アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

153 / 153
112話 勝てない走りとは

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ホテルへ戻ってから、首元の布を二度直した。ノワールさんに掴まれた跡は、鏡で見なければ分からないくらい薄い。それでも指でなぞると、あの時の声が近くで蘇った。

 

――その脚で、前を引いて消えるだけか。

 

言い返せることは、いくらでもあった。私は最初からラビットとして連れてこられた。凱旋門賞を獲ると約束した覚えもない。勝手に勘違いしたのはそっちだと返せば、話だけなら終わったはずだ。

 

口にしなかったのは、優しかったからではない。ノワールさんが私を見つけた時、私は否定しなかった。テンハロンちょいの坂で前へ出た私を、あの子はレゾリュートさんへ挑む脚だと思った。違うと分かっていたのに、その目から熱が消えるところを見たくなくて、黙った。だから、騙したのかと聞かれて、違うとは言えなかった。

 

ベッドの上に端末を持ち込み、保存してある映像の一覧を開く。いちばん上には、昨日のフォワ賞があった。再生する前に指が止まり、画面を下へ送る。

 

古い映像が日付順に出てきて、最初に目に入ったのは二千メートルのデビュー戦だった。スタート直後から体に引っ張られ、止めるはずだった脚を止められず、千二百を走る速さで先頭へ出た。残りは長かった。脚が動かなくなっても、抜いていく背中を見ながら前へ進もうとして、十六番目で終わった。

 

あの日の私は、順位を守る余裕なんて持っていなかった。そもそも守れる順位がなかったし、体が終わってからも諦めが悪かった。レースの後に残ったのは、速かった最初の千メートルと、初めて自分の口から出た悔しいという言葉だった。

 

もし、勝てなかった走りが何も残さないなら、あの一戦の後、もう一度二千メートルへ出ると決めた私は、どこから生まれたんだろう。次の映像へ進む。

 

阪神ジュベナイルフィリーズでは、体が短距離へ戻ろうとするのを押さえ込み、千六百の最後まで連れていった。前へ出る道が開いた瞬間、全部を使った。三着だった。勝者の横顔を見ながら、負けるなら前のめりでなければ意味がないと、あの頃の私は本気で考えていた。

 

賢かったとは言いにくい。先のことを考えて脚を残した覚えもなく、相手が強いから目標を下げたこともない。欲しかったのは、カレンチャンの娘ではなく、カレンモエとして走った結果だった。そのためなら、最後に立っていられるかどうかは後回しにした。

 

桜花賞で心を折られ、オークスでは自分から壊れに行った。二千四百メートルを保つ気のない速さで進み、勝負にならないと分かっていても、脚が終わった後まで止まらなかった。順位を守るためではない。絢原さんが先で待っていて、あの人のところまで帰らなければ終われなかった。

 

最下位で、制限時間も超えた。体を壊し、絢原さんにも消えない傷を残した。もう一度同じことをやれと言われても、私はやらないし、あの春を綺麗な話にする気もない。それでも、無意味だったとは言えなかった。あそこで走らなければ、私は今もママの影から逃げることだけを考え、絢原さんが何を引き受けてくれたのかも、自分が何を欲しがっていたのかも知らないままだった。

 

あの一戦が私を変えたからといって、絢原さんに残した傷まで必要だったことにはできない。止められるなら止めた方がいいという判断も、体を守れという忠告も間違っていない。だから今回は、千五百で自分から下がると約束した。オークスの後で知ったことまで捨てて、同じ走りを繰り返すつもりはなかった。

 

画面をさらに送る。復帰した直後の一戦では、先頭で終えたのに何も湧かなかった。体が知っている道を進み、前にいた全員を抜き、結果として一番になった。勝った実感すらなく、検査の数字が一つ増えたようにしか感じなかった。

 

阪神カップでは、前にいる子が邪魔で、遅くて、全部食い尽くしたくなった。先頭へ出た瞬間、そこは自分の場所だと体の奥で笑った。綺麗とは言えないものが戻ってきて、私は勝った後になってから、自分の中にいたものを怖がった。

 

高松宮記念では、バクシンオーさんへ追いつけなかった。負けて、悔しくて、それでもあの直線は楽しかった。次は勝つと口にしたのは、三着だった阪神ジュベナイルフィリーズの後でも、勝った阪神カップの後でもない。最後まで追い、クビ差で前に出られなかった、そのレースの後だった。

 

