アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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感想はいつも見てgoodを押させていただいています。
上手い感想の返しが思いつかなくて、放置気味になってしまって申し訳ないです……!



109話 Allegro

スタンドの裏を、人の流れに逆らって歩く。

 

金と白銀の余韻は、まだ場内のあちこちに残っていた。興奮した口調のフランス語が、すれ違いざまに聞こえてくる。何を言っているかは分からないけど、出てくる名前だけは分かる。オルフェーヴル。レゾリュート。それ以外の名前は、たぶん一度も出ていない。

 

今日の大きなレースは、もう終わった。観客の半分は帰り支度を始めていて、残りの半分は余韻を肴に飲み始めている。

 

その後ろの方に、まだ私のレースが残っている。

 

大きなレースが全部終わった後の、消化みたいな一戦。出走の並びを見ても、知っている名前はひとつもない。地元の若い子と、格の上がりきらない子たちの枠。そこに、日本から来た短距離が一人、ぽつんと混ざっている。

 

「次、集合だとさ」

 

絢原さんが、係の人から受け取った紙を畳みながら言った。

 

「大トリじゃん」

 

「大トリは、もう終わった方だ。こっちは、締めの雑用みたいな枠だな」

 

「ひどい言い方」

 

「事実だ。……嫌か?」

 

「ううん。ちょうどいい」

 

本音だった。世界の目当ては今日、もう全部済んでいる。この後に走る一戦なんて、誰の予定にも入っていない。番組表の隅の、読み飛ばされる一行。私の出番として、これ以上ふさわしい場所もない。

 

パドックの方へ歩いていくと、タキオンさんが先に着いていた。紙束と紅茶の二刀流は、こんな出先でも変わらない。

 

「やあ、モルモット君。観戦は楽しめたかい」

 

「楽しむようなものでした?」

 

「有意義ではあったろう。檻の見学ができた」

 

檻。さっき私が観ていたものを、この人も同じ言葉で呼んだ。誰も前に出ない隊列と、白銀が動いた瞬間に始まる二着争い。あの光景を一言で言うなら、たしかに「檻」以外の呼び方がない。

 

「面白いものだよ。速さを競う場所で、全員が我慢を競っている。ああいうのは、強い者が一人いるだけで出来上がる。作ろうとして作れるものじゃない」

 

「感心してる場合です?」

 

「感心はしていないさ。観察しただけだ」

 

この人の中で、あの光景は、もう理由づけが済んでいるらしい。仕組みを見抜いて、それで終わり。毎年あの坂で脚が保たなくなる子がいることまでは、その理由づけには含まれていない。

 

「で、次は私の番、と」

 

「そういうことだね。短いのの二本目だ」

 

「一本目は、テンハロンちょい、としか教えてもらえませんでしたっけ。今回は自分で、プログラムの距離をちゃんと確認しておきました」

 

「感心だ。前回の反省が生きてるね」

 

「あの反省は一生消えないので」

 

数字自体は、知っている。紙の上の距離と、自分の主戦距離との差も、頭では分かっている。短い方だ、ということも。

 

あの朝の「テンハロンちょい」だけは、今も換算できないままだ。一ハロンがどれくらいなのか、調べればすぐ出るのに、なんとなく、調べないまま今日まで来てしまった。走り終わったんだし、まあいいか、で流したのが最後で、それきりになっている。

 

「これで、今日はもう大丈夫です」

 

「距離は、な」

 

短く、それだけ返ってきた。

 

「? どういう意味です」

 

「距離を知っていることと、走った後に何が起きるかを知っていることは、別の話だという意味さ。今日のそれは、数字を見ても教えてくれない。君自身にしか分からない種類のものでね」

 

「はぐらかしてる」

 

「観察と言ってほしいね」

 

こういう時のタキオンさんは、絶対に譲らない。数字の話ははぐらかさないくせに、感覚の話になると急に口が重くなる。諦めて、支度の続きに戻った。

 

「仕事は一つ。ただ走って、ただ止まる。位置取りも駆け引きも要らない」

 

「昨日から思ってたけど、その言い方、簡単そうで全然簡単じゃないよね」

 

「簡単さ。今日のは、君の体にはちょうどいい仕事量だよ」

 

