アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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105話 眩しさ

昼過ぎ、部屋の資料の地層がまた一枚育ったところで、ノックが二回鳴った。

 

「モエ。買い出しに行くが、外の空気、吸ってくるか」

 

絢原さんだった。

 

「私、荷物持ち?」

 

「荷物は俺が持つ。まあ、本当は道を覚えたくてな」

 

「道?」

 

「ロンシャンまでの。車が使えない日があっても困らないようにしておきたいんだ」

 

出がけに、タキオンさんが資料から顔も上げずに言った。

 

「お土産は、砂糖の多いものを頼むよ」

 

「うわ出た」

 

「独り言だよ」

 

独り言に注文をつけるな。

外は、よく晴れていた。

 

石畳の道。狭い歩道。知らない匂いのパン屋。読めない看板が、読めないまま並んでいる。すれ違う人の会話は、音としては聞こえるのに、意味の手前で全部こぼれていく。三日いても、この街は私に字幕をつけてくれない。

 

旅行っぽい、と思う。でも、私のための旅行ではない。誰のための旅行でもなくて、強いて言えば、金色のための遠征に、私が同封されている。

 

街は、浮かれていた。

 

浮かれ方が、日本の、大きいレースの週とは少し違う。騒がしいわけじゃない。ただ、どの店先にも、どの新聞スタンドにも、同じ熱が置いてある。祭りの一週間前みたいな、まだ膨らみきっていない熱。

 

その熱の名前は、私でも読めた。

 

凱旋門賞。

 

新聞スタンドの前で、足が勝手に止まった。

 

一面に、白銀。めくれた下の面に、金色。読めない文字がびっしり並んでいて、その中で二つの名前だけが、島みたいに浮かんで見える。オルフェーヴル。レゾリュート。フランス語が読めなくても、この二つだけは読める。この街が三日かけて、私に読み方を教えた。

 

「気になるもの、あったか」

 

絢原さんが隣に立つ。

 

「んー……売ってるなあ、って」

 

「毎日刷ってるからな」

 

「毎日これ?」

 

「毎日これだ」

 

毎日、金と白銀。この国の朝は、その二色で刷られて始まるらしい。

 

スタンドの脇では、店主らしいおじさんが常連らしい人と何か言い合っていた。新聞を叩いて、指を二本立てて、それから首を振る。予想の話だと思う。世界中どこでも、レースの前の人間は同じ手つきで喋る。

 

少し歩くと、市場の通りに出た。花と、チーズと、知らない野菜。呼び込みの声は分からないのに、値段の交渉をしている空気だけは分かる。言葉が読めなくても、街は案外読める。

 

その通りの壁に、大きなポスターが貼ってあった。

 

金色と白銀が、向かい合う構図。下に日付と、読めない惹句。誰かのデザインした二人は、実物より少しだけ大げさで、でも、噓ではなかった。道行く人が、時々そこへ目をやって、連れと二言三言交わして、また歩き出す。

 

一枚の紙が、街の会話の種になっている。

 

買い出しは、あっさり終わった。水の箱と、補給食と、絢原さんが指差しで買った何かの果物。

 

「それ、何ですか」

「……なんだろうな」

 

「絶対、適当に指差したでしょ」

 

「色は良かった」

 

認めた。ほぼ認めた。

 

袋を半分持って、と言おうとしたら、絢原さんはもう全部持っていた。私は手ぶらで、覚える係だ。角を三つ。橋を一つ。来た道と違う方へ歩く。ロンシャンまでの道を、車じゃなくて足で一度確かめておきたいらしい。実務だ。実務の顔をした散歩でもある。

 

カフェの外席の前を通った。

 

昼間から、大人たちがグラス片手に何か言い合っている。単語は分からない。でも、身振りで分かる。片手がすっと前に出て、追う形を作る。もう片方の手が、それを退ける。去年のレースの話だ、たぶん。金色が追って、白銀が退けた、あのレース。

 

追う手と、退ける手。それを見ていた別のテーブルの人が、何か言いながら手を横に振る。違う違う、という顔だ。今度はその人が、両手で自分のレースを再現し始める。グラスが鳴って、誰かが笑った。

