アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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106話 テンハロンちょい

 

朝、部屋を出る前に、タキオンさんが言った。

 

「今日、一本走ってもらうよ」

 

紅茶のカップを片手に、もう片方で紙を挟んでいる。昨日の夜、机を紙で埋めていたのに、朝にはまた別の紙を持っている。増えているんだと思う、たぶん。

 

「聞いてないんですけど」

 

「今言ったから問題ないね」

 

「そういうことじゃなくて」

 

「現地の子を何人か混ぜてね。向こうも軽い調整だ。こちらも軽い確認さ」

 

軽い確認、という言い方がもう軽くない。

 

正直、乗り気じゃなかった。私の役目は決まっている。前を引いて、途中で消える。本番で必要なのはそれだけだ。現地の子と正面から走る意味なんて、どこにもない。

 

それに、昨日の今日だった。みんなには走る理由があって、私にはない。昨日それを確かめたばかりなのに、理由を持っている子たちに混ざるのは、少し気まずい。

 

「なんで模擬レースなんですか。普通に走るのじゃ、だめ?」

 

走るのが嫌なわけじゃない。ただ、わざわざ競走の形にする意味が、分からなかった。前を引いて消えるのに、誰かと先着を競う必要なんてない。

 

「並んで走ると、分かることがあってね」

 

「一人だと、だめなんですか」

 

「一人だと出ない数字があるのさ。君のデータが要る」

 

「モルモット扱い」

 

「最上級の褒め言葉だと言っただろう」

 

言ってたけど、褒め言葉の基準がおかしい。この人は危ないことはさせないと言った。あの夜の、冗談じゃない声で。だから、まあ、危なくはないんだろう。

 

「……分かりました」

 

「素直でよろしい」

 

「素直じゃなくて、諦めです」

 

上着を取って、廊下に出た。絢原さんはもう話を聞いていたらしい。

 

「模擬レース、乗り気じゃないなら、断ってもいいんだぞ」

 

「走るのは、別にいいんだけど」

 

「けど?」

 

「なんで、あの形なんだろって」

 

「タキオンさんに聞いたか」

 

「はぐらかされた」

 

絢原さんは少し笑って、それ以上は言わなかった。

 

「変なら、途中でやめろ。合図しろ」

 

「はいはい」

 

それだけだった。

 

それだけで、十分だった。

 

 

 

 

 

 

トレーニング用のエリアには、もう何人か集まっていた。現地の子が三人。準備運動の動きに無駄がない。深い芝を、深いまま踏んで慣らしている。こっちに気づくと、軽く手を上げた。挨拶はそれだけ。敵意もないし、興味も長くは続かない。

 

日本から来た併せ相手。

 

その扱いは、ロビーのカメラよりずっと楽だった。

 

その少し外れに、黒い髪。

 

「来たか、日本の白いの」

 

「名前で呼ぶ話、どうなったの」

 

「カレンモエ」

 

言い直した。

 

雑にだけど、言い直した。

 

「これでいいか」

 

「よろしい」

 

「注文が多いんだよ、お前は」

 

昨日より、半歩ぶん近い気がする。気のせいかもしれないけど。タキオンさんが計測器を提げてきて、コースの方を指した。スタートの線と、ゴールの線。現地のスタッフが旗を持って立っている。

 

「距離は?」

 

なんとなく、聞いた。

 

「テンハロンちょいだ」

 

ノワールさんが答えた。

 

ハロンが、どれくらいだったか。

 

覚えていない。

 

テンは十。何かの、十個ぶん。その何かが、思い出せない。

メートルで言ってよと思ったけど、言ったら確実にバカにされそうなのでやめた。

 

「……長くない?」

 

「どうということはない」

 

タキオンさんが横から言った。顔は紙に向けたままだった。

 

なら、大したことないんだろう。タキオンさんは気休めを言わない。危ないことはさせないとも言った。絢原さんも止めていない。ノワールさんに至っては、この距離が当たり前みたいな顔をしている。私だけが数えるのも、バカらしい。

 

「走るだけでいいのさ。昨夜も言っただろう」

 

「出た、雑なやつ」

 

「雑で結構」

 

それで、距離の話は終わった。

 

 

 

 

 

 

スタートの線に並ぶ。

 

現地の三人は、内側に少し寄った。私とノワールさんが外めに並ぶ。隣のノワールさんから、無駄口が消えていた。

 

坂の方を、一度見る。

 

足元の芝を、蹄鉄シューズの先で二度確かめる。長く、息を吐く。それから、横目でこっちを見た。

 

