——The General Public《大衆》
本番まで、あと三週間。
この日、ロンシャンに、二つの色が集まった。金と、白銀。大陸中のカメラが、その二色のためだけに並んでいる。同じ芝で、それぞれの前哨戦がある。今日はまだ、決着はつかない。二つの色がどれだけ仕上がったかを、世界が確かめるだけの日だった。世界の目当ては、はっきりしていた。金が、去年の雪辱をどこまで詰めてきたか。白銀が、変わらず頂点にいるか。その二つだけ。それ以外の脚は、今日は景色の一部でしかない。
前半は、フォワ賞。
主役は、金色だ。去年この舞台で白銀に敗れ、海の向こうから取り返しに来た挑戦者。ゲートが開くと、金色は最後方で脚を畳んだ。欧州の古豪たちが先を争って飛ばし、重い芝と長い坂に、一人ずつ削られていく。金色は待つ。焦れているのは、見ている側だけだった。
坂の途中で、外から一息に動いた。
『Orfèvre s'envole ! Personne ne peut la suivre !』
追う脚は、どれも坂で終わっている。金色だけが、悠々と最後の直線を抜けていった。スタンドが割れる。金色の挑戦者が、帰ってきた——四つの言語で、同じ言葉が飛び交った。日本のカメラの列が、いっせいにフラッシュを焚く。明日の一面は、もう決まったようなものだった。
勝った金色を、姉が柵の内で迎える。飛び跳ねもせず、声も上げない。小さく頷いただけだった。妹の勝ちを喜ぶより先に、頭の中で、まだ回っている歯車があるようだった。金と白銀の再戦。その筋書きの最初の駒が、思った通りの場所に進んだ。そういう頷き方だった。
~
後半は、ヴェルメイユ賞。
パドックに白銀が現れると、音が変わった。
金色の時のような、うねる歓声じゃない。もっと静かで、確かめるような音だった。今年もそこにいるのか、という確認の音。背筋の伸びた、銀色がかった鹿毛。視線ひとつ揺らさず、誰のことも見ずに歩く。それだけで、パドックの重心が、その一点へ沈んでいく。ざわめきが、自然と声をひそめる。女王が通る道を、みんなが無意識に空けていた。
欧州中距離の絶対女王。去年のこの舞台の覇者。今季無敗。この重い芝は、彼女の庭だ。連覇を疑う声は、ここにひとつもない。
香港から来た短距離のことを覚えている者は、この観客の中に、たぶん一人もいない。世界女王という肩書きは、海を渡った瞬間に、この二色の前で溶けて消えていた。今日この芝の上で名前を持っているのは、金と、白銀。それだけだった。
ゲートが開く。
そして、しばらく、何も起きなかった。
誰も、前に行こうとしないのだ。白銀は、中団の後ろにいる。ただそこにいるだけ。なのに、前の脚が、みんな鈍い。白銀より前に出ることを、全員が避けている。先頭を引けば、標的になる。標的になれば、この長い坂と重い芝に、脚を根こそぎ刈られる。だから、誰も引かない。緩い探り合いの隊列が、力の要る芝の上を、だらだらと進んでいく。
一度、内から一つの脚が、前へ出かけた。でも、白銀の位置を確かめると、すぐに手綱を引いて、列の中へ戻っていく。前に出ることは、ここでは勇気じゃない。ただの、うっかりだった。
女王は、動かない。動く必要がない。後ろにいるだけで、前の全員が、勝手に脚を余していく。誰かに命じたわけでもないのに、レースがその人のために整えられていった。これが、この大陸の、一つ目の檻。
坂の入り口で、白銀が動いた。
『Résolue passe en tête. La messe est dite.』
銀色が、坂を駆け上がっていく。力の要るはずの登りが、その脚にだけは、平地みたいに軽い。重い芝が他の全員から脚を奪っていく同じ坂で、白銀だけが、脚を増やしていくように見えた。
その瞬間の隊列の壊れ方を、見ていた者は忘れないだろう。
全員が、反応した。なのに、誰も追わなかった。
白銀が前に出た瞬間、有力どころが、いっせいに手綱を持ち替えたのだ。勝ちを、そこで諦めた。誰一人、白銀の前に出ようとしない。代わりに始まったのは、二着を獲るためのレースだった。
