朝、部屋を出る前に、タキオンさんが言った。
「今日、一本走ってもらうよ」
紅茶のカップを片手に、もう片方で紙を挟んでいる。昨日の夜、机を紙で埋めていたのに、朝にはまた別の紙を持っている。増えているんだと思う、たぶん。
「聞いてないんですけど」
「今言ったから問題ないね」
「そういうことじゃなくて」
「現地の子を何人か混ぜてね。向こうも軽い調整だ。こちらも軽い確認さ」
軽い確認、という言い方がもう軽くない。
正直、乗り気じゃなかった。私の役目は決まっている。前を引いて、途中で消える。本番で必要なのはそれだけだ。現地の子と正面から走る意味なんて、どこにもない。
それに、昨日の今日だった。みんなには走る理由があって、私にはない。昨日それを確かめたばかりなのに、理由を持っている子たちに混ざるのは、少し気まずい。
「なんで模擬レースなんですか。普通に走るのじゃ、だめ?」
走るのが嫌なわけじゃない。ただ、わざわざ競走の形にする意味が、分からなかった。前を引いて消えるのに、誰かと先着を競う必要なんてない。
「並んで走ると、分かることがあってね」
「一人だと、だめなんですか」
「一人だと出ない数字があるのさ。君のデータが要る」
「モルモット扱い」
「最上級の褒め言葉だと言っただろう」
言ってたけど、褒め言葉の基準がおかしい。この人は危ないことはさせないと言った。あの夜の、冗談じゃない声で。だから、まあ、危なくはないんだろう。
「……分かりました」
「素直でよろしい」
「素直じゃなくて、諦めです」
上着を取って、廊下に出た。絢原さんはもう話を聞いていたらしい。
「模擬レース、乗り気じゃないなら、断ってもいいんだぞ」
「走るのは、別にいいんだけど」
「けど?」
「なんで、あの形なんだろって」
「タキオンさんに聞いたか」
「はぐらかされた」
絢原さんは少し笑って、それ以上は言わなかった。
「変なら、途中でやめろ。合図しろ」
「はいはい」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
~
トレーニング用のエリアには、もう何人か集まっていた。現地の子が三人。準備運動の動きに無駄がない。深い芝を、深いまま踏んで慣らしている。こっちに気づくと、軽く手を上げた。挨拶はそれだけ。敵意もないし、興味も長くは続かない。
日本から来た併せ相手。
その扱いは、ロビーのカメラよりずっと楽だった。
その少し外れに、黒い髪。
「来たか、日本の白いの」
「名前で呼ぶ話、どうなったの」
「カレンモエ」
言い直した。
雑にだけど、言い直した。
「これでいいか」
「よろしい」
「注文が多いんだよ、お前は」
昨日より、半歩ぶん近い気がする。気のせいかもしれないけど。タキオンさんが計測器を提げてきて、コースの方を指した。スタートの線と、ゴールの線。現地のスタッフが旗を持って立っている。
「距離は?」
なんとなく、聞いた。
「テンハロンちょいだ」
ノワールさんが答えた。
ハロンが、どれくらいだったか。
覚えていない。
テンは十。何かの、十個ぶん。その何かが、思い出せない。
メートルで言ってよと思ったけど、言ったら確実にバカにされそうなのでやめた。
「……長くない?」
「どうということはない」
タキオンさんが横から言った。顔は紙に向けたままだった。
なら、大したことないんだろう。タキオンさんは気休めを言わない。危ないことはさせないとも言った。絢原さんも止めていない。ノワールさんに至っては、この距離が当たり前みたいな顔をしている。私だけが数えるのも、バカらしい。
「走るだけでいいのさ。昨夜も言っただろう」
「出た、雑なやつ」
「雑で結構」
それで、距離の話は終わった。
~
スタートの線に並ぶ。
現地の三人は、内側に少し寄った。私とノワールさんが外めに並ぶ。隣のノワールさんから、無駄口が消えていた。
坂の方を、一度見る。
足元の芝を、蹄鉄シューズの先で二度確かめる。長く、息を吐く。それから、横目でこっちを見た。
「流して走んなよ」
