アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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103話 檻の中の朝

ロンシャンは、広かった。

 

広い、という言葉では少し足りない。芝も、柵も、奥の木々も、空の下で全部が余っている。日本のレース場みたいに、観客席の圧が先に来ない。香港みたいに、街の熱が背中へ張りついてもこない。

 

なのに、息が楽になるわけではなかった。

 

門を通って、関係者用の通路を進んで、トレーニング用のエリアへ案内される。白い柵。細いロープ。入れる場所と、入れない場所。歩くべき線と、止まるべき線。

 

広いのに、ずっと何かに分けられている。

 

隣を歩く絢原さんが、ちらりと私の顔を見た。それから、目元と、耳のあたり。順番に見て、前へ戻る。

 

「昨日より、反応が早いな」

 

「朝一で探りをいれないでくれる?」

 

「そりゃあ1日目だぞ。それに、顔で決めると、お前が怒るからな」

 

「そりゃ怒る」

 

「だから反応で測ってるんだ」

 

でも、絢原さんがそう答えることは分かっていた。私の顔を見て、安心したことにもしない。悪いことにも寄せない。昨日より返事が早い。だから、その分だけ見ている。たぶん、それだけだ。

 

「ちゃんと寝たよ。夢も見てないし、勝ちでしょ」

 

「それなら勝ちでいいかもしれんな」

 

「負けてたら、どうなってたの」

 

「予定を一つ減らして、芝を見て、飯を食って終わりにする」

 

「フランスまで来て、それ?」

 

「フランスまで来てても、だ。減らせるように組んである」

 

「……遠征費は」

 

「怪我をして帰るのが、一番高くつく」

 

言い返そうとして、少し遅れた。

 

私のためだとも、大丈夫だとも言わない。

怪我で帰るのが一番高くつく。

まぁ、たしかにそうなんだけど。

 

「そういう言い方、ずるくない?」

 

「今日はその方が話が早いだろう」

 

前を歩いていたタキオンさんが、紙袋から何かを取り出そうとして、現地スタッフに止められていた。

 

「ここで食べるのはやめてください、だって」

 

「ふぅン。現場の安全管理は、時に科学的好奇心に優先する。嘆かわしいが、正しいねぇ」

 

紙袋の中身は、どう見てもクロワッサンだった。いつの間に買ったんだ。

 

「糖質補給だよ、モルモット君。君が倒れたら、私の観察予定が台無しになるじゃないか」

 

「完全に自分のためじゃないですか」

 

タキオンさんは、悪びれる様子もなく紙袋をしまった。

 

その仕草は変だったけれど、いつもの変さだった。フランスへ来ても、紅茶と紙袋と計測器を持っている。場所が変わっただけで、この人の中心は動かない。

 

私はどうだろう。

 

場所が変わって、中心がなくなっている気がする。

 

誰にも呼ばれない。誰も私を探していない。スタッフが見るのはオルフェーヴルさんで、少し離れたところにいるジャーニーさんで、たまにタキオンさんだ。私は白い髪の日本の子として、視界の端に入るだけ。

 

楽だ。

 

本当に楽だった。

 

楽すぎて、足元が冷える。

 

「私さ」

 

「ここだと、消えるの簡単そう」

 

絢原さんの歩く速度が、ほんの少しだけ落ちた。

 

怒られるかもしれないと思った。変なことを言うな、とか、今はそういう話じゃない、とか。

 

でも、絢原さんはそう言わなかった。

 

「消える時は、先に言っておけ」

 

「トレーナー、今の慰め?」

 

「俺の都合だ。連れて帰るまでが、俺の仕事なんでな」

 

絢原さんなら、私が消えてもきちんと連れて帰ってくれるんだろうな。

 

私のためだと言わない。大丈夫だとも言わない。意味があるとも言わない。自分の都合として、私を連れて帰ると言う。

 

「重くない?」

 

「軽くした方が楽なら、そうするが」

 

「重い方がいい」

 

「よくわからんが、ならこのままでいいな」

 

それで話は終わった。

 

終わったのに、胸の奥に少し残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トレーニング用のエリアは、朝なのに静かだった。

 

人はいる。スタッフもいる。走っている子もいる。蹄鉄シューズが芝を噛む音も、通訳の声も、遠くで車両が動く低い音もある。

 

