前哨戦の翌朝は、よく晴れていた。
雨の多い秋だと聞いていたのに、空だけが白々しいくらいに青い。練習コースには、朝の早い時間から、いくつかの陣営が散らばっていた。昨日で前哨戦が終わって、ここから本番までは、どの陣営も調整だけの三週間になる。
私の予定は、軽い流しが一本。それだけだった。
「今日は本当に流すだけだ。汗をかいたら終わりでいい」
「昨日、一本走ったばっかりだしね」
「そういうことだ。……体は」
「軽い。軽すぎて変な感じ」
「そうか」
絢原さんは、それ以上は聞かずに、コースの端で時計を構えた。昨日から、この人はずっとこの調子だ。何かを聞きたくて、聞かないと決めている。その我慢が、横にいるだけで伝わってくる。
タキオンさんは今朝は来ていない。昨日の計測の整理があるとかで、宿舎の机に紙の山を築いていた。出がけに一言だけ、「いいデータだったよ」と言われた。何がいいのかは、教えてもらえなかった。
流しを終えて、息を整えながら歩いていると、坂の方に、黒い髪が見える。
ノワールさんだった。
昨日、あの坂で脚が保たなくなったばかりなのに、もう登っている。走ってはいない。歩いて、一歩ずつ、足の裏で芝を確かめるみたいに登っていく。時々止まって、しゃがんで、芝に手を当てる。何かを測っているのか、ただ触っているのか、遠目には分からない。毎年負けた場所を、毎年ああやって確かめてきたんだと思う。
何年分の朝が、あの坂に積もっているんだろう。数えるのが、少し怖いくらいの年数のはずだ。
声は、かけなかった。
かけられなかった、の方が正しい。あの子は昨日、掲示板の外に沈んだ。私はその同じ日に、誰も見ていない一戦を、涼しい顔で勝った。何を言っても、どちらかが嘘になりそうだった。
それに——私にはまだ、言っていないことがある。
言わないまま今日まで来てしまったことが、朝の光の中で、妙にくっきりと輪郭を持ち始めていた。
~
空気が変わったのは、その時だった。
コースの入り口から、銀色がかった鹿毛が歩いてくる。
レゾリュートさんだった。
取り巻きはいない。一人で、調整に来たらしい。それだけで、コース全体の音が半分になった。散らばっていた陣営の視線が、一斉にそちらへ流れて、すぐに、見ていない振りに変わる。昨日のスタンドと同じだ。女王が通る道は、誰も塞がない。
私のことは、視界にも入っていなかった。素通り、ですらない。素通りというのは、一度は視界に入れた相手にする仕草だ。あの人の目の中に、私は最初から存在していない。
近くで見ると、昨日より、静かさの質が分かった。強い子は並ぶだけで肌がひりつく、というのが今までの常識だったけど、この人は違う。ひりつかない。代わりに、温度が下がる。この人の周りだけ、空気が張り詰めて、音が沈む。
レゾリュートさんの足が、坂の下で止まった。
坂の途中の、ノワールさんを見上げている。
「——降りてこい」
静かな声だった。命令の形をしているのに、怒鳴ってもいない。通る声だった。
ノワールさんが、振り返る。一拍あって、ゆっくり坂を降りてきた。逃げも隠れもしない。坂の下で、二人が向かい合う。
私は、少し離れた柵の内側にいる。立ち去るタイミングを、完全に失っていた。絢原さんが私の隣で、黙って時計を下ろした。
「昨日のあれは、何のつもりだ」
レゾリュートさんが言った。
「あれ、とは」
「私が動いた後、おまえだけが二着を追わなかった。あそこで後ろの争いに乗っていれば、二着はおまえのものだった。おまえの脚なら、獲れた。捨てたな」
「……ああ。捨てた」
「何故」
「二着なんて、要らねぇからだ。俺は、あんたを抜きに来てる」
ノワールさんの声は、昨日脚が止まった子のものとは思えないくらい、はっきりしていた。
レゾリュートさんは、笑わない。呆れもしない。ほんの少しだけ、首を傾げた。本当に、分からないものを見る時の傾げ方だった。
「毎年、同じことを言う」
「毎年、同じだからな」
「そして毎年、同じ場所で終わる」
「……」
「昨日、二着を全力で獲りに行った子たちがいた。私には敵わない。それを分かった上で、自分に獲れる一番を、最後まで獲りに来た。あれは、正しい。勝負として、成立している」
淡々とした声だった。
「おまえは、それをしない。獲れるものを、自分から捨てる。勝てもしない私だけを見て、単騎で来て、そして毎年、勝手に潰れる。——それは、挑戦ではない。ただの浪費だ」
「潰してるのは、あんただろ」
「違う。私は、走っているだけだ。私の隣まで来て潰れるのは、おまえが自分で選んだことだ」
即答だった。考える間もなく返ってくる、当たり前のことを言う速さだった。実際、その通りなんだと思う。レゾリュートさんは、誰のことも潰しに行っていない。あの人はいつも、一番前を走っているだけだ。
そこで、レゾリュートさんは一度言葉を切った。
