昼過ぎ、部屋の資料の地層がまた一枚育ったところで、ノックが二回鳴った。
「モエ。買い出しに行くが、外の空気、吸ってくるか」
絢原さんだった。
「私、荷物持ち?」
「荷物は俺が持つ。まあ、本当は道を覚えたくてな」
「道?」
「ロンシャンまでの。車が使えない日があっても困らないようにしておきたいんだ」
出がけに、タキオンさんが資料から顔も上げずに言った。
「お土産は、砂糖の多いものを頼むよ」
「うわ出た」
「独り言だよ」
独り言に注文をつけるな。
外は、よく晴れていた。
石畳の道。狭い歩道。知らない匂いのパン屋。読めない看板が、読めないまま並んでいる。すれ違う人の会話は、音としては聞こえるのに、意味の手前で全部こぼれていく。三日いても、この街は私に字幕をつけてくれない。
旅行っぽい、と思う。でも、私のための旅行ではない。誰のための旅行でもなくて、強いて言えば、金色のための遠征に、私が同封されている。
街は、浮かれていた。
浮かれ方が、日本の、大きいレースの週とは少し違う。騒がしいわけじゃない。ただ、どの店先にも、どの新聞スタンドにも、同じ熱が置いてある。祭りの一週間前みたいな、まだ膨らみきっていない熱。
その熱の名前は、私でも読めた。
凱旋門賞。
新聞スタンドの前で、足が勝手に止まった。
一面に、白銀。めくれた下の面に、金色。読めない文字がびっしり並んでいて、その中で二つの名前だけが、島みたいに浮かんで見える。オルフェーヴル。レゾリュート。フランス語が読めなくても、この二つだけは読める。この街が三日かけて、私に読み方を教えた。
「気になるもの、あったか」
絢原さんが隣に立つ。
「んー……売ってるなあ、って」
「毎日刷ってるからな」
「毎日これ?」
「毎日これだ」
毎日、金と白銀。この国の朝は、その二色で刷られて始まるらしい。
スタンドの脇では、店主らしいおじさんが常連らしい人と何か言い合っていた。新聞を叩いて、指を二本立てて、それから首を振る。予想の話だと思う。世界中どこでも、レースの前の人間は同じ手つきで喋る。
少し歩くと、市場の通りに出た。花と、チーズと、知らない野菜。呼び込みの声は分からないのに、値段の交渉をしている空気だけは分かる。言葉が読めなくても、街は案外読める。
その通りの壁に、大きなポスターが貼ってあった。
金色と白銀が、向かい合う構図。下に日付と、読めない惹句。誰かのデザインした二人は、実物より少しだけ大げさで、でも、噓ではなかった。道行く人が、時々そこへ目をやって、連れと二言三言交わして、また歩き出す。
一枚の紙が、街の会話の種になっている。
買い出しは、あっさり終わった。水の箱と、補給食と、絢原さんが指差しで買った何かの果物。
「それ、何ですか」
「……なんだろうな」
「絶対、適当に指差したでしょ」
「色は良かった」
認めた。ほぼ認めた。
袋を半分持って、と言おうとしたら、絢原さんはもう全部持っていた。私は手ぶらで、覚える係だ。角を三つ。橋を一つ。来た道と違う方へ歩く。ロンシャンまでの道を、車じゃなくて足で一度確かめておきたいらしい。実務だ。実務の顔をした散歩でもある。
カフェの外席の前を通った。
昼間から、大人たちがグラス片手に何か言い合っている。単語は分からない。でも、身振りで分かる。片手がすっと前に出て、追う形を作る。もう片方の手が、それを退ける。去年のレースの話だ、たぶん。金色が追って、白銀が退けた、あのレース。
追う手と、退ける手。それを見ていた別のテーブルの人が、何か言いながら手を横に振る。違う違う、という顔だ。今度はその人が、両手で自分のレースを再現し始める。グラスが鳴って、誰かが笑った。
一年経っても、まだ酒の肴になっている。
一年経っても、まだ皆が続きを待っている。走らない人たちまで、あのレースの続きを、自分のことみたいに待っている。
オルフェーヴルさんは、この街で見られて当然の顔をしていた。空港でも、ホテルでも、フラッシュの中心で眉一つ動かさなかった。去年の続きを取り返しに来た人の顔だ。世界中に見られながら、その視線を全部背負って立てる。取り返す、という理由が、あの人の背筋を通っている。
見ていると、胸の奥が、少しざらついた。
白銀は、逆だ。
守る側。この国の真ん中で、皆の基準でいる側。名前にしなくても場にいて、彼女が動けば全員が従う。檻の中心で、たぶん檻そのものでもある人。守るものがある人の走りは、映像で見ても正しかった。
正しさを見せられると、なぜか、うまく息が吸えない。
どっちも、同じことだ。
種類は違う。片方は取り返しに来て、片方は守りに来ている。でも、二人とも、ここで走る理由を持っている。理由が体の芯に通っていて、だから遠くからでも分かる。ああいう目を、日本でも見た。前だけ見ている人たちの目。ああいう背中も、見た。夏の食堂で、秋の大舞台へ昇っていく二つの背中を、私はトレーの前から見ていた。
それから――あの子のことを、思い出した。
坂の途中から降ってきた、ガラの悪い声。
ノワールさんは、勝てていない。本人がそう言った。毎年、ここで千切れる。言い訳も悔しさの色もなく、ただの事実として。
なのに、あの子は坂を見に行く。
負けた場所を、靴の裏で覚え直しに行く。忘れると足が甘えるから、と。
あの子には、負けたことがある。
負けたのに、まだ諦めていない。
私には、その負けすら、ない。
よく分からない。正直、あの子の中身は、まだ全然分からない。分からないのに、引っかかっている。