含みのある言い方だったけど、拾わなかった。この人の含みを全部拾っていたら日が暮れる。

 

絢原さんが、少し離れた場所からこっちを見ていた。何か言いたそうにして、結局いつもの一言になった。

 

「変なら、途中でやめろ」

 

「毎回それ言うね」

 

「毎回、本気で言ってる」

 

分かってる、とは言わなかった。言わなくても、伝わっているはずだった。

 

柵の外に、見覚えのある黒い髪があった。

 

ノワールさんだ。ヴェルメイユ賞を走った脚のまま、帰りもせずに、柵にもたれて腕を組んでいる。

 

「……走ったばっかりでしょ。休みなよ」

 

「うるせぇ。偵察だ」

 

「私、隠してないけど」

 

「隠されてても見に来る」

 

「勤勉だね」

 

「テメェのせいだ」

 

理不尽だと思ったけど、言い返す前に、もう前を向いてしまった。掲示板の外に沈んだ子の目が、私の方を向いている。坂で千切れた直後とは思えないくらい、静かな目だった。

 

——あいつを、落とせ。

 

喉の奥で、まだ答えていない言葉が疼く。今は、それどころじゃない。ただの叩き、ただの一本。それだけのはずだ。

 

 

 

 

 

 

ゲートに収まる。

 

隣の現地の子が、ちらりとこっちを見て、すぐ前を向いた。値踏みでも警戒でもない。日本から来た小さいのがいる、というだけの一瞥。この枠に、それ以上の関心を持っている子は、たぶん一人もいない。

 

スタンドの方から、ざわめきが薄く聞こえる。こっちを見ている音じゃない。余韻の続きの音だ。さっきまで、あの何倍もの音が、金と白銀のために鳴っていた。同じ建物とは思えないくらい、今は静かだった。

 

静かなのは、嫌いじゃない。むしろ、ずっとこれでいい。

 

旗が上がる。

 

飛び出した瞬間、いつもと違う感覚が来た。

 

短い。

 

助走もいらないくらい、コースが短い。飛び出してすぐ、もうゴールの旗が見えている気がする。頭で考えるより先に、脚が全開になっていた。

 

いつもなら、ここで加減する。全部を最初から出さない。出しすぎたら、後半が保たない。テンハロンちょいの朝、重い芝の上で覚えたばかりの感覚だ。

 

でも、今日は、加減する必要すら、なかった。

 

飛び出してから、私は自分の決めた速さで走った。速くも、遅くもしない。誰かが横に並んだとか、後ろから上がってきたとか、そういうことに合わせて脚を変える——という発想が、最初から、なかった。

 

隣に誰がいるかは、走り出してすぐ、意識から抜け落ちた。引き離した、という感じでもない。私が、見なくなっただけだ。競り合う相手として数える、その手続きを、体がまるごと省いていた。

 

だから、途中のことを、私はほとんど覚えていない。後ろで誰かが脚を伸ばして近づいてきたのか、力尽きて離れていったのか。たぶん、そういう出入りは、あったんだと思う。でも、そのどれも、私の速さには関係しない。関係させる気が、そもそもなかった。

 

体の中に、まだ何か残っている感じがした。全部出し切る前に、レースの方が先に終わってしまう。そんな感覚は、初めてだった。いつもは、ゴールと同時に空っぽになる。最後の一滴まで絞って、それでやっと足りるのが、私の走りだったはずだ。今日は違う。まだ使っていない力が、はっきり残っている。全部を出すところまで、いってすらいない。

 

——これ、まだ半分も使ってない。

 

そう気づいた時には、もう旗の下を通り過ぎていた。

 

減速して、振り返る。

 

二着の子は、まだずっと遠くにいた。三着はもっと遠い。見えるのは、私と、はるか後ろの他の子たちだけ。あの子たちが今日、どこで上がって、どこで落ちたのか、私は何ひとつ知らない。同じレースを走ったはずなのに、私だけ、ひとりで別のところを走っていたみたいだった。

 

柵のどこかから、悲鳴じみた声がひとつ上がる。歓声というより、驚きに近い声だった。何を見たのか自分でも整理できていない、という感じの声。

 

分かる、その気持ち。私もまだ、整理できていない。

 

