アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

143 / 143
104話 同室

ホテルまでの道は、来た時より短く感じた。

 

夜のパリは、昼間より少しだけ声が大きい。石畳の上を、聞き取れない会話が流れていく。街灯の色が日本より黄色くて、影が柔らかい。

 

体が、疲れていない。

 

初めての国で、初めての芝を走った日の夜だ。普通なら、足のどこかが文句を言っている。膝が重いとか、ふくらはぎが張るとか、そういう当たり前のことが、今日は何もなかった。

 

階段を三段飛ばしで上がれそうな足が、鞄を提げて歩いている。走った日の夜はいつも、体のどこかが翌朝の文句を先取りして騒ぐのに、今夜は何もなかった。

 

疲れているのは気持ちの方だけで、体はずっと静かだった。その静けさが、座り心地の悪い椅子みたいに、ずっと落ち着かない。

 

ロビーは今夜も金色と白銀の話でざわついていた。フロントの奥のテレビにも、たぶん同じ二色が映っている。聞き取れない言葉の中に、二つの名前だけが何度も浮かぶ。オルフェーヴル。レゾリュート。それ以外の名前は、この街ではたぶん雑音扱いだ。

 

私はその横を、誰にも呼ばれずに通り抜けた。呼ばれない歩き方が、もう板についてきた。

 

エレベーターの鏡に、たいして疲れていない顔が映っていた。降りて、部屋の前で立ち止まる。

 

この扉の向こうに、帰るのか。

 

部屋割りを決めたのは、ジャーニーさんだった。その方が面白いでしょう? ふふ――と、来る前にさらっと押し切られた。絢原さんは「悪いな」とだけ言った。何が悪いのかは、初日の夜に分かった。分かったところで、部屋割りはもう動かない。ジャーニーさんの決定は、この遠征では天気と同じ扱いらしい。

 

「……罰ゲームの説明、まだ聞いてないんだけどな」

 

誰にともなく言って、扉を開けた。

 

昨日より、ひどくなっていた。

 

資料の地層が育っている。地層に、新しい層が一枚増えていた。今日の分だ。獣道は心なしか細くなっていて、そのうち通行料を取られそうな気配がある。机の上の謎の機材は稼働音を立てていて、その隣にロンシャンのコース図が、部屋の主みたいに鎮座していた。

 

「おかえり、モルモット君」

 

タキオンさんは机から振り返りもしなかった。

 

「おかえりじゃないんですよ。なんで昨日より増えてるんですか」

 

「観察が進めば資料は増える。自然の摂理だよ」

 

「摂理は今は閉まってください」

 

自分のベッドに向かうと、端に紙の束が載っていた。無言でどかそうとしたら、声が飛んできた。

 

「ああ、そちらは未分類だから触らないでくれたまえ」

 

「私のベッドに分類を発生させないでください」

 

「では未分類のまま置いておこう」

 

「置くのをやめてって言ってるんです」

 

紙の束を机の山へ返して、ため息をついた。山の脇では、電気ケトルとティーポットとカップが、変な配置で並んでいる。カップの一つに温度計が刺さっていた。

 

「……ここ、実験室じゃなくてホテルなんですけど」

 

「ホテルとは、人類が休息と観察を両立させるために発明した空間だよ」

 

「発明の目的を勝手に増やさないでください」

 

窓際のコンセントには、変換プラグが三つ連結されて、そこから謎の機材へ電気が流れていた。タコ足の先で、小さなランプが得意げに光っている。火事の心配を、この部屋では私が一人でしている。保険の書類は、どこの国の言葉で書けばいいんだろう。

 

机の端にはフランス語の新聞。読めないはずなのに、ところどころに赤線が引いてある。その隣に、中身の分からない小瓶が二本。

 

「……その瓶は何ですか」

 

「聞かない方が、君の睡眠の質にはいいと思うがねぇ」

 

「聞かないことにします!」

 

賢くなった。この二日で、私は確実に賢くなっている。悲しいことに。

 

その隣に、見覚えのある紙袋があった。朝のクロワッサンの袋だ。

 

「まだ持ってたんですか、それ」

 

「失われるには惜しい糖質だったのでね」

 

「朝、スタッフに止められてましたよね」

 

「だから機会を窺っている」

 

「なんでむしろ今食べないんですか?明日には悪くなってますよ!」

 

返事の代わりに、紙袋が引き出しへ丁寧にしまわれた。大事にする方向が、間違っている。

 

もう、突っ込む気力が続かなかった。突っ込んでも直らないものを、人は最終的に景色として受け入れる。早くも、私はその入り口に立っている。疲れていないはずの体の、どこか別の場所が疲れている。私は着替えを掴んで、風呂に逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シャワーを浴びて出てくると、部屋の明かりが半分落ちていた。

 

机のライトだけが点いている。タキオンさんは同じ姿勢で紙を見ていた。ポットが一つ、空の側へ移動している。それだけが時間の経過だった。

 