 

一年経っても、まだ酒の肴になっている。

 

一年経っても、まだ皆が続きを待っている。走らない人たちまで、あのレースの続きを、自分のことみたいに待っている。

 

オルフェーヴルさんは、この街で見られて当然の顔をしていた。空港でも、ホテルでも、フラッシュの中心で眉一つ動かさなかった。去年の続きを取り返しに来た人の顔だ。世界中に見られながら、その視線を全部背負って立てる。取り返す、という理由が、あの人の背筋を通っている。

 

見ていると、胸の奥が、少しざらついた。

 

白銀は、逆だ。

 

守る側。この国の真ん中で、皆の基準でいる側。名前にしなくても場にいて、彼女が動けば全員が従う。檻の中心で、たぶん檻そのものでもある人。守るものがある人の走りは、映像で見ても正しかった。

 

正しさを見せられると、なぜか、うまく息が吸えない。

 

どっちも、同じことだ。

 

種類は違う。片方は取り返しに来て、片方は守りに来ている。でも、二人とも、ここで走る理由を持っている。理由が体の芯に通っていて、だから遠くからでも分かる。ああいう目を、日本でも見た。前だけ見ている人たちの目。ああいう背中も、見た。夏の食堂で、秋の大舞台へ昇っていく二つの背中を、私はトレーの前から見ていた。

 

それから――あの子のことを、思い出した。

 

坂の途中から降ってきた、ガラの悪い声。

 

ノワールさんは、勝てていない。本人がそう言った。毎年、ここで千切れる。言い訳も悔しさの色もなく、ただの事実として。

 

なのに、あの子は坂を見に行く。

 

負けた場所を、靴の裏で覚え直しに行く。忘れると足が甘えるから、と。

 

あの子には、負けたことがある。

 

負けたのに、まだ諦めていない。

 

私には、その負けすら、ない。

 

よく分からない。正直、あの子の中身は、まだ全然分からない。分からないのに、引っかかっている。

 

勝てないなら、普通は坂なんて見たくない。私なら見ない。なのにあの子は毎年見に行って、今年も見に行って、ついでに私の目にまで文句をつけていった。次会う時は、もうちっとマシな顔で来い。目だ、とも言われた。

 

あの子が私に期待している顔は、たぶん、挑戦者の顔だ。この街の熱と同じ側の顔。あいにく、持ち合わせがない。

 

歩きながら、数えてみる。

 

オルフェーヴルさんには、去年の続きを取り返す理由がある。

 

レゾリュートさんには、守る理由がある。

 

ノワールさんには、負けても戻る理由がある。

 

この街の欧州勢には、地元の意地とか、自分の証明とか、そういうのが一人一つずつある。新聞の下の方に小さく載っている名前にも、きっとそれぞれの街があって、それぞれの誰かが読んでいる。

 

ジャーニーさんには、妹を勝たせる理由がある。

 

絢原さんには――私を、壊さずに日本へ帰す理由がある。

 

昨日、記録用紙を見て言葉を呑んだ人だ。呑んだものが何かは知らない。知らないけど、あの人の理由が私の無事でできていることくらいは、さすがに分かる。

 

で、私には。

 

ない。

 

数え終わって、そう思った。悲しくはない。泣くような話でもない。持ち物検査をしたら、その欄だけ空だった。それだけのことだ。仕事はある。前を引いて、消える仕事。でもあれは役目であって、理由じゃない。

 

ただ、空だと分かっている欄の周りで、皆の持ち物がやたらと光る。

 

それだけだ。

 

川の見える通りまで来たところで、絢原さんが足を止めた。

 

「もう少しだけ歩くか? 座るなら、その辺のカフェにでも入ってもいいが」

 

「……座る」

 

外席の隅に、向かい合って座った。絢原さんはコーヒーを、私はよく分からないまま指差した何かを頼んだ。出てきたのは、温かいショコラだった。当たりだ。

 

ショコラは熱くて、最初の一口で舌を少しやけどした。絢原さんは何も言わずに、水のグラスをこっちへ寄越した。

 

