上手い感想の返しが思いつかなくて、放置気味になってしまって申し訳ないです……!
スタンドの裏を、人の流れに逆らって歩く。
金と白銀の余韻は、まだ場内のあちこちに残っていた。興奮した口調のフランス語が、すれ違いざまに聞こえてくる。何を言っているかは分からないけど、出てくる名前だけは分かる。オルフェーヴル。レゾリュート。それ以外の名前は、たぶん一度も出ていない。
今日の大きなレースは、もう終わった。観客の半分は帰り支度を始めていて、残りの半分は余韻を肴に飲み始めている。
その後ろの方に、まだプティクヴェール賞が残っている。
大きなレースが全部終わった後の、消化みたいな一戦。出走の並びを見ても、知っている名前はひとつもない。地元の若い子と、格の上がりきらない子たちの枠。そこに、日本から来た短距離が一人、ぽつんと混ざっている。
「次、集合だとさ」
絢原さんが、係の人から受け取った紙を畳みながら言った。
「大トリじゃん」
「大トリは、もう終わった方だ。こっちは、締めの雑用みたいな枠だな」
「ひどい言い方」
「事実だ。……嫌か?」
「ううん。ちょうどいい」
本音だった。世界の目当ては今日、もう全部済んでいる。この後に走る一戦なんて、誰の予定にも入っていない。番組表の隅の、読み飛ばされる一行。私の出番として、これ以上ふさわしい場所もない。
装鞍所の方へ歩いていくと、タキオンさんが先に着いていた。紙束と紅茶の二刀流は、こんな出先でも変わらない。
「やあ、モルモット君。観戦は楽しめたかい」
「楽しむようなものでした?」
「有意義ではあったろう。檻の見学ができた」
檻。さっき私が観ていたものを、この人も同じ言葉で呼んだ。誰も前に出ない隊列と、白銀が動いた瞬間に始まる二着争い。あの光景を一言で言うなら、たしかに「檻」以外の呼び方がない。
「面白いものだよ。速さを競う場所で、全員が我慢を競っている。ああいうのは、強い者が一人いるだけで出来上がる。作ろうとして作れるものじゃない」
「感心してる場合です?」
「感心はしていないさ。観察しただけだ」
この人の中で、あの光景は、もう理由づけが済んでいるらしい。仕組みを見抜いて、それで終わり。毎年あの坂で脚が保たなくなる子がいることまでは、その理由づけには含まれていない。
「で、次は私の番、と」
「そういうことだね。短いのの二本目だ」
「一本目は、テンハロンちょい、としか教えてもらえませんでしたっけ。今回はちゃんと確認してますからね」
「感心だ。前回の反省が生きてるね」
「あの反省は一生消えないので」
数字自体は、知っている。紙の上の距離と、自分の主戦距離との差も、頭では分かっている。短い方だ、ということも。
あの朝の「テンハロンちょい」だけは、今も換算できないままだ。一ハロンがどれくらいなのか、調べればすぐ出るのに、なんとなく、調べないまま今日まで来てしまった。走り終わったんだし、まあいいか、で流したのが最後で、それきりになっている。
「これで、今日はもう大丈夫です」
「距離は、な」
短く、それだけ返ってきた。
「? どういう意味です」
「距離を知っていることと、走った後に何が起きるかを知っていることは、別の話だという意味さ。今日のそれは、数字を見ても教えてくれない。君自身にしか分からない種類のものでね」
「はぐらかしてる」
「観察と言ってほしいね」
こういう時のタキオンさんは、絶対に譲らない。数字の話ははぐらかさないくせに、感覚の話になると急に口が重くなる。諦めて、支度の続きに戻った。
「仕事は一つ。ただ走って、ただ止まる。位置取りも駆け引きも要らない」
「昨日から思ってたけど、その言い方、簡単そうで全然簡単じゃないよね」
「簡単さ。今日のは、君の体にはちょうどいい仕事量だよ」
含みのある言い方だったけど、拾わなかった。この人の含みを全部拾っていたら日が暮れる。
