ホテルまでの道は、来た時より短く感じた。
夜のパリは、昼間より少しだけ声が大きい。石畳の上を、聞き取れない会話が流れていく。街灯の色が日本より黄色くて、影が柔らかい。
体が、疲れていない。
初めての国で、初めての芝を走った日の夜だ。普通なら、足のどこかが文句を言っている。膝が重いとか、ふくらはぎが張るとか、そういう当たり前のことが、今日は何もなかった。
階段を三段飛ばしで上がれそうな足が、鞄を提げて歩いている。走った日の夜はいつも、体のどこかが翌朝の文句を先取りして騒ぐのに、今夜は何もなかった。
疲れているのは気持ちの方だけで、体はずっと静かだった。その静けさが、座り心地の悪い椅子みたいに、ずっと落ち着かない。
ロビーは今夜も金色と白銀の話でざわついていた。フロントの奥のテレビにも、たぶん同じ二色が映っている。聞き取れない言葉の中に、二つの名前だけが何度も浮かぶ。オルフェーヴル。レゾリュート。それ以外の名前は、この街ではたぶん雑音扱いだ。
私はその横を、誰にも呼ばれずに通り抜けた。呼ばれない歩き方が、もう板についてきた。
エレベーターの鏡に、たいして疲れていない顔が映っていた。降りて、部屋の前で立ち止まる。
この扉の向こうに、帰るのか。
部屋割りを決めたのは、ジャーニーさんだった。その方が面白いでしょう? ふふ――と、来る前にさらっと押し切られた。絢原さんは「悪いな」とだけ言った。何が悪いのかは、初日の夜に分かった。分かったところで、部屋割りはもう動かない。ジャーニーさんの決定は、この遠征では天気と同じ扱いらしい。
「……罰ゲームの説明、まだ聞いてないんだけどな」
誰にともなく言って、扉を開けた。
昨日より、ひどくなっていた。
資料の地層が育っている。地層に、新しい層が一枚増えていた。今日の分だ。獣道は心なしか細くなっていて、そのうち通行料を取られそうな気配がある。机の上の謎の機材は稼働音を立てていて、その隣にロンシャンのコース図が、部屋の主みたいに鎮座していた。
「おかえり、モルモット君」
タキオンさんは机から振り返りもしなかった。
「おかえりじゃないんですよ。なんで昨日より増えてるんですか」
「観察が進めば資料は増える。自然の摂理だよ」
「摂理は今は閉まってください」
自分のベッドに向かうと、端に紙の束が載っていた。無言でどかそうとしたら、声が飛んできた。
「ああ、そちらは未分類だから触らないでくれたまえ」
「私のベッドに分類を発生させないでください」
「では未分類のまま置いておこう」
「置くのをやめてって言ってるんです」
紙の束を机の山へ返して、ため息をついた。山の脇では、電気ケトルとティーポットとカップが、変な配置で並んでいる。カップの一つに温度計が刺さっていた。
「……ここ、実験室じゃなくてホテルなんですけど」
「ホテルとは、人類が休息と観察を両立させるために発明した空間だよ」
「発明の目的を勝手に増やさないでください」
窓際のコンセントには、変換プラグが三つ連結されて、そこから謎の機材へ電気が流れていた。タコ足の先で、小さなランプが得意げに光っている。火事の心配を、この部屋では私が一人でしている。保険の書類は、どこの国の言葉で書けばいいんだろう。
机の端にはフランス語の新聞。読めないはずなのに、ところどころに赤線が引いてある。その隣に、中身の分からない小瓶が二本。
「……その瓶は何ですか」
「聞かない方が、君の睡眠の質にはいいと思うがねぇ」
「聞かないことにします!」
賢くなった。この二日で、私は確実に賢くなっている。悲しいことに。
その隣に、見覚えのある紙袋があった。朝のクロワッサンの袋だ。
「まだ持ってたんですか、それ」
「失われるには惜しい糖質だったのでね」
「朝、スタッフに止められてましたよね」
