ロンシャンは、広かった。
広い、という言葉では少し足りない。芝も、柵も、奥の木々も、空の下で全部が余っている。日本のレース場みたいに、観客席の圧が先に来ない。香港みたいに、街の熱が背中へ張りついてもこない。
なのに、息が楽になるわけではなかった。
門を通って、関係者用の通路を進んで、トレーニング用のエリアへ案内される。白い柵。細いロープ。入れる場所と、入れない場所。歩くべき線と、止まるべき線。
広いのに、ずっと何かに分けられている。
隣を歩く絢原さんが、ちらりと私の顔を見た。それから、目元と、耳のあたり。順番に見て、前へ戻る。
「昨日より、反応が早いな」
「朝一で探りをいれないでくれる?」
「そりゃあ1日目だぞ。それに、顔で決めると、お前が怒るからな」
「そりゃ怒る」
「だから反応で測ってるんだ」
でも、絢原さんがそう答えることは分かっていた。私の顔を見て、安心したことにもしない。悪いことにも寄せない。昨日より返事が早い。だから、その分だけ見ている。たぶん、それだけだ。
「ちゃんと寝たよ。夢も見てないし、勝ちでしょ」
「それなら勝ちでいいかもしれんな」
「負けてたら、どうなってたの」
「予定を一つ減らして、芝を見て、飯を食って終わりにする」
「フランスまで来て、それ?」
「フランスまで来てても、だ。減らせるように組んである」
「……遠征費は」
「怪我をして帰るのが、一番高くつく」
言い返そうとして、少し遅れた。
私のためだとも、大丈夫だとも言わない。
怪我で帰るのが一番高くつく。
まぁ、たしかにそうなんだけど。
「そういう言い方、ずるくない?」
「今日はその方が話が早いだろう」
前を歩いていたタキオンさんが、紙袋から何かを取り出そうとして、現地スタッフに止められていた。
「ここで食べるのはやめてください、だって」
「ふぅン。現場の安全管理は、時に科学的好奇心に優先する。嘆かわしいが、正しいねぇ」
紙袋の中身は、どう見てもクロワッサンだった。いつの間に買ったんだ。
「糖質補給だよ、モルモット君。君が倒れたら、私の観察予定が台無しになるじゃないか」
「完全に自分のためじゃないですか」
タキオンさんは、悪びれる様子もなく紙袋をしまった。
その仕草は変だったけれど、いつもの変さだった。フランスへ来ても、紅茶と紙袋と計測器を持っている。場所が変わっただけで、この人の中心は動かない。
私はどうだろう。
場所が変わって、中心がなくなっている気がする。
誰にも呼ばれない。誰も私を探していない。スタッフが見るのはオルフェーヴルさんで、少し離れたところにいるジャーニーさんで、たまにタキオンさんだ。私は白い髪の日本の子として、視界の端に入るだけ。
楽だ。
本当に楽だった。
楽すぎて、足元が冷える。
「私さ」
「ここだと、消えるの簡単そう」
絢原さんの歩く速度が、ほんの少しだけ落ちた。
怒られるかもしれないと思った。変なことを言うな、とか、今はそういう話じゃない、とか。
でも、絢原さんはそう言わなかった。
「消える時は、先に言っておけ」
「トレーナー、今の慰め?」
「俺の都合だ。連れて帰るまでが、俺の仕事なんでな」
絢原さんなら、私が消えてもきちんと連れて帰ってくれるんだろうな。
私のためだと言わない。大丈夫だとも言わない。意味があるとも言わない。自分の都合として、私を連れて帰ると言う。
「重くない?」
「軽くした方が楽なら、そうするが」
「重い方がいい」
「よくわからんが、ならこのままでいいな」
それで話は終わった。
終わったのに、胸の奥に少し残った。
~
トレーニング用のエリアは、朝なのに静かだった。
人はいる。スタッフもいる。走っている子もいる。蹄鉄シューズが芝を噛む音も、通訳の声も、遠くで車両が動く低い音もある。