「……何それ」
「その気のねぇ面のまま走ったら、承知しねぇからな」
目が、昨日までと違った。
口は悪いままなのに、目だけが静かだった。勝った子の余裕じゃない。持っている子の落ち着きでもない。毎年負けて、毎年戻ってくる子の、本気の目だった。
この子は、私を同じ場所に立つ相手として見ている。日本から来た、挑戦者として。
違う、と言うなら今だった。私は前を引く役で、あなたと張り合いに来たわけじゃない、と。
言わなかった。
昨日、街で確かめたばかりだ。この子には、負けても戻る理由がある。私にはない。ない側の口で、ある側の本気に水を差すのは、なんというか、うまく言えないけど、嫌だった。
旗が上がる。
考えるのを、やめた。
~
出た瞬間から、芝が重かった。
重くて、楽だった。
踏むたびに、地面が一度沈んで、遅れて返してくる。その遅れに、足がもう合っている。急かされない。弾かれない。空回りが、どこにもない。
内側の三人が前に出る。
ノワールさんがそのすぐ後ろにつく。私はさらに後ろ。位置取りの確認、とタキオンさんは言っていた。確認するほどのこともなく、体が勝手に収まった。
ただ前を突っ走る練習だけでなく、こういった位置取り練習も色んなところに効くんだそうだ。だから、好きに走れ、と言われた。
前の三人は、綺麗に並んで流れを作っていた。速くも遅くもない。誰かが決めたわけでもないのに、全員が同じ物差しで走っている。この国の走り方だ、と思った。
檻は、練習の中にもある。
道が続く。
続くのに、減っていく感じがしない。いつもなら、どこかで体が気にし始める。あとどれくらい走れるか。どこから危ないか。今日は、その感じがない。芝が深いぶん、一歩が深い。深いのに、削られない。息が上がる場所を、体が探しあぐねている。
昨日と同じだ。
静かすぎる。
前で、動きがあった。
坂だ。
登りに入った瞬間、内側の三人の脚が、揃って重くなった。芝がさらに深くなって、勾配が乗る。
崩れてはいない。
崩れてはいないけど、守りに入った。ノワールさんだけが、逆だった。坂の入りで、前に出た。飛び出したんじゃない。三人の外を、押し切るように上がっていく。深い芝を深いまま蹴って、勾配ごと踏み潰すみたいな登り方だった。
強い。
昨日、負けた場所だと言っていた坂で、この子は一番強かった。
三人が、離れていく。
足音が減って、前にはノワールさんだけが残った。
私はその背中についた。
ついて、坂を登った。
初めて走って登る坂だった。重さが増して、それでも足は文句を言わない。むしろ、下の平らなところより、踏み応えがあって分かりやすい。
坂を抜ける。
ノワールさんの背中が、少し近くなった。抜くつもりは、たぶん、最初はなかった。前が空いていたから、足がそっちへ行った。並んで、息の音が聞こえて、それから、前に出た。
並んだ一瞬、ノワールさんがこっちを見た気がする。見なかったのかもしれない。確かめる前に、体が前に出ていた。
そのまま、旗の横を抜けた。
速度を落とす。
芝が、最後まで足を受けてくれた。止まっても、膝が笑わない。息が、ほとんど乱れていなかった。
――長い。
止まってから、それをはっきり思った。走っている間はよく分からなかったけど、終わってみると、絶対にいつもより長かった。私の距離は短い。こんなに走った覚えはない。
なのに、脚がまだ残っている。息も余っている。
その余り方のせいで、うまく見積もれなかった。長かったのは確かだけど、これだけ楽なら、言っても、いつものスプリントに少し足したくらいか。せいぜい、短めのマイルくらいだろう。それ以上には、どうしても思えなかった。
……まあ、いいか。タキオンさんが決めた距離だ。
引っかかりは、そこで一度、宙に浮いた。
振り返る。
ノワールさんが線を越えて、少し行き過ぎてから止まった。その後ろは、まだ誰もいない。だいぶ待って、三人目が線を越えた。残りは、さらに後ろだった。
弱いな。
そう、思ってしまった。