肩で息をするほどでもなかった。汗も、いつもより少ない気がする。全力で走ったはずなのに、全力を出し切った実感だけが、どこかに置き忘れられている。勝った、というより、通り過ぎた、という方が近い。

 

まばらな拍手が、遅れて追いついてきた。義務で叩いている手も混ざっていそうな、決めかねた拍手だった。柵の内側で、現地のスタッフが二人、顔を寄せて何か話している。片方が電光掲示板を指差して、もう片方が首を傾げていた。信じていない顔だった。

 

無理もない。私自身、実感が追いついていないんだから。

 

そのざわめきも、長くは続かなかった。次の予定に戻る人、帰り支度に戻る人。数字ひとつ首を傾げて、それで終わり。今日この場所で起きたことは、あの二色の再戦の物語に、一行も関係がないからだ。

 

 

 

 

 

 

タキオンさんが、計測器を見て、それから紙に何か書く。

 

ペンが、また一度止まった。

 

止まって、また動いた。

 

「……何か?」

 

「いや。順調そうで、なによりだ」

 

言ってることと、ペンの止まり方が合っていない。でも、それ以上は聞かないことにした。この人は、言いたくないことは絶対に言わない。聞くだけ無駄だ。

 

絢原さんが近づいてくる。

 

いつもの確認。足元、膝、肩、息。最後に、目。

 

「どうだった」

 

「勝った」

 

「聞いてない」

 

「じゃあ何」

 

絢原さんは、何も言わなかった。

 

その代わり、何か言いたいことを、喉の奥へ飲み込むみたいな顔をした。長く付き合ってきたから分かる、あの顔だ。何かに気づいて、それを口に出す一歩手前で、自分から蓋をする顔。

 

「……なに、その顔」

 

「なんでもない」

 

「絶対、なんでもないって顔じゃない」

 

「気のせいだ」

 

嘘だ、と思ったけど、追わなかった。この人が言わないと決めたことを無理に引きずり出しても、ろくなことにならない。それは、もう知っている。

 

柵の外を見ると、ノワールさんは、もういなくなっていた。

 

いつの間に。挨拶もなしだ。偵察だと言っていたくらいだから、用が済んだらさっさと引き上げる主義なんだろう。

 

あの目は、今日の私を見に来たんじゃない。今日の私を、確かめに来ただけだ。確認はもう済んで、あとは黙って帰るだけの用件だったんだと思う。

 

それで満足したのか、余計に厄介な期待を上乗せされただけなのか、こっちには分からない。掲示板の外に沈んだその足で、他人の走りを確かめに来る。その執念が、今は私に向いている。それが、少しだけ、重かった。

 

分からないまま、また喉の奥のあの言葉が疼いた。

 

——あいつを、落とせ。

 

今日も、答えは出せなかった。

 

 

 

 

 

 

帰り道、勝った実感は、やっぱり湧いてこなかった。

 

「昼、何食う」

 

「なんでもいい」

 

「なんでもいいが一番困るんだがな」

 

「じゃあ、甘いの」

 

「食事の話をしてるんだが」

 

「甘いのも食事だよ」

 

絢原さんが小さくため息をついた。ため息のわりに、口元は緩んでいた。こういうどうでもいい話をしている間だけ、体の中の妙な感覚を忘れていられる。たぶん、絢原さんも分かってやっている。この人がどうでもいい話をする時は、だいたい、何かを気遣っている時だ。

 

今日の勝ちは、いつも通り、何も残していかない。名前も、記録も、明日には誰も覚えていない。金と白銀の一日の、番組表の隅で終わった一本。明日の新聞は、あの二色で埋まる。私の欄は、結果の数字が一行載るだけ。読み飛ばされるための一行だ。それでいい。そのはずだった。

 

ただ、一つだけ、いつもと違うことがあった。

 

体の中に、まだ使っていない分が、はっきり残っている。この感覚を、なんと呼べばいいのか、私はまだ知らない。

 

それでいい。そう思うことにしている自分と、体の中に残っている「まだ余ってる」が、今日はどうしても、うまく重ならなかった。

 

本番まで、あと三週間。前を引いて、途中で消える。私の役目は、変わらない。

 

変わらないはずだった。

 




ここまでお読みいただきありがとうございました。
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