なのに、全体としては静かに見える。
皆が、声を低くしているからではない。音を出しながら、どこかにある中心を邪魔しないようにしている。そんな感じだった。
「見られてる?」
「そりゃ、日本からはオルフェーヴルがいるからな。九割九分はあっち目当てだ」
「巻き込み事故じゃん」
「嫌なら、俺の後ろに入ってもいいぞ」
「そんな小さくないんだけど」
「知ってるよ」
絢原さんが、半歩だけ前に出た。
私を隠すほどではない。逃げ道を塞ぐほどでもない。少しだけ視線の向きが変わる。周囲から見れば、たぶん気づかないくらいの差。
でも、私には分かる。
「保護者っぽい」
「遠征中は兼務なんだよ。否定しても嘘になる」
嘘をつく意味がない。
そういうところだ。
絢原さんの言葉は甘くない。でも、隙間に手を入れるみたいに、こちらの逃げ道を確かめてくる。
「右の紐、結び直しておけ」
「ほどけてないよ」
「多分すぐ解けるぞ、それ。ちゃんと結び直しておけ」
「……そんなに甘かった?」
絢原さんは答えなかった。視線だけが、私の足元に落ちている。
しゃがんで、右の靴紐を結び直した。
結び目は、たしかに少し甘い。腹立つけれど、こういうところで負ける方がもっと腹立つ。
「毎日見てると、靴紐まで分かるんだ」
「靴紐だけじゃないがな」
「……不意打ちやめてくれない?」
「なら、靴紐の話に戻すか」
「戻さなくていい」
言ってから、少しだけ自分で嫌になる。めんどくさい女になってるな、私。
拾ってほしいわけではない。流してほしいわけでもない。面倒くさい。
絢原さんは、その面倒くささを知っている顔で待っていた。
視線を逃がした先、コースの奥。
長い登り坂のところに、一人だけ、歩いている子がいた。
走っていない。ゆっくり登って、途中で止まって、足元を見て、また登る。黒い髪。遠くて顔は見えない。朝のレース場で、走らずに坂だけを歩いている子は、その子だけだった。
皆が見えない中心に合わせて走る中で、あの子だけが、違う方を向いていた。
タキオンさんが計測器の電源を入れる。小さな電子音が鳴った。
「実に良いねぇ。朝から関係性の定点観測までできるとは」
私は観測しないで、と言った。
タキオンさんは、そこをやめろと言われると存在意義に関わる、と真顔で返した。君の身体も、言葉も、言葉にしない時の反応も、私にとっては同じくらい有意義なのだよ、と。
「そういうこと言うから嫌なんですよ」
「嫌がれるなら、まだ余裕がある」
タキオンさんは計測器を構えたまま、平然と言った。
余裕。
その言葉は、今の私には少し遠い。
余裕があるのか、ただ冷めているだけなのか、自分でも分からない。
私の役目は最初から決まっている。
たかだか1500。
前を引いて、消える。
そう考えると、体の中が少しだけ楽になる。勝たなくていい。主役にならなくていい。誰かの物語の前半で、静かに役目を終えればいい。
その方が、今の私には合っている。
~
芝の端に立った。
靴底の下で、地面が沈む。
その瞬間、少しだけ黙った。
「どうした」
絢原さんが聞く。
「……踏み込んだ反応が遅い」
「芝のか」
私は頷いた。
自分で言ってから、変な会話だと思った。
でも、本当にそうだった。ここの芝は香港に近い。踏めば、次の一歩を急かすように弾かれる。日本の芝は全く帰ってこない。踏み抜いて、そのまま。
ロンシャンの芝は、すぐに返ってこない。
一度飲み込む。
遅れて、下から押し返す。
拒まれている感じではない。むしろ逆だ。ちゃんと踏め、逃げるな、と言われているみたいだった。
「嫌か」
「嫌じゃない、たぶん。そこが一番面倒なんだけど」
絢原さんは笑わなかった。
