アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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感想はいつも見させていただいています。
上手い感想の返しが思いつかなくて申し訳ないです……!


幕間 魔王

 

あの日のことを、誰に話しても、信じてもらえない。

 

言葉にすると、何でもない話になってしまうからだ。日本から来た短距離の子が、格の低い一戦を勝った。それだけ。新聞なら一行で終わる。実際、一行で終わった。

 

でも、私はあの日、同じゲートにいた。

 

だから知っている。あの一行の下に、何が埋まっているか。

 

 

 

 

 

 

あの日は、消化みたいな枠だった。

 

皆のお目当てだったレースが全部終わって、スタンドの熱が引いていく時間。集まったのは、私みたいな地元の子と、格の上がりきらない子たち。誰も本気の勝負なんて期待していない。私は正直、勝つつもりでいた。相手は見知った顔ばかりで、怖い子は一人もいなかったから。

 

一人だけ、知らない子がいた。

 

日本から来た、白い髪の小さいの。

 

パドックで見た時、誰も警戒していなかった。私もだ。小柄で、細くて、なにより、顔に何もなかった。闘志とか、緊張とか、レース前の子の顔に浮かぶものが、何ひとつ浮かんでいない。散歩の順番を待っているみたいな顔だった。

 

あの大陸の遠征でよくいる、記念参加の子だと思った。

 

ゲートで隣になっても、何も感じない。気配というものが、なかったのだ。強い子は、並ぶだけで分かる。肌がひりつく。あの子には、それがない。空のゲートの隣に並んでいるのと、同じだった。

 

旗が上がった。

 

——そこから先を、私は今でも、うまく説明できない。

 

 

 

 

 

 

消えたのだ。

 

飛び出しの音も、加速の気配も、覚えていない。旗が上がって、脚を出して、顔を上げたら、もう、いなかった。

 

前に出られた瞬間、というのを、私は覚えていない。

 

飛び出しの勢いも、加速の一瞬も、記憶にない。気づいた時には、もう、あの白い背中が前にあった。

 

奇妙だったのは、そこからだ。

 

差は、動いた。私が絞れば少し詰まり、息を整えれば、その分だけまた開く。数字の上では、普通のレースだ。

 

でも、何かが決定的に、噛み合っていなかった。

 

競り合いというのは、応酬だ。こっちが差を詰めれば、相手は気配で気づいて、脚を回してくる。こっちが緩めば、向こうも息を入れる。差が動く時、そこには必ず相手の意思が混ざる。だから怖いし、だから面白い。

 

あの日、差の動きには、私の分しかなかった。

 

詰まったのは、私が絞ったから。開いたのは、私が緩んだから。それだけ。あの白い背中は、私が何をしても、一度も応えなかった。速くも、遅くもならない。最初から最後まで、完全に同じ律動で、同じ深さで芝を蹴り続けていた。機械みたいに、と言いたいところだけど、機械の方がまだ、負荷で回転が揺れる。

 

その時は、いい脚を使われた、としか思わなかった。悔しいけれど、よくある話だ。

 

おかしいと気づいたのは、後になってからだ。

 

差を詰めた場面が、確かにあった。私の脚が一番効いた区間で、あの背中は、目に見えて近づいた。普通なら、そこで相手は反応する。振り向かなくても、背中が反応する。あの子は、しなかった。詰められていることに、気づいてすらいなかったんだと思う。そして私の脚が尽きたら、差は、ただ元に戻った。あの子が突き放したんじゃない。私が、落ちただけ。

 

壁に向かって走っているのと、同じだった。押しても、引いても、向こうからは何も返ってこない。

 

差が動いていたから、その場では誰も気づかない。観客席から見れば、よくある快勝だ。でも、中にいた私には分かる。あれは、応酬のないレースだった。私は駆け引きをしていて、あの子は、していなかった。自分の決めた速さで、決めた分だけ走る。それだけだったんだと思う。

