アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

146 / 146
幕間 坂の下

 

——Challenger: Noir

 

坂を、歩いて登る。

 

走らない。走る脚はもう、さっきの一本で使った。息はまだ整いきっていないし、腿の裏には鈍い張りが残っている。

 

負けた直後の脚だ。

 

模擬レースで、日本の白いのに先着された。悔しいかと言われれば、悔しい。俺は本気で走ったし、現地の三人はちゃんと坂で離した。

 

俺は弱くない。

 

それでも、横に来た奴がいた。来て、抜いていった。腹に残っているのは、負けたことじゃなかった。

 

あいつは、坂で終わらなかった。俺が毎年終わる場所で、あいつはまだ息を残していた。俺が削られる場所で、あいつは削られていなかった。

 

並んだ時、横目で見た。

 

顔は熱くなかった。勝つ顔でもなかった。ただ脚が、まだ余っていた。

 

あれは、偶然じゃない。

 

そう見えてしまったら、もう、目を離せなくなった。負けた相手のことなんて、普段はすぐ忘れる。忘れて、次の朝にはまた坂を登る。それが俺のやり方だった。

 

なのに、あの白いのの走りだけが、腿の裏の張りみたいに、しつこく残っている。

 

靴裏で、芝を確かめる。

 

一歩ごとに、地面が沈む。踏み込んだ力が、遅れて重く返ってくる。

 

いつもの沈み。

 

いつもの重さ。

 

何年も、この足触りだけは変わらない。

 

同期のあいつは、この坂の上で二年続けて勝った。今年勝てば、三連覇だ。俺は、その同じ坂で、二年続けて千切れている。

 

毎年、ここで終わる。

 

だから、この坂を知らないふりはできない。喉に残る息の熱さも、腿にたまる鉛も、全部、馴染みすぎている。

 

登りながら、少しだけ、昔のことを思い出した。

 

 

 

――――

 

 

 

初めてこの坂に来た年のことは、今でも覚えている。あの頃の俺は、今よりだいぶ、青かった。口の悪さは同じだったが、腹の底が違った。

 

まだ、勝てると思っていた。

 

周りも、そう言った。

 

今年の伏兵。

 

坂に強い若いの。

 

地元の新しいやつ。

 

誰かが、レゾリュートに挑む黒だと書いた。悪くない書かれ方だと思った。あの年の朝、俺は、この坂を見上げて、これなら獲れる、と思った。

 

長い坂だ。

 

重い芝だ。

 

でも、そういうのは、むしろ得意なはずだった。地元の連中に、坂の黒、と呼ばれていた。

 

坂でこそ、俺は強い。

 

そう信じて、ここまで来た。

 

レゾリュートのことは、知っていた。あいつとは、同期だ。同じ頃に走り始めて、同じように、ここまで来た。

 

強いのは分かっていた。国内でも、あいつはずっと前にいた。でも、同じ年に始めた相手だ。強いだけなら、勝負になる。強い相手に、正面から挑んで、坂で並べば、そこから先は脚の勝負だ。信じられるだけの脚も、あるつもりだった。

 

本番の日。

 

ゲートが開いて、しばらくは、いつも通りだった。誰も前へ行きたがらない。緩い流れ。探り合い。この大陸の、いつもの入り口。

 

そして、レゾリュートが動いた。その瞬間に、空気が変わった。変わったのは、あいつの脚だけじゃない。

 

周りだった。

 

前へ行こうとしていた子が、追うのをやめた。外から被せようとしていた子が、進路を戻した。誰かが二着を狙う場所へ下がった。誰かが、自分の脚がどこまで保つかを計算し始めた。

 

それは、正しい。

 

今なら分かる。あいつを無理に追えば潰れる。潰れれば、後ろからも差される。二着すら残らない。

 

だから、賢い奴から順に、勝負を降りる。

 

全部、正しい判断だ。

 

でも、あの時の俺には、分からなかった。

 

俺だけが、追った。

 

坂に入った。

 

そこで、初めて知った。

 

ロンシャンの坂は、写真で見るより、ずっと重い。登りの途中で芝が深くなって、勾配が脚に乗って、それまで軽かった一歩が、急に鉛になる。前を行く白銀の背中が、どんどん遠くなる。

 

