——Anti-Hero: Curren Moe
ホテルへ戻ってから、首元の布を二度直した。ノワールさんに掴まれた跡は、鏡で見なければ分からないくらい薄い。それでも指でなぞると、あの時の声が近くで蘇った。
――その脚で、前を引いて消えるだけか。
言い返せることは、いくらでもあった。私は最初からラビットとして連れてこられた。凱旋門賞を獲ると約束した覚えもない。勝手に勘違いしたのはそっちだと返せば、話だけなら終わったはずだ。
口にしなかったのは、優しかったからではない。ノワールさんが私を見つけた時、私は否定しなかった。テンハロンちょいの坂で前へ出た私を、あの子はレゾリュートさんへ挑む脚だと思った。違うと分かっていたのに、その目から熱が消えるところを見たくなくて、黙った。だから、騙したのかと聞かれて、違うとは言えなかった。
ベッドの上に端末を持ち込み、保存してある映像の一覧を開く。いちばん上には、昨日のフォワ賞があった。再生する前に指が止まり、画面を下へ送る。
古い映像が日付順に出てきて、最初に目に入ったのは二千メートルのデビュー戦だった。スタート直後から体に引っ張られ、止めるはずだった脚を止められず、千二百を走る速さで先頭へ出た。残りは長かった。脚が動かなくなっても、抜いていく背中を見ながら前へ進もうとして、十六番目で終わった。
あの日の私は、順位を守る余裕なんて持っていなかった。そもそも守れる順位がなかったし、体が終わってからも諦めが悪かった。レースの後に残ったのは、速かった最初の千メートルと、初めて自分の口から出た悔しいという言葉だった。
もし、勝てなかった走りが何も残さないなら、あの一戦の後、もう一度二千メートルへ出ると決めた私は、どこから生まれたんだろう。次の映像へ進む。
阪神ジュベナイルフィリーズでは、体が短距離へ戻ろうとするのを押さえ込み、千六百の最後まで連れていった。前へ出る道が開いた瞬間、全部を使った。三着だった。勝者の横顔を見ながら、負けるなら前のめりでなければ意味がないと、あの頃の私は本気で考えていた。
賢かったとは言いにくい。先のことを考えて脚を残した覚えもなく、相手が強いから目標を下げたこともない。欲しかったのは、カレンチャンの娘ではなく、カレンモエとして走った結果だった。そのためなら、最後に立っていられるかどうかは後回しにした。
桜花賞で心を折られ、オークスでは自分から壊れに行った。二千四百メートルを保つ気のない速さで進み、勝負にならないと分かっていても、脚が終わった後まで止まらなかった。順位を守るためではない。絢原さんが先で待っていて、あの人のところまで帰らなければ終われなかった。
最下位で、制限時間も超えた。体を壊し、絢原さんにも消えない傷を残した。もう一度同じことをやれと言われても、私はやらないし、あの春を綺麗な話にする気もない。それでも、無意味だったとは言えなかった。あそこで走らなければ、私は今もママの影から逃げることだけを考え、絢原さんが何を引き受けてくれたのかも、自分が何を欲しがっていたのかも知らないままだった。
あの一戦が私を変えたからといって、絢原さんに残した傷まで必要だったことにはできない。止められるなら止めた方がいいという判断も、体を守れという忠告も間違っていない。だから今回は、千五百で自分から下がると約束した。オークスの後で知ったことまで捨てて、同じ走りを繰り返すつもりはなかった。
画面をさらに送る。復帰した直後の一戦では、先頭で終えたのに何も湧かなかった。体が知っている道を進み、前にいた全員を抜き、結果として一番になった。勝った実感すらなく、検査の数字が一つ増えたようにしか感じなかった。
阪神カップでは、前にいる子が邪魔で、遅くて、全部食い尽くしたくなった。先頭へ出た瞬間、そこは自分の場所だと体の奥で笑った。綺麗とは言えないものが戻ってきて、私は勝った後になってから、自分の中にいたものを怖がった。
高松宮記念では、バクシンオーさんへ追いつけなかった。負けて、悔しくて、それでもあの直線は楽しかった。次は勝つと口にしたのは、三着だった阪神ジュベナイルフィリーズの後でも、勝った阪神カップの後でもない。最後まで追い、クビ差で前に出られなかった、そのレースの後だった。
一着だった復帰戦より、負けた高松宮記念の方が今の私へ続いている。結果だけを抜き出せば逆になるのに、私の中へ残ったものは、着順と同じ順番ではなかった。
一覧を上へ戻し、フォワ賞を再生する。レゾリュートさんが動くまで、ノワールさんは後ろにいた。白銀が外へ出ると、周りの子たちはその背中へ続く場所を探し始めた。誰も先頭を奪おうとはせず、二着へ入るための道だけが、いくつも開いていく。
ノワールさんは、そこへ入らなかった。外へ出てレゾリュートさんだけを追い、並びかけ、離されても二着争いへ戻らない。最後まで白銀を見たまま、掲示板の外へ沈んだ。
速さだけを比べれば、弱い。何年追っても捕まえられず、今年も同じ場所で離された。二着を取れる脚を自分で捨てたというレゾリュートさんの言葉にも、反論できる数字はない。
