アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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110話 無価値

 

前哨戦の翌朝は、よく晴れていた。

 

雨の多い秋だと聞いていたのに、空だけが白々しいくらいに青い。練習用のコースには、朝の早い時間から、いくつかの陣営が散らばっていた。昨日で前哨戦が終わって、ここから本番までは、どの陣営も調整だけの三週間になる。

 

私の予定は、軽い流しが一本。それだけだった。

 

「今日は本当に流すだけだ。汗をかいたら終わりでいい」

 

「昨日、一本走ったばっかりだしね」

 

「そういうことだ。……体はどうだ?」

 

「軽い。軽すぎて変な感じ」

 

「そうか」

 

絢原さんは、それ以上は聞かずに、コースの端で時計を構えた。昨日から、この人はずっとこの調子だ。何かを聞きたくて、聞かないと決めている。その我慢が、横にいるだけで伝わってくる。

 

タキオンさんは今朝は来ていない。昨日の計測の整理があるとかで、宿舎の机に紙の山を築いていた。出がけに一言だけ、「いいデータだったよ」と言われた。何がいいのかは、教えてもらえなかった。

 

流しを終えて、息を整えながら歩いていると、坂の方に、黒い髪が見える。

 

ノワールさんだった。

 

昨日、あの坂で残せなかったばかりなのに、もう登っている。走ってはいない。歩いて、しゃがんで、芝に手を当てる。何かを測っているのか、ただ触っているのか、遠目には分からない。毎年負けた場所を、毎年ああやって回顧しているのだと思う。

 

何年分の朝が、あの坂に積もっているんだろう。数えるのが、少し怖いくらいの年数のはずだ。

 

声は、かけなかった。

 

かけられなかった、の方が正しい。あの子は昨日、掲示板の外に沈んだ。私はその同じ日に、誰も見ていない一戦を、涼しい顔で勝った。何を言っても、どちらかが嘘になりそうだった。

 

それに——私にはまだ、言っていないことがある。

 

言わないまま今日まで来てしまったことが、朝の光の中で、妙にくっきりと輪郭を持ち始めていた。

 

 

 

 

 

 

空気が変わったのは、その時だった。

 

コースの入り口から、銀色がかった鹿毛が歩いてくる。

 

レゾリュートさんだった。

 

取り巻きはいない。一人で来たらしい。それだけで、コース全体の音が半分になった。散らばっていた陣営の視線が、一斉にそちらへ流れて、すぐに、見ていない振りに変わる。昨日のスタンドと同じだ。女王が通る道は、誰も塞がない。

 

私のことは、視界にも入っていなかった。素通りですらない。素通りというのは、一度は視界に入れた相手にする仕草だ。あの人の目の中に、私は最初から存在していない。

 

近くで見ると、昨日より、静かさの質が分かった。強い子は並ぶだけで肌がひりつく、というのが今までの常識だったけど、この人は違う。ひりつかない。代わりに温度が下がる。この人の周りだけ、空気が張り詰めて音が沈む。

 

レゾリュートさんの足が、坂の下で止まった。

 

坂の途中の、ノワールさんを見上げている。

 

「——話がある」

 

静かな声だった。命令の形をしているのに、怒鳴ってもいない。通る声だった。

 

ノワールさんが、振り返る。一拍あって、ゆっくり坂を降りてきた。逃げも隠れもしない。坂の下で、二人が向かい合う。

 

私は、少し離れた柵の内側にいる。立ち去るタイミングを、完全に失っていた。絢原さんが私の隣で、黙って時計を下ろした。

 

「昨日のあれは、何のつもりだ」

 

レゾリュートさんが言った。

 

「あれって?」

 

「私の外に並びかけた、あの脚だ。あそこで二番手に収まっていれば、掲示板内はあった。おまえの脚でも、それは獲れた。捨てたな」

 

「……ああ。捨てた」

 

「何故」

 

「あんたの後ろを決めるレースに、興味がねぇからだ」

 

ノワールさんの声は、昨日沈んだ子のものとは思えないくらい、はっきりしていた。

 

レゾリュートさんは、笑わない。呆れもしない。ほんの少しだけ、首を傾げた。本当に、分からないものを見る時の傾げ方だった。

 

「毎年、同じことを言う」

 

「毎年、同じだからな」

 

「そして毎年、同じ場所で終わる」

 

「……」

 

「私は、おまえの脚を覚えている。悪い脚ではない。二番手のレースに徹すれば、この大陸で長く残れる脚だ。それを、毎年、無駄に潰す」

 

「潰してるのは、あんただろ」

 

「違う。私は、走っているだけだ。私に無理やり勝とうとして潰れるのは、おまえが自分で選んだことだ」

 

即答だった。考える間もなく返ってくる、当たり前のことを言う速さだった。実際、その通りなんだと思う。レゾリュートさんは、誰のことも潰しに行っていない。あの人はいつも、一番前を走っているだけだ。