絢原さんが、少し離れた場所からこっちを見ていた。何か言いたそうにして、結局いつもの一言になった。
「変なら、途中でやめろ」
「毎回それ言うね」
「毎回、本気で言ってるんだ」
分かってる、とは言わなかった。言わなくても、伝わっているはずだった。
柵の外に、見覚えのある黒い髪があった。
ノワールさんだ。ヴェルメイユ賞を走った脚のまま、帰りもせずに、柵にもたれて腕を組んでいる。
「……走ったばっかりでしょ。休みなよ」
「うるせぇ。偵察だ」
「私、隠してないけど」
「隠されてても見に来る」
「勤勉だね」
「テメェのせいだ」
理不尽だと思ったけど、言い返す前に、もう前を向いてしまった。掲示板の外に沈んだ子の目が、私の方を向いている。坂で千切れた直後とは思えないくらい、静かな目だった。
——あいつを、落とせ。
喉の奥で、まだ答えていない言葉が疼く。今は、それどころじゃない。ただの叩き、ただの一本。それだけのはずだ。
~
ゲートに収まる。
隣の現地の子が、ちらりとこっちを見て、すぐ前を向いた。値踏みでも警戒でもない。日本から来た小さいのがいる、というだけの一瞥。この枠に、それ以上の関心を持っている子は、たぶん一人もいない。
スタンドの方から、ざわめきが薄く聞こえる。こっちを見ている音じゃない。余韻の続きの音だ。さっきまで、あの何倍もの音が、金と白銀のために鳴っていた。同じ建物とは思えないくらい、今は静かだった。
静かなのは、嫌いじゃない。むしろ、ずっとこれでいい。
旗が上がる。
飛び出した瞬間、いつもと違う感覚が来た。
短い。
助走もいらないくらい、コースが短い。飛び出してすぐ、もうゴールの旗が見えている気がする。頭で考えるより先に、脚が巡航になっていた。
いつもなら、ここで加減する。全部を最初から出さない。出しすぎたら、後半が保たない。テンハロンちょいの朝、重い芝の上で覚えたばかりの感覚だ。
でも、今日は、加減する必要すら、なかった。
飛び出してから、私は自分の決めた速さで走った。速くも、遅くもしない。誰かが横に並んだとか、後ろから上がってきたとか、そういうことに合わせて脚を変える——という発想が、最初から、なかった。
隣に誰がいるかは、走り出してすぐ、意識から抜け落ちた。引き離した、という感じでもない。私が、見なくなっただけだ。競り合う相手として数える、その手続きを、体がまるごと省いていた。
だから、途中のことを、私はほとんど覚えていない。後ろで誰かが脚を伸ばして近づいてきたのか、力尽きて離れていったのか。たぶん、そういう出入りは、あったんだと思う。でも、そのどれも、私の速さには関係しない。関係させる気が、そもそもなかった。
体の中に、まだ何か残っている感じがした。全部出し切る前に、レースの方が先に終わってしまう。そんな感覚は、初めてだった。いつもは、ゴールと同時に空っぽになる。最後の一滴まで絞って、それでやっと足りるのが、私の走りだったはずだ。今日は違う。まだ使っていない力が、はっきり残っている。全部を出すところまで、いってすらいない。
——これ、まだ半分も使ってない。
そう気づいた時には、もう旗の下を通り過ぎていた。
減速して、振り返る。
二着の子は、まだずっと遠くにいた。三着はもっと遠い。見えるのは、私と、はるか後ろの他の子たちだけ。あの子たちが今日、どこで上がって、どこで落ちたのか、私は何ひとつ知らない。同じレースを走ったはずなのに、私だけ、ひとりで別のところを走っていたみたいだった。
柵のどこかから、悲鳴じみた声がひとつ上がる。歓声というより、驚きに近い声だった。何を見たのか自分でも整理できていない、という感じの声。
分かる、その気持ち。私もまだ、整理できていない。
肩で息をするほどでもなかった。汗も、いつもより少ない気がする。全力で走ったはずなのに、全力を出し切った実感だけが、どこかに置き忘れられている。勝った、というより、通り過ぎた、という方が近い。