私はベッドに入って、天井を見た。

 

変な一日だった。

 

変な芝を踏んで、変な子に絡まれた。で、今は変な同居人の隣で寝ようとしている。

 

なのに、体だけは妙に静かだ。

 

芝は、踏んでもすぐに返ってこなかった。一度飲み込んで、遅れて押し返してくる。走っても、体はほとんど削られなかった。こんなんでいいの、と聞いたのに、誰も答えをくれなかった。タキオンさんは記録して、絢原さんは何か言いかけて、やめた。天井に向かってもう一回聞いてみようかと思ったけど、天井も答えないだろうから、やめた。

 

それから、変な子に絡まれた。

 

坂の途中から降ってきた、ガラの悪い声。目が死んでる、と言われた。勝つ気のないやつはそんなことしない、とも言われた。

 

毎年、ここで千切れる。

 

あの一言だけ、棘がなかった。

 

私はノワールさんに、仕事、と答えた。安い逃げ方だと言われて、知ってる、と返した。本当に知っていた。

 

一応、とも言った。いっっちばん嫌いな返事だ、と顔をしかめられた。言った自分でも、あの返事は安かったと思う。値札をつけるなら、たぶん端数だ。あの子は私を、日本から来た挑戦者だと思っている。落としに来たんだろ、と言った。あのいけすかねえ正義の味方を、と。

 

違うのに。

 

違うと言えばよかったのに、言わなかった。

 

それだけのことなのに、妙に残っている。

 

残っているものなら、朝の分もある。絢原さんに、重い方がいい、と言った。言った瞬間は何とも思わなかったのに、思い出すと柄にもない台詞で、布団の中で足が少し縮んだ。

 

撤回はしない。しないけど、二回は言わない。

 

「今日は、思ったよりよく眠れるかもしれないねぇ」

 

机の方から、声がした。タキオンさんはこちらを見ていない。

 

「……なんですか、急に」

 

「身体が納得した日は、頭より先に眠ることがある」

 

「納得なんてしてませんけど」

 

「君が納得したとは言っていないよ。身体の話さ」

 

「勝手に私の体と会話しないでください」

 

「会話ではない。観察だよ」

 

「もっと駄目です」

 

「ふぅン。では独り言ということにしておこう」

 

「独り言に私の体を出さないでください」

 

タキオンさんは小さく笑って、ページをめくった。

 

体の話。

 

私の体は、私に隠れて、何かに納得したらしい。本人の許可なく。

 

体は、たしかに静かだ。文句も言わないし、痛くもない。ただ、静かすぎるだけ。頭の方は、坂の上の声と、答えのもらえなかった質問を、まだ順番に並べ直している。

 

眠れそうで、眠れなかった。

 

聞いても仕方のないことが、一つだけ喉に引っかかっている。仕方ないと分かっているのに、夜は、そういうものを軽くする。

 

「……ねえ、タキオンさん」

 

「なんだい」

 

「ああいう、全部の中心にいるみたいなのって、どうやったら崩れるの」

 

真剣な相談じゃない。ただ、あの子の言葉が残っていて、口が勝手に動いただけだ。

 

この国の真ん中には、白銀がいる。名前を出さなくても、皆がそれを基準に走っている。あの子は毎年そこへ挑んで、毎年あの坂で千切れて、それでもまた坂を見に行く。そして私のことを、同じ側だと思っている。落としに来たんだろ、と言った。勝つ気のないやつはそんなことしない、とも。

 

勝つ気なんてない。

 

ないけど――崩し方があるなら、誰かがとっくにやっているはずだ、とは思う。誰もやっていないから、この国はまだ白銀色のままなんだろう。

 

タキオンさんは、資料から目を離さなかった。

 

「簡単だよ」

 

ページをめくる音。

 

「ゲートが開いたら、走るだけでいいさ」

 

「…………」

 

「おや、静かだね」

 

「答える気ないでしょ、それ」

 

「私はいつでも本気だよ」

 

タキオンさんは笑って、それきり何も足さなかった。

 

机の灯りが、資料の山の影を天井に伸ばしている。影の形は、昨日より複雑になっていた。

 

雑な答えだ。雑すぎて、怒る気にもならない。私は寝返りを打って、壁の方を向いた。

 

でも、と少しだけ思う。

 

この人は、はぐらかす時ほど楽しそうな声を出す。今のは、そんなに楽しそうでもなかった。

 

……考えすぎだ。疲れてるんだ、たぶん。

 

「タキオンさん、昼間、もう一度見たいって言ってましたよね」

 

「言ったねぇ」

 

「何をさせる気なんですか」

 

「さて。何が面白いかな」

 

「聞こえてますからね。……面白かったら、止めないタイプですよね。私が変な方向に転がっても、記録取ってそう」

 

「取るだろうね」

 

「即答」

 

