アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

150 / 150
感想はいつも見てgoodを押させていただいています。
上手い感想の返しが思いつかなくて、放置気味になってしまって申し訳ないです……!



109話 Allegro

スタンドの裏を、人の流れに逆らって歩く。

 

金と白銀の余韻は、まだ場内のあちこちに残っていた。興奮した口調のフランス語が、すれ違いざまに聞こえてくる。何を言っているかは分からないけど、出てくる名前だけは分かる。オルフェーヴル。レゾリュート。それ以外の名前は、たぶん一度も出ていない。

 

今日の大きなレースは、もう終わった。観客の半分は帰り支度を始めていて、残りの半分は余韻を肴に飲み始めている。

 

その後ろの方に、まだプティクヴェール賞が残っている。

 

大きなレースが全部終わった後の、消化みたいな一戦。出走の並びを見ても、知っている名前はひとつもない。地元の若い子と、格の上がりきらない子たちの枠。そこに、日本から来た短距離が一人、ぽつんと混ざっている。

 

「次、集合だとさ」

 

絢原さんが、係の人から受け取った紙を畳みながら言った。

 

「大トリじゃん」

 

「大トリは、もう終わった方だ。こっちは、締めの雑用みたいな枠だな」

 

「ひどい言い方」

 

「事実だ。……嫌か?」

 

「ううん。ちょうどいい」

 

本音だった。世界の目当ては今日、もう全部済んでいる。この後に走る一戦なんて、誰の予定にも入っていない。番組表の隅の、読み飛ばされる一行。私の出番として、これ以上ふさわしい場所もない。

 

装鞍所の方へ歩いていくと、タキオンさんが先に着いていた。紙束と紅茶の二刀流は、こんな出先でも変わらない。

 

「やあ、モルモット君。観戦は楽しめたかい」

 

「楽しむようなものでした?」

 

「有意義ではあったろう。檻の見学ができた」

 

檻。さっき私が観ていたものを、この人も同じ言葉で呼んだ。誰も前に出ない隊列と、白銀が動いた瞬間に始まる二着争い。あの光景を一言で言うなら、たしかに「檻」以外の呼び方がない。

 

「面白いものだよ。速さを競う場所で、全員が我慢を競っている。ああいうのは、強い者が一人いるだけで出来上がる。作ろうとして作れるものじゃない」

 

「感心してる場合です?」

 

「感心はしていないさ。観察しただけだ」

 

この人の中で、あの光景は、もう理由づけが済んでいるらしい。仕組みを見抜いて、それで終わり。毎年あの坂で脚が保たなくなる子がいることまでは、その理由づけには含まれていない。

 

「で、次は私の番、と」

 

「そういうことだね。短いのの二本目だ」

 

「一本目は、テンハロンちょい、としか教えてもらえませんでしたっけ。今回はちゃんと確認してますからね」

 

「感心だ。前回の反省が生きてるね」

 

「あの反省は一生消えないので」

 

数字自体は、知っている。紙の上の距離と、自分の主戦距離との差も、頭では分かっている。短い方だ、ということも。

 

あの朝の「テンハロンちょい」だけは、今も換算できないままだ。一ハロンがどれくらいなのか、調べればすぐ出るのに、なんとなく、調べないまま今日まで来てしまった。走り終わったんだし、まあいいか、で流したのが最後で、それきりになっている。

 

「これで、今日はもう大丈夫です」

 

「距離は、な」

 

短く、それだけ返ってきた。

 

「? どういう意味です」

 

「距離を知っていることと、走った後に何が起きるかを知っていることは、別の話だという意味さ。今日のそれは、数字を見ても教えてくれない。君自身にしか分からない種類のものでね」

 

「はぐらかしてる」

 

「観察と言ってほしいね」

 

こういう時のタキオンさんは、絶対に譲らない。数字の話ははぐらかさないくせに、感覚の話になると急に口が重くなる。諦めて、支度の続きに戻った。

 

「仕事は一つ。ただ走って、ただ止まる。位置取りも駆け引きも要らない」

 

「昨日から思ってたけど、その言い方、簡単そうで全然簡単じゃないよね」

 

「簡単さ。今日のは、君の体にはちょうどいい仕事量だよ」

 

含みのある言い方だったけど、拾わなかった。この人の含みを全部拾っていたら日が暮れる。

 

絢原さんが、少し離れた場所からこっちを見ていた。何か言いたそうにして、結局いつもの一言になった。

 

「変なら、途中でやめろ」

 

「毎回それ言うね」

 

「毎回、本気で言ってるんだ」

 

分かってる、とは言わなかった。言わなくても、伝わっているはずだった。

 

柵の外に、見覚えのある黒い髪があった。

 

ノワールさんだ。ヴェルメイユ賞を走った脚のまま、帰りもせずに、柵にもたれて腕を組んでいる。

 

「……走ったばっかりでしょ。休みなよ」

 

「うるせぇ。偵察だ」

 