「だから機会を窺っている」
「なんでむしろ今食べないんですか?明日には悪くなってますよ!」
返事の代わりに、紙袋が引き出しへ丁寧にしまわれた。大事にする方向が、間違っている。
もう、突っ込む気力が続かなかった。突っ込んでも直らないものを、人は最終的に景色として受け入れる。早くも、私はその入り口に立っている。疲れていないはずの体の、どこか別の場所が疲れている。私は着替えを掴んで、風呂に逃げた。
~
シャワーを浴びて出てくると、部屋の明かりが半分落ちていた。
机のライトだけが点いている。タキオンさんは同じ姿勢で紙を見ていた。ポットが一つ、空の側へ移動している。それだけが時間の経過だった。
私はベッドに入って、天井を見た。
変な一日だった。
変な芝を踏んで、変な子に絡まれた。で、今は変な同居人の隣で寝ようとしている。
なのに、体だけは妙に静かだ。
芝は、踏んでもすぐに返ってこなかった。一度飲み込んで、遅れて押し返してくる。走っても、体はほとんど削られなかった。こんなんでいいの、と聞いたのに、誰も答えをくれなかった。タキオンさんは記録して、絢原さんは何か言いかけて、やめた。天井に向かってもう一回聞いてみようかと思ったけど、天井も答えないだろうから、やめた。
それから、変な子に絡まれた。
坂の途中から降ってきた、ガラの悪い声。目が死んでる、と言われた。勝つ気のないやつはそんなことしない、とも言われた。
毎年、ここで千切れる。
あの一言だけ、棘がなかった。
私はノワールさんに、仕事、と答えた。安い逃げ方だと言われて、知ってる、と返した。本当に知っていた。
一応、とも言った。いっっちばん嫌いな返事だ、と顔をしかめられた。言った自分でも、あの返事は安かったと思う。値札をつけるなら、たぶん端数だ。あの子は私を、日本から来た挑戦者だと思っている。落としに来たんだろ、と言った。あのいけすかねえ正義の味方を、と。
違うのに。
違うと言えばよかったのに、言わなかった。
それだけのことなのに、妙に残っている。
残っているものなら、朝の分もある。絢原さんに、重い方がいい、と言った。言った瞬間は何とも思わなかったのに、思い出すと柄にもない台詞で、布団の中で足が少し縮んだ。
撤回はしない。しないけど、二回は言わない。
「今日は、思ったよりよく眠れるかもしれないねぇ」
机の方から、声がした。タキオンさんはこちらを見ていない。
「……なんですか、急に」
「身体が納得した日は、頭より先に眠ることがある」
「納得なんてしてませんけど」
「君が納得したとは言っていないよ。身体の話さ」
「勝手に私の体と会話しないでください」
「会話ではない。観察だよ」
「もっと駄目です」
「ふぅン。では独り言ということにしておこう」
「独り言に私の体を出さないでください」
タキオンさんは小さく笑って、ページをめくった。
体の話。
私の体は、私に隠れて、何かに納得したらしい。本人の許可なく。
体は、たしかに静かだ。文句も言わないし、痛くもない。ただ、静かすぎるだけ。頭の方は、坂の上の声と、答えのもらえなかった質問を、まだ順番に並べ直している。
眠れそうで、眠れなかった。
聞いても仕方のないことが、一つだけ喉に引っかかっている。仕方ないと分かっているのに、夜は、そういうものを軽くする。
「……ねえ、タキオンさん」
「なんだい」
「ああいう、全部の中心にいるみたいなのって、どうやったら崩れるの」
真剣な相談じゃない。ただ、あの子の言葉が残っていて、口が勝手に動いただけだ。
この国の真ん中には、白銀がいる。名前を出さなくても、皆がそれを基準に走っている。あの子は毎年そこへ挑んで、毎年あの坂で千切れて、それでもまた坂を見に行く。そして私のことを、同じ側だと思っている。落としに来たんだろ、と言った。勝つ気のないやつはそんなことしない、とも。