 

私たちは、競走をしていたつもりだった。

 

あの子は、たぶん、そこにいない。

 

全力で追った。全力を出した。私の全部は、あの日、ちゃんと動いていたと思う。脚は回っていたし、息も保っていた。自己ベストに近い出来だったと、後で数字を見て分かったくらいだ。

 

その全部が、無意味だった。

 

ゴールを過ぎて、顔を上げた。私が二着だった。

 

そして、先にゴールしていたあの子を見て、全身から汗が引く。

 

息が、乱れていない。

 

肩も上下していない。汗も、ほとんど見えない。私が全部を絞り尽くしたコースを、あの子は、涼しい顔で通り過ぎていた。それどころか、あの子自身が、少し不思議そうな顔をしていた。自分が何をしたのか、分かっていない顔。勝った実感すら、なさそうな顔。

 

その顔を見た瞬間に、分かってしまった。

 

あの子は、全力じゃなかった。

 

半分か、それ以下か。それは分からない。でも、底じゃない。底なんて、見えてもいない。私が命がけで追った背中は、あの子にとって、流しの延長だった。

 

——いや、違う。

 

流しですら、なかったのかもしれない。

 

流しというのは、力を抜いて走ることだ。あの子は、力を抜いていたわけじゃない。最初から最後まで、同じ速さで走っていただけだ。私が隣で何をしていようと、関係のない話として。

 

あの子は、レースをしに来たんじゃない。

 

ただ、走りに来ただけだ。

 

競走という行為そのものに、あの子は、最初から参加していなかった。私たちは、いない相手と戦って、負けたのだ。

 

勝てる気がしない、というのは、ああいうことを言うんだと思う。差が詰まっても、望みにならないのだ。詰めても、向こうは何も変わらない。

ああ、来たんだ、じゃあとりあえず抜かすね、なんて、こっちの脚が先に尽きて、それで終わり

もう一度走っても、十回走っても、同じことが起きるだけだ。

 

日本では、可愛くてクールな小悪魔、なんて呼ばれているらしい。

 

小悪魔?冗談じゃない。

 

そんな可愛いものじゃない。

 

魔王だ。

 

顔のない、静かな、退屈そうな魔王。スタンドの誰も、その正体に気づかない。派手なことは、何も起きなかったから。歓声も上がらなかった。ただの一行の結果。魔王は、誰にも見られずに、涼しい顔で芝を降りていった。

 

 

 

 

 

 

レースの後、仲間に話した。

 

あの日本の子は、おかしい。あれは、私たちと同じ生き物じゃない。

 

みんな、笑った。負けた言い訳にしては大袈裟だと。格下の枠で日本の短距離が勝った、それだけの話だろうと。数字を見たスタッフが少し首を傾げていたけど、それも、計測の誤差だろうということで終わった。

 

そうだ。観客席からは、何も見えていない。

 

あの絶望は、同じ芝の上にいた者にしか見えない。私の言葉では、誰にも届かない。それが一番怖いところだった。魔王は、観客席からはただの小さい子に見えるのだ。

 

数日して、もっと分からない話を聞いた。

 

あの白い子は、金色の陣営が連れてきた先導役らしい。本番で、前を引くだけの役目だと。

 

意味が分からなかった。

 

あれを先導に使う?

 

あの魔王を、途中で捨てる駒に?

 

じゃあ、あの子に前を引かせる金色はどれだけおかしいんだ。凱旋門賞って、あれを消耗品にするような戦場なのか。考えるほど、足元が冷えていった。あの二色の再戦がどうとか、世界は騒いでいるけど、私はもう、そういう話を素直に聞けない。

 

一つだけ、決めていることがある。

 

あの白い子が、もう一度この国のゲートに入る日が来たら——私は絶対に、同じターフには立たない。

 

スタンドから見ている分には、きっと何も起こらない。派手なことは、何も。

 

それが、一番恐ろしい。

 

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