「走ってから、もう一度聞く」
「歩いただけじゃ決めない主義?」
「歩きで決めると、お前が後で文句を言うだろ」
「言うけど」
「だからだ」
私は足首を小さく回した。
痛みはない。変な音もない。膝も静かだった。
でも、走ることに火はついていない。
それだけは、先に言っておきたくなった。
「走りたいって意味じゃないから。そこは間違えないで」
言わなくていいことだった。
けれど、言わないと、足元の気配に引っ張られそうだった。
絢原さんは、少しだけ目を伏せた。
「間違えないよ」
一拍おいて、続けた。
「ただ、気になってる顔ではあるな」
「……芝が変なんだもん」
「なら、確かめてくればいい。無理に燃やす必要はない」
燃やす必要はない。
その一言で、少しだけ息が楽になった。
燃えていないことを責められないなら、まだ立っていられる。
タキオンさんが、計測器を軽く掲げた。
「では、短く一本。基準は私が決める。全力は禁止、派手な実験も禁止——今日は退屈さを尊重するとしよう」
「タキオンさんが退屈って言うと、逆に安全そう」
「安全な実験ほど退屈で、退屈な実験ほど有意義なのだよ」
「急にまともなこと言わないでください」
「私はいつでもまともだよ」
「今の台詞で台無し」
絢原さんが私を見る。
「行けるか」
「行ける。たぶん」
「まあ、今日はたぶんで十分だ」
「終わったら褒めてね」
「成果しだいだな」
「もう」
言ってから、失敗したと思った。
今のは、少しだけ甘えすぎた。
絢原さんは真面目に考え始める顔をした。私は慌てて手を振る。
「今のなし。考えないで」
「もう浮かんだが」
「しまって!」
「わかった」
少し笑えた。
それで十分だった。
私は息を吐いて、芝へ入った。
~
走り出して、すぐに体が黙った。
いつもの内側の騒ぎが遠い。
どこまで使うのか。どのくらい持つのか。ここから先は危ないのか。そういう声が、今日はあまり聞こえない。
ロンシャンの芝は軽くない。
軽くないから、体が空回りしない。踏んだ力が逃げずに、遅れて戻ってくる。急かされない。弾かれない。受け止められてから、押し返される。
嫌ではない。
本当に、嫌ではなかった。
そのことが、いちばん嫌だった。
指定された線を越えて、ゆっくり速度を落とす。止まる時も足が暴れない。沈んで、戻る。沈んで、戻る。その繰り返しが、変に落ち着く。
止まってから、気づいた。
息が、ほとんど乱れていない。
タキオンさんの言った基準どおりに入って、基準どおりに抜けたはずだった。手は抜いていない。なのに、削られた感じが、どこにもない。フランスまで来て、初めての芝で、体は朝の散歩くらいの顔をしている。
「……こんなんでいいの?」
振り返って、そう聞いた。
拍子抜け、というのが一番近い。頑張った感じも、危なかった感じもない。ただ走って、ただ終わった。
タキオンさんは、計測器を見ていた。
少し、長く見ていた。
「ふぅン」
それだけ言って、記録用紙に何かを書き込む。ペンの走る音が、妙に軽い。楽しそう、と言ってもよかった。答えは、返ってこなかった。
絢原さんが近づいてくる。
先に見たのは顔ではない。足元、膝、肩、息。順番に見て、最後に私の目を見る。
「痛みは」
「ない」
「嫌な感じはあるか」
「ない。……静かすぎて、逆に分かんない」
「静かすぎる?」
「いつもはどこかが文句を言うのに、今日はあんまり言わない。これでいいのか分からない」
言葉にしても、やっぱり変だった。
でも絢原さんは笑わない。
絢原さんは、タキオンさんの手元の記録用紙を、横から一度だけ見た。
何か言いかけて——やめた。
口の中で言葉を呑んだのが、隣にいても分かるくらいの、短い間だった。