 

そこで、レゾリュートさんは一度言葉を切った。

 

次の言葉は、声を張るでもなく、突き放すでもなく、ただ、事実を読み上げるみたいに落ちてきた。

 

「弱い、というのは、すなわち無意味だ」

 

風の音が、やけに大きく聞こえた。

 

「勝てない挑戦に、価値はない。価値があると思いたい気持ちは、走る者なら誰でも持つ。それは、負けた側の慰めに過ぎない。結果の出ない脚は、何も変えない。何も残さない。誰の記憶にも、記録にも。——おまえのそれは、挑戦ではなく、浪費だ」

 

悪意は、どこにもなかった。

 

それが、一番きつかった。嘲るのでも、見下すのでもない。この人は、本気で言っている。本気で、ノワールさんのために言っている。二番手に徹すれば長く残れる、と、進路指導みたいに正しいことを言っている。この人の中で、これはたぶん、救済なのだ。

 

強い者が、弱い者に、無駄な傷を増やさせない。潰れる前に、正しい場所へ案内する。それを冷たいと呼ぶのは、たぶん負けた側の感傷で、あの人の側から見れば、これ以上ない誠実さなんだと思う。誰にでも言うわけじゃない。毎年正面から挑んでくる相手だから、毎年潰れる脚を覚えているから、わざわざ足を止めて言った。

 

秩序で、正義で、救済。

 

そういうものとして、あの「無意味だ」は発音されていた。だから、重かった。悪意なら、弾き返せる。善意で、しかも正しい。そういう言葉が、一番深くまで沈む。

 

「次は、利口に走れ。それが、おまえの脚の正しい使い方だ」

 

ノワールさんは、何も言わなかった。

 

言い返すより先に、レゾリュートさんが正しすぎた。勝てないのは事実で、毎年千切れるのも事実で、何も残っていないのも、事実だから。反論の形をした言葉は、事実の壁の前では、どこにもぶつけられない。

 

——違う。

 

そう思っている自分が、私の中に、確かにいる。

 

勝てないと分かっていて、それでも脚を出したことに、意味があった。少なくとも、私にはある。理屈じゃ説明できないけど、あの春、私は勝ち負けよりも大事なものに脚を賭けて、その一走で体を壊した。それが無意味だったなんて、私は、絶対に思わない。

 

だから、レゾリュートさんは、間違っている。

 

そう思うのに——口は、動かなかった。

 

言い返す義理が、私にはない。ノワールさんのために反論してやる筋合いも、レゾリュートさんに正しさを説き返す気力も、今の私には、どこにもなかった。走る理由すら持っていない体で、他人の走りの意味を弁護するなんて、資格の問題より前に、しんどい。それが本音だった。

 

一度だけ、ノワールさんの口が動きかけた。

 

動きかけて、閉じる。出そうとした言葉が、事実の壁のどこにもぶつけられなくて、行き場をなくしたみたいだった。あの口の悪い子が、一言も出せない。私も、出さない。二人して、正しさの前で黙り込んでいた。

 

レゾリュートさんは、返事を待たなかった。

 

最初から、返事が必要な話ではなかったんだと思う。伝えるべきことを伝えて、女王はコースの奥へ歩いていった。芝を踏む音が、規則正しく遠ざかっていく。急ぎも、緩みもしない。歩く速さまで、あの人は一定だった。

 

残された側だけが、乱れる。それが、強いということなのかもしれなかった。

 

ノワールさんは、坂の下に立ったままだった。

 

拳を、握ってもいない。俯いてもいない。ただ立って、遠ざかる銀色の背中を見ていた。昨日、コースの上でそうしていたのと、同じ目で。

 

それから、こっちを見もせずに、また坂を登り始めた。

 

一歩ずつ。さっきと同じ速さで。世界一正しい説教を全身に浴びた直後の足取りが、浴びる前と、何ひとつ変わっていなかった。退け、と言われた場所へ、もう一度登っていく。

 

声をかけるなら、今しかなかった。

 

かけられなかった。かける言葉を持っている人間は、たぶんこの世に一人もいない。少なくとも、正体を黙ったままの私に、その資格がないことだけは、はっきりしていた。

 

私は、その背中から、また目を離せずにいた。

 

だから、気づくのが遅れる。

 

銀色が、こっちへ歩いてきていた。

 

コースの奥へ行ったと思っていた足が、いつの間にか向きを変えて、柵沿いの道をこちらへ来る。坂のノワールさんは、もう声のとどかない高さにいた。周りに、他の陣営もいない。

 

レゾリュートさんの足が、私の前で、止まった。

 

目が、初めて私を映した。人を見る目じゃない。装具か何かを検分する目に近かった。

 

「お前が、例のラビットか」

 

名前は、呼ばれなかった。知らないんじゃなくて、要らないんだと思う。

 

「……そうですけど」

 