まばらな拍手が、遅れて追いついてきた。義務で叩いている手も混ざっていそうな、決めかねた拍手だった。柵の内側で、現地のスタッフが二人、顔を寄せて何か話している。片方が電光掲示板を指差して、もう片方が首を傾げていた。信じていない顔だった。
無理もない。私自身、実感が追いついていないんだから。
そのざわめきも、長くは続かなかった。次の予定に戻る人、帰り支度に戻る人。数字ひとつ首を傾げて、それで終わり。今日この場所で起きたことは、あの二色の再戦の物語に、一行も関係がないからだ。
~
タキオンさんが、計測器を見て、それから紙に何か書く。
ペンが、また一度止まった。
止まって、また動いた。
「……何か?」
「いや。順調そうで、なによりだ」
言ってることと、ペンの止まり方が合っていない。でも、それ以上は聞かないことにした。この人は、言いたくないことは絶対に言わない。聞くだけ無駄だ。
絢原さんが近づいてくる。
いつもの確認。足元、膝、肩、息。最後に、目。
「どうだった」
「勝った」
「聞いてない」
「じゃあ何」
絢原さんは、何も言わなかった。
その代わり、何か言いたいことを、喉の奥へ飲み込むみたいな顔をした。長く付き合ってきたから分かる、あの顔だ。何かに気づいて、それを口に出す一歩手前で、自分から蓋をする顔。
「……なに、その顔」
「なんでもない」
「絶対、なんでもないって顔じゃない」
「気のせいだ」
嘘だ、と思ったけど、追わなかった。この人が言わないと決めたことを無理に引きずり出しても、ろくなことにならない。それは、もう知っている。
柵の外を見ると、ノワールさんは、もういなくなっていた。
いつの間に。挨拶もなしだ。偵察だと言っていたくらいだから、用が済んだらさっさと引き上げる主義なんだろう。
あの目は、今日の私を見に来たんじゃない。今日の私を、確かめに来ただけだ。確認はもう済んで、あとは黙って帰るだけの用件だったんだと思う。
それで満足したのか、余計に厄介な期待を上乗せされただけなのか、こっちには分からない。掲示板の外に沈んだその足で、他人の走りを確かめに来る。その執念が、今は私に向いている。それが、少しだけ、重かった。
分からないまま、また喉の奥のあの言葉が疼いた。
——あいつを、落とせ。
今日も、答えは出せなかった。
~
帰り道、勝った実感は、やっぱり湧いてこなかった。
「昼、何食う」
「なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るんだがな」
「じゃあ、甘いの」
「食事の話をしてるんだが」
「甘いのも食事だよ」
絢原さんが小さくため息をついた。ため息のわりに、口元は緩んでいた。こういうどうでもいい話をしている間だけ、体の中の妙な感覚を忘れていられる。たぶん、絢原さんも分かってやっている。この人がどうでもいい話をする時は、だいたい、何かを気遣っている時だ。
今日の勝ちは、いつも通り、何も残していかない。名前も、記録も、明日には誰も覚えていない。金と白銀の一日の、番組表の隅で終わった一本。明日の新聞は、あの二色で埋まる。私の欄は、結果の数字が一行載るだけ。読み飛ばされるための一行だ。それでいい。そのはずだった。
ただ、一つだけ、いつもと違うことがあった。
体の中に、まだ使っていない分が、はっきり残っている。この感覚を、なんと呼べばいいのか、私はまだ知らない。
それでいい。そう思うことにしている自分と、体の中に残っている「まだ余ってる」が、今日はどうしても、うまく重ならなかった。
本番まで、あと三週間。前を引いて、途中で消える。私の役目は、変わらない。
変わらないはずだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
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