その夜は、日本の四人で飯を食うことになった。ホテルの少し奥まったところにある部屋だった。観光客の来ない、静かな店。ジャーニーさんが手配したらしい。遠征中に、同じ国から来た者同士で一度くらい顔を合わせておくのは悪くない、というようなことを言っていた。
四人というのは、オルフェーヴルさん、ジャーニーさん、絢原さん、そして私だ。
正直、気は進まなかった。金色の主役と同じテーブルに着く。何を話せばいいのかも分からない。でも、絢原さんが「顔だけ出せばいい」と言うので、ついてきた。断る理由を探すのも面倒だった。
タキオンさんは、来なかった。
正確には、途中まで来て、テーブルの端で紅茶を一杯だけ飲んで、それから「実に有意義な観察対象が揃っているが、あいにく私の胃は今、糖分しか受けつけないのでね」と言って、紙袋を抱えて出ていった。
「あの人、何しに来たの」
「顔を出しに来た、という顔だったな」
絢原さんが答えた。たぶん、その通りだ。
「タキオン先輩は、面白い方ですね」
ジャーニーさんが言った。
「面白い、で済ませていいんですか」
「済ませてはいませんよ。ですから、面白いと申し上げているのです」
言葉は柔らかいのに、中身は柔らかくない。眼鏡の奥で、この人はたぶん、いろんなものを勘定している。オルフェーヴルさんの隣で、静かに、抜かりなく。
料理が運ばれてくる。フランス語のメニューは相変わらず読めなかったけど、ジャーニーさんが順番に注文してくれた。
「カレンモエさん。お口に合えばよいのですが」
「たぶん、大丈夫です。育ちがいいので」
「それはそれは」
ジャーニーさんは口元だけで小さく笑った。
その正面に、オルフェーヴルさんが座っている。
近くで見ると、やっぱり少し違った。姿勢がいい、というだけじゃない。座っているだけで、テーブルの重心がその人の方へ寄っている。何か特別なことをしているわけじゃないのに、視線が自然にそっちへ行く。
金色の髪。伸びた背筋。皿に伸ばす手つきまで、どこか堂々としている。
主役、という言葉がたぶん一番近い。
「オルが会食に付き合うなんて、珍しいこともあるものですね」
ジャーニーさんがグラスに口をつけながら言った。
「姉上の手配であるからな」
オルフェーヴルさんはそれだけ返した。
普段はこういう席に出てこない人らしい。日本の陣営同士でも、王は王で、食事は一人でとるものなのだろう。今夜が例外だということだけ、姉の言い方で分かった。
姉が決めた席だから、座っている。それだけの人だ。実際、料理の間、この人が自分から口を開くことはほとんどなかった。
店の人も、それが分かるらしい。オルフェーヴルさんの皿を出す時だけ、手つきがほんの少し丁寧になる。言葉が通じているわけでもないのに、伝わるものがあるのだと思う。格、というのはたぶんそういうものだ。黙って座っているだけで、周りが勝手に姿勢を正す。
「お前は、何をしにここへ来た」
食事が半ばに差しかかった頃、オルフェーヴルさんが初めて私に話しかけた。
前置きが何もなかった。名乗る隙も、母の名前も、出てこない。カレンチャンの娘か、とも聞かれなかった。この人は、目の前の私にだけ用件を聞いている。
軽んじられてはいなかった。かといって、対等に扱われているわけでもない。同じ席に着いた客に、一言だけ声をかける。王様の義理、みたいなものだと思った。悪い感じはしない。
「……レースの先導役です」
「ラビット、か」
「はい」
「……ふむ。似合わぬ役を貰ったものだな」
どういう意味かは分からなかった。似合う似合わないの話じゃない。役目は役目だ。
それきり、オルフェーヴルさんは何も言わなかった。ただ、視線だけが一瞬、隣の姉の方へ流れた。
ジャーニーさんは素知らぬ顔でグラスを傾けている。
何の間だったのかは、分からなかった。