怠けているんじゃない。逆だ。全員が、本気で、いちばん賢く負けにいっている。外を回そうとした脚が、途中で緩む。内で我慢していた脚も、前は狙わない。みんなの目が、白銀の背中じゃなく、その一つ後ろの席を見ている。白銀に勝てないなら、二着で賞金を持って帰る。それが、この戦場でいちばん正しい走り方だった。勝ちを捨てることが、正解になる。いちばん強い相手が動いた瞬間に、レース全体が、勝つことをやめる。これが、二つ目の檻。
見ている方も、それを冷たいとは思わない。むしろ、正しいと感じる。勝てない相手に無理を通す方が、愚かなのだ。この大陸のレースは、そうやって、賢さで組み上げられている。強い者が一人いるだけで、他の全員が、賢く負ける。誰も間違っていない。誰も、勝とうとしないだけだ。
一人だけ、その檻に入らない子がいた。
好位から、白銀の外へ、単騎で並びかけていく。目つきの悪い、黒い髪の子。二着を獲りにいく集団を置き去りにして、勝ちだけを獲りにいった。
無謀だった。誰の目にもそう見える。白銀に正面から挑んで勝った者を、この数年、誰も見ていない。それでも、その子は白銀の隣に脚をねじ込んでいく。二着で手を打つ気なんて、最初からないみたいに。
スタンドの一部が、ざわついた。歓声じゃない。困惑と、薄い嘲りの混じった、ざわつき。またあの子か、という声だった。あの子がこうして白銀に潰されるのを、この観客たちは、何度も見てきたのだろう。去年も、その前も。挑んで、千切れて、掲示板の外へ。学ばない子、と笑われながら、それでも毎回、同じ場所に脚をねじ込みにいく。今年も、そうだった。
白銀は、振り返らない。
坂の残り半分で、その子の脚が千切れる。並びかけた分の借りを、重い芝が容赦なく取り立てていく。一完歩ごとに、白銀の背中が遠くなる。それでも、その子は脚を止めなかった。止めないまま、二着争いの集団にも呑まれて、掲示板の外へ沈んでいく。
みっともない負けだった。二着を拾う脚も、とうに残っていない。ただの敗北。でも、その敗北は、この一日で唯一、勝ちだけを狙った脚が残したものだった。全員が負けないために賢く走った中で、あの子だけが、勝つために走って、そして負けた。
白銀だけが、涼しい顔で最後の直線を抜けていく。最後まで、本気の脚を使った様子すらない。女王は、女王のまま、いちばん前を通過する。嘲笑いもしない。怒りもない。当たり前のことが当たり前に起きただけ、という顔で。
弱い相手を、女王が力でねじ伏せたわけじゃない。むしろ逆だ。白銀は、ほとんど何もしていない。そこにいて、当たり前に前へ出ただけ。それだけで、大陸中の脚が、勝手に膝を折る。強さを見せつける必要すら、この人にはない。冷たい秩序が、そのまま脚の形になったような走りだった。それが、白銀の格だった。
柵の内で、記者たちが話している。
「もったいないねぇ。あのまま二着に収まってれば、賞金圏だったのに」
「毎年ああだろ、あの子。学ばないんだ」
悪気は、たぶんない。数字の話をしているだけだった。
コースの上で、その子が立ち上がる。膝に手をついて、肩で息をして、それから顔を上げた。その目が見ているのは、掲示板でも、観客席でもない。ずっと先を行く、白銀の背中だけ。それだけを、見ていた。
負けた顔じゃなかった。悔しさとも、少し違う。何と呼べばいいのか、分からない顔だった。
~
引き上げてくる金色と、勝ち上がってくる白銀が、関係者の通路で、すれ違った。
金と、白銀。今日の二色が、同じ場所に立つ。それだけで、周りの空気が張り詰めた。カメラがいっせいに、そちらを向く。世界の全部が、その二色を中心に回っていた。記者も、拍手も、ざわめきも。二つの色の間に流れる空気を、少しでも切り取ろうと、みんなが身を乗り出す。
白銀の視線が、ふと、通路の隅で流れた。
そこに、香港帰りの小柄な子が、立っている。誰の連れでもないみたいな顔で、フラッシュの届かない隅に、ぽつんと。
「あれは誰だ」
白銀が、隣の金色に、短く問うた。