「……今日はここまでにする」
「変じゃない、で止めるの?」
「止める。まだ走れるのは分かってる。今日は、そこを試す日じゃない」
「まだ走れるけど」
「お前からそんな言葉が出るなんてな」
そう言われると、反論しづらい。
確かに、やる気はないと言ったからだ。
絢原さんの温度は、いつも少し低い。低いから、熱のない今の私でも触れる。
「水要るか?」
「要らない。そんな弱ってない」
「弱ってる扱いはしてない。遠征初日だからな。慎重すぎるくらいでもいいだろう」
「……まあ、それもそっか」
「そんな感じで済むうちは、順調ってことなんだよ」
「……それ、安心していいやつ?」
「今はな」
水筒を受け取ると、なんだか急に喉が乾いた気がして、少しだけ飲んだ。
冷たい水が喉を通って、胸の間へ落ちる。火はつかない。けれど、空っぽではなくなる。
タキオンさんは記録用紙を見ていた。
「悪い結果ではない、とだけ言っておこうか」
「いい結果とも言わないんですね」
「初回の軽い流しで結論を出すほど、私は安い研究者ではないのでね」
「じゃあ高い研究者としては?」
「もう一度見たい。——今すぐ、とは言っていないよ」
「うわ、珍しい」
「かなり配慮したつもりだったのだがね」
その配慮は、たぶん一生分からない。
けれど、タキオンさんも笑ってはいなかった。記録用紙の端を指で押さえながら、視線だけが私の足元と芝を行き来している。
その目は、何かを見つけかけている。
でも、言わない。
タキオンさんは、答えを持っている顔をする時がある。持っていても、出さない顔もある。
今は、後者だった。
「聞かないのかい?」
タキオンさんが言った。
「聞いたら答える?」
「いや」
「じゃあ聞かない」
「賢明だねぇ」
本当に腹立つ。
けれど、その腹立たしさも、いつもの範囲だった。
こんなんでいいの、の答えは、結局誰もくれなかった。
~
トレーニング用のエリアの向こうで、何人かが走っていた。
欧州の子たちだと思う。名前は分からない。けれど、走り方はどこか似ている。脚が深く入る。芝に沈んで、それでも乱れない。
皆、強い。
なのに、自分から前へ出る感じが薄い。
先頭を奪いに行くというより、どこかにいる誰かの動きを待っている。誰かが動いたら、そこから世界が動く。誰かが仕掛けたら、そこからレースが始まる。
「みんな、待ってる感じがする」
言ってから、大げさだったかなと少し後悔した。
タキオンさんは笑わなかった。記録用紙の上でペンを止めて、遠くの走者たちを見る。
「悪い意味で言ったのかい?」
「違う。強いのに、勝手に前へ出ない。同じ檻の中にいるみたい」
「檻、か」
声が少しだけ低くなった。
「支配的な走者が一人いれば、命令がなくても全員がその子を基準に動く。場が、勝手に檻になることはあるだろうね」
「レゾリュートさんのこと?」
「一般論だよ、モルモット君。今ここで固有名詞を出すほど、私は親切ではない」
「便利ですね、一般論」
それ以上は聞かなかった。
レゾリュートさん。
名前にしなくても、ここにいる。
本人が視界に入っているわけではない。少なくとも、今の私には見えない。けれど、皆が同じ方向を気にしている。走っている時でさえ、見えない中心に逆らわない。
ここは広い。
広いのに、狭い。
その狭さの中で、私はたかだか1500だけ前へ行く。
役目が済めば、下がる。
檻の中で、一番先に消える役。
妙に納得できてしまった。
~
「少し歩いて、クールダウンしてくる」
嘘だ。大してあがってなんかいないけど。
「見える範囲でな」
「はいはい、お父さん」
「お前な……」
中心から離れる方へ、足が勝手に向いた。
スタッフの声が遠くなる。計測器の電子音も、通訳のフランス語も、少しずつ薄くなる。人が減るほど、息がしやすくなる。