なのに、全体としては静かに見える。

 

皆が、声を低くしているからではない。音を出しながら、どこかにある中心を邪魔しないようにしている。そんな感じだった。

 

「見られてる?」

 

「そりゃ、日本からはオルフェーヴルがいるからな。九割九分はあっち目当てだ」

 

「巻き込み事故じゃん」

 

「嫌なら、俺の後ろに入ってもいいぞ」

 

「そんな小さくないんだけど」

 

「知ってるよ」

 

絢原さんが、半歩だけ前に出た。

 

私を隠すほどではない。逃げ道を塞ぐほどでもない。少しだけ視線の向きが変わる。周囲から見れば、たぶん気づかないくらいの差。

 

でも、私には分かる。

 

「保護者っぽい」

 

「遠征中は兼務なんだよ。否定しても嘘になる」

 

嘘をつく意味がない。

 

そういうところだ。

 

絢原さんの言葉は甘くない。でも、隙間に手を入れるみたいに、こちらの逃げ道を確かめてくる。

 

「右の紐、結び直しておけ」

 

「ほどけてないよ」

 

「多分すぐ解けるぞ、それ。ちゃんと結び直しておけ」

 

「……そんなに甘かった?」

 

絢原さんは答えなかった。視線だけが、私の足元に落ちている。

 

しゃがんで、右の靴紐を結び直した。

 

結び目は、たしかに少し甘い。腹立つけれど、こういうところで負ける方がもっと腹立つ。

 

「毎日見てると、靴紐まで分かるんだ」

 

「靴紐だけじゃないがな」

 

「……不意打ちやめてくれない?」

 

「なら、靴紐の話に戻すか」

 

「戻さなくていい」

 

言ってから、少しだけ自分で嫌になる。めんどくさい女になってるな、私。

 

拾ってほしいわけではない。流してほしいわけでもない。面倒くさい。

 

絢原さんは、その面倒くささを知っている顔で待っていた。

 

視線を逃がした先、コースの奥。

 

長い登り坂のところに、一人だけ、歩いている子がいた。

 

走っていない。ゆっくり登って、途中で止まって、足元を見て、また登る。黒い髪。遠くて顔は見えない。朝のレース場で、走らずに坂だけを歩いている子は、その子だけだった。

 

皆が見えない中心に合わせて走る中で、あの子だけが、違う方を向いていた。

 

タキオンさんが計測器の電源を入れる。小さな電子音が鳴った。

 

「実に良いねぇ。朝から関係性の定点観測までできるとは」

 

私は観測しないで、と言った。

 

タキオンさんは、そこをやめろと言われると存在意義に関わる、と真顔で返した。君の身体も、言葉も、言葉にしない時の反応も、私にとっては同じくらい有意義なのだよ、と。

 

「そういうこと言うから嫌なんですよ」

 

「嫌がれるなら、まだ余裕がある」

 

タキオンさんは計測器を構えたまま、平然と言った。

 

余裕。

 

その言葉は、今の私には少し遠い。

 

余裕があるのか、ただ冷めているだけなのか、自分でも分からない。

 

私の役目は最初から決まっている。

 

たかだか1500。

 

前を引いて、消える。

 

そう考えると、体の中が少しだけ楽になる。勝たなくていい。主役にならなくていい。誰かの物語の前半で、静かに役目を終えればいい。

 

その方が、今の私には合っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芝の端に立った。

 

靴底の下で、地面が沈む。

 

その瞬間、少しだけ黙った。

 

「どうした」

 

絢原さんが聞く。

 

「……踏み込んだ反応が遅い」

 

「芝のか」

 

私は頷いた。

 

自分で言ってから、変な会話だと思った。

 

でも、本当にそうだった。ここの芝は香港に近い。踏めば、次の一歩を急かすように弾かれる。日本の芝は全く帰ってこない。踏み抜いて、そのまま。

 

ロンシャンの芝は、すぐに返ってこない。

 

一度飲み込む。

 

遅れて、下から押し返す。

 

拒まれている感じではない。むしろ逆だ。ちゃんと踏め、逃げるな、と言われているみたいだった。

 

「嫌か」

 

「嫌じゃない、たぶん。そこが一番面倒なんだけど」

 

絢原さんは笑わなかった。

 

「走ってから、もう一度聞く」

 

