アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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113話 名前のない会見

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

出走会見の席順で、世界の見方は分かる。

 

長机の中央に、金色と白銀。その両隣に、欧州の有力どころが二人。私の席は、端から二番目だった。一番端じゃないのが、逆に中途半端で笑える。

 

会見場は満員だった。カメラの数は、香港の比じゃない。ほとんどのレンズが、中央の二色に向けて固定されている。通訳のイヤホンから、司会の早口が流れてくる。今年の凱旋門賞は、歴史的な再戦になる——去年の女王と、雪辱に来た金色の挑戦者。質問は、その二人のためだけに用意されていた。

 

席についてから、一度だけ会場を見渡してみた。世界中の言葉が、ざわめきの中で混ざっている。壁際まで立ち見が埋まって、廊下にまで人が溢れているらしい。この熱の総量が、たった一つのレースのために集まっている。すごいな、と、他人事みたいに思った。実際、九割九分、他人事だった。

 

「去年の敗北から、何を変えてきましたか」

 

「三連覇への不安は」

 

「お互いを、今どう見ていますか」

 

オルフェーヴルさんの答えは短かった。余は取り返しに来た、それだけである——通訳が訳し終わる前に、会場の温度が一段上がるのが分かった。レゾリュートさんの答えは、もっと短かった。疑う理由がない。以上。冷たいのに、誰も冷たいと書かない。女王の風格、と明日の記事は書くんだと思う。

 

質問は続く。中央の二人へ、交互に、延々と。

 

日本の記者席も、レンズは金色に向いていた。全日新聞も、スポーツ日報も、見覚えのある顔ぶれが揃っている。あの中の何人かは、香港の後、私を「世界女王」と書いた人たちだ。今日は、誰もこっちを見ない。書くことが決まっている人の顔で、金色の一言一句をメモしている。肩書きなんて、そんなものだ。海と、一年の半分で、綺麗に溶ける。

 

私の名前は、一度も呼ばれなかった。

 

一度だけ、質問が飛んできた。正確には、私に、じゃない。

 

「日本のラビットの方にお聞きします。オルフェーヴルさんの勝利に貢献する自信は」

 

ラビットの方。

 

名前じゃなかった。この会見場で、私は役職名で呼ばれる何かだった。マイクが回ってくる。座ったまま、短く答えた。

 

「役目は、果たします」

 

それで終わりだった。記者はもうメモも取っていなくて、次の質問は中央へ戻っていった。私の答えが会場の空気を少しでも動かした様子は、どこにもない。

 

ぼんやり、考える。

 

出てどうするの、こんなの。

 

途中まで頑張って走ります、とでも言えばよかったの? 千五百で消えます、応援よろしく、って? 笑いも取れない。話題にもならない。ここに座っている意味が、最初から用意されていない。

 

座っているだけなら、まだいい。問題は、これが「出走者の会見」だということだった。私はこの長机で、走る前から、走者として数えられていない。掲示板に載る前から、載らないことが決まっている。透明なまま座る練習を、世界一注目される部屋でやらされているみたいだった。

 

名前のない会見だった。少なくとも、私にとっては。

 

視線を横に流すと、壇の袖でジャーニーさんが薄く笑っていた。計画は、順調。世界は金と白銀しか見ていない。それでいい、という笑い方だった。

 

 

 

 

 

 

会見の後、ロンシャンで最終確認があった。

 

本番想定の、短いリハーサル。絢原さんとタキオンさんと、コースの端にジャーニーさんも立っている。

 

「今日は、ありがとうございました。会見、ご退屈だったでしょう」

 

すれ違いざま、ジャーニーさんが言った。労いの形をしているのに、中身は確認だった。あなたが空気のままでいてくれて、助かります。そういう意味の、ありがとう。

 

「慣れてます」

 

「ふふ。頼もしいこと」

 

薄い笑みは、それ以上何も足さなかった。この人の計画の中で、私は今日も、正しい大きさのままでいるらしい。

 

絢原さんが、コースの上を歩いて、ある一点で止まった。

 

「ここまでだ」

 

その場所を見る。ただの芝だった。白線も、標識も、何もない。他の場所と何ひとつ変わらない、ただの緑。でも、絢原さんの立ち方で分かる。この人の中では、ここに太い線が引いてある。

 