勝つ気なんてない。
ないけど――崩し方があるなら、誰かがとっくにやっているはずだ、とは思う。誰もやっていないから、この国はまだ白銀色のままなんだろう。
タキオンさんは、資料から目を離さなかった。
「簡単だよ」
ページをめくる音。
「ゲートが開いたら、走るだけでいいさ」
「…………」
「おや、静かだね」
「答える気ないでしょ、それ」
「私はいつでも本気だよ」
タキオンさんは笑って、それきり何も足さなかった。
机の灯りが、資料の山の影を天井に伸ばしている。影の形は、昨日より複雑になっていた。
雑な答えだ。雑すぎて、怒る気にもならない。私は寝返りを打って、壁の方を向いた。
でも、と少しだけ思う。
この人は、はぐらかす時ほど楽しそうな声を出す。今のは、そんなに楽しそうでもなかった。
……考えすぎだ。疲れてるんだ、たぶん。
「タキオンさん、昼間、もう一度見たいって言ってましたよね」
「言ったねぇ」
「何をさせる気なんですか」
「さて。何が面白いかな」
「聞こえてますからね。……面白かったら、止めないタイプですよね。私が変な方向に転がっても、記録取ってそう」
「取るだろうね」
「即答」
「記録は取る。だが」
紙の音が、一度止まった。
「危ないことはさせないよ。そこは、私の悪趣味にも限度がある」
「……悪趣味の自覚はあるんだ」
「自覚のない悪趣味は、ただの迷惑だからね。それに、壊れたデータに価値はない」
「私、データなんですね」
「最上級の賛辞のつもりだがねぇ」
「言い方のせいで、安心しきれないんですよね」
「安心は自前で用意したまえ。安全は私が用意しよう」
自前の安心。あいにく、在庫が切れている。それでも、安全の方は半分だけ信じることにした。
変な分担だった。
分担表を作ったら、私の欄には「安心の自作」と書かれるんだろう。作り方は誰も教えてくれないのに。
でも、この人が安全の話をする時の声は、冗談の温度じゃない。それは香港の前から知っている。面白がりはしても、嘘の安全だけは口にしない人だ。
だから、それ以上は聞かなかった。
「電気、消しますよ」
「手元があるから、ご自由に」
消した。
部屋が暗くなって、机の小さな灯りだけが残る。
薄目を開けると、灯りの輪の中に、机の上だけが浮かんでいた。ロンシャンのコース図。今日の計測メモ。数字の並んだ紙が一枚、几帳面な折り目をつけて畳まれている。何の数字かは、ここからは見えない。見えたところで、私には読めない数字だろう。
タキオンさんはその真ん中で、静かにペンを動かしていた。急いでもいないし、迷ってもいない手つきだった。
カーテンの隙間から、知らない街の光が細く一本、床に落ちていた。遠くでクラクションが一度だけ鳴って、消えた。それきり、街も静かになった。
目を閉じる。
坂の途中の、あの声。毎年、ここで千切れる。落としに来たんだろ、正義の味方を。マシな顔で来い。仕事、と逃げた自分。挑戦者だと思っている、あの目。
どれも、明日になれば薄れる気がする。薄れなかったら、その時に考える。考えるのは得意じゃないけど、後回しは得意だ。
走りたいとは、思えない。それは変わらない。変わらないことを、確認するみたいに思った。
ただ、今日の残りものの一番上に、さっきの雑な言葉が載っていた。
ゲートが開いたら、走るだけでいい。
雑な答えだった。
雑すぎて、考える前に眠気の中へ沈んでいった。
紙をめくる音と、紅茶の匂いが、部屋の端にまだ残っている。
変な同居人だ。でも今夜は、その音がある方が、静かすぎる体だけでいるよりも、よく眠れる気がした。
机の灯りだけが、しばらく消えなかった。
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