「歩いただけじゃ決めない主義?」

 

「歩きで決めると、お前が後で文句を言うだろ」

 

「言うけど」

 

「だからだ」

 

私は足首を小さく回した。

 

痛みはない。変な音もない。膝も静かだった。

 

でも、走ることに火はついていない。

 

それだけは、先に言っておきたくなった。

 

「走りたいって意味じゃないから。そこは間違えないで」

 

言わなくていいことだった。

 

けれど、言わないと、足元の気配に引っ張られそうだった。

 

絢原さんは、少しだけ目を伏せた。

 

「間違えないよ」

 

一拍おいて、続けた。

 

「ただ、気になってる顔ではあるな」

 

「……芝が変なんだもん」

 

「なら、確かめてくればいい。無理に燃やす必要はない」

 

燃やす必要はない。

 

その一言で、少しだけ息が楽になった。

 

燃えていないことを責められないなら、まだ立っていられる。

 

タキオンさんが、計測器を軽く掲げた。

 

「では、短く一本。基準は私が決める。全力は禁止、派手な実験も禁止——今日は退屈さを尊重するとしよう」

 

「タキオンさんが退屈って言うと、逆に安全そう」

 

「安全な実験ほど退屈で、退屈な実験ほど有意義なのだよ」

 

「急にまともなこと言わないでください」

 

「私はいつでもまともだよ」

 

「今の台詞で台無し」

 

絢原さんが私を見る。

 

「行けるか」

 

「行ける。たぶん」

 

「まあ、今日はたぶんで十分だ」

 

「終わったら褒めてね」

 

「成果しだいだな」

 

「もう」

 

言ってから、失敗したと思った。

 

今のは、少しだけ甘えすぎた。

 

絢原さんは真面目に考え始める顔をした。私は慌てて手を振る。

 

「今のなし。考えないで」

 

「もう浮かんだが」

 

「しまって!」

 

「わかった」

 

少し笑えた。

 

それで十分だった。

 

私は息を吐いて、芝へ入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

走り出して、すぐに体が黙った。

 

いつもの内側の騒ぎが遠い。

 

どこまで使うのか。どのくらい持つのか。ここから先は危ないのか。そういう声が、今日はあまり聞こえない。

 

ロンシャンの芝は軽くない。

 

軽くないから、体が空回りしない。踏んだ力が逃げずに、遅れて戻ってくる。急かされない。弾かれない。受け止められてから、押し返される。

 

嫌ではない。

 

本当に、嫌ではなかった。

 

そのことが、いちばん嫌だった。

 

指定された線を越えて、ゆっくり速度を落とす。止まる時も足が暴れない。沈んで、戻る。沈んで、戻る。その繰り返しが、変に落ち着く。

 

止まってから、気づいた。

 

息が、ほとんど乱れていない。

 

タキオンさんの言った基準どおりに入って、基準どおりに抜けたはずだった。手は抜いていない。なのに、削られた感じが、どこにもない。フランスまで来て、初めての芝で、体は朝の散歩くらいの顔をしている。

 

「……こんなんでいいの?」

 

振り返って、そう聞いた。

 

拍子抜け、というのが一番近い。頑張った感じも、危なかった感じもない。ただ走って、ただ終わった。

 

タキオンさんは、計測器を見ていた。

 

少し、長く見ていた。

 

「ふぅン」

 

それだけ言って、記録用紙に何かを書き込む。ペンの走る音が、妙に軽い。楽しそう、と言ってもよかった。答えは、返ってこなかった。

 

絢原さんが近づいてくる。

 

先に見たのは顔ではない。足元、膝、肩、息。順番に見て、最後に私の目を見る。

 

「痛みは」

 

「ない」

 

「嫌な感じはあるか」

 

「ない。……静かすぎて、逆に分かんない」

 

「静かすぎる?」

 

「いつもはどこかが文句を言うのに、今日はあんまり言わない。これでいいのか分からない」

 

言葉にしても、やっぱり変だった。

 

でも絢原さんは笑わない。

 

絢原さんは、タキオンさんの手元の記録用紙を、横から一度だけ見た。

 

何か言いかけて——やめた。

 

口の中で言葉を呑んだのが、隣にいても分かるくらいの、短い間だった。

 

「……今日はここまでにする」

 