「はいはい。千五百。ここでお仕事終了」

 

軽く返した。実際、軽い話のはずだった。前を引いて、ここで下がる。それだけの仕事だ。

 

絢原さんは、笑わなかった。

 

「本当に、ここまでだ」

 

「……うん」

 

「そこから先は、追わなくていい。誰が来ても、何が起きても、だ」

 

念の押し方が、いつもと違った。冗談の混ざる余地を、最初から潰しに来ている言い方だった。少し面倒くさくなって、肩をすくめた。

 

「分かってるって。勝ちに来たわけじゃないんだから」

 

「……ああ。そうだな」

 

リハーサルは、あっさり終わった。

 

ゲートは使わない。想定の位置から、想定のペースで前に出る。後ろに誰もいない、一人だけのレース。重い芝を、決められた速さで踏んでいく。踏むたびに脚が沈む、力の要る芝。テンハロンちょいの朝と、短いレースの日と、同じ感触。体はもう、この重さを覚えている。嫌いじゃない、とすら思う。理由は、自分でも分からないけど。

 

決められた速さ、というのは、楽だった。考えることがない。今日は誰も削らなくていいし、誰にも削られない。ひとりで、決められた分だけ走る。坂の手前、絢原さんの立っているあの地点——千五百の、見えない線。

 

そこで、外へ流した。

 

速度を落とす。息を整える。終わり。

 

それだけだった。何のこともない。決められた場所で、決められた通りに降りる。体は素直に言うことを聞いたし、心も、何も言わなかった。

 

絢原さんが、長く息を吐いた。

 

「……大丈夫そうだな」

 

「千五百だろう? 問題なんてあるはずないね」

 

タキオンさんは、記録用紙から顔も上げずに言った。

 

絢原さんの眉が、僅かに動いた。

 

「……どういう意味だ」

 

そこで初めて、タキオンさんが顔を上げた。

 

「君も薄々気づいているんだろう?」

 

「何にだ」

 

「昨日から反応が鈍い。ちゃんと睡眠を取っていないだろう。それとも、眠れないのかい?」

 

絢原さんは答えなかった。

 

「話を逸らすな」

 

「睡眠不足の話をしているのさ。明後日、トレーナーに倒れられては困るからねぇ」

 

タキオンさんは、もう記録用紙へ視線を戻していた。

 

私は二人を見比べたけれど、何の話なのか分からなかった。

 

千五百まで走って、決められた場所で止まった。何か起こる方がおかしい。

 

その時は、それだけの話だと思っていた。

 

歩いて戻る途中で、視線に気づいた。

 

コースの外周、ずっと遠く。柵にもたれて、こっちを見ている影があった。

 

黒い髪。

 

ノワールさんだった。

 

いつから見ていたんだろう。リハーサルの最初からか、もっと前からか。分からない。分かるのは、あの子が、今のを全部見ていたということだけだった。

 

私が、千五百で下がるところを。

 

決められた場所で、決められた通りに消える練習を、本当にしているところを。

 

知識として知っているのと、目の前で見るのは、違う。あの日、通路で「その脚で、前を引いて消えるだけか」と聞いた時、あの子の中にはまだ、何かを疑う余地が残っていたのかもしれない。今日ので、それが消えた。練習までしている。本気で、消えるために仕上げている。もう、疑いようがない。

 

あの子は、怒鳴らなかった。近づいても来ない。ただ、見ていた。それから、ゆっくり柵から体を起こして、背を向けて、歩いていく。

 

通路で胸倉を掴まれた時より、ずっと、何かが重かった。

 

怒りは、ぶつけられれば、受けようがある。沈黙には、受けようがない。あの子の中で何かがひとつ、静かに閉じた音が、聞こえた気がした。二度と開かないかもしれない音。

 

呼び止めることも、追いかけることも、しなかった。何を言っても、今日見せたものを上書きできる言葉には、ならない。

 

言う資格のある言葉を、私はやっぱり、ひとつも持っていない。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

夜。眠れなかった。

 

見たはずだ。この目で、昼間、確かに見た。モエは千五百で下がった。躊躇いも、未練もなく、言われた場所で、言われた通りに。約束は守れる。現実の証拠が、今日、目の前に揃った。

 

なのに、眠れない。

 

目を閉じると、別の景色が来る。

 