次の言葉は、声を張るでもなく、突き放すでもなく、ただ、事実を読み上げるみたいに落ちてきた。
「勝ちに向かわない脚は、無意味だ」
風の音が、やけに大きく聞こえた。
「勝てないこと自体を、私は責めていない。敵わない相手がいるのは、当たり前だ。だから、獲れる勝利を全力で獲りに行く。それが勝負だ。おまえは、その勝負から降りている。一着に敵わないと分かった時点で、獲れる二着すら捨てて、散ることを選ぶ。それは誇りじゃない。勝負を投げているだけだ」
悪意は、どこにもなかった。
それが、一番きつかった。嘲るのでも、見下すのでもない。この人は、本気で言っている。本気で、ノワールさんのために言っている。獲れる勝利を捨てるな、勝負を投げるな、と、進路指導みたいに正しいことを言っている。この人の中で、これはたぶん、救済なのだ。
強い者が、弱い者に、無駄な傷を増やさせない。潰れる前に、正しい戦い方へ案内する。それを冷たいと呼ぶのは、たぶん負けた側の感傷で、あの人の側から見れば、これ以上ない誠実さなんだと思う。誰にでも言うわけじゃない。毎年正面から挑んでくる相手だから、毎年潰れる脚を覚えているから、わざわざ足を止めて言った。
秩序で、正義で、救済。
そういうものとして、あの言葉は発音されていた。だから、重かった。悪意なら、弾き返せる。善意で、しかも正しい。そういう言葉が、一番深くまで沈む。
「次は、投げるな。獲れるものを、獲れ。それが、おまえの脚の正しい使い方だ」
ノワールさんは、何も言わなかった。
でも、この子が「二着なんて要らない」と言った理由も、私には分かる気がした。ノワールさんにとって、一着を獲りに行かない走りは、それこそが「負け」なんだと思う。獲れる二着を拾って生き延びるくらいなら、勝てない一着を目指して散る方がいい。あの子の中では、それが誇りで、レゾリュートさんの中では、それが浪費だった。
同じレースを、正反対から見ている。二人とも、自分の側では、正しい。
言い返すより先に、レゾリュートさんが正しすぎた。そしてノワールさんも、自分の誇りの中では、間違っていない。どちらかが嘘をついているわけじゃない。信じているものが、根っこから違うだけだ。
一度だけ、ノワールさんの口が動きかけた。
動きかけて、閉じる。何を言っても、この人には通じないと分かっている顔だった。誇りの話を、勝負の合理で返される。その噛み合わなさに、言葉を探すのをやめたみたいだった。あの口の悪い子が、一言も出せない。
レゾリュートさんは、返事を待たなかった。
最初から、返事が必要な話ではなかったんだと思う。伝えるべきことを伝えて、女王はコースの奥へ歩いていった。芝を踏む音が、規則正しく遠ざかっていく。急ぎも、緩みもしない。歩く速さまで、あの人は一定だった。
残された側だけが、乱れる。それが、強いということなのかもしれなかった。
ノワールさんは、坂の下に立ったままだった。
拳を、握ってもいない。俯いてもいない。ただ立って、遠ざかる銀色の背中を見ていた。昨日、コースの上でそうしていたのと、同じ目で。
それから、こっちを見もせずに、また坂を登り始めた。
一歩ずつ。さっきと同じ速さで。世界一正しい説教を全身に浴びた直後の足取りが、浴びる前と、何ひとつ変わっていなかった。投げるな、と言われた場所へ、もう一度登っていく。あの子は、たぶん、明日も同じことをする。勝てない一着を目指して、また散る。分かっていて、やめない。
声をかけるなら、今しかなかった。
かけられなかった。かける言葉を持っている人間は、たぶんこの世に一人もいない。少なくとも、正体を黙ったままの私に、その資格がないことだけは、はっきりしていた。
私は、その背中から、また目を離せずにいた。
だから、気づくのが遅れる。
銀色が、こっちへ歩いてきていた。
コースの奥へ行ったと思っていた足が、いつの間にか向きを変えて、柵沿いの道をこちらへ来る。坂のノワールさんは、もう声のとどかない高さにいた。周りに、他の陣営もいない。
レゾリュートさんの足が、私の前で、止まった。
目が、初めて、私を映した。人を見る目じゃない。装具か何かを検分する目に近かった。
「お前が、例のラビットか」
名前は、呼ばれなかった。知らないんじゃなくて、要らないんだと思う。
「……そうですけど」
「確かめたいことがある。お前は本当に、前を引くためだけに、あの舞台へ出るのか」
「そういう役目なので」
即答できた。事実だからだ。声も、揺れなかったと思う。
レゾリュートさんは、しばらく私を見ていた。検分の目のまま、上から下まで。それから、興味の糸が切れるのが、目に見えて分かった。
「下らない」
吐き捨てる声ですら、なかった。
「あの子は、勝てない勝負でも、勝ちに向かって散る。愚かだが、あれはまだレースだ。お前は、勝ちに向かう気すらない。前を引いて、消えるだけ。レース運びに関わりながら、勝負をする気がない。——それは、レースをしに来た者の顔じゃない」
