アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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いいサブタイトルが決まらない。


111話 発覚

——Challenger: Noir

 

 

 

銀色に「退け」と言われた夜は、悔しさより先に、笑いが出た。

 

退くわけがないだろう。俺が退く理由なんて、最初から一つもない。毎年、同じように挑んで、毎年、同じように潰れる。それだけの話だ。理由がいるようなことじゃない。

 

ただ、今年は、いつもと違うことがひとつあった。

 

あの銀色の説教を聞きながら、俺は途中から、別のことを考えていた。あんたのその正しさが、正面から踏み潰される日が、今年来るかもしれない。そう思ったら、説教の中身なんて、半分も入ってこなかった。

 

坂で俺に勝った、日本の白いの。あの日、俺の全部を出しても、あいつの背中には手が掛からなかった。悔しかったが、あれは本物だった。銀色の正しさを、正しさごと踏み潰せる脚が、今年、この大陸に来ている。俺が落とせなくても、あいつが落とす。だから俺は、あいつに言ったのだ。あいつを、落とせ、と。

 

短いレースも、見に行った。誰も注目していない、消化みたいな一戦。あいつは涼しい顔で、現地の脚を全部置き去りにした。俺の目に狂いはない。むしろ確信が増えた。あれは、格が違う。

 

笑えるだろう。俺は、他人に期待したのが、あれが初めてだったんだ。

 

毎年、自分の脚だけを信じてきた。毎年、あの銀色に千切られて、毎年、翌朝には同じ坂を登り直す。誰かに賭けるくらいなら、自分で潰れる方を選んできた。その俺が、生まれて初めて、自分以外の脚に「落とせ」と言った。それが、どれだけのことか。あいつには、たぶん一生分からない。

 

だから、調べた。

 

信じていなかったからじゃない。逆だ。本番までにあいつがどう仕上げてくるのか、どんな戦い方をする奴なのか、知っておきたかった。託した相手のことを、俺は、名前と脚の速さしか知らなかったから。

 

夜、部屋で、資料を広げた。遠征してきた陣営の情報なんて、その気になれば、いくらでも手に入る。今まで俺は、他人の戦績や調整の情報になんて、興味がなかった。相手が誰だろうと、俺のやることは変わらないからだ。だから、これが初めてだった。誰かのことを、知りたくて調べるのは。

 

日本の戦績は、すぐに出てきた。

 

短いのばかりだった。千二百。千四百。砂のマイルが一度。海の向こうの短距離で頂点を獲って、世界女王と呼ばれた脚。

 

長いのは——一度だけ。

 

春の大一番で、一度だけ。結果の欄より先に、その後の空白が目に入った。長い休養。故障。あの距離を走ったのは、後にも先にも、その一度きり。

 

手が、止まった。

 

二千四百の脚じゃない。数字が、そう言っている。なのにあいつは、あの坂で俺に勝った。分からない。分からないから、聞いて回った。日本の陣営はどんな調整をしているのか。本番をどう獲りに来るのか。

 

答えは、拍子抜けするくらい簡単に返ってきた。

 

「ああ、金色の先導だろう」

 

練習場の古株が、天気の話でもするみたいに言った。

 

「千五百まで引いて、消える役だ。陣営同士じゃ知られた話だぞ」

 

——先導。

 

ラビット。ペースメーカー。当て駒。

 

千五百まで前を引いて、消える役。

 

隠されてもいない。聞けば、誰でも教えてくれる話だった。関係者はみんな知っていて、たぶん銀色も知っていて、知らないのは、俺だけだった。

 

聞かなかったからだ。

 

聞く必要がないと、思っていたからだ。あの脚を見て、あの目を見て、疑う方がどうかしていると思った。負けた足で、頭を下げるみたいに夢を託した。あいつは、否定しない。それだけを、覚えている。あの時、あいつが一言「違う」と言えば、それで済んだ話だった。

 

言わなかった。

 

あいつは、言わなかったのだ。

 

——思い出したことが、一つある。

 

あの朝、坂の上で「落とせ」と言った時、あいつは一瞬、何か言いかけた。口が動きかけて、閉じた。あの時は、照れ隠しか何かだと思って、流した。

 

今なら分かる。あれは、訂正しかけて、やめた顔だ。

 

言えたのだ、あいつは。あの場で、一言。言えたのに、飲み込んだ。俺の目の前で、俺の勘違いを、そのまま抱えて持ち帰りやがった。

 

俺が勝手に勘違いした。それは認めてやる。なら、勘違いだと知っていて、黙って受け取った奴のことは、何と呼べばいい。

 

体の芯が、冷えて、それから一気に熱くなった。

 

悔しさとは違う。銀色に千切られる時の、あの敗北の熱とも違う。もっと恥に近くて、もっと質の悪い熱だった。俺は、この何年も坂に積んできたもの全部を、消耗品に預けたのだ。前を引いて捨てられるための脚に、俺の「落とせ」を、託したのだ。