一着だった復帰戦より、負けた高松宮記念の方が今の私へ続いている。結果だけを抜き出せば逆になるのに、私の中へ残ったものは、着順と同じ順番ではなかった。

 

一覧を上へ戻し、フォワ賞を再生する。レゾリュートさんが動くまで、ノワールさんは後ろにいた。白銀が外へ出ると、周りの子たちはその背中へ続く場所を探し始めた。誰も先頭を奪おうとはせず、二着へ入るための道だけが、いくつも開いていく。

 

ノワールさんは、そこへ入らなかった。外へ出てレゾリュートさんだけを追い、並びかけ、離されても二着争いへ戻らない。最後まで白銀を見たまま、掲示板の外へ沈んだ。

 

速さだけを比べれば、弱い。何年追っても捕まえられず、今年も同じ場所で離された。二着を取れる脚を自分で捨てたというレゾリュートさんの言葉にも、反論できる数字はない。

 

それなのに、見覚えがあった。前にいる一人だけが気になり、他の順位が視界から消える。追いつけるかどうかを考えるより先に脚がそちらへ向き、二着で終える道が横にあっても、欲しい背中が前にいるなら選ばない。

 

私の中にも、そういうものがいる。阪神カップで目を覚まし、高松宮記念でバクシンオーさんを追い、香港では追いかけてきた相手ごと振り切った。前を食い尽くすまで止まらない、傲慢で、獰猛な私。

 

ノワールさんが同じだとは言えない。あの子が何を抱えて毎年ここへ来るのか、私は知らない。自分と似て見えたからといって、勝手に同じ名前をつけるのは、レゾリュートさんが無意味と決めるのと大差がなかった。

 

分かるのは、一つだけだった。あの子は二着を捨てたのではなく、最初からレゾリュートさん以外を取りに来ていなかった。私がオークスで順位を見なかったように、高松宮記念でバクシンオーさん以外が消えたように。

 

映像を止めると、胸元の皺がまた気になった。

 

ノワールさんが怒った理由は、私が弱かったからではない。途中で消える役だと黙ったまま、同じものを見ているような顔をしていたからだ。

 

私は凱旋門賞を獲りに来ておらず、レゾリュートさんを追う理由もない。オルフェーヴルさんの前を千五百まで引き、決めた場所で下がる。絢原さんとの約束も、そのためにある。オークスのような走りを繰り返さないために、今度は自分で止まる。その予定は変わらなかった。

 

なのに、ノワールさんの走りを無意味だと呼ばれると、胸の内側がざらつく。自分は同じ場所へ行かないくせに、あの子がそこへ向かうことだけは否定されたくない。都合がいいと分かっていても、引っかかりは消えなかった。

 

端末を閉じると、部屋が急に静かになった。タキオンさんは資料を抱えて別室へ行っており、戻る気配はない。眠るには早く、絢原さんの部屋を訪ねるには遅い時間だった。

 

廊下へ出て、自動販売機で温かいミルクティーを買った。部屋へ戻る気になれず、そのまま突き当たりのガラス扉まで歩く。

 

テラスへ出ると、夜気が頬へ触れた。

 

街の灯りが低く広がり、その向こうにロンシャンの暗い輪郭がある。手すりの前に金色がいた。

 

オルフェーヴルさんは夜風の中でも背筋を伸ばし、遠くのコースを眺めている。近くにドリームジャーニーさんの姿はない。誰にも見せる必要のない場所でも王様のままなのが、いかにもこの人らしかった。

 

「陰気な顔で、余の夜を曇らせるな」

 

「後ろ向いてるのに分かるんだ」

 

「気配まで鬱陶しい」

 

「じゃあ部屋に帰れば?」

 

「ここは余の庭だ」

 

ホテルのテラスまで領地にしないでほしい。

 

少し離れた手すりへ背を預ける。紙カップから甘い湯気が上がったけれど、飲む気にはなれなかった。

 

「ねえ、オルフェーヴルさん」

 

「勝てない走りって、無意味なのかな」

 

金色の目が、こちらへ動いた。

 

笑われるかと思った。腑抜けたことを言うなと切られる気もした。オルフェーヴルさんはしばらく私の顔を見た後、鼻を鳴らした。

 

「それで貴様は、そのような面を晒しておるのか」

 

「悪かったね」

 

「勝てぬことが無意味なら、去年の余はここにおらぬ」

 

返ってきたのは、それだけだった。

 

「でも、あんたは今年勝つつもりでいるでしょ」

 

「当然であろう」

 

迷いのない声だった。

 