俺は、脚を動かしているつもりだった。ちゃんと、追っているつもりだった。なのに、距離だけが開いていく。

 

自分の脚が、急に他人のものになったみたいだった。前へ進んでいるのに、後ろへ引きずられている。

 

そんな、変な感覚だった。

 

追いつけない。

 

頭では、もう間に合わないと分かっていた。それでも、脚を止めることが、どうしてもできなかった。止めたら、そこで終わりだと思った。

 

だから、千切れるぎりぎりまで、追った。

 

千切れた。

 

初めての、坂の重さだった。レース後、周りは俺を褒めた。

 

よくやった。

 

あそこまで行けたなら十分だ。レゾリュート相手に、立派だった。

 

次に繋がる走りだ。

 

無理に潰れなくてよかった。

 

みんな、優しかった。

 

俺は、その「十分」が、嫌いになった。

 

十分って、何だよ。

 

勝ってねぇだろ。

 

口には出さなかった。出したところで、困った顔をされるだけだ。でも、腹の底で、その言葉だけが冷たく残った。

 

あれから、その言葉は消えていない。

 

 

 

――――

 

 

 

二年目も、同じだった。

 

同じ朝。

 

同じ坂。

 

同じ名前。

 

同じ白銀。

 

同じ、失速。

 

俺は、鍛えて戻った。坂を何度も歩いた。歩いて、登って、足裏にこの重さを覚え込ませた。

 

脚を作った。

 

息を作った。

 

一年目より、確かに強くなっていた。変わっていったのは、俺じゃなかった。

 

周りだった。

 

一年目、みんなは「勝てるかもしれない」と言っていた。二年目には「どこまで迫れるか」になっていた。そして三年目の今年は、まだ走ってもいないのに、もう「どう二着を拾うか」の話をしている。

 

欧州は、レゾリュートに慣れていった。

 

慣れて、賢くなった。

 

レゾが動いたら、追うな。

 

坂で脚を使い切るな。

 

二着を拾え。

 

賞金を守れ。

 

次へ残せ。

 

レースを、壊すな。

 

全部、正しい。

 

陣営が言うことは、現実的だ。実際、無理に追った奴は、みんな二着を落としている。降りた奴が、金を持って帰る。

 

数字で見れば、答えははっきりしている。俺だって、正しいことは分かっている。

 

分かっている。

 

分かったうえで、嫌いなんだ。二着で笑えるなら、最初から来るな。胸の中では、何度も言った。

 

言えば、また困った顔をされる。この大陸で、俺の考え方は、たぶん、少し古い。一年目も、二年目も、俺は坂で千切れた。

 

普通なら、心が折れる。

 

同じ場所で、同じ相手に、同じように負け続ければ、誰だって、来るのをやめる。賢く二着を拾う側に回るか、そもそも、この舞台を諦めるか。でも、俺は、毎年戻ってきた。

 

なぜかは、うまく言えない。あの坂の上に、まだ立ったことのない場所がある。レゾリュートの前という、俺がまだ見たことのない景色がある。

 

それを見ないまま終わるのは、どうしても、嫌だった。一つだけ、譲れないことがある。俺は、千切れる前に降りたことは、一度もない。

 

他の奴は、坂の手前で脚を残す。賢く、二着へ切り替える。俺だけが、最後までレゾリュートを見て走る。

 

見て、追って、それで千切れる。弱いから、間に合わないんじゃない。最後まで追うから、千切れるんだ。

 

その違いが、周りには伝わらない。数字の上では、どっちも「二着以下」でしかない。降りて二着を拾った奴と、追って千切れた俺が、同じ紙の上に、同じ順位で並ぶ。

 

でも、俺の中では、全然、違う。追って千切れるのと、賢く降りるのは、別のことだ。

 

それだけは、譲れない。

 

譲ったら、俺が毎年ここまで来る意味が、本当に、何もなくなる。

 

 

 

――――

 

 

 

勘違いしてほしくないんだが、俺は、レゾリュートを憎んでいるわけじゃない。

 

あいつは、強い。

 

それは、認めている。

 

この坂の上で、勝ち続けている。まぐれじゃない。あの脚は、本物だ。

 

俺が何年追っても、最後まで捉えられなかった。

 

それだけの相手だ。

 