「私、隠してないけど」

 

「隠されてても見に来る」

 

「勤勉だね」

 

「テメェのせいだ」

 

理不尽だと思ったけど、言い返す前に、もう前を向いてしまった。掲示板の外に沈んだ子の目が、私の方を向いている。坂で千切れた直後とは思えないくらい、静かな目だった。

 

——あいつを、落とせ。

 

喉の奥で、まだ答えていない言葉が疼く。今は、それどころじゃない。ただの叩き、ただの一本。それだけのはずだ。

 

 

 

 

 

 

ゲートに収まる。

 

隣の現地の子が、ちらりとこっちを見て、すぐ前を向いた。値踏みでも警戒でもない。日本から来た小さいのがいる、というだけの一瞥。この枠に、それ以上の関心を持っている子は、たぶん一人もいない。

 

スタンドの方から、ざわめきが薄く聞こえる。こっちを見ている音じゃない。余韻の続きの音だ。さっきまで、あの何倍もの音が、金と白銀のために鳴っていた。同じ建物とは思えないくらい、今は静かだった。

 

静かなのは、嫌いじゃない。むしろ、ずっとこれでいい。

 

旗が上がる。

 

飛び出した瞬間、いつもと違う感覚が来た。

 

短い。

 

助走もいらないくらい、コースが短い。飛び出してすぐ、もうゴールの旗が見えている気がする。頭で考えるより先に、脚が巡航になっていた。

 

いつもなら、ここで加減する。全部を最初から出さない。出しすぎたら、後半が保たない。テンハロンちょいの朝、重い芝の上で覚えたばかりの感覚だ。

 

でも、今日は、加減する必要すら、なかった。

 

飛び出してから、私は自分の決めた速さで走った。速くも、遅くもしない。誰かが横に並んだとか、後ろから上がってきたとか、そういうことに合わせて脚を変える——という発想が、最初から、なかった。

 

隣に誰がいるかは、走り出してすぐ、意識から抜け落ちた。引き離した、という感じでもない。私が、見なくなっただけだ。競り合う相手として数える、その手続きを、体がまるごと省いていた。

 

だから、途中のことを、私はほとんど覚えていない。後ろで誰かが脚を伸ばして近づいてきたのか、力尽きて離れていったのか。たぶん、そういう出入りは、あったんだと思う。でも、そのどれも、私の速さには関係しない。関係させる気が、そもそもなかった。

 

体の中に、まだ何か残っている感じがした。全部出し切る前に、レースの方が先に終わってしまう。そんな感覚は、初めてだった。いつもは、ゴールと同時に空っぽになる。最後の一滴まで絞って、それでやっと足りるのが、私の走りだったはずだ。今日は違う。まだ使っていない力が、はっきり残っている。全部を出すところまで、いってすらいない。

 

——これ、まだ半分も使ってない。

 

そう気づいた時には、もう旗の下を通り過ぎていた。

 

減速して、振り返る。

 

二着の子は、まだずっと遠くにいた。三着はもっと遠い。見えるのは、私と、はるか後ろの他の子たちだけ。あの子たちが今日、どこで上がって、どこで落ちたのか、私は何ひとつ知らない。同じレースを走ったはずなのに、私だけ、ひとりで別のところを走っていたみたいだった。

 

柵のどこかから、悲鳴じみた声がひとつ上がる。歓声というより、驚きに近い声だった。何を見たのか自分でも整理できていない、という感じの声。

 

分かる、その気持ち。私もまだ、整理できていない。

 

肩で息をするほどでもなかった。汗も、いつもより少ない気がする。全力で走ったはずなのに、全力を出し切った実感だけが、どこかに置き忘れられている。勝った、というより、通り過ぎた、という方が近い。

 

まばらな拍手が、遅れて追いついてきた。義務で叩いている手も混ざっていそうな、決めかねた拍手だった。柵の内側で、現地のスタッフが二人、顔を寄せて何か話している。片方が電光掲示板を指差して、もう片方が首を傾げていた。信じていない顔だった。

 

無理もない。私自身、実感が追いついていないんだから。

 

そのざわめきも、長くは続かなかった。次の予定に戻る人、帰り支度に戻る人。数字ひとつ首を傾げて、それで終わり。今日この場所で起きたことは、あの二色の再戦の物語に、一行も関係がないからだ。

 

 

 

 

 

 

タキオンさんが、計測器を見て、それから紙に何か書く。

 

ペンが、また一度止まった。

 

止まって、また動いた。

 

「……何か?」

 

「いや。順調そうで、なによりだ」

 

言ってることと、ペンの止まり方が合っていない。でも、それ以上は聞かないことにした。この人は、言いたくないことは絶対に言わない。聞くだけ無駄だ。

 

絢原さんが近づいてくる。

 

いつもの確認。足元、膝、肩、息。最後に、目。

 

「どうだった」

 

「勝った」

 

「聞いてない」

 

「じゃあ何」

 

絢原さんは、何も言わなかった。

 

