——Challenger: Noir
坂を、歩いて登る。
走らない。走る脚はもう、さっきの一本で使った。息はまだ整いきっていないし、腿の裏には鈍い張りが残っている。
負けた直後の脚だ。
模擬レースで、日本の白いのに先着された。悔しいかと言われれば、悔しい。俺は本気で走ったし、現地の三人はちゃんと坂で離した。
俺は弱くない。
それでも、横に来た奴がいた。来て、抜いていった。腹に残っているのは、負けたことじゃなかった。
あいつは、坂で終わらなかった。俺が毎年終わる場所で、あいつはまだ息を残していた。俺が削られる場所で、あいつは削られていなかった。
並んだ時、横目で見た。
顔は熱くなかった。勝つ顔でもなかった。ただ脚が、まだ余っていた。
あれは、偶然じゃない。
そう見えてしまったら、もう、目を離せなくなった。負けた相手のことなんて、普段はすぐ忘れる。忘れて、次の朝にはまた坂を登る。それが俺のやり方だった。
なのに、あの白いのの走りだけが、腿の裏の張りみたいに、しつこく残っている。
靴裏で、芝を確かめる。
一歩ごとに、地面が沈む。踏み込んだ力が、遅れて重く返ってくる。
いつもの沈み。
いつもの重さ。
何年も、この足触りだけは変わらない。
同期のあいつは、この坂の上で二年続けて勝った。今年勝てば、三連覇だ。俺は、その同じ坂で、二年続けて千切れている。
毎年、ここで終わる。
だから、この坂を知らないふりはできない。喉に残る息の熱さも、腿にたまる鉛も、全部、馴染みすぎている。
登りながら、少しだけ、昔のことを思い出した。
――――
初めてこの坂に来た年のことは、今でも覚えている。あの頃の俺は、今よりだいぶ、青かった。口の悪さは同じだったが、腹の底が違った。
まだ、勝てると思っていた。
周りも、そう言った。
今年の伏兵。
坂に強い若いの。
地元の新しいやつ。
誰かが、レゾリュートに挑む黒だと書いた。悪くない書かれ方だと思った。あの年の朝、俺は、この坂を見上げて、これなら獲れる、と思った。
長い坂だ。
重い芝だ。
でも、そういうのは、むしろ得意なはずだった。地元の連中に、坂の黒、と呼ばれていた。
坂でこそ、俺は強い。
そう信じて、ここまで来た。
レゾリュートのことは、知っていた。あいつとは、同期だ。同じ頃に走り始めて、同じように、ここまで来た。
強いのは分かっていた。国内でも、あいつはずっと前にいた。でも、同じ年に始めた相手だ。強いだけなら、勝負になる。強い相手に、正面から挑んで、坂で並べば、そこから先は脚の勝負だ。信じられるだけの脚も、あるつもりだった。
本番の日。
ゲートが開いて、しばらくは、いつも通りだった。誰も前へ行きたがらない。緩い流れ。探り合い。この大陸の、いつもの入り口。
そして、レゾリュートが動いた。その瞬間に、空気が変わった。変わったのは、あいつの脚だけじゃない。
周りだった。
前へ行こうとしていた子が、追うのをやめた。外から被せようとしていた子が、進路を戻した。誰かが二着を狙う場所へ下がった。誰かが、自分の脚がどこまで保つかを計算し始めた。
それは、正しい。
今なら分かる。あいつを無理に追えば潰れる。潰れれば、後ろからも差される。二着すら残らない。
だから、賢い奴から順に、勝負を降りる。
全部、正しい判断だ。
でも、あの時の俺には、分からなかった。
俺だけが、追った。
坂に入った。
そこで、初めて知った。
ロンシャンの坂は、写真で見るより、ずっと重い。登りの途中で芝が深くなって、勾配が脚に乗って、それまで軽かった一歩が、急に鉛になる。前を行く白銀の背中が、どんどん遠くなる。
俺は、脚を動かしているつもりだった。ちゃんと、追っているつもりだった。なのに、距離だけが開いていく。
自分の脚が、急に他人のものになったみたいだった。前へ進んでいるのに、後ろへ引きずられている。
そんな、変な感覚だった。
追いつけない。
頭では、もう間に合わないと分かっていた。それでも、脚を止めることが、どうしてもできなかった。止めたら、そこで終わりだと思った。
だから、千切れるぎりぎりまで、追った。
千切れた。
初めての、坂の重さだった。レース後、周りは俺を褒めた。
よくやった。
あそこまで行けたなら十分だ。レゾリュート相手に、立派だった。
次に繋がる走りだ。
無理に潰れなくてよかった。