行き着いた先が、あの坂だった。
登り口に立つ。朝の光で、芝の色は奥へ行くほど濃く見えた。長い。写真で見るより、ずっと長い登りだった。
靴の先で、少しだけ押してみる。
下の直線より、返事がさらに遅い。飲み込む時間が長くて、押し返しはそのぶん重い。
走るためじゃない。聞いてみたかっただけ。
「おい。そこで何してんだ」
坂の途中から、声が降ってきた。
英語かな。なんとなくわかる。
黒い髪。さっき、遠くから見えた子だ。
近くで見ると、背は私より少し高かった。細いのに、細いだけじゃない。余計なものが削げている。ジャケットを肩に引っかけて、シューズは素手で提げている。目つきは、遠目の印象より悪かった。立っているだけで、ちょっとガラが悪い。
「……散歩」
「散歩ぉ? 芝を踏みしめながらよく言うよ」
見られていた。少し嫌な汗が出る。
「趣味悪いね。人の足元まで見てるんだ」
「先にいたのはこっちだっつーの。勝手に人の視界に入ってきといて」
腹立つ。
口が悪い。想像の三割増しで悪い。
「日本の白いの」
「名前があるんだけど」
「カレンモエだろ。名簿で拾ってやったよ」
知ってるなら最初からそう呼んでほしい。
「金色の方は知ってた。白いのは知らねぇ。だから調べた」
「調べた結果が『白いの』?」
「顔と名前は覚えてやった。呼び方は俺が決める」
一人称に少しだけ引っかかった。でも、この子にはそれが合っていた。
「ノワール」
名乗りは、それだけだった。所属も戦績も知らない奴。
「カレンモエです」
「知ってるっつった」
「名乗られたら名乗り返すの。日本の礼儀」
「めんどくせぇな、それ」
嫌な感じは、しなかった。
少なくとも、昨日のロビーで私の上を通り過ぎていったカメラよりは、ずっとましだった。
「さっきの練習、見たぞ」
「暇なの?」
「この坂からだと、下は全部見えんだよ。目に入っただけだ」
そこで、ノワールさんの目がすっと細くなった。
「随分早かったが、なんであんなに目が死んでんだ」
「初対面で言う、それ」
「終わってコース見た時だけ、生きてた。で、今は坂の芝に脚で聞いてやがる」
図星が三連続で来て、返事が遅れた。
「——勝つ気のねぇやつは、そんなことしねぇんだよ」
「見学が丁寧なだけだよ、育ちがいいから」
「あの走りしといて、それが通ると思ってんのか。嘘つくなら、もっと深く埋めろよ。足首まで丸見えだぞ」
「……嘘に浅いとかあるんだ」
「あるんだよ。今のはクソ浅い」
この子の目は、私の顔じゃなくて、さっき芝を見ていた私の目を掴んでいる。雑で、無遠慮で、でも真正面から来る視線だった。
「凱旋門、出るんだろ?」
すぐに答えたくなくて、質問で返した。
「そっちは?」
「走らなかった年はねぇ」
即答だった。
誇るでもなく、卑下するでもなく、事実として言う。質問を質問で返した私の方が、急に安く見えた。
「で、テメェは」
「……一応」
ノワールさんの眉間に、きれいに皺が寄った。
「いっっちばん嫌いな返事だな、それ」
「喧嘩なら、もう少し分かりやすく売ってくれない?」
「喧嘩なんかするかよ。ここまで来て”一応出る”か? 舐めてんなら帰れ。違うってんなら、その顔やめろ」
変な会話だった。
この子は口が悪い。態度も悪い。初対面の距離感でもない。でも、私を背景として見ていない。
たぶん、何も知らないのだろう。
日本から来た、もう一人の挑戦者。その形で、私を見ている。
違う。
私は挑戦者じゃない。前を引く役だ。オルフェーヴルさんのために1500だけ走って、そこから消える。世界が見たいのは金色と白銀で、私じゃない。
説明した方がいいのかもしれない。