もう少し残っていると思った。坂であれだけ見せたんだから、最後にもう一度、何か来ると思った。来なかった。それだけのことなのに、胸のどこも動かない。
私に負けて、この子は大丈夫なんだろうか。
見下しているわけじゃない。心配しているわけでもない。ただ、私程度に負けるのか、と思っただけだった。勝っても、何も湧いてこない。
……まあ、勝ったのは私なんだけど。
タキオンさんを見た。
計測器を見て、紙に何か書いて――ペンが、一度止まった。
止まって、また動いた。
何も言わなかった。
絢原さんが近づいてくる。
見る順番はいつも通りだ。足元、膝、肩、息。最後に目。
「痛みは」
「ない」
「嫌な感じは」
「ない」
「そうか」
それだけだった。
勝った、とは言わなかった。私も言わなかった。この人が見に来たのは順位じゃない。
それはもう、知っている。
~
ノワールさんは、すぐには来なかった。線の先で立ったまま、息を整えている。肩が二回、大きく上下して、それで戻った。
切り替えの早さまで、負け慣れた子の形だった。負けることには慣れて、それでも、諦めることには慣れていない。そういう形だった。
坂の方を、一度だけ振り返る。
長くは見ない。
見て、戻して、こっちへ歩いてきた。
「テメェ」
「はい」
「なんだ、今の」
「私に聞かれても」
「ふざけんな。こっちは本気で行った」
「分かるよ」
「分かってねぇ顔してんだよ」
声は荒い。
でも、怒りだけじゃなかった。悔しさと、驚きと、たぶん少しの期待。全部混ざって、口の悪さで出ている。
「他の子、引き離したじゃん」
「そこじゃねぇ」
「じゃあ、どこ」
「俺を、見てなかっただろ」
返事が止まった。
見ていなかったわけじゃない。でも、この子の言う意味は分かった。私はあの子を、倒しに行っていない。前にいる気配として見ていた。走る理由を持っている相手として見ていた。勝たなきゃいけない相手としては、見ていなかった。
「……ごめん」
「謝んな。余計腹立つ」
「じゃあ、何て言えばいいの」
「次は、俺から目を離せないようにしてやる」
次。
軽く言える言葉じゃなかった。私はラビットで、前を引いて途中で下がる。だから、この子と本気で競り合う"次"なんて来るわけない。
言うなら、ここだった。
私はラビットだよ、って。
前を引いて、途中で下がる。レゾリュートさんを倒しに行くのは、私じゃない。そう言えばいい。
喉の手前まで来た。
でも、ノワールさんが坂の方を見た。
「欧州の連中はさ」
急に、声が低くなった。
「おかしいんだよ」
まだ息が整いきっていない。言葉の間に、少し呼吸が混ざる。
「みんな、二着でいい顔してる。あいつが動いたら、勝つのをやめる。そこから先は、誰が二番目に偉いかって話だ」
レゾリュート。
名前は出さなかった。出さなくても、誰のことかは分かった。
「賢いんだろうな。無駄に潰れない。自分の分は拾う。レースを壊さない。そういうのが上手い奴から、残っていく」
ノワールさんは、笑わなかった。
「でも、嫌いだ」
短かった。
昨日、毎年ここで千切れると言った時と、同じ声だった。
「俺は毎年、あそこで終わる」
視線が、坂の上へ行く。
「分かってるよ。脚が足りねぇ。息も足りねぇ。最後の坂で、あいつに勝つには足りねぇ」
そこまで言って、こっちを見た。
口の悪さが戻る。
でも、目は戻らなかった。
「お前なら、いける」
「……何が」
「あいつを、落とせ」
来た、と思った。
「俺じゃ無理だった。何回やっても、あそこで千切れる。でも、お前は今の一本で、あの坂を軽く越えやがった」
「軽くは」
「見えたんだよ」
遮られた。
「走ってる奴のことは、見りゃ分かる。嘘ついても、脚に出る。お前は、あそこで終わってなかった」
何も言えなかった。
終わっていなかった。
たしかに、終わっていなかった。でも、それは私がレゾリュートさんを倒しに来たって意味じゃない。私は、前を引いて消えるために来た。その先は、追わなくていい。昨日、絢原さんに言われた。私も軽く返した。ラビットだからね、って。
「ノワールさん」
声を出した。