その代わり、何か言いたいことを、喉の奥へ飲み込むみたいな顔をした。長く付き合ってきたから分かる、あの顔だ。何かに気づいて、それを口に出す一歩手前で、自分から蓋をする顔。

 

「……なに、その顔」

 

「なんでもない」

 

「絶対、なんでもないって顔じゃない」

 

「気のせいだ」

 

嘘だ、と思ったけど、追わなかった。この人が言わないと決めたことを無理に引きずり出しても、ろくなことにならない。それは、もう知っている。

 

柵の外を見ると、ノワールさんは、もういなくなっていた。

 

いつの間に。挨拶もなしだ。偵察だと言っていたくらいだから、用が済んだらさっさと引き上げる主義なんだろう。

 

あの目は、今日の私を見に来たんじゃない。今日の私を、確かめに来ただけだ。確認はもう済んで、あとは黙って帰るだけの用件だったんだと思う。

 

それで満足したのか、余計に厄介な期待を上乗せされただけなのか、こっちには分からない。掲示板の外に沈んだその足で、他人の走りを確かめに来る。その執念が、今は私に向いている。それが、少しだけ、重かった。

 

分からないまま、また喉の奥のあの言葉が疼いた。

 

——あいつを、落とせ。

 

今日も、答えは出せなかった。

 

 

 

 

 

 

帰り道、勝った実感は、やっぱり湧いてこなかった。

 

「昼、何食う」

 

「なんでもいい」

 

「なんでもいいが一番困るんだがな」

 

「じゃあ、甘いの」

 

「食事の話をしてるんだが」

 

「甘いのも食事だよ」

 

絢原さんが小さくため息をついた。ため息のわりに、口元は緩んでいた。こういうどうでもいい話をしている間だけ、体の中の妙な感覚を忘れていられる。たぶん、絢原さんも分かってやっている。この人がどうでもいい話をする時は、だいたい、何かを気遣っている時だ。

 

今日の勝ちは、いつも通り、何も残していかない。名前も、記録も、明日には誰も覚えていない。金と白銀の一日の、番組表の隅で終わった一本。明日の新聞は、あの二色で埋まる。私の欄は、結果の数字が一行載るだけ。読み飛ばされるための一行だ。それでいい。そのはずだった。

 

ただ、一つだけ、いつもと違うことがあった。

 

体の中に、まだ使っていない分が、はっきり残っている。この感覚を、なんと呼べばいいのか、私はまだ知らない。

 

それでいい。そう思うことにしている自分と、体の中に残っている「まだ余ってる」が、今日はどうしても、うまく重ならなかった。

 

本番まで、あと三週間。前を引いて、途中で消える。私の役目は、変わらない。

 

変わらないはずだった。

 




ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで(作者:八幡悠)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

憧れだけじゃ走れない。でも憧れがなければ、私は走り出せなかった。「私なんかが……でも、バクシンオーさんなら、きっとこうする」──そうして私は、私じゃない誰かになって走り続けた。自己評価ミジンコ級のウマ娘が短距離王者とマイル女王の思いを受け継ぎ、かつて分かたれたマイルとスプリントを統一し、世界へ、さらにその先へ。▼【挿絵表示】▼


総合評価:2611/評価:8.7/連載:170話/更新日時:2026年07月07日(火) 06:01 小説情報

転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘(作者:アリマリア)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

コメディもあるしシリアスもある、転生者2人のお話。▼書きたいものを詰め込んだヤツ。▼ * * *▼Chama様から支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上から、ホシノウィルム、堀野トレーナー、2人のイラストです。▼匿名希望の読者様からも支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上はタイトルなし、下はタイトルありの…


総合評価:26892/評価:8.63/完結:253話/更新日時:2025年08月28日(木) 18:00 小説情報

競馬ミリしらウマ娘ファンがウマ娘化されていないモブ(?)ウマ娘に転生したので、頑張って百合ハーレムを作ろうとする話(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ウマ娘に転生したから百合ハーレムを築きたい競馬ミリしら民のお話。▼ なお、名前はディープインパクトという。


総合評価:2296/評価:7.82/連載:20話/更新日時:2026年04月04日(土) 11:39 小説情報

親愛なるシャーロックへ(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

決まっている運命を覆すために。メジロ復活のために奮闘する。


総合評価:3815/評価:8.8/連載:31話/更新日時:2026年07月08日(水) 23:00 小説情報

緋色の女王の幼馴染(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ブエナビスタの幼馴染トレーナー概念が公式になったので幼馴染トレーナーの二次創作が100万ぐらい出ると思っていたのに全然でないので自分で書きます。▼ ダイワスカーレットとその幼馴染のトレーナーのお話。▼ 八幡悠(https://syosetu.org/user/330079/)さんからもらったアイデアをもとに勢い任せで書きました。▼ 幼馴染は緋色の女王様(h…


総合評価:2030/評価:8.19/完結:46話/更新日時:2026年03月24日(火) 06:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>