金色は、そちらを見もしない。興味の外側にあるものを扱う声だった。
「先導であろう。姉が、余のために整えたのだろうな。」
1度目を切ってから続けた。
「……とはいえ、余には無用のものよ。誰の脚も借りず、この身一つで、次は貴様に勝つ」
姉が、本番のために整えた駒。それだけの答えだった。自分の勝ちに、他人の脚を数えたことなど、この王には一度もない。
白銀は、それだけで、もう興味を失ったようだった。正確には、答えを聞く前から、気に入らなかったのかもしれない。
「前を作らせて、勝つ、か」
吐き捨てる声じゃない。ただ、静かに、そう零しただけだった。この人は、正面から来ないものを、評価しない。それだけだ。
それだけ言って、白銀は歩いていく。金色も、もう視線を戻していた。二色は並んで、フラッシュの中へ消えていく。
通路の隅の子は、金色にくっついた、名前のない付属品としてしか、そこに映っていなかった。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
二つのレースを、私は最後まで見ていた。
勝ったのは、金色と白銀。順当な一日だ。世界の思った通りに、二つの色が仕上がっていることが分かって、それで終わり。明日の新聞は、たぶんその二色で埋まる。私のことなんて、隅にも載らない。
構わなかった。もともと、名前のない脚として、ここまで来た。そういう役だ。
さっき、通路ですれ違いざま、金色と白銀が、こっちを見た気がした。何か短い言葉も、交わしていた。聞こえなかったけど、たぶん、大した話じゃない。あの二人が、私みたいな脇役のことを、わざわざ話すはずもない。
それでいい。誰にも名前を覚えられない場所は、楽なのだ。期待されない。だから、裏切ることもない。前を引いて、役目が済んだら消える。それだけでいい。
「行くか」
隣で、絢原さんが言った。
「うん」
そう返したのに、私の足は、なかなか動かなかった。一つだけ、頭から離れないものがあったからだ。
あの、黒い髪の子。ノワール。名前を、雑にだけど呼び直してくれた子。あの朝、テンハロンちょいの坂で、勝つつもりもなく前に出て、それでも勝ってしまった相手。ヴェルメイユ賞で、たった一人、白銀に食らいついていって、坂で千切れて、掲示板の外に沈んだのを、私は最後まで見ていた。
——あいつを、落とせ。
あの朝、そう言われた。喉の手前まで、答えが出かかっていた。私はラビットだよ。前を引いて、途中で下がるだけだよ、って。
言わなかった。
言わなかったから、あの子の中で、私はまだ、挑戦者のままだ。
賢く二着を獲る方が正しいことは、あの子自身の口から聞いていた。「賢いんだろうな。……でも、嫌いだ」って。分かっていて、それでも嫌いだと言えることが、あの子の強さだった。
分かっているはずなのに、今日また見ると、胸のどこかが、ざらつく。
私なら、しない——と、思おうとして、うまくいかなかった。
したことが、あるからだ。
勝てるはずのない場所に、勝手に脚が出たことが、私にもある。理屈も、勝算もない。負けるつもりで走るくらいなら、壊れる方がましだと思った。あの春、確かにそうだった。
だから、本当は分かっている。あの子は、無様に潰れたんじゃない。私がどこかに置いてきたはずのものを、まだ、捨てずに持っているだけだ。
今の私には、名前のない役目の方が性に合っている。そう思うことにしている。二着でいい。二着ですらなくてもいい。前を引いて、消える。それが、今の分だ。
——あいつを、落とせ。
まだ、答えていない。
なのに、立ち上がって白銀の背中だけを見ていた、あの目——毎年負けて、毎年戻ってくる子の、あの本気の目が、なかなか消えてくれない。眩しいのとは、違った。金色の走りを見た時の、あの遠い光とも違う。もっと、ざらざらした、名前のつかない何かだった。
絢原さんは、急かさなかった。私が動き出すまで、半歩前で、黙って待っている。
「モエ?」
「……なんでもない。行こ」
歩き出しながら、私はまだ、その何かに名前をつけられずにいた。