「流して走んなよ」

 

「……何それ」

 

「その気のねぇ面のまま走ったら、承知しねぇからな」

 

目が、昨日までと違った。

 

口は悪いままなのに、目だけが静かだった。勝った子の余裕じゃない。持っている子の落ち着きでもない。毎年負けて、毎年戻ってくる子の、本気の目だった。

 

この子は、私を同じ場所に立つ相手として見ている。日本から来た、挑戦者として。

 

違う、と言うなら今だった。私は前を引く役で、あなたと張り合いに来たわけじゃない、と。

 

言わなかった。

 

昨日、街で確かめたばかりだ。この子には、負けても戻る理由がある。私にはない。ない側の口で、ある側の本気に水を差すのは、なんというか、うまく言えないけど、嫌だった。

 

旗が上がる。

 

考えるのを、やめた。

 

 

 

 

 

 

出た瞬間から、芝が重かった。

 

重くて、楽だった。

 

踏むたびに、地面が一度沈んで、遅れて返してくる。その遅れに、足がもう合っている。急かされない。弾かれない。空回りが、どこにもない。

 

内側の三人が前に出る。

 

ノワールさんがそのすぐ後ろにつく。私はさらに後ろ。位置取りの確認、とタキオンさんは言っていた。確認するほどのこともなく、体が勝手に収まった。

ただ前を突っ走る練習だけでなく、こういった位置取り練習も色んなところに効くんだそうだ。だから、好きに走れ、と言われた。

 

前の三人は、綺麗に並んで流れを作っていた。速くも遅くもない。誰かが決めたわけでもないのに、全員が同じ物差しで走っている。この国の走り方だ、と思った。

 

檻は、練習の中にもある。

 

道が続く。

 

続くのに、減っていく感じがしない。いつもなら、どこかで体が気にし始める。あとどれくらい走れるか。どこから危ないか。今日は、その感じがない。芝が深いぶん、一歩が深い。深いのに、削られない。息が上がる場所を、体が探しあぐねている。

 

昨日と同じだ。

 

静かすぎる。

 

前で、動きがあった。

 

坂だ。

 

登りに入った瞬間、内側の三人の脚が、揃って重くなった。芝がさらに深くなって、勾配が乗る。

 

崩れてはいない。

 

崩れてはいないけど、守りに入った。ノワールさんだけが、逆だった。坂の入りで、前に出た。飛び出したんじゃない。三人の外を、押し切るように上がっていく。深い芝を深いまま蹴って、勾配ごと踏み潰すみたいな登り方だった。

 

強い。

 

昨日、負けた場所だと言っていた坂で、この子は一番強かった。

 

三人が、離れていく。

 

足音が減って、前にはノワールさんだけが残った。

 

私はその背中についた。

 

ついて、坂を登った。

 

初めて走って登る坂だった。重さが増して、それでも足は文句を言わない。むしろ、下の平らなところより、踏み応えがあって分かりやすい。

 

坂を抜ける。

 

ノワールさんの背中が、少し近くなった。抜くつもりは、たぶん、最初はなかった。前が空いていたから、足がそっちへ行った。並んで、息の音が聞こえて、それから、前に出た。

 

並んだ一瞬、ノワールさんがこっちを見た気がする。見なかったのかもしれない。確かめる前に、体が前に出ていた。

 

そのまま、旗の横を抜けた。

 

速度を落とす。

 

芝が、最後まで足を受けてくれた。止まっても、膝が笑わない。息が、ほとんど乱れていなかった。

 

――長い。

 

止まってから、それをはっきり思った。走っている間はよく分からなかったけど、終わってみると、絶対にいつもより長かった。私の距離は短い。こんなに走った覚えはない。

 

なのに、脚がまだ残っている。息も余っている。

 

その余り方のせいで、うまく見積もれなかった。長かったのは確かだけど、これだけ楽なら、言っても、いつものスプリントに少し足したくらいか。せいぜい、短めのマイルくらいだろう。それ以上には、どうしても思えなかった。

 

……まあ、いいか。タキオンさんが決めた距離だ。

 

引っかかりは、そこで一度、宙に浮いた。

 

振り返る。

 

ノワールさんが線を越えて、少し行き過ぎてから止まった。その後ろは、まだ誰もいない。だいぶ待って、三人目が線を越えた。残りは、さらに後ろだった。

 

 

弱いな。

 

そう、思ってしまった。

 

もう少し残っていると思った。坂であれだけ見せたんだから、最後にもう一度、何か来ると思った。来なかった。それだけのことなのに、胸のどこも動かない。

 