でも、言えばこの子の中で私の形が変わる。挑戦者から、ただのレース要素になる。
正しいのに、なぜか今は少しだけ嫌だった。
この子にそう思われるのが、なんか嫌だったのだ。
「落としに来たんだろ?あのいけすかねえ”正義の味方”を」
違う。その役目は私じゃない。
前を引きに来た。仕事。そのまま言えばいい。
「仕事」
だから、ずらした。
「誰のだよ」
「私の」
「ほんとかよ」
「交通費は出てる」
「安い逃げ方してんじゃねぇよ」
「知ってる」
言ってから、少し冷えた。
知っている。私は今、かなり安い逃げ方をした。
ノワールさんは、それ以上追わなかった。
代わりに、坂を見上げた。
「この坂、どう思ったよ」
「……返ってくるのが、平面よりずっと遅い」
言ってから、しまったと思った。足で聞いてたことを、ほとんど自分で認めた。
ノワールさんは頷かなかった。坂の上の方を見たまま、言った。
さっきまでの棘が、その声にはなかった。
「毎年、ここで千切れる」
誰に、とは言わなかった。どうして、とも。
言い訳も悔しさの色もない、ただの事実の声だった。
「……それ、私に言う話?」
「ああ、言っておく話だ」
意味は分からなかった。
分からなかったけれど、聞き流していい言葉じゃないことだけは分かった。
遠くで、スタッフらしき声がノワールさんを呼んだ。
ノワールさんは返事をしない。片手だけ上げる。
「返事してあげればいいのに」
「手を上げただろ」
「はは、かっこいー」
ノワールさんはスパイクを肩に引っかけた。呼ばれた方とは、逆を向く。
「行かないの」
「返事は返しただろ」
「返事したことになってないでしょ、それ」
「なってんだよ、俺ん中では」
歩き出す前に、一度だけこちらを振り返った。
「カレンモエ」
呼び方がいつの間にか変わっていた。
「次会う時は、もうちっとマシな顔で来い」
「顔?」
「目だ」
それだけ言って、ノワールさんは坂を登り始めた。
走らない。ゆっくり、足元を確かめながら。登って、止まって、また登る。負けた場所を、靴の裏で覚え直すみたいに。
私はしばらく、その背中を見てから、来た道を戻った。
~
絢原さんのところへ戻ると、思ったより普通の顔で迎えられた。
「知り合いか」
「今できた。……あー、先に近づいたのは私かも」
「まあ、そんな感じだったか?」
「絢原さんは入ってこなかったね」
「必要そうに見えなかったからな」
見えてたなら見えてたで、少し恥ずかしい。でも、割って入られるよりは、ずっとよかった。
「疲れたか」
「少し。ノワールさん、ちょっとキャラ濃い」
ロンシャンの朝は静かなのに、あの子のまわりだけ、音が強かった気がする。
タキオンさんは、坂の方を見たまま言った。
「彼女は、実に面白いねぇ」
「タキオンさんが言うと不穏」
「褒め言葉だよ。少なくとも、悪い意味だけではない」
悪い意味も混ざっている。言えば絶対に喜ばれるから、口にはしなかった。
帰り支度の間も、レース場は静かに回っていた。
誰も崩れない。誰も無駄に前へ出ない。皆が強くて、皆が正しくて、皆が見えない誰かの形に合わせて走っている。
その一番奥で、あの子はまだ坂にいた。
登って、止まって、足元を見て、また登る。
檻の中の朝。
言葉にすると大げさだった。だから、口にはしなかった。
私はまだ、走りたいとは思えない。こんなんでいいの、の答えも、もらえないままだ。
それでも、あの背中は少しだけ、腹に残った。
朝のロンシャンは、広かった。
広いのに、息をする場所は限られていた。
その中で、あの子だけが、檻の中で、檻を見ていなかった。
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