「変じゃない、で止めるの?」

 

「止める。まだ走れるのは分かってる。今日は、そこを試す日じゃない」

 

「まだ走れるけど」

 

「お前からそんな言葉が出るなんてな」

 

そう言われると、反論しづらい。

 

確かに、やる気はないと言ったからだ。

 

絢原さんの温度は、いつも少し低い。低いから、熱のない今の私でも触れる。

 

「水要るか?」

 

「要らない。そんな弱ってない」

 

「弱ってる扱いはしてない。遠征初日だからな。慎重すぎるくらいでもいいだろう」

 

「……まあ、それもそっか」

 

「そんな感じで済むうちは、順調ってことなんだよ」

 

「……それ、安心していいやつ?」

 

「今はな」

 

水筒を受け取ると、なんだか急に喉が乾いた気がして、少しだけ飲んだ。

 

冷たい水が喉を通って、胸の間へ落ちる。火はつかない。けれど、空っぽではなくなる。

 

タキオンさんは記録用紙を見ていた。

 

「悪い結果ではない、とだけ言っておこうか」

 

「いい結果とも言わないんですね」

 

「初回の軽い流しで結論を出すほど、私は安い研究者ではないのでね」

 

「じゃあ高い研究者としては?」

 

「もう一度見たい。——今すぐ、とは言っていないよ」

 

「うわ、珍しい」

 

「かなり配慮したつもりだったのだがね」

 

その配慮は、たぶん一生分からない。

 

けれど、タキオンさんも笑ってはいなかった。記録用紙の端を指で押さえながら、視線だけが私の足元と芝を行き来している。

 

その目は、何かを見つけかけている。

 

でも、言わない。

 

タキオンさんは、答えを持っている顔をする時がある。持っていても、出さない顔もある。

 

今は、後者だった。

 

「聞かないのかい?」

 

タキオンさんが言った。

 

「聞いたら答える?」

 

「いや」

 

「じゃあ聞かない」

 

「賢明だねぇ」

 

本当に腹立つ。

 

けれど、その腹立たしさも、いつもの範囲だった。

 

こんなんでいいの、の答えは、結局誰もくれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トレーニング用のエリアの向こうで、何人かが走っていた。

 

欧州の子たちだと思う。名前は分からない。けれど、走り方はどこか似ている。脚が深く入る。芝に沈んで、それでも乱れない。

 

皆、強い。

 

なのに、自分から前へ出る感じが薄い。

 

先頭を奪いに行くというより、どこかにいる誰かの動きを待っている。誰かが動いたら、そこから世界が動く。誰かが仕掛けたら、そこからレースが始まる。

 

「みんな、待ってる感じがする」

 

言ってから、大げさだったかなと少し後悔した。

 

タキオンさんは笑わなかった。記録用紙の上でペンを止めて、遠くの走者たちを見る。

 

「悪い意味で言ったのかい?」

 

「違う。強いのに、勝手に前へ出ない。同じ檻の中にいるみたい」

 

「檻、か」

 

声が少しだけ低くなった。

 

「支配的な走者が一人いれば、命令がなくても全員がその子を基準に動く。場が、勝手に檻になることはあるだろうね」

 

「レゾリュートさんのこと?」

 

「一般論だよ、モルモット君。今ここで固有名詞を出すほど、私は親切ではない」

 

「便利ですね、一般論」

 

それ以上は聞かなかった。

 

レゾリュートさん。

 

名前にしなくても、ここにいる。

 

本人が視界に入っているわけではない。少なくとも、今の私には見えない。けれど、皆が同じ方向を気にしている。走っている時でさえ、見えない中心に逆らわない。

 

ここは広い。

 

広いのに、狭い。

 

その狭さの中で、私はたかだか1500だけ前へ行く。

 

役目が済めば、下がる。

 

檻の中で、一番先に消える役。

 

妙に納得できてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「少し歩いて、クールダウンしてくる」

 

嘘だ。大してあがってなんかいないけど。

 

「見える範囲でな」

 

「はいはい、お父さん」

 

「お前な……」

 

中心から離れる方へ、足が勝手に向いた。

 

スタッフの声が遠くなる。計測器の電子音も、通訳のフランス語も、少しずつ薄くなる。人が減るほど、息がしやすくなる。

 

行き着いた先が、あの坂だった。

 