その先が、続かない。
私は、と言えばよかった。
私はラビットだよ。
私は、その先を走らない。
私は、あなたの代わりにレゾリュートさんを落とす子じゃない。
でも、ノワールさんは、まだ坂を見ていた。負けた場所を、今日も見ていた。勝てないと分かっていて、それでも嫌いだと言える子だった。みんなが二着でいい顔をしていることを、賢いと分かっていて、それでも嫌いだと言える子だった。
私には、ない。
昨日、街で考えたことが、戻ってくる。みんなには走る理由があって、私にはない、というあれだ。
みんなには、ある。
私には、ない。
そのないものを持っている子に向かって、私は自分の役目を言えなかった。
「……勝手に押し付けないでよ」
やっと出たのは、それだけだった。
「押し付けてんだよ」
「最悪」
「知ってるよ」
「知ってるなら、やめて」
「やめねぇ」
すごく嫌な会話だった。
なのに、少しだけ、救われた。私が否定できなかったことに、ノワールさんは気づかない。たぶん、気づけない。この子の中で、私はもう挑戦者になっている。
日本から来た白い子。
金色の王と一緒に来て、ロンシャンの芝で自分に勝った子。そこに、ラビットって言葉はない。
「次は、目を死なせんな」
「また顔?」
「目だっつってんだろ」
「はいはい」
「注文、多いんだけど」
「勝ったやつが、負けたやつの注文くらい聞けよ」
「それ、逆じゃない?」
「逆でいいんだよ。負けたから、言ってんだ」
蹄鉄シューズの先で、芝を軽く削った。
「俺が勝ってたら、自分で行く」
その声に、嘘はなかった。
この子は本当に、勝っていたら自分でレゾリュートさんを落としに行くつもりだったんだと思う。勝てないと分かっていても。
毎年、千切れていても。
「……変なの」
「テメェに言われたくねぇ」
「たぶん、お互い様」
ノワールさんは、返事をしなかった。
坂の方へ、歩き出す。
また登るんだと思った。
走った後なのに。息がまだ戻りきってないのに。それでも、あの子は坂へ向かう。
「休まないの」
「休む」
「どこで」
「上」
意味が分からない。
でも、聞き返す気にはならなかった。ノワールさんは、坂を登っていく。走らない。昨日と同じように、足元を確かめながら。私は、その背中を見ていた。
~
戻ってきた私に、タキオンさんは何も聞かなかった。紙をまとめて、クリップで留める。ペンを胸元に戻す。いつもなら余計なことを言うのに、今日は言わない。
「聞かないんですか」
「君が答えるなら、聞くがね」
「答えないと思います」
「なら、今聞く価値は低い」
便利な人だ。
しゃくにさわるくらい便利で、今は少し助かる。
そういえば、さっきの引っかかり――長かったな、というあれは、いつの間にかどこかへ行っていた。ノワールさんの声が全部持っていってしまって、距離のことなんて、考える隙もなかった。まあ、どうでもいいか。走り終わったんだし。
絢原さんは、坂の方を見ていた。ノワールさんの背中は、もう小さい。黒い髪だけが、朝の光の中で少し濃く見えた。
「何か言われたか」
「まあ」
「嫌なことか」
「嫌ではない」
「そうか」
それだけだった。
絢原さんは、私が言わないものを追わない。追わないで、隣に残る。
それも、今は助かった。
でも、助かることと、正しいことは違う。
違う、と言えばよかった。
私は前を引いて、途中で下がるだけだって。レゾリュートさんを落としに来たわけじゃないって。あなたが見てる私は、少し形が違うんだって。
言える場所は、あった。
走る前にも。
走った後にも。
落とせ、と言われた時にも。
どこでも言えた。
でも、私は言わなかった。
ノワールさんは、坂の途中で一度止まった。
足元を見る。
また、一歩上がる。
昨日と同じだった。負けた場所を、靴の裏で確かめるみたいに。
違う、と言えばよかった。
でも、その時の私は、その子の眩しさを折る言葉を持っていなかった。朝のロンシャンは、昨日より少し明るかった。広い芝の上で、私は勝った。勝ったのに、言い損ねた言葉の方が、ずっと長く残った。