しばらく、どっちも喋らなかった。

 

喋らないことが、気まずくない相手だった。それはたぶん、才能みたいなものだと思う。どっちの、かは分からないけど。

 

石畳を、人が流れていく。新聞を小脇に挟んだ人。カフェの中の笑い声。遠くの通りの、車の音。その全部の下に、あの熱が敷いてある。

 

「みんな、走る理由あるんだなって」

 

カップを両手で持ったまま、ぽつっと出た。

 

「街の人まで、なんか持ってる。自分は走らないのに」

 

絢原さんは、コーヒーを一口飲んだ。

 

「そう見えるか」

 

「見える。すごく」

 

「……モエには、ないのか」

 

責める声じゃなかった。確かめる声とも、少し違う。ただ、置いてある問いだった。

 

「ないよ」

 

自分で言って、自分で確かめた。強がりでも、拗ねてるのでもない。乾いた声が出た。

 

「仕事はあるけど。前を引く役。でも、あれは私の理由じゃない」

 

「そうか」

 

絢原さんは、それだけ言った。

 

短い返事なのに、雑に扱われた感じはしなかった。ないという答えを、机の向こうで受け止めてくれたような間だった。

 

そんなことないとも、お前にもあるとも言わなかった。慰めの形をした嘘を、この人は使わない。

 

ショコラの湯気が、細く立って消えた。

 

「繰り返すようだが」

 

絢原さんがカップを置いた。

 

「1500まででいい。そこから先は、絶対に追わなくていい」

 

顔を上げた。

 

言い方が、指示の形をしていなかった。作戦の確認とも違う。もっと静かな、低い声。何かに、そっと蓋をするみたいな。

 

「その先で誰が動いても、お前の仕事じゃない」

 

「……はいはい。ラビットだからね」

 

「ああ」

 

返事までに、半拍あった。

 

半拍の中身は、聞かないことにした。聞いたら、この人はたぶん、いつもの顔で別の話をする。それなら最初から、聞かない方がいい。

 

「役目が済んだら、綺麗に消えるよ」

 

「それでいい」

 

「仕事だからね」

 

絢原さんの口元が、少しだけ緩んだ。

 

それから、残りのコーヒーをゆっくり飲み干した。急がない飲み方だった。話が終わった後の時間を、わざと少しだけ余らせるみたいな。

 

それで、この話は終わりだった。

 

ショコラは、底の方が一番甘かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道、もう一度、新聞スタンドの前を通った。

 

夕方の光で、紙の色が少し変わって見える。一面の白銀。その下の金色。読めない文字の海に、二つの名前の島。

 

明後日か、その次か。この街の熱は、まだしばらく膨らみ続ける。膨らみきった日に、私は前を引いて、1500で消える。それでこの熱は、正しい持ち主たちのものになる。

 

それでいい。

 

石畳に、影が長く伸び始めていた。パン屋は店じまいの支度をしていて、朝と同じ匂いが、少しだけ薄くなっている。

 

通りの切れ目から、ロンシャンのある方角が一瞬だけ見えた。ここからじゃ、坂は見えない。見えないけど、あの子は今日もあそこを歩いただろうか、とは思った。

 

袋の中で、果物が小さく揺れた。荷物は、宣言どおり全部絢原さんの手の中だ。私は手ぶらのまま、頼まれた道だけを覚えながら歩いている。角を三つ。橋を一つ。覚えたことは、聞かれたら言う。

 

絢原さんは半歩前を、いつもの速さで歩いている。私を壊さずに帰す、という理由を持って歩く人の背中だ。

 

ポスターの前を、学校帰りらしい子たちが駆けていった。誰かが金色の名前を叫んで、笑い声が角を曲がって消えた。この街では、あの名前は呼ぶだけで楽しいものらしい。

 

皆には、ある。

 

私にはない。

 

だから、余計に眩しかった。

 

スタンドの金色は、夕方の光の中でもまだ光っていて、読めない文字の中で、二つの名前だけが今日も私に読めた。

 

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