私に負けて、この子は大丈夫なんだろうか。

 

見下しているわけじゃない。心配しているわけでもない。ただ、私程度に負けるのか、と思っただけだった。勝っても、何も湧いてこない。

 

……まあ、勝ったのは私なんだけど。

 

タキオンさんを見た。

 

計測器を見て、紙に何か書いて――ペンが、一度止まった。

 

止まって、また動いた。

 

何も言わなかった。

 

絢原さんが近づいてくる。

 

見る順番はいつも通りだ。足元、膝、肩、息。最後に目。

 

「痛みは」

 

「ない」

 

「嫌な感じは」

 

「ない」

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

勝った、とは言わなかった。私も言わなかった。この人が見に来たのは順位じゃない。

 

それはもう、知っている。

 

 

 

 

 

 

ノワールさんは、すぐには来なかった。線の先で立ったまま、息を整えている。肩が二回、大きく上下して、それで戻った。

 

切り替えの早さまで、負け慣れた子の形だった。負けることには慣れて、それでも、諦めることには慣れていない。そういう形だった。

 

坂の方を、一度だけ振り返る。

 

長くは見ない。

 

見て、戻して、こっちへ歩いてきた。

 

「テメェ」

 

「はい」

 

「なんだ、今の」

 

「私に聞かれても」

 

「ふざけんな。こっちは本気で行った」

 

「分かるよ」

 

「分かってねぇ顔してんだよ」

 

声は荒い。

 

でも、怒りだけじゃなかった。悔しさと、驚きと、たぶん少しの期待。全部混ざって、口の悪さで出ている。

 

「他の子、引き離したじゃん」

 

「そこじゃねぇ」

 

「じゃあ、どこ」

 

「俺を、見てなかっただろ」

 

返事が止まった。

 

見ていなかったわけじゃない。でも、この子の言う意味は分かった。私はあの子を、倒しに行っていない。前にいる気配として見ていた。走る理由を持っている相手として見ていた。勝たなきゃいけない相手としては、見ていなかった。

 

「……ごめん」

 

「謝んな。余計腹立つ」

 

「じゃあ、何て言えばいいの」

 

「次は、俺から目を離せないようにしてやる」

 

次。

 

軽く言える言葉じゃなかった。私はラビットで、前を引いて途中で下がる。だから、この子と本気で競り合う"次"なんて来るわけない。

 

言うなら、ここだった。

 

私はラビットだよ、って。

 

前を引いて、途中で下がる。レゾリュートさんを倒しに行くのは、私じゃない。そう言えばいい。

 

喉の手前まで来た。

 

でも、ノワールさんが坂の方を見た。

 

「欧州の連中はさ」

 

急に、声が低くなった。

 

「おかしいんだよ」

 

まだ息が整いきっていない。言葉の間に、少し呼吸が混ざる。

 

「みんな、二着でいい顔してる。あいつが動いたら、勝つのをやめる。そこから先は、誰が二番目に偉いかって話だ」

 

レゾリュート。

 

名前は出さなかった。出さなくても、誰のことかは分かった。

 

「賢いんだろうな。無駄に潰れない。自分の分は拾う。レースを壊さない。そういうのが上手い奴から、残っていく」

 

ノワールさんは、笑わなかった。

 

「でも、嫌いだ」

 

短かった。

 

昨日、毎年ここで千切れると言った時と、同じ声だった。

 

「俺は毎年、あそこで終わる」

 

視線が、坂の上へ行く。

 

「分かってるよ。脚が足りねぇ。息も足りねぇ。最後の坂で、あいつに勝つには足りねぇ」

 

そこまで言って、こっちを見た。

 

口の悪さが戻る。

 

でも、目は戻らなかった。

 

「お前なら、いける」

 

「……何が」

 

「あいつを、落とせ」

 

来た、と思った。

 

「俺じゃ無理だった。何回やっても、あそこで千切れる。でも、お前は今の一本で、あの坂を軽く越えやがった」

 

「軽くは」

 

「見えたんだよ」

 

遮られた。

 

「走ってる奴のことは、見りゃ分かる。嘘ついても、脚に出る。お前は、あそこで終わってなかった」

 

何も言えなかった。

 

終わっていなかった。

 

たしかに、終わっていなかった。でも、それは私がレゾリュートさんを倒しに来たって意味じゃない。私は、前を引いて消えるために来た。その先は、追わなくていい。昨日、絢原さんに言われた。私も軽く返した。ラビットだからね、って。

 

「ノワールさん」

 

声を出した。

 