それなのに、見覚えがあった。前にいる一人だけが気になり、他の順位が視界から消える。追いつけるかどうかを考えるより先に脚がそちらへ向き、二着で終える道が横にあっても、欲しい背中が前にいるなら選ばない。
私の中にも、そういうものがいる。阪神カップで目を覚まし、高松宮記念でバクシンオーさんを追い、香港では追いかけてきた相手ごと振り切った。前を食い尽くすまで止まらない、傲慢で、獰猛な私。
ノワールさんが同じだとは言えない。あの子が何を抱えて毎年ここへ来るのか、私は知らない。自分と似て見えたからといって、勝手に同じ名前をつけるのは、レゾリュートさんが無意味と決めるのと大差がなかった。
分かるのは、一つだけだった。あの子は二着を捨てたのではなく、最初からレゾリュートさん以外を取りに来ていなかった。私がオークスで順位を見なかったように、高松宮記念でバクシンオーさん以外が消えたように。
映像を止めると、胸元の皺がまた気になった。
ノワールさんが怒った理由は、私が弱かったからではない。途中で消える役だと黙ったまま、同じものを見ているような顔をしていたからだ。
私は凱旋門賞を獲りに来ておらず、レゾリュートさんを追う理由もない。オルフェーヴルさんの前を千五百まで引き、決めた場所で下がる。絢原さんとの約束も、そのためにある。オークスのような走りを繰り返さないために、今度は自分で止まる。その予定は変わらなかった。
なのに、ノワールさんの走りを無意味だと呼ばれると、胸の内側がざらつく。自分は同じ場所へ行かないくせに、あの子がそこへ向かうことだけは否定されたくない。都合がいいと分かっていても、引っかかりは消えなかった。
端末を閉じると、部屋が急に静かになった。タキオンさんは資料を抱えて別室へ行っており、戻る気配はない。眠るには早く、絢原さんの部屋を訪ねるには遅い時間だった。
廊下へ出て、自動販売機で温かいミルクティーを買った。部屋へ戻る気になれず、そのまま突き当たりのガラス扉まで歩く。
テラスへ出ると、夜気が頬へ触れた。
街の灯りが低く広がり、その向こうにロンシャンの暗い輪郭がある。手すりの前に金色がいた。
オルフェーヴルさんは夜風の中でも背筋を伸ばし、遠くのコースを眺めている。近くにドリームジャーニーさんの姿はない。誰にも見せる必要のない場所でも王様のままなのが、いかにもこの人らしかった。
「陰気な顔で、余の夜を曇らせるな」
「後ろ向いてるのに分かるんだ」
「気配まで鬱陶しい」
「じゃあ部屋に帰れば?」
「ここは余の庭だ」
ホテルのテラスまで領地にしないでほしい。
少し離れた手すりへ背を預ける。紙カップから甘い湯気が上がったけれど、飲む気にはなれなかった。
「ねえ、オルフェーヴルさん」
「勝てない走りって、無意味なのかな」
金色の目が、こちらへ動いた。
笑われるかと思った。腑抜けたことを言うなと切られる気もした。オルフェーヴルさんはしばらく私の顔を見た後、鼻を鳴らした。
「それで貴様は、そのような面を晒しておるのか」
「悪かったね」
「勝てぬことが無意味なら、去年の余はここにおらぬ」
返ってきたのは、それだけだった。
「でも、あんたは今年勝つつもりでいるでしょ」
「当然であろう」
迷いのない声だった。
去年の二着を価値ある敗北として飾っているわけではない。負けたから戻り、今年こそ前へ出る。それ以外の答えを、オルフェーヴルさんは最初から持っていない。
「参考にならないなあ」
「余へ教えを乞うておきながら、不敬な猫め」
「教えてなんて言ってない」
オルフェーヴルさんは不満そうに眉を寄せた。夜風が髪を揺らしても、視線はロンシャンから離れない。
「冷える。何か持ってこい」
「自分で買ってよ」
「余に二度言わせる気か」
「三度言っても行かないよ」
舌打ちが聞こえた気がしたけれど、私はミルクティーを持ってガラス扉へ戻った。背中に王命らしき声が飛んできたが、振り返らなかった。
~
部屋へ戻り、端末の画面を消した。オルフェーヴルさんの一言で答えが出たわけではない。去年の二着が今年の挑戦へ続いている王と、何年も同じ相手を追って沈むノワールさんでは、同じ話にならない。
私の走りだって、一つの言葉では括れなかった。一着だった復帰戦より、負けた高松宮記念の方が今の私へ続いている。最下位のオークスも、消したいだけの一戦ではない。レゾリュートさんの言葉通りなら残るはずのないものばかりが、今の私の中に残っていた。
けれど、ノワールさんの毎年に何が残ったのかは、私には分からない。何年追っても捕まえられない相手へ、また脚を使うことが正しいとも言えない。あの子の代わりに意味を決める権利は、私にはなかった。
私にできるのは、明日の最終確認で千五百まで走り、約束通りに下がることだけだった。ノワールさんが怒った通り、前を引いて消える。そう決めているのに、目を閉じると、白銀へ食らいついた黒い背中が残った。
レゾリュートさんの正しさを、私はまだ否定し切れない。それでも、従いたくはなかった。
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