去年の二着を価値ある敗北として飾っているわけではない。負けたから戻り、今年こそ前へ出る。それ以外の答えを、オルフェーヴルさんは最初から持っていない。

 

「参考にならないなあ」

 

「余へ教えを乞うておきながら、不敬な猫め」

 

「教えてなんて言ってない」

 

オルフェーヴルさんは不満そうに眉を寄せた。夜風が髪を揺らしても、視線はロンシャンから離れない。

 

「冷える。何か持ってこい」

 

「自分で買ってよ」

 

「余に二度言わせる気か」

 

「三度言っても行かないよ」

 

舌打ちが聞こえた気がしたけれど、私はミルクティーを持ってガラス扉へ戻った。背中に王命らしき声が飛んできたが、振り返らなかった。

 

 

 

 

 

 

部屋へ戻り、端末の画面を消した。オルフェーヴルさんの一言で答えが出たわけではない。去年の二着が今年の挑戦へ続いている王と、何年も同じ相手を追って沈むノワールさんでは、同じ話にならない。

 

私の走りだって、一つの言葉では括れなかった。一着だった復帰戦より、負けた高松宮記念の方が今の私へ続いている。最下位のオークスも、消したいだけの一戦ではない。レゾリュートさんの言葉通りなら残るはずのないものばかりが、今の私の中に残っていた。

 

けれど、ノワールさんの毎年に何が残ったのかは、私には分からない。何年追っても捕まえられない相手へ、また脚を使うことが正しいとも言えない。あの子の代わりに意味を決める権利は、私にはなかった。

 

私にできるのは、明日の最終確認で千五百まで走り、約束通りに下がることだけだった。ノワールさんが怒った通り、前を引いて消える。そう決めているのに、目を閉じると、白銀へ食らいついた黒い背中が残った。

 

レゾリュートさんの正しさを、私はまだ否定し切れない。それでも、従いたくはなかった。




ここまでお読みいただきありがとうございました。
感想・評価をいただけると、次の話を書く大きな力になります。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

驀進王に憧れてトレセン学園に来たダメダメな私が3つの玉座の女主人と称えられるまで(作者:八幡悠)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

憧れだけじゃ走れない。でも憧れがなければ、私は走り出せなかった。「私なんかが……でも、バクシンオーさんなら、きっとこうする」──そうして私は、私じゃない誰かになって走り続けた。自己評価ミジンコ級のウマ娘が短距離王者とマイル女王の思いを受け継ぎ、かつて分かたれたマイルとスプリントを統一し、世界へ、さらにその先へ。▼【挿絵表示】▼


総合評価:2612/評価:8.7/連載:172話/更新日時:2026年07月13日(月) 06:01 小説情報

転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘(作者:アリマリア)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

コメディもあるしシリアスもある、転生者2人のお話。▼書きたいものを詰め込んだヤツ。▼ * * *▼Chama様から支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上から、ホシノウィルム、堀野トレーナー、2人のイラストです。▼匿名希望の読者様からも支援絵をいただきました!▼【挿絵表示】▼【挿絵表示】▼↑上はタイトルなし、下はタイトルありの…


総合評価:26913/評価:8.63/完結:253話/更新日時:2025年08月28日(木) 18:00 小説情報

競馬ミリしらウマ娘ファンがウマ娘化されていないモブ(?)ウマ娘に転生したので、頑張って百合ハーレムを作ろうとする話(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ウマ娘に転生したから百合ハーレムを築きたい競馬ミリしら民のお話。▼ なお、名前はディープインパクトという。


総合評価:2302/評価:7.82/連載:20話/更新日時:2026年04月04日(土) 11:39 小説情報

親愛なるシャーロックへ(作者:カニ漁船)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

決まっている運命を覆すために。メジロ復活のために奮闘する。


総合評価:3994/評価:8.71/連載:35話/更新日時:2026年07月12日(日) 23:00 小説情報

緋色の女王の幼馴染(作者:雅媛)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

 ブエナビスタの幼馴染トレーナー概念が公式になったので幼馴染トレーナーの二次創作が100万ぐらい出ると思っていたのに全然でないので自分で書きます。▼ ダイワスカーレットとその幼馴染のトレーナーのお話。▼ 八幡悠(https://syosetu.org/user/330079/)さんからもらったアイデアをもとに勢い任せで書きました。▼ 幼馴染は緋色の女王様(h…


総合評価:2034/評価:8.19/完結:46話/更新日時:2026年03月24日(火) 06:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>