嫌いなのは、あいつじゃない。あいつが動いた瞬間に、みんなの目が下がることだ。勝つ場所を探していた目が、残る場所を探し始める。

 

誰が二番目に偉いか、みたいな話になる。

 

その空気が、嫌なんだ。

 

あいつが悪いわけじゃねぇ。あいつは、強いだけだ。強くあることに、罪はない。

 

でも、あいつで終わるのは、嫌なんだよ。あいつがいるからと言って、みんなが揃って勝負を降りるのが、我慢ならない。だったら、走る意味なんて、どこにある。

 

二着を拾いに、わざわざこんな重い芝まで来たのか。

 

俺は、違う。

 

勝てなくても、追う。

 

間に合わなくても、追う。

 

毎年、同じ場所で千切れても、また来る。バカだと言われれば、そうかもしれない。でも、賢く二着を拾う連中よりは、まだ、走っている気がする。

 

 

 

――――

 

 

 

坂の半ばで、足を止めた。

 

さっきの、日本の白いのを思い出す。最初は、変な子だと思った。

 

目が死んでいた。

 

凱旋門賞に来たくせに、勝つ気が、まるで見えなかった。話しかけても、「一応」と言った。何しに来たのかと聞けば、「仕事」と言った。

 

逃げ方が、安かった。

 

だから、腹が立った。

 

ここまで来て、その面か、と思った。

 

でも、一つだけ、違った。

 

コースを見る目だけが、死んでいなかった。走る前、あいつは坂の芝を、足の裏で確かめていた。勝つ気のない奴は、あんなことをしない。

 

あの目だけが、俺の知っている目に、少しだけ似ていた。芝を、脚で読もうとする目だ。勝つ気のある奴の目じゃない。でも、走ることを、体のどこかで、まだ手放していない目だった。

 

ちぐはぐな子だと思った。

 

口では逃げて、目では逃げていない。その中身が、どうしても、気になった。だから、走らせてみたかった。

 

そして、走った。

 

あいつは、坂で終わらなかった。俺が本気で登った坂を、あいつは、横で、軽く越えていった。

 

俺は本気で行った。

 

あいつは、俺を見ていなかった。

 

それが、屈辱だった。

 

倒しに来られたなら、まだよかった。真正面から潰しに来られたなら、それは勝負だ。でも、あいつは俺を見ていなかった。

 

前にいる何かとしか、見ていなかった。俺が本気で削られている横で、あいつは、削られてすらいなかった。こんなに、腹の立つことはない。

 

同時に、怖かった。

 

初めて、見えてしまったからだ。レゾリュートを、落とせるかもしれない子。俺が何年追っても行けなかった場所まで、終わらずに行けるかもしれない子。

 

それが、俺じゃなかった。

 

俺じゃない誰かが、あの場所へ行くかもしれない。それを、目の前で見てしまった。怖い、というのは、こういうことだった。

 

あの場所へ行くことが、不可能ではなかったということ。何年も、俺には無理だと分かってきた場所が、脚の合う奴には、そこまで続いているということ。そして、その脚が、俺じゃなかったということ。

 

一度、見てしまったら、もう、なかったことにはできない。俺が毎年千切れてきたのは、あそこが誰にも行けない場所だったからじゃない。俺の脚が、足りなかったからだ。

 

そう、突きつけられた気がした。

 

金色のことは、知っている。あいつなら、レゾを負かすかもしれない。誰もがそう言うし、俺も、そう思う。

 

でも、あれは、別の話だ。金色は、最初から強い。強い奴が強い奴に勝つのは、驚く話じゃない。

 

俺が見てしまったのは、そういうのじゃない。俺と同じ坂で終わるはずの奴が、終わらなかった。それだけが、頭から離れなかった。

 

だから、言ってしまった。

 

あいつを落とせ。

 

綺麗な頼み方じゃなかった。お願いでも、託しでもない。敗者から勝者への、祝福でもない。

 

友情なんかでも、断じてない。自分では越えられなかった場所へ、勝手に、他人を押し出しただけだ。でも、そうするしか、なかった。

 

初めて見えた、終わらない背中を、黙って見送ることが、俺には、できなかった。

 

 

 

――――

 

 

 

坂の上まで、登りきった。

 

