の動きも、誰がどのエレベーターに乗るかも、たぶん全部あの人の旅程表の上にある。

 

絢原さんが荷物を確認し、タキオンさんはロビー奥のティーサービスに気づいて、足だけそちらへ向けていた。

 

「タキオン。荷物が先だ」

 

「紅茶の香りは待ってくれないよ、トレーナー君」

 

絢原さんはスーツケースの持ち手を握ったまま、逃走経路をふさぐ場所に立っている。

 

「紅茶も逃げない」

 

タキオンさんはカップの並んだ台を名残惜しそうに見ている。紅茶一つでここまで粘れるのは、才能かもしれない。

 

「湯気は逃げるのだがねぇ」

 

「冷める前に戻ればいい」

 

そこでタキオンさんの眉が、ほんの少し上がった。

 

「む。それは合理的じゃないか」

 

知らない国のホテルのロビーでも、二人はあまり変わらない。

 

私は、少し後ろにいた。

 

誰かのカメラが一瞬こちらを向いた。でも、すぐに逸れた。たぶん、ピントを合わせる価値がなかったのだと思う。

 

それでいいはずだった。

 

ホテルのロビーは、妙に静かだった。外のざわめきがガラス一枚で切り取られている。床は磨かれていて、天井は高くて、照明は白い。

 

その白さの中に、彼女はいた。

 

レゾリュートさん。

 

映像で見たよりも、ずっと静かだった。

 

白銀、という言葉が、冗談ではなく似合う子だった。髪も、立ち姿も、表情も、どこか冷たい。でも、氷みたいに拒む冷たさではない。

 

その場にあるのが当然だと感じさせる温度。冬の朝に窓を開けた時みたいな。怒っているわけではないのに、息が少し止まる。

 

そういう冷たさだった。

 

彼女の周囲には、数人のスタッフと、欧州の関係者らしき人たちがいた。囲まれているはずなのに、守られているようには見えない。

 

従えられている。

 

そう見えた。

 

女王。

 

誰かがそう呼ぶのも分かる気がした。

 

レゾリュートさんの目が、オルフェーヴルさんで止まった。ほんの一瞬。それだけで、ロビーの空気が少し硬くなる。

 

たぶん、この国の人たちには、もう見たい絵がある。金色の挑戦者。白銀の女王。去年の続き。欧州の防衛。日本の悲願。分かりやすい。綺麗で、ありがたくて、ポスターにしやすそうなやつ。

 

そこに私を入れる余白は、最初からなかった。

 

レゾリュートさんの視線が流れる。

 

オルフェーヴルさんから、ドリームジャーニーさんへ。

 

それから、絢原さんへ。

 

タキオンさんのところで、一瞬だけ止まった気がした。

 

それで、終わった。

 

私のところまでは、来なかった。

 

合わなかったのではない。

 

避けられたのでもない。

 

視界に入らなかった。

 

それだけだった。

 

怒ったわけではない。悔しいわけでもない。むしろ、面倒がなくていいはずだった。

 

胸の奥だけが、少し冷えた。

 

レゾリュートさんが何かを言う。通訳が入るより先に、周囲が動く。彼女はオルフェーヴルさんに軽く言葉を向けたらしい。

 

オルフェーヴルさんが笑った。笑った、というより、牙を見せた。

 

ドリームジャーニーさんは微笑んだまま、何も言わない。目だけが少し細くなった。

 

私はその三人を見ていた。世界は、もうだいたいの配役を決めている。

 

主役と、主役。その隣にいる策士。背景。歓声。去年の続きを待つ観客。

 

で、私はたぶん、小道具か何かだ。

 

壊れても、代わりが利く。映っていなくても、誰も気づかない。そういう役なら、失敗しても誰かの物語は壊れない。成功しても、きっと誰も覚えていない。

 

ホテルのスタッフが私に何かを尋ねた。聞き取れずに固まると、絢原さんがすぐに横から答えてくれた。

 

「部屋の確認だ。行くぞ、モエ」

 

「うん」

 

歩き出そうとしたところで、絢原さんが止まった。

 

「顔、戻ってないぞ」

 

何の顔、と返しそうになって、やめた。たぶん言い返しても無駄な顔をしていた。

 

人の流れが、私たちの横を抜けていく。ロビーの真ん中で立ち止まるには、少し邪魔な場所だった。

 

「何もない」

 

「ない顔じゃない」

 

絢原さんは荷物の持ち手に手をかけたまま、私の返事を待っている。

 

「じゃあ、あとで構って」

 

声が小さくなる。こんな場所で、そんなことを言うつもりはなかった。

 

絢原さんは、変に眉を寄せない。笑いもしない。

 

「分かった。あとで構ってやる」

 

「ほんと?」

 

「必要ならな」

 

雑な言い方なのに、そこで終わらせてくれるところがずるい。

 