みんな、優しかった。
俺は、その「十分」が、嫌いになった。
十分って、何だよ。
勝ってねぇだろ。
口には出さなかった。出したところで、困った顔をされるだけだ。でも、腹の底で、その言葉だけが冷たく残った。
あれから、その言葉は消えていない。
――――
二年目も、同じだった。
同じ朝。
同じ坂。
同じ名前。
同じ白銀。
同じ、失速。
俺は、鍛えて戻った。坂を何度も歩いた。歩いて、登って、足裏にこの重さを覚え込ませた。
脚を作った。
息を作った。
一年目より、確かに強くなっていた。変わっていったのは、俺じゃなかった。
周りだった。
一年目、みんなは「勝てるかもしれない」と言っていた。二年目には「どこまで迫れるか」になっていた。そして三年目の今年は、まだ走ってもいないのに、もう「どう二着を拾うか」の話をしている。
欧州は、レゾリュートに慣れていった。
慣れて、賢くなった。
レゾが動いたら、追うな。
坂で脚を使い切るな。
二着を拾え。
賞金を守れ。
次へ残せ。
レースを、壊すな。
全部、正しい。
陣営が言うことは、現実的だ。実際、無理に追った奴は、みんな二着を落としている。降りた奴が、金を持って帰る。
数字で見れば、答えははっきりしている。俺だって、正しいことは分かっている。
分かっている。
分かったうえで、嫌いなんだ。二着で笑えるなら、最初から来るな。胸の中では、何度も言った。
言えば、また困った顔をされる。この大陸で、俺の考え方は、たぶん、少し古い。一年目も、二年目も、俺は坂で千切れた。
普通なら、心が折れる。
同じ場所で、同じ相手に、同じように負け続ければ、誰だって、来るのをやめる。賢く二着を拾う側に回るか、そもそも、この舞台を諦めるか。でも、俺は、毎年戻ってきた。
なぜかは、うまく言えない。あの坂の上に、まだ立ったことのない場所がある。レゾリュートの前という、俺がまだ見たことのない景色がある。
それを見ないまま終わるのは、どうしても、嫌だった。一つだけ、譲れないことがある。俺は、千切れる前に降りたことは、一度もない。
他の奴は、坂の手前で脚を残す。賢く、二着へ切り替える。俺だけが、最後までレゾリュートを見て走る。
見て、追って、それで千切れる。弱いから、間に合わないんじゃない。最後まで追うから、千切れるんだ。
その違いが、周りには伝わらない。数字の上では、どっちも「二着以下」でしかない。降りて二着を拾った奴と、追って千切れた俺が、同じ紙の上に、同じ順位で並ぶ。
でも、俺の中では、全然、違う。追って千切れるのと、賢く降りるのは、別のことだ。
それだけは、譲れない。
譲ったら、俺が毎年ここまで来る意味が、本当に、何もなくなる。
――――
勘違いしてほしくないんだが、俺は、レゾリュートを憎んでいるわけじゃない。
あいつは、強い。
それは、認めている。
この坂の上で、勝ち続けている。まぐれじゃない。あの脚は、本物だ。
俺が何年追っても、最後まで捉えられなかった。
それだけの相手だ。
嫌いなのは、あいつじゃない。あいつが動いた瞬間に、みんなの目が下がることだ。勝つ場所を探していた目が、残る場所を探し始める。
誰が二番目に偉いか、みたいな話になる。
その空気が、嫌なんだ。
あいつが悪いわけじゃねぇ。あいつは、強いだけだ。強くあることに、罪はない。
でも、あいつで終わるのは、嫌なんだよ。あいつがいるからと言って、みんなが揃って勝負を降りるのが、我慢ならない。だったら、走る意味なんて、どこにある。
二着を拾いに、わざわざこんな重い芝まで来たのか。
俺は、違う。
勝てなくても、追う。
間に合わなくても、追う。
毎年、同じ場所で千切れても、また来る。バカだと言われれば、そうかもしれない。でも、賢く二着を拾う連中よりは、まだ、走っている気がする。
――――
坂の半ばで、足を止めた。
さっきの、日本の白いのを思い出す。最初は、変な子だと思った。
目が死んでいた。
凱旋門賞に来たくせに、勝つ気が、まるで見えなかった。話しかけても、「一応」と言った。何しに来たのかと聞けば、「仕事」と言った。
逃げ方が、安かった。
だから、腹が立った。
ここまで来て、その面か、と思った。
でも、一つだけ、違った。
コースを見る目だけが、死んでいなかった。走る前、あいつは坂の芝を、足の裏で確かめていた。勝つ気のない奴は、あんなことをしない。