「確かめたいことがある。お前は本当に、前を引くためだけに、あの舞台へ出るのか」

 

「そういう役目なので」

 

即答できた。事実だからだ。声も揺れなかったと思う。

 

レゾリュートさんは、しばらく私を見ていた。検分の目のまま、上から下まで。それから、興味の糸が切れるのが、目に見えて分かった。

 

「下らない」

 

吐き捨てる声ですら、なかった。

 

「レースは、勝てなければ無意味だ。勝つ気のない脚が、あの舞台に並ぶな」

 

それだけ言って、銀色は歩いていった。振り返りもしない。最初から、私の返事なんて、あの人の世界のどこにも必要とされていなかった。

 

私は、その場に立ったままだった。

 

怒りは、湧いてこない。悔しさも、来ない。事実を言われただけだ。勝つ気のない脚。その通りだ。反論の材料が、私のどこを探しても、一つも出てこない。

 

さっき、坂の下でノワールさんに向けられた「無意味」が、今度は、私に向けて発音された。それだけのことだった。

 

 

 

 

 

 

帰り道、絢原さんは何も聞いてこない。

 

「重かったな」

 

ぽつりと、それだけ言った。誰が、とも、何が、とも言わない。同じものを見ていた者どうしの、短い確認みたいな言い方だった。

 

「……うん」

 

それきり、二人とも黙って歩いた。聞かないでいてくれるのが、今はありがたかった。頭の中が、まだ整理できていない。

 

宿舎が見えてくる頃になって、絢原さんが、思い出したように付け足した。

 

「メシ、ちゃんと食えよ」

 

「食べるよ。なんで急に」

 

「ああいうのを見た日は、食が細くなるやつがいる」

 

「私、そんなに柔じゃないんだけど」

 

「知ってる。念のためだ」

 

念のため、が多い人だ。でも、その念のためのおかげで、少しだけ、足の重さが減った。

 

レゾリュートさんは、間違ったことを一つも言っていない。

 

それが、ずっと引っかかっている。

 

勝てない挑戦に価値はない。結果の出ない脚は何も変えない。何も残さない。全部、正しい。数字で殴られたら、一言も返せない類の正しさだ。あの人は強くて、強さの分だけ正しくて、正しさの分だけ、どこまでも静かだった。

 

じゃあ、あの子の毎年は、浪費なのか。

 

沈むかもしれないと分かっていて、それでも坂に脚をねじ込む、あの走りは。二着を捨てて、掲示板の外に沈んで、翌朝もう同じ坂を登っている、あの毎年は。無意味、という一言で、本当に畳めてしまうのか。

 

畳めてしまう気がして、それが嫌だった。

 

反論が、見つからないのだ。あの子の走りに意味がある、と言い切るための言葉を、私は一つも持っていない。持っていないくせに、無意味だと認めるのも、嫌だった。理屈は全部レゾリュートさんの側にあって、私の側には、名前のつかないざらつきしかない。

 

たちが悪いのは、私が、どちらの側でもないことだった。

 

あの子みたいに、毎年、勝てないと分かって挑み続けているわけじゃない。レゾリュートさんみたいに、勝ち続けて正しさを積み上げたわけでもない。私が正面から挑んだのは、後にも先にも、あの春の一度きり。その一度で、私は勝ち負けより大事なものがあると知って、そして、その一度で体を壊して、走る理由を失くした。

 

だから、レゾリュートさんが間違っていることは、知っている。

 

知っているのに、それを人前で言い返せるほど、私はもう、あの春の私じゃない。今の私は、走る理由を持たないまま、役目と検査の間で、なんとなく脚を動かしているだけの体だ。そんな体で、他人の走りの意味を弁護する資格は、たぶんない。

 

資格がないことは、分かっている。

 

分かっているのに、あの「無意味だ」が、他人事として流れていってくれない。

 

当然だった。今日のあれは、二回出てきた。一度目は、挑んで負け続けるノワールさんに。二度目は、勝つ気のない私に。挑む者と、挑まない者。正反対のはずの二人が、あの人の物差しの上では、同じ「無意味」の側に並んでいた。

 

——それに。

 

考えたくないのに、考えてしまう。

 

勝てない走りに、意味がないなら。

 

日本で走っていた私は、何だったんだろう。

 

勝てないレースもあった。勝ったのに、何も湧かないレースは、もっとあった。火が消えて、走る理由をどこにも見つけられないまま、それでも脚だけ動かしていた、あの時間は。

 

無意味、という一言で、畳まれてしまうんだろうか。

 

違う、と思う自分と、反論できない自分が、同じ胸の中にいる。その二つは、今夜すぐには、ひとつにならない。

 

勝てない走りに、意味がないなら。

 

私が日本で走っていた時間は——何だったんだろう。

 

答えは、出なかった。たぶん、今日明日で出るような種類の問いじゃない。だから今夜は、その問いを抱えたまま、眠るしかなかった。

 

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