しばらくして、オルフェーヴルさんの手が一度止まった。それから、目がこちらへ動く。金色が、値踏みするでもなく、憐れむでもなく、私をそのまま映していた。
「それで終わって、悔いはないのか」
テーブルが少しだけ静かになった。ジャーニーさんが眼鏡の位置を直す。絢原さんは何も言わなかった。こちらを見ていた気配だけ、隣で感じた。
私は答えた。
「ないよ。主役じゃない方が楽だし」
「……ふん」
鼻から短い息が抜けた。笑ったのとは違う音だった。
言ってから、少し砕けた言い方になったなと思った。相手は格上だ。でも、取り繕う気力もなかった。
主役じゃない方が楽。それは嘘じゃなかった。誰にも呼ばれない。誰も期待しない。前を引いて、役目が済んだら消える。今の私には、それがちょうどいい。走る理由なんて持っていない。
不思議なもので、この人には、ラビットだとすんなり言えた。坂で会ったあの子には、言えなかったのに。前を引いて途中で下がるだけだと、あの時はどうしても口にできなかった。
相手が格上か格下か、なんて話じゃない。あの子は私に期待していた。オルフェーヴルさんは、していない。期待されていない相手には、本当のことがこんなに軽く言えるらしい。
オルフェーヴルさんは笑わなかった。金色の目が少しだけ細くなる。憐れんだのでも、呆れたのでもない。何かを確かめるような目だった。
「さて」
短い間があった。
「本番でもそう言えるものか、見ものであるな」
それだけ言って、オルフェーヴルさんはまた皿に手を戻した。
意味は、よく分からなかった。本番でも、楽だと、脇役でいいと、同じように言えるかどうか。まるで、言えなくなる時が来るとでも思っているような口ぶりだった。そんなこと、あるわけがない。私は走る理由を持っていない。理由がないのに、途中で変わったりしない。
そう考えたのに、その一言だけが、なぜか耳の奥に残った。
「オルは、言葉が足りないのです」
ジャーニーさんが穏やかに継いだ。
「ふふ。お気になさらず……と申し上げたいところですが。この子の言葉は、時々、後から効いてまいりますので」
「姉上、余計なことを」
「事実でしょう?」
二人は実の姉妹だ。ジャーニーさんが姉で、オルフェーヴルさんが妹。並ぶと頭一つ以上も背が違うのに、オル、と呼ぶ声だけは、どこからどう聞いても姉だった。妹を勝たせるために、この人はここまで来た。守りたいものがはっきりある人の顔だ。
オルフェーヴルさんの方も、ジャーニーさんには少しだけ言い方が柔らかい気がした。余計なことを言うな、と口では言いながら、追い払う気配はない。この二人はたぶん長い。同じ時間をたくさん重ねてきた者同士の空気だった。
去年、この人たちはここで負けたのだと思う。オルフェーヴルさんが取り返しに来た、というのはそういうことだ。白銀に、この舞台で敗れた。その続きを、今年、二人で取りに来ている。
私には、それがない。取り返したい過去も、勝たせたい相手も、何もない。だから、少しだけ眩しかった。
その言葉を、口には出さなかった。
~
食事が終わって、店を出た。
夜のパリは昼より少しだけ冷える。石畳が街灯を薄く返している。ホテルまでは歩いてすぐの距離だった。
オルフェーヴルさんが先を歩いていた。主役は、こういう時も自然と前になる。誰かが譲るわけでもないのに、隊列の先頭がその人の場所になる。ジャーニーさんがその半歩後ろ。絢原さんと私は、さらに後ろを歩いた。
前を歩く二つの背中を、後ろから見ていた。金色と、その半歩後ろ。守る人と、守られる人。ジャーニーさんの視線は時々、通りの左右へ流れる。何かを見張っているというより、確かめている。妹の歩く道に危ないものがないか。そういう見方だった。
角を曲がった時だった。
前から、杖をついたおばあさんが歩いてくる。石畳の継ぎ目に爪先を取られたのか、体がふいに前へ傾いで、杖が手から離れた。