 

それと——認めたくないが、恥よりも深いところに、別のものが沈んでいた。

 

失望だ。

 

あの脚だ。俺が何年坂を登っても手に入らない、あの脚。それを持って生まれた奴が、勝負をしない。銀色が動いた瞬間に二着へ逃げる、あの連中がいるだろう。理由は違うんだろうさ。契約だの、役目だの。それでも、やってることは同じだ。勝ちに行かない。あの檻の中の連中と同じ側に、あいつは立っている。

 

一番強い脚が、一番勝負から遠い場所にいる。こんなにふざけた話があるか。俺なら——俺にあの脚があったなら、とっくに銀色の前にいる。

 

負けるのは、慣れている。何年も負けてきた。負けて、立って、また登る。それが俺のやり方で、それだけは誰にも汚させなかった。

 

汚したのは、俺自身だった。よりによって、一番譲れなかったはずの「挑む」ってことを、俺は、挑む気のない奴に任せてしまったのだ。銀色に潰されるのとは、わけが違う。あれは戦った結果だ。これは——ただの、間抜けだ。

 

気づいたら、歩き出していた。

 

何を言うかも、決めていない。決める前に、足の方が先に動いていた。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

夕方の調整が終わって、絢原さんは事務所の方へ書類を出しに行った。

 

「すぐ戻る。そこにいろ」

 

「はいはい」

 

コース脇の通路で、一人で汗を拭いていた。日が落ちかけて、人気はもうほとんどない。

 

タオルを畳んで、ふと、通路の先を見た。

 

夕日を背にして、誰かが立っていた。逆光で顔は見えない。でも、シルエットだけで分かった。分かった瞬間に、今日この時間が来たことも、分かった。

 

足音が、近づいてくる。速くて、硬くて、一歩ごとに地面を打つみたいな歩き方。

 

「ノワールさん——」

 

言い終わる前に、胸倉を掴まれた。

 

背中が柵に当たる。骨に来る強さだった。抵抗は、しない。する気にも、ならない。至近距離に、あの目つきの悪い目がある。今日は、目つきが悪いんじゃない。ほんとうに、怒っている目だった。

 

「調べた」

 

低い声だった。怒鳴っていない。怒鳴らない方が、怖い声というものがある。

 

「日本の戦績も。仕上げも。……役目も、全部だ」

 

近くで見るその顔は、坂で会った日とも、柵越しに軽口を叩いた日とも、別人みたいだった。目の下に、寝ていない痕があった。昨日の夜から今日のこの時間まで、この子がどんな時間を過ごしてきたのか、その痕だけで、だいたい分かってしまう。

 

ああ、と思った。

 

来るべきものが、来ただけだ。驚きよりも先に、諦めに似た納得が来た。いつかバレる。分かっていた。分かっていて、私は今日まで、何もしなかった。

 

「先導だってな。千五百まで引いて、消える役だってな」

 

「……」

 

否定の言葉を、探さなかった。探せば、この期に及んでまだ黙る側に回ることになる。それだけは、もうしたくなかった。

 

「答えろ」

 

「……そう。それが、私の役目」

 

胸倉の手に、力がこもった。柵が軋む。

 

「その脚を持ってて、勝つ気がねぇのか」

 

勝手に勘違いしたのは、そっちでしょ。

 

言葉は、喉のすぐ裏まで来ていた。事実だ。私は一度も、勝ちに行くなんて言っていない。あの子が勝手に、私を挑戦者だと思い込んだだけだ。そう言ってしまえば、この場は少しだけ楽になる。

 

言えなかった。

 

言わなかったのは、私だからだ。あの坂の日も、短いレースの柵越しでも、機会は何度もあった。「私はラビットだよ」——たった一言。それだけで済んだ。言えば、この子は私に何も託さなかった。言わなかったから、この子は今日まで、いない挑戦者に夢を預けていた。

 

黙っていたのは、私だ。

 

言い訳の材料なら、いくらでもある。契約のこと。陣営の方針。言う義務なんてなかったこと。全部並べれば、理屈の上では私が勝つ。理屈の上で勝って、それでどうなる。目の前のこの子の、この目が、それで元に戻るのか。

 

「……何とか言えよ」

 

声が、一度だけ揺れた。

 

怒りの下から、別のものが覗いた気がした。この子は、正しいから怒っているんじゃない。傷ついたから、怒っている。負けた日の帰り道に、頭を下げて託した相手が、最初から戦場にいなかった。その恥ごと、今、私の胸倉を掴んでいる。

 

そして、怒りとも傷とも違う、もっと静かなものが、一番奥にあった。

 

失望だ。分かってしまった。この子は、私の脚に、失望している。あれだけの脚を持っていて、勝負をしないのか、と。二着に逃げるあの子たちと、お前も同じ側なのか、と。

 