春の府中。あの日のモエの背中。喉まで来て、出せなかった声。止まらなかった脚。ゴールの先で崩れた、小さい体。担架と、白い天井と、医者の長い説明と、俺の膝の上で組んだまま動かなかった、自分の両手。

 

夢か、記憶か、区別のつかないところで、何度も同じ場面が回る。

 

病室で誓ったはずだった。二度と、あの領域にあいつを入れない。俺の仕事は勝たせることじゃない、走らせ続けることだと。あの日から俺は、あいつの出走表から二千四百を消してきた。国内にいる限り、それで守れた。

 

守れていたのに、気づけば俺は、よりによってその距離のゲートに、あいつを自分の手で連れてきている。

 

引き受けたのは俺だ。条件も、俺が詰めた。千五百で降りる。それを盾に、俺はこの話を呑んだ。理屈の上では、何も間違っていない。

 

体を起こして、水を飲んだ。

 

スマホを手に取る。見なくてもいいものを、見に行く。出走表。本番の登録一覧。中央に並ぶ、世界中の強い名前。その下の方に、あいつの名前がある。

 

カレンモエ。

 

何度見ても、そこにある。明後日、あいつはこの並びの中で、あの重い芝の上に立つ。二千四百の——あの日と同じ距離の上に。

 

大丈夫だ。

 

自分に言い聞かせる。

 

モエは千五百までしか走らない。今日だって、下がれた。あの日とは違う。距離は同じでも、走る意味が違う。勝ちに行かない。限界まで絞らない。壊れる領域に、そもそも入らない。そのための役目で、そのための約束だ。

 

大丈夫だ。千五百で、終わる。

 

……それでも、眠れないのはなんでだ。

 

理屈は揃っている。証拠も見た。あいつは約束を守る。守れることを、今日証明した。俺が信じてやらなくて、誰が信じる。

 

分かっている。全部、分かっている。

 

昼間のあいつの顔を思い出す。千五百で流して、戻ってきて、「こんなもん?」って顔をしていた。気負いも、未練もない。あれは嘘の顔じゃない。あいつは本当に、千五百で終わるつもりでいる。

 

なら、俺が怖がっているものは、何だ。

 

分かっている。

 

昼間、タキオンが何を言いかけたのかも。

 

ここへ来てから、モエの走りは明らかに変わった。重い芝でフォームが安定し、走り終わった後の呼吸も早く戻る。今日も千五百で止めた時、脚にはまだ余裕があった。

 

見えていなかったわけじゃない。

 

あの芝なら、二千四百まで走れるのかもしれない。

 

だが、モエは走れるところまでで止まる子じゃない。

 

走れなくなるまで走る。体が壊れても、自分からは止まらない。

 

府中で、それを見た。

 

だから、もう二千四百には挑ませたくなかった。

 

モエを守るためだと思っていた。

 

けれど、それだけじゃない。俺がもう一度、あの日を見るのが怖い。

 

適性があるかもしれない。今度は大丈夫かもしれない。そう思ってしまえば、またモエの挑戦を受け入れてしまう。あいつが壊れるまで走ると知っているのに。

 

二千四百を選択肢から消してきたのは、モエのためだけじゃない。

 

俺が耐えられないから、あいつの選択肢を消していた。

 

昼間も聞かなかった。タキオンが話を逸らしたのをいいことに、俺も目を逸らした。

 

分かっていて、俺は今夜も、出走表の画面を消せずにいる。

 

窓の外は、まだ暗い。この街の夜明けは、日本より遅い。眠れない人間には、少しばかり長すぎる夜だ。

 

あの約束は、レースのためのものじゃない。ジャーニーの計画のためでも、オルフェーヴルの勝利のためでもない。

 

何度目かの寝返りの後、ようやく、まどろみが来た。落ちる寸前に考えていたのは、レースのことでも、計画のことでもなかった。あいつの、昼間の「こんなもん?」って顔だ。あの顔のまま、本番も終わってくれ。願いは、それだけだ。

 

約束は、モエを守るためのものだ。

 

そう言い聞かせる。

 

走らせるためでも、勝たせるためでもなく、無事に連れて帰るための線だと。

 

そこに俺自身の恐怖が混じっていることには、目を向けないまま。

 

そうしていなければ、眠れなかった。

 

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