登り口に立つ。朝の光で、芝の色は奥へ行くほど濃く見えた。長い。写真で見るより、ずっと長い登りだった。

 

靴の先で、少しだけ押してみる。

 

下の直線より、返事がさらに遅い。飲み込む時間が長くて、押し返しはそのぶん重い。

 

走るためじゃない。聞いてみたかっただけ。

 

「おい。そこで何してんだ」

 

坂の途中から、声が降ってきた。

英語かな。なんとなくわかる。

 

黒い髪。さっき、遠くから見えた子だ。

 

近くで見ると、背は私より少し高かった。細いのに、細いだけじゃない。余計なものが削げている。ジャケットを肩に引っかけて、シューズは素手で提げている。目つきは、遠目の印象より悪かった。立っているだけで、ちょっとガラが悪い。

 

「……散歩」

 

「散歩ぉ? 芝を踏みしめながらよく言うよ」

 

見られていた。少し嫌な汗が出る。

 

「趣味悪いね。人の足元まで見てるんだ」

 

「先にいたのはこっちだっつーの。勝手に人の視界に入ってきといて」

 

腹立つ。

 

口が悪い。想像の三割増しで悪い。

 

「日本の白いの」

 

「名前があるんだけど」

 

「カレンモエだろ。名簿で拾ってやったよ」

 

知ってるなら最初からそう呼んでほしい。

 

「金色の方は知ってた。白いのは知らねぇ。だから調べた」

 

「調べた結果が『白いの』?」

 

「顔と名前は覚えてやった。呼び方は俺が決める」

 

一人称に少しだけ引っかかった。でも、この子にはそれが合っていた。

 

「ノワール」

 

名乗りは、それだけだった。所属も戦績も知らない奴。

 

「カレンモエです」

 

「知ってるっつった」

 

「名乗られたら名乗り返すの。日本の礼儀」

 

「めんどくせぇな、それ」

 

嫌な感じは、しなかった。

 

少なくとも、昨日のロビーで私の上を通り過ぎていったカメラよりは、ずっとましだった。

 

「さっきの練習、見たぞ」

 

「暇なの?」

 

「この坂からだと、下は全部見えんだよ。目に入っただけだ」

 

そこで、ノワールさんの目がすっと細くなった。

 

「随分早かったが、なんであんなに目が死んでんだ」

 

「初対面で言う、それ」

 

「終わってコース見た時だけ、生きてた。で、今は坂の芝に脚で聞いてやがる」

 

図星が三連続で来て、返事が遅れた。

 

「——勝つ気のねぇやつは、そんなことしねぇんだよ」

 

「見学が丁寧なだけだよ、育ちがいいから」

 

「あの走りしといて、それが通ると思ってんのか。嘘つくなら、もっと深く埋めろよ。足首まで丸見えだぞ」

 

「……嘘に浅いとかあるんだ」

 

「あるんだよ。今のはクソ浅い」

 

この子の目は、私の顔じゃなくて、さっき芝を見ていた私の目を掴んでいる。雑で、無遠慮で、でも真正面から来る視線だった。

 

「凱旋門、出るんだろ?」

 

すぐに答えたくなくて、質問で返した。

 

「そっちは?」

 

「走らなかった年はねぇ」

 

即答だった。

 

誇るでもなく、卑下するでもなく、事実として言う。質問を質問で返した私の方が、急に安く見えた。

 

「で、テメェは」

 

「……一応」

 

ノワールさんの眉間に、きれいに皺が寄った。

 

「いっっちばん嫌いな返事だな、それ」

 

「喧嘩なら、もう少し分かりやすく売ってくれない?」

 

「喧嘩なんかするかよ。ここまで来て”一応出る”か? 舐めてんなら帰れ。違うってんなら、その顔やめろ」

 

変な会話だった。

 

この子は口が悪い。態度も悪い。初対面の距離感でもない。でも、私を背景として見ていない。

 

たぶん、何も知らないのだろう。

 

日本から来た、もう一人の挑戦者。その形で、私を見ている。

 

違う。

 

私は挑戦者じゃない。前を引く役だ。オルフェーヴルさんのために1500だけ走って、そこから消える。世界が見たいのは金色と白銀で、私じゃない。

 

説明した方がいいのかもしれない。

 