息は、だいぶ戻っていた。脚はまだ重い。でも、目は、落ちていない。

 

下を見た。

 

ロンシャンは、広い。

 

どこまでも芝が続いている。柵も、木も、遠くの観客席も、朝の光の中で、静かに広がっている。広いのに、勝つ場所は、いつも同じだった。

 

レゾリュートがいる場所。

 

みんなが諦める場所。

 

俺が、毎年千切れる場所。

 

そして、今日。

 

日本の白いのが、終わらなかった場所。さっきの模擬レースの線は、もう片付けられていた。旗も、係の姿もない。何もなかったみたいに、芝だけが広がっている。

 

でも、俺には、まだ見える。俺が終わった場所と、あいつが終わらなかった場所が、同じところに、重なって見える。何年も、俺はこの景色を、一人で見てきた。

 

千切れて、坂を歩いて登って、上から、勝つ場所を見下ろす。毎年、同じだった。同じ場所で終わって、同じ場所を見上げて、また来年、と思う。

 

今年は、その景色に、一つだけ、余計なものが混ざっていた。俺以外の脚が、あそこを越えていった跡だ。あいつのことを、俺はまだ、何も知らない。

 

日本から来た、白い子。

 

金色のと一緒に来た子。

 

それくらいしか、知らない。あいつが、何のためにここに来て、本番でどう走るつもりなのか、俺は知らない。知らないまま、信じている。

 

おかしな話だと、自分でも分かる。今日会ったばかりの、逃げ方の安い、目の死んだ子だ。

 

でも、理屈じゃない。

 

あの一本を見た脚が、まだ騒いでいる。あいつなら、あそこで終わらない。あいつなら、レゾリュートの背中を、最後まで見ていられる。

 

息を、一つ吐いた。

 

今年も、芝は重い。

 

今年も、坂は長い。

 

今年も、あいつは、そこにいる。

 

それでも、今年は、一つだけ違う。

 

日本の白いのが、あそこで、終わらなかった。

 

「逃げんなよ」

 

そう、呟いた。

 

誰に言ったのかは、自分でも、よく分からなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで(作者:八幡悠)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

憧れだけじゃ走れない。でも憧れがなければ、私は走り出せなかった。「私なんかが……でも、バクシンオーさんなら、きっとこうする」──そうして私は、私じゃない誰かになって走り続けた。自己評価ミジンコ級のウマ娘が短距離王者とマイル女王の思いを受け継ぎ、かつて分かたれたマイルとスプリントを統一し、世界へ、さらにその先へ。▼【挿絵表示】▼


総合評価:2585/評価:8.69/連載:168話/更新日時:2026年07月03日(金) 06:01 小説情報

競馬ミリしらウマ娘ファンがウマ娘化されていないモブ(?)ウマ娘に転生したので、頑張って百合ハーレムを作ろうとする話(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ウマ娘に転生したから百合ハーレムを築きたい競馬ミリしら民のお話。▼ なお、名前はディープインパクトという。


総合評価:2276/評価:7.72/連載:20話/更新日時:2026年04月04日(土) 11:39 小説情報

その瞳に勝利を(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

「わたしは勝つわ、トレーナー!」▼「頑張って支えるよ」


総合評価:2903/評価:8.75/完結:74話/更新日時:2026年05月14日(木) 23:00 小説情報

転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘(作者:アリマリア)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

コメディもあるしシリアスもある、転生者2人のお話。▼書きたいものを詰め込んだヤツ。▼ * * *▼Chama様から支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上から、ホシノウィルム、堀野トレーナー、2人のイラストです。▼匿名希望の読者様からも支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上はタイトルなし、下はタイトルありの…


総合評価:26884/評価:8.63/完結:253話/更新日時:2025年08月28日(木) 18:00 小説情報

地方トレセンを舐めるなよ!(作者:鼻毛王)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

▼才能に溢れすぎた、一人のウマ娘。▼地方トレセンの一つ、笠松トレセンの再興に助力し、中央一強体制を崩しにかかる。▼『中央のウマ娘の方が強い』▼そんな常識を叩き壊すお話。▼*シンデレラグレイに触発されて執筆した作品です。▼


総合評価:3184/評価:8.39/連載:48話/更新日時:2026年04月16日(木) 18:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>