言葉が、少しだけ低くなった。
「勝つ気のない脚が、あの舞台に並ぶな」
それだけ言って、銀色は歩いていった。振り返りもしない。最初から、私の返事なんて、あの人の世界のどこにも必要とされていなかった。
私は、その場に立ったままだった。
怒りは、湧いてこない。悔しさも、来ない。今のところは、事実を言われただけだ。前を引いて消えるだけの脚。勝負をしに来たわけじゃない。その通りだ。反論の材料が、私のどこを探しても、一つも出てこない。
さっき、坂の下でノワールさんに向けられた言葉と、今のは、同じ物差しから出ている。それが、遅れて分かった。あの人が否定しているのは、順位の低さじゃない。勝負を投げていることだ。ノワールさんは、勝ちに向かって散る——だから「浪費」。私は、勝ちに向かう気すらない——だから「並ぶな」。
一貫している。傲慢だけど、筋は通っていた。
~
帰り道、絢原さんは何も聞いてこない。
「重かったな」
ぽつりと、それだけ言った。誰が、とも、何が、とも言わない。同じものを見ていた者どうしの、短い確認みたいな言い方だった。
「……うん」
それきり、二人とも黙って歩いた。聞かないでいてくれるのが、今はありがたかった。頭の中が、まだ整理できていない。
宿舎が見えてくる頃になって、絢原さんが、思い出したように付け足した。
「メシ、ちゃんと食えよ」
「食べるよ。なんで急に」
「ああいうのを見た日は、食が細くなるやつがいる」
「私、そんなに柔じゃないんだけど」
「知ってる。念のためだ」
念のため、が多い人だ。でも、その念のためのおかげで、少しだけ、足の重さが減った。
レゾリュートさんは、間違ったことを一つも言っていない。
それが、ずっと引っかかっている。
獲れる勝利を全力で獲るのが勝負だ。勝負を投げた脚は、何も残さない。全部、正しい。数字で殴られたら、一言も返せない類の正しさだ。あの人は強くて、強さの分だけ正しくて、正しさの分だけ、どこまでも静かだった。
じゃあ、あの子の毎年は、浪費なのか。
脚が保たなくなると分かっていて、それでも坂に脚をねじ込む、あの走りは。二着を捨てて、掲示板の外に沈んで、翌朝もう同じ坂を登っている、あの毎年は。無意味、という一言で、本当に畳めてしまうのか。
畳めてしまう気がして、それが嫌だった。
反論が、見つからないのだ。あの子の走りに意味がある、と言い切るための言葉を、私は一つも持っていない。持っていないくせに、無意味だと認めるのも、嫌だった。理屈は全部レゾリュートさんの側にあって、私の側には、名前のつかないざらつきしかない。
たちが悪いのは、私が、どちらの側でもないことだった。
あの子みたいに、毎年、勝てないと分かって挑み続けているわけじゃない。レゾリュートさんみたいに、勝ち続けて正しさを積み上げたわけでもない。私が正面から挑んだのは、後にも先にも、あの春の一度きり。その一度で、私は勝ち負けより大事なものがあると知って、そして、その一度で体を壊して、走る理由を失くした。
だから、レゾリュートさんが間違っていることは、知っている。
勝ち負けじゃない場所に、脚を賭けたことがある。勝負の合理では測れないものが、あの一走にはあった。あの人の物差しは、そこだけは、測り損ねている。
知っているのに、それを人前で言い返せるほど、私はもう、あの春の私じゃない。今の私は、走る理由を持たないまま、役目と検査の間で、なんとなく脚を動かしているだけの体だ。そんな体で、他人の走りの意味を弁護する資格は、たぶんない。
資格がないことは、分かっている。
分かっているのに、あの言葉が、他人事として流れていってくれない。
当然だった。今日のあれは、二度、発音された。一度目は、勝ちに向かって散るノワールさんに。二度目は、勝ちに向かう気のない私に。挑む者と、挑まない者。正反対のはずの二人が、あの人の同じ物差しの上で、そろって「無意味」の側に置かれた。
——それに。
考えたくないのに、考えてしまう。
勝ちに向かわない走りに、意味がないなら。
日本で走っていた私は、何だったんだろう。
勝てないレースも、あった。勝ったのに、何も湧かないレースは、もっとあった。火が消えて、走る理由をどこにも見つけられないまま、それでも脚だけ動かしていた、あの時間は。
無意味、という一言で、畳まれてしまうんだろうか。
違う、と思う自分と、反論できない自分が、同じ胸の中にいる。その二つは、今夜すぐには、ひとつにならない。
勝ちに向かわない走りに、意味がないなら。
私が日本で走っていた時間は——何だったんだろう。
答えは、出なかった。たぶん、今日明日で出るような種類の問いじゃない。だから今夜は、その問いを抱えたまま、眠るしかなかった。