でも、言えばこの子の中で私の形が変わる。挑戦者から、ただのレース要素になる。

 

正しいのに、なぜか今は少しだけ嫌だった。

 

この子にそう思われるのが、なんか嫌だったのだ。

 

「落としに来たんだろ?あのいけすかねえ”正義の味方”を」

 

違う。その役目は私じゃない。

 

前を引きに来た。仕事。そのまま言えばいい。

 

「仕事」

 

だから、ずらした。

 

「誰のだよ」

 

「私の」

 

「ほんとかよ」

 

「交通費は出てる」

 

「安い逃げ方してんじゃねぇよ」

 

「知ってる」

 

言ってから、少し冷えた。

 

知っている。私は今、かなり安い逃げ方をした。

 

ノワールさんは、それ以上追わなかった。

 

代わりに、坂を見上げた。

 

「この坂、どう思ったよ」

 

「……返ってくるのが、平面よりずっと遅い」

 

言ってから、しまったと思った。足で聞いてたことを、ほとんど自分で認めた。

 

ノワールさんは頷かなかった。坂の上の方を見たまま、言った。

 

さっきまでの棘が、その声にはなかった。

 

「毎年、ここで千切れる」

 

誰に、とは言わなかった。どうして、とも。

 

言い訳も悔しさの色もない、ただの事実の声だった。

 

「……それ、私に言う話?」

 

「ああ、言っておく話だ」

 

意味は分からなかった。

 

分からなかったけれど、聞き流していい言葉じゃないことだけは分かった。

 

遠くで、スタッフらしき声がノワールさんを呼んだ。

 

ノワールさんは返事をしない。片手だけ上げる。

 

「返事してあげればいいのに」

 

「手を上げただろ」

 

「はは、かっこいー」

 

ノワールさんはスパイクを肩に引っかけた。呼ばれた方とは、逆を向く。

 

「行かないの」

 

「返事は返しただろ」

 

「返事したことになってないでしょ、それ」

 

「なってんだよ、俺ん中では」

 

歩き出す前に、一度だけこちらを振り返った。

 

「カレンモエ」

 

呼び方がいつの間にか変わっていた。

 

「次会う時は、もうちっとマシな顔で来い」

 

「顔?」

 

「目だ」

 

それだけ言って、ノワールさんは坂を登り始めた。

 

走らない。ゆっくり、足元を確かめながら。登って、止まって、また登る。負けた場所を、靴の裏で覚え直すみたいに。

 

私はしばらく、その背中を見てから、来た道を戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絢原さんのところへ戻ると、思ったより普通の顔で迎えられた。

 

「知り合いか」

 

「今できた。……あー、先に近づいたのは私かも」

 

「まあ、そんな感じだったか?」

 

「絢原さんは入ってこなかったね」

 

「必要そうに見えなかったからな」

 

見えてたなら見えてたで、少し恥ずかしい。でも、割って入られるよりは、ずっとよかった。

 

「疲れたか」

 

「少し。ノワールさん、ちょっとキャラ濃い」

 

ロンシャンの朝は静かなのに、あの子のまわりだけ、音が強かった気がする。

 

タキオンさんは、坂の方を見たまま言った。

 

「彼女は、実に面白いねぇ」

 

「タキオンさんが言うと不穏」

 

「褒め言葉だよ。少なくとも、悪い意味だけではない」

 

悪い意味も混ざっている。言えば絶対に喜ばれるから、口にはしなかった。

 

帰り支度の間も、レース場は静かに回っていた。

 

誰も崩れない。誰も無駄に前へ出ない。皆が強くて、皆が正しくて、皆が見えない誰かの形に合わせて走っている。

 

その一番奥で、あの子はまだ坂にいた。

 

登って、止まって、足元を見て、また登る。

 

檻の中の朝。

 

言葉にすると大げさだった。だから、口にはしなかった。

 

私はまだ、走りたいとは思えない。こんなんでいいの、の答えも、もらえないままだ。

 

それでも、あの背中は少しだけ、腹に残った。

 

朝のロンシャンは、広かった。

 

広いのに、息をする場所は限られていた。

 

その中で、あの子だけが、檻の中で、檻を見ていなかった。

 




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総合評価:26861/評価:8.63/完結:253話/更新日時:2025年08月28日(木) 18:00 小説情報


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