その先が、続かない。

 

私は、と言えばよかった。

 

私はラビットだよ。

 

私は、その先を走らない。

 

私は、あなたの代わりにレゾリュートさんを落とす子じゃない。

 

でも、ノワールさんは、まだ坂を見ていた。負けた場所を、今日も見ていた。勝てないと分かっていて、それでも嫌いだと言える子だった。みんなが二着でいい顔をしていることを、賢いと分かっていて、それでも嫌いだと言える子だった。

 

私には、ない。

 

昨日、街で考えたことが、戻ってくる。みんなには走る理由があって、私にはない、というあれだ。

 

みんなには、ある。

 

私には、ない。

 

そのないものを持っている子に向かって、私は自分の役目を言えなかった。

 

「……勝手に押し付けないでよ」

 

やっと出たのは、それだけだった。

 

「押し付けてんだよ」

 

「最悪」

 

「知ってるよ」

 

「知ってるなら、やめて」

 

「やめねぇ」

 

すごく嫌な会話だった。

 

なのに、少しだけ、救われた。私が否定できなかったことに、ノワールさんは気づかない。たぶん、気づけない。この子の中で、私はもう挑戦者になっている。

 

日本から来た白い子。

 

金色の王と一緒に来て、ロンシャンの芝で自分に勝った子。そこに、ラビットって言葉はない。

 

「次は、目を死なせんな」

 

「また顔?」

 

「目だっつってんだろ」

 

「はいはい」

 

「注文、多いんだけど」

 

「勝ったやつが、負けたやつの注文くらい聞けよ」

 

「それ、逆じゃない?」

 

「逆でいいんだよ。負けたから、言ってんだ」

 

蹄鉄シューズの先で、芝を軽く削った。

 

「俺が勝ってたら、自分で行く」

 

その声に、嘘はなかった。

 

この子は本当に、勝っていたら自分でレゾリュートさんを落としに行くつもりだったんだと思う。勝てないと分かっていても。

 

毎年、千切れていても。

 

「……変なの」

 

「テメェに言われたくねぇ」

 

「たぶん、お互い様」

 

ノワールさんは、返事をしなかった。

 

坂の方へ、歩き出す。

 

また登るんだと思った。

 

走った後なのに。息がまだ戻りきってないのに。それでも、あの子は坂へ向かう。

 

「休まないの」

 

「休む」

 

「どこで」

 

「上」

 

意味が分からない。

 

でも、聞き返す気にはならなかった。ノワールさんは、坂を登っていく。走らない。昨日と同じように、足元を確かめながら。私は、その背中を見ていた。

 

 

 

 

 

 

戻ってきた私に、タキオンさんは何も聞かなかった。紙をまとめて、クリップで留める。ペンを胸元に戻す。いつもなら余計なことを言うのに、今日は言わない。

 

「聞かないんですか」

 

「君が答えるなら、聞くがね」

 

「答えないと思います」

 

「なら、今聞く価値は低い」

 

便利な人だ。

 

しゃくにさわるくらい便利で、今は少し助かる。

 

そういえば、さっきの引っかかり――長かったな、というあれは、いつの間にかどこかへ行っていた。ノワールさんの声が全部持っていってしまって、距離のことなんて、考える隙もなかった。まあ、どうでもいいか。走り終わったんだし。

 

絢原さんは、坂の方を見ていた。ノワールさんの背中は、もう小さい。黒い髪だけが、朝の光の中で少し濃く見えた。

 

「何か言われたか」

 

「まあ」

 

「嫌なことか」

 

「嫌ではない」

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

絢原さんは、私が言わないものを追わない。追わないで、隣に残る。

 

それも、今は助かった。

 

でも、助かることと、正しいことは違う。

 

違う、と言えばよかった。

 

私は前を引いて、途中で下がるだけだって。レゾリュートさんを落としに来たわけじゃないって。あなたが見てる私は、少し形が違うんだって。

 

言える場所は、あった。

 

走る前にも。

 

走った後にも。

 

落とせ、と言われた時にも。

 

どこでも言えた。

 

でも、私は言わなかった。

 

ノワールさんは、坂の途中で一度止まった。

 

足元を見る。

 

また、一歩上がる。

 

昨日と同じだった。負けた場所を、靴の裏で確かめるみたいに。

 

違う、と言えばよかった。

 

でも、その時の私は、その子の眩しさを折る言葉を持っていなかった。朝のロンシャンは、昨日より少し明るかった。広い芝の上で、私は勝った。勝ったのに、言い損ねた言葉の方が、ずっと長く残った。

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