絢原さんはそれ以上、聞いてこない。大丈夫か、とも、どうした、とも言わない。

 

そのままエレベーターへ向かう。歩幅だけ、いつもより少し遅い。

 

腹が立つくらい、息が戻る。

 

エレベーターへ向かう途中、もう一度だけロビーを振り返った。

 

フラッシュが光る。オルフェーヴルさんがいる。レゾリュートさんがいる。ドリームジャーニーさんがいる。人々がいる。声がある。期待がある。物語がある。

 

私はそこから一歩外れている。

 

カレンチャンの娘と呼ばれない場所。Blue Hammer と呼ばれない場所。勝てと言われない場所。証明しろと言われない場所。

 

私の名前を呼ぶ声は、ここにはなかった。

 

だから、私は黙っていられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋に荷物を運び込むと、タキオンさんが当然のように私のベッドの上へ資料を広げ始めた。折り畳まれたコース図。どこから出したのか分からない紅茶の小袋。それから、角砂糖の包みがいくつか。

 

「そこ、私のベッドなんだけど」

 

「資料には平面が必要なのだよ」

 

タキオンさんは、私の抗議を聞きながらも、コース図の折り目を丁寧に伸ばしている。完全に居座る手つきだった。

 

「机があるでしょ」

 

「机は紅茶用だ」

 

「用途がおかしいでしょ」

 

タキオンさんは楽しそうに笑った。

 

絢原さんは隣の部屋に行った。明日の調整、現地スタッフとの確認、ドリームジャーニーさんとのすり合わせ。やることはいくらでもあるらしい。

 

私は窓際に立った。外には知らない街が広がっている。遠くに、古い建物の屋根が見えた。夕方の光は薄く、白い。

 

この国で、私は走る。

 

1500だけ。そこから先は、走らない。走らなくていい。

 

世界がオルフェーヴルさんとレゾリュートさんを見ている間、私は前に出て、仕事をして、消える。誰かの物語のために、最初の線を引くだけ。

 

その線を引いた後のページには、私の名前は載らない。

 

ロビーで私の前まで来なかった視線の温度だけが、胸の奥に残っていた。

 

見下されたわけではない。否定されたわけでもない。嫌われたわけでもない。

 

私は、そこにいなかった。

 

それだけのことが、思ったよりも静かに残った。

 

「モルモット君」

 

タキオンさんが呼んだ。

 

返事をしながら振り向くと、タキオンさんは私のベッドの上に広げたコース図を、指先で軽く叩いていた。

 

「明日は軽く動く。現地の芝と、君の体の反応を見る。速さを出す必要はない。妙な意地も要らない」

 

「その軽く、信用していいやつ?」

 

窓際から離れずに聞く。

 

タキオンさんはコース図の端を折り直した。

 

「少なくとも、明日はね」

 

そこでこっちを見るのが、余計に嫌だった。

 

「最後の一言が余計」

 

「未来は常に未確定だろう?」

 

私はため息をついて、窓の外に戻った。

 

明日。ロンシャン。欧州の芝。

 

少しだけ、気になった。

 

走りたいわけではない。勝ちたいわけでもない。知らない地面が、知らない顔でそこにある。

 

それだけ。

 

きっと、それだけ。

 

私はカーテンを閉めた。部屋の中が少し暗くなる。外の白い光が消える。

 

ベッドの上では、タキオンさんの資料が私の寝る場所を完全に占拠していた。紅茶の小袋まで、なぜか枕の上にある。

 

「タキオンさん。せめて枕の紅茶は片付けて」

 

「香りがよく眠りを誘うかもしれないじゃないか」

 

私は枕の上から紅茶の小袋をつまみ上げる。薄い紙の角が、想像以上に鋭い。

 

「紙袋の角が顔に刺さる未来しか見えない」

 

「未来は未確定だと、さっき説明したばかりだよ」

 

「そこは確定でいいから」

 

タキオンさんが笑う。私は資料を半分奪って、机の上に積んだ。

 

その紙の端に、ロンシャンのコース図が見えた。長い直線。坂。フォルスストレート。最後の伸び。

 

2400。

 

私はすぐに視線を外した。

 

私の凱旋門賞は、そこまで行かない。1500まで。そこから先は、オルフェーヴルさんの物語。

 

世界の想定も、絢原さんの願いも、私の予定も、そこにある。

 

大丈夫。

 

口の中だけで、そう繰り返した。

 

ロビーの光。オルフェーヴルさんに向けられた声。レゾリュートさんの、こちらに届かなかった視線。

 

それらが、薄い膜みたいに胸の奥に残っている。不快ではない。痛くもない。少しだけ冷たかった。

 

知らない国に来て、私は軽くなった。

 

誰も私を見ていない。誰も私の名前を呼ばない。誰も、私に物語を求めていない。

 

それは、楽なはずだった。

 

本当に。

 

ここでは、私が黙っていても、誰も困らなかった。

 




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