「ごめん」

 

謝ってから、間違えた、と思った。案の定、ノワールさんの目に、火が戻った。

 

「謝るな」

 

胸倉を掴む手が、また強くなる。

 

「謝られると、よけいに惨めになるんだよ。こっちが。……俺はな、あの朝、生まれて初めて、自分以外の脚に頭を下げたんだ。毎年ひとりで坂に潰れてきた俺が、お前になら、って」

 

声が、途切れそうになりながら、続く。

 

「その脚がな。よりによって、あいつらと同じ側だった。銀の後ろで、二着に逃げる連中と。……勝てねぇんじゃない。勝つ気が、ねぇんだ。そんな脚に、俺は」

 

言葉が、そこで詰まった。

 

続きは、言わなかった。言えば、自分の期待の大きさを、全部さらけ出すことになるからだと思う。この子は、そこまで鈍くない。

 

私は、何も言えなかった。

 

違う、と言いたかった。私にも、正面から挑んで壊れた春がある。あんたと同じ側にいた時間が、確かにあったんだ。でも、それを今の私が口にする資格はない。火の消えた体で「昔は挑んでた」なんて、言い訳にすらならない。

 

沈黙が、答えになった。

 

ノワールさんの目から、火が引いていく。怒りが冷めたんじゃない。期待していた分の熱が、抜けていく引き方だった。あんなに強く掴んでいた手が、糸が切れるみたいに、ゆっくり離れた。

 

「……そうかよ」

 

低い声だった。もう、私を責める響きすらなかった。責める価値も、期待する価値も、この目の中から消えていた。

 

「その脚で、前を引いて消えるだけか」

 

答えられなかった。

 

そうだよ、と言えばいいだけだった。役目だから、契約だから、そのために海を渡ったんだから。いつもなら即答できる台詞が、今日は、喉のどこにも見つからなかった。

 

黙ったままの私を、ノワールさんは、もう一度だけ見た。

 

見て、それから、ふっと笑う。

 

嘲笑でも、自嘲でもない。期待した自分が愚かだった、と自分に言い聞かせるような、乾いた笑い方だった。その笑い方の方が、怒鳴られるより、ずっとこたえた。

 

「もう、いい」

 

それだけ言って、背を向けた。

 

夕日の中に、背中が小さくなっていく。あの背中は、ヴェルメイユ賞の日、白銀を追って坂に消えていった背中と、同じ形をしていた。あの日は、追う相手が前にいた。今日は、いない。追いかけるものを失くした背中は、あの日よりずっと、小さく見えた。

 

追いかける資格も、呼び止める言葉も、私にはなかった。

 

 

 

 

 

 

部屋に戻って鏡を見ると、襟元に皺が残っていた。

 

指で伸ばしても、癖がついて戻らない。

 

戻ってきた絢原さんは、たぶん何かに気づいていた。襟の皺か、顔色か、それとも通路の空気の残りか。何に気づいたのかは分からないけど、気づいて、聞かないことを選んだ顔で、「メシ行くぞ」とだけ言った。私も「うん」とだけ返した。それ以上は、どちらも触れなかった。

 

食事の間、絢原さんはいつもより少しだけ、どうでもいい話を多くした。現地の食堂のパンが硬い話。タキオンさんが砂糖を切らして騒いでいた話。どれも中身のない話で、その中身のなさが、たぶん、この人なりの手当てだった。

 

夜、ベッドの上で、天井を見る。

 

騙したつもりは、なかった。

 

嘘は、一度もついていない。勝ちに行くと言ったことも、挑戦者のふりをしたことも、一度もない。あの子が見たいものを見て、信じたいものを信じただけ。理屈の上では、私は何も悪くない。

 

理屈の上では。

 

でも、と思う。

 

あの坂の日、否定できた。短いレースの日も、言う機会はいくらでもあった。一言で済んだ。その一言を、私はずっと、出さずにいた。

 

面倒だったからじゃない。たぶん、もっとたちの悪い理由だ。

 

あの子の目に映っている「挑戦者」が、少しだけ、心地よかったからだ。世界中の誰も私に何も期待しない中で、あの子一人だけが、私を勝ちに来た脚だと信じていた。誰にも期待されない場所が楽だと言いながら、たった一人の勘違いだけは、訂正しないまま、抱えて歩いていた。楽な場所にいたまま、期待の一番おいしいところだけ、こっそり齧っていたのだ。

 

明日から、あの子は、私を見ない。坂ですれ違っても、柵の外にも、もう来ない。それが正しい距離で、最初からそうしておけば、誰も傷つかなかった。

 

分かっているのに、あの「落とせ」が消えてくれない。まだ答えていなかったのに、答える相手の方が、今日、いなくなった。それだけのことが、思っていたより、ずっと重い。

 

騙したつもりは、なかった。

 

でも、騙していないと言えるほど、私は、何もしていなかった。

 

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