あの目だけが、俺の知っている目に、少しだけ似ていた。芝を、脚で読もうとする目だ。勝つ気のある奴の目じゃない。でも、走ることを、体のどこかで、まだ手放していない目だった。
ちぐはぐな子だと思った。
口では逃げて、目では逃げていない。その中身が、どうしても、気になった。だから、走らせてみたかった。
そして、走った。
あいつは、坂で終わらなかった。俺が本気で登った坂を、あいつは、横で、軽く越えていった。
俺は本気で行った。
あいつは、俺を見ていなかった。
それが、屈辱だった。
倒しに来られたなら、まだよかった。真正面から潰しに来られたなら、それは勝負だ。でも、あいつは俺を見ていなかった。
前にいる何かとしか、見ていなかった。俺が本気で削られている横で、あいつは、削られてすらいなかった。こんなに、腹の立つことはない。
同時に、怖かった。
初めて、見えてしまったからだ。レゾリュートを、落とせるかもしれない子。俺が何年追っても行けなかった場所まで、終わらずに行けるかもしれない子。
それが、俺じゃなかった。
俺じゃない誰かが、あの場所へ行くかもしれない。それを、目の前で見てしまった。怖い、というのは、こういうことだった。
あの場所へ行くことが、不可能ではなかったということ。何年も、俺には無理だと分かってきた場所が、脚の合う奴には、そこまで続いているということ。そして、その脚が、俺じゃなかったということ。
一度、見てしまったら、もう、なかったことにはできない。俺が毎年千切れてきたのは、あそこが誰にも行けない場所だったからじゃない。俺の脚が、足りなかったからだ。
そう、突きつけられた気がした。
金色のことは、知っている。あいつなら、レゾを負かすかもしれない。誰もがそう言うし、俺も、そう思う。
でも、あれは、別の話だ。金色は、最初から強い。強い奴が強い奴に勝つのは、驚く話じゃない。
俺が見てしまったのは、そういうのじゃない。俺と同じ坂で終わるはずの奴が、終わらなかった。それだけが、頭から離れなかった。
だから、言ってしまった。
あいつを落とせ。
綺麗な頼み方じゃなかった。お願いでも、託しでもない。敗者から勝者への、祝福でもない。
友情なんかでも、断じてない。自分では越えられなかった場所へ、勝手に、他人を押し出しただけだ。でも、そうするしか、なかった。
初めて見えた、終わらない背中を、黙って見送ることが、俺には、できなかった。
――――
坂の上まで、登りきった。
息は、だいぶ戻っていた。脚はまだ重い。でも、目は、落ちていない。
下を見た。
ロンシャンは、広い。
どこまでも芝が続いている。柵も、木も、遠くの観客席も、朝の光の中で、静かに広がっている。広いのに、勝つ場所は、いつも同じだった。
レゾリュートがいる場所。
みんなが諦める場所。
俺が、毎年千切れる場所。
そして、今日。
日本の白いのが、終わらなかった場所。さっきの模擬レースの線は、もう片付けられていた。旗も、係の姿もない。何もなかったみたいに、芝だけが広がっている。
でも、俺には、まだ見える。俺が終わった場所と、あいつが終わらなかった場所が、同じところに、重なって見える。何年も、俺はこの景色を、一人で見てきた。
千切れて、坂を歩いて登って、上から、勝つ場所を見下ろす。毎年、同じだった。同じ場所で終わって、同じ場所を見上げて、また来年、と思う。
今年は、その景色に、一つだけ、余計なものが混ざっていた。俺以外の脚が、あそこを越えていった跡だ。あいつのことを、俺はまだ、何も知らない。
日本から来た、白い子。
金色のと一緒に来た子。
それくらいしか、知らない。あいつが、何のためにここに来て、本番でどう走るつもりなのか、俺は知らない。知らないまま、信じている。
おかしな話だと、自分でも分かる。今日会ったばかりの、逃げ方の安い、目の死んだ子だ。
でも、理屈じゃない。
あの一本を見た脚が、まだ騒いでいる。あいつなら、あそこで終わらない。あいつなら、レゾリュートの背中を、最後まで見ていられる。
息を、一つ吐いた。
今年も、芝は重い。
今年も、坂は長い。
今年も、あいつは、そこにいる。
それでも、今年は、一つだけ違う。
日本の白いのが、あそこで、終わらなかった。
「逃げんなよ」
そう、呟いた。
誰に言ったのかは、自分でも、よく分からなかった。