勝てないなら、普通は坂なんて見たくない。私なら見ない。なのにあの子は毎年見に行って、今年も見に行って、ついでに私の目にまで文句をつけていった。次会う時は、もうちっとマシな顔で来い。目だ、とも言われた。
あの子が私に期待している顔は、たぶん、挑戦者の顔だ。この街の熱と同じ側の顔。あいにく、持ち合わせがない。
歩きながら、数えてみる。
オルフェーヴルさんには、去年の続きを取り返す理由がある。
レゾリュートさんには、守る理由がある。
ノワールさんには、負けても戻る理由がある。
この街の欧州勢には、地元の意地とか、自分の証明とか、そういうのが一人一つずつある。新聞の下の方に小さく載っている名前にも、きっとそれぞれの街があって、それぞれの誰かが読んでいる。
ジャーニーさんには、妹を勝たせる理由がある。
絢原さんには――私を、壊さずに日本へ帰す理由がある。
昨日、記録用紙を見て言葉を呑んだ人だ。呑んだものが何かは知らない。知らないけど、あの人の理由が私の無事でできていることくらいは、さすがに分かる。
で、私には。
ない。
数え終わって、そう思った。悲しくはない。泣くような話でもない。持ち物検査をしたら、その欄だけ空だった。それだけのことだ。仕事はある。前を引いて、消える仕事。でもあれは役目であって、理由じゃない。
ただ、空だと分かっている欄の周りで、皆の持ち物がやたらと光る。
それだけだ。
~
川の見える通りまで来たところで、絢原さんが足を止めた。
「もう少しだけ歩くか? 座るなら、その辺のカフェにでも入ってもいいが」
「……座る」
外席の隅に、向かい合って座った。絢原さんはコーヒーを、私はよく分からないまま指差した何かを頼んだ。出てきたのは、温かいショコラだった。当たりだ。
ショコラは熱くて、最初の一口で舌を少しやけどした。絢原さんは何も言わずに、水のグラスをこっちへ寄越した。
しばらく、どっちも喋らなかった。
喋らないことが、気まずくない相手だった。それはたぶん、才能みたいなものだと思う。どっちの、かは分からないけど。
石畳を、人が流れていく。新聞を小脇に挟んだ人。カフェの中の笑い声。遠くの通りの、車の音。その全部の下に、あの熱が敷いてある。
「みんな、走る理由あるんだなって」
カップを両手で持ったまま、ぽつっと出た。
「街の人まで、なんか持ってる。自分は走らないのに」
絢原さんは、コーヒーを一口飲んだ。
「そう見えるか」
「見える。すごく」
「……モエには、ないのか」
責める声じゃなかった。確かめる声とも、少し違う。ただ、置いてある問いだった。
「ないよ」
自分で言って、自分で確かめた。強がりでも、拗ねてるのでもない。乾いた声が出た。
「仕事はあるけど。前を引く役。でも、あれは私の理由じゃない」
「そうか」
絢原さんは、それだけ言った。
短い返事なのに、雑に扱われた感じはしなかった。ないという答えを、机の向こうで受け止めてくれたような間だった。
そんなことないとも、お前にもあるとも言わなかった。慰めの形をした嘘を、この人は使わない。
ショコラの湯気が、細く立って消えた。
「繰り返すようだが」
絢原さんがカップを置いた。
「1500まででいい。そこから先は、絶対に追わなくていい」
顔を上げた。
言い方が、指示の形をしていなかった。作戦の確認とも違う。もっと静かな、低い声。何かに、そっと蓋をするみたいな。
「その先で誰が動いても、お前の仕事じゃない」
「……はいはい。ラビットだからね」
「ああ」
返事までに、半拍あった。
半拍の中身は、聞かないことにした。聞いたら、この人はたぶん、いつもの顔で別の話をする。それなら最初から、聞かない方がいい。
「役目が済んだら、綺麗に消えるよ」
「それでいい」
「仕事だからね」
絢原さんの口元が、少しだけ緩んだ。
それから、残りのコーヒーをゆっくり飲み干した。急がない飲み方だった。話が終わった後の時間を、わざと少しだけ余らせるみたいな。
それで、この話は終わりだった。
ショコラは、底の方が一番甘かった。
~
帰り道、もう一度、新聞スタンドの前を通った。
夕方の光で、紙の色が少し変わって見える。一面の白銀。その下の金色。読めない文字の海に、二つの名前の島。
明後日か、その次か。この街の熱は、まだしばらく膨らみ続ける。膨らみきった日に、私は前を引いて、1500で消える。それでこの熱は、正しい持ち主たちのものになる。
それでいい。
石畳に、影が長く伸び始めていた。パン屋は店じまいの支度をしていて、朝と同じ匂いが、少しだけ薄くなっている。
通りの切れ目から、ロンシャンのある方角が一瞬だけ見えた。ここからじゃ、坂は見えない。見えないけど、あの子は今日もあそこを歩いただろうか、とは思った。
袋の中で、果物が小さく揺れた。荷物は、宣言どおり全部絢原さんの手の中だ。私は手ぶらのまま、頼まれた道だけを覚えながら歩いている。角を三つ。橋を一つ。覚えたことは、聞かれたら言う。
絢原さんは半歩前を、いつもの速さで歩いている。私を壊さずに帰す、という理由を持って歩く人の背中だ。
ポスターの前を、学校帰りらしい子たちが駆けていった。誰かが金色の名前を叫んで、笑い声が角を曲がって消えた。この街では、あの名前は呼ぶだけで楽しいものらしい。
皆には、ある。
私にはない。
だから、余計に眩しかった。
スタンドの金色は、夕方の光の中でもまだ光っていて、読めない文字の中で、二つの名前だけが今日も私に読めた。