「記録は取る。だが」

 

紙の音が、一度止まった。

 

「危ないことはさせないよ。そこは、私の悪趣味にも限度がある」

 

「……悪趣味の自覚はあるんだ」

 

「自覚のない悪趣味は、ただの迷惑だからね。それに、壊れたデータに価値はない」

 

「私、データなんですね」

 

「最上級の賛辞のつもりだがねぇ」

 

「言い方のせいで、安心しきれないんですよね」

 

「安心は自前で用意したまえ。安全は私が用意しよう」

 

自前の安心。あいにく、在庫が切れている。それでも、安全の方は半分だけ信じることにした。

 

変な分担だった。

 

分担表を作ったら、私の欄には「安心の自作」と書かれるんだろう。作り方は誰も教えてくれないのに。

 

でも、この人が安全の話をする時の声は、冗談の温度じゃない。それは香港の前から知っている。面白がりはしても、嘘の安全だけは口にしない人だ。

 

だから、それ以上は聞かなかった。

 

「電気、消しますよ」

 

「手元があるから、ご自由に」

 

消した。

 

部屋が暗くなって、机の小さな灯りだけが残る。

 

薄目を開けると、灯りの輪の中に、机の上だけが浮かんでいた。ロンシャンのコース図。今日の計測メモ。数字の並んだ紙が一枚、几帳面な折り目をつけて畳まれている。何の数字かは、ここからは見えない。見えたところで、私には読めない数字だろう。

 

タキオンさんはその真ん中で、静かにペンを動かしていた。急いでもいないし、迷ってもいない手つきだった。

 

カーテンの隙間から、知らない街の光が細く一本、床に落ちていた。遠くでクラクションが一度だけ鳴って、消えた。それきり、街も静かになった。

 

目を閉じる。

 

坂の途中の、あの声。毎年、ここで千切れる。落としに来たんだろ、正義の味方を。マシな顔で来い。仕事、と逃げた自分。挑戦者だと思っている、あの目。

 

どれも、明日になれば薄れる気がする。薄れなかったら、その時に考える。考えるのは得意じゃないけど、後回しは得意だ。

 

走りたいとは、思えない。それは変わらない。変わらないことを、確認するみたいに思った。

 

ただ、今日の残りものの一番上に、さっきの雑な言葉が載っていた。

 

ゲートが開いたら、走るだけでいい。

 

雑な答えだった。

 

雑すぎて、考える前に眠気の中へ沈んでいった。

 

紙をめくる音と、紅茶の匂いが、部屋の端にまだ残っている。

 

変な同居人だ。でも今夜は、その音がある方が、静かすぎる体だけでいるよりも、よく眠れる気がした。

 

机の灯りだけが、しばらく消えなかった。

 




ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで(作者:八幡悠)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

憧れだけじゃ走れない。でも憧れがなければ、私は走り出せなかった。「私なんかが……でも、バクシンオーさんなら、きっとこうする」──そうして私は、私じゃない誰かになって走り続けた。自己評価ミジンコ級のウマ娘が短距離王者とマイル女王の思いを受け継ぎ、かつて分かたれたマイルとスプリントを統一し、世界へ、さらにその先へ。▼【挿絵表示】▼


総合評価:2580/評価:8.69/連載:168話/更新日時:2026年07月03日(金) 06:01 小説情報

競馬ミリしらウマ娘ファンがウマ娘化されていないモブ(?)ウマ娘に転生したので、頑張って百合ハーレムを作ろうとする話(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ウマ娘に転生したから百合ハーレムを築きたい競馬ミリしら民のお話。▼ なお、名前はディープインパクトという。


総合評価:2270/評価:7.72/連載:20話/更新日時:2026年04月04日(土) 11:39 小説情報

その瞳に勝利を(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

「わたしは勝つわ、トレーナー!」▼「頑張って支えるよ」


総合評価:2904/評価:8.75/完結:74話/更新日時:2026年05月14日(木) 23:00 小説情報

地方トレセンを舐めるなよ!(作者:鼻毛王)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

▼才能に溢れすぎた、一人のウマ娘。▼地方トレセンの一つ、笠松トレセンの再興に助力し、中央一強体制を崩しにかかる。▼『中央のウマ娘の方が強い』▼そんな常識を叩き壊すお話。▼*シンデレラグレイに触発されて執筆した作品です。▼


総合評価:3184/評価:8.39/連載:48話/更新日時:2026年04月16日(木) 18:00 小説情報

転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘(作者:アリマリア)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

コメディもあるしシリアスもある、転生者2人のお話。▼書きたいものを詰め込んだヤツ。▼ * * *▼Chama様から支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上から、ホシノウィルム、堀野トレーナー、2人のイラストです。▼匿名希望の読者様からも支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上はタイトルなし、下はタイトルありの…


総合評価:26865/評価:8.63/完結:253話/更新日時:2025年08月28日(木) 18:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>