あ、と思うより早く、金色が動いていた。半歩踏み込んで、腕一本でその体を止める。杖が石畳で鳴った。その音が、一番遅かった。
おばあさんがちゃんと立て直すのを確かめてから、オルフェーヴルさんは手を離した。ジャーニーさんが杖を拾って渡して、二言三言、言葉を交わす。おばあさんは何度も何か言っていた。言葉は分からなくても、意味は分かる。
オルフェーヴルさんはもう前を向いていた。礼の続きは姉が引き取って、本人は何もなかったみたいに歩き出している。慌てた様子も、得意げな様子もない。ジャーニーさんの方も驚いていなかった。妹のこういうところを、たぶん何度も見てきたんだと思う。
隣で、絢原さんの足が半歩前に出て、止まった。間に合う距離じゃない。それでも体は動いていた。
私の体は、動かなかった。
「……今の、見てた?」
「見てた」
絢原さんは少しだけ間を置いた。
「体が勝手に動いたんだろうな」
「考えて動く速さじゃなかった」
「ああいうのは、考えたら間に合わない」
先頭の背中は、いつもの速さで夜の街を進んでいく。
でも、私は見ていた。
通りの危ないものをずっと確かめていたのは、姉の方だ。なのに、一番先に気づいて、一番先に動いたのは、前を歩く人だった。あのおばあさんは、あの人の何でもない。守る理由なんて一つもないのに、体が先に出る。
主役は、主役でいることから、逃げられないんだな。
そんな言葉が頭の中に浮かんだ。見られていても、見られていなくても、あの人はあの人でいるしかない。それは、たぶん、脇役の私には一生分からない重さだ。
~
ホテルに戻ると、部屋のドアの前で絢原さんが立ち止まった。
「変な言い方だが」
「なに」
「今日は、よく喋ったな。オルフェーヴル相手に」
「格上には、大人しくしとけって?」
「逆だ」
絢原さんはそこで少しだけ黙った。
「お前が、あんまり縮こまってなかったから」
それ以上は言わなかった。縮こまる。たしかに、昔の私ならあの席で、もっと自分を小さくしていたかもしれない。今日はそうならなかった。理由は自分でもよく分からない。
たぶん、火が消えていると、変に楽なのだ。勝つ気も、認められたい気持ちも、今は遠い。だから、格上の前でも身構えるものがない。失うものが、そもそもない。
「ねえ、トレーナー」
「なんだ」
「私、あの人みたいに動けるかな。いざって時に」
絢原さんは少し考えた。それから、いつもの低い声で言った。
「動かなくていい時に、無理に動く必要はない」
「答えになってない」
「そんなものだろう」
はぐらかされた。でも、嫌な感じはしなかった。
「おやすみ、トレーナー」
「ああ。おやすみ」
部屋に入って、明かりをつける。タキオンさんはまた机で紙を睨んでいた。こっちを見もしない。いつも通りだ。
ベッドに転がって、天井を見た。オルフェーヴルさんのあの一言が、まだ残っていた。本番でもそう言えるものか、見ものであるな。
言えるに決まっている、とまた考える。私はラビットだ。前を引いて、途中で下がる。主役じゃない方が楽だと、本番でも同じように言う。
そう、思っているのに。
金色の腕が伸びた、あの速さだけがなぜか一緒に浮かんでくる。前を歩く人は逃げられない。真っ先に気づいて、真っ先に動いてしまう。
私はそれを見ていた。後ろから、脇役の場所から、ちゃんと。絢原さんの体さえ動いたのに、私の体はぴくりともしなかった。間に合う距離じゃなかった、というのは言い訳だ。動こうとすら、していなかった。
火が消えている、というのはたぶんそういうことだ。誰かのために勝手に動く体を、私は今、持っていない。
私は、脇役だ。
だから、あれとは関係ない。
そのはずだった。
主役は、主役でいることから逃げられない。その時の私は、それを少しだけ気の毒だと思った。