——Strategist: Dream Journey
レースが死ぬ音は、電話の着信音だった。
「オルフェーヴルさんが、足を」
スタッフの声は、そこで一度切れた。
次の言葉を待つ数秒のあいだに、私は頭の中で、ありとあらゆる最悪を並べ終えていた。骨。腱。脚の芯。走る者の体で、壊れてはいけない場所の一覧を。
「——足首の、捻挫だそうです。軽度の」
拍子抜けするほど、小さな診断名だった。
現場の話は、後から聞いた。
練習からの帰り道。宿舎前の、石畳の通り。車道へ飛び出しかけた小さな子供がいて、オルは考えるより先に動いた。子供を抱えて引き戻し、その着地で石畳の縁に足首を取られた。
子供は無傷。オルは、その場では平気な顔で立っていたらしい。
宿舎に戻る階段で足を庇っているのにスタッフが気づき、医師を呼んで、それで判明した。
聞きながら、私は、あの晩餐の帰り道を思い出していた。石畳で傾いだ老婦人を、オルが半歩で止めた夜。
あの時、杖の音が鳴り終わる前に、オルの体は動き終えていた。あれと同じことが起きただけだ。
相手が子供で、足場が悪くて、着地の運が、少しだけ悪かった。それだけの違いだった。
軽度の捻挫。全治まで、十日から二週間。
日常なら、笑い話で済む怪我だった。湿布を貼って、少し休んで、終わり。選び抜かれた体の、ほんの端の、ほんの小さな損傷。
受話器を持ったまま、私は一度だけ目を閉じた。
骨ではない。腱でもない。オルの脚は無事だった。
姉としての私は、その一点だけで、膝から力が抜けるほど安堵していた。
そして、もう一人の私——盤面を組んできた方の私は、同じ診断名から、まったく別の計算を終えている。
十日から二週間。
本番は、翌々日だった。
~
診察室の前の廊下は、静かだった。
中では、二人目の医師が診ている。結論は変わらないだろう。
一人目の見立ては明快だった。歩ける。走ることも、できなくはない。ただし、全力で重い芝を蹴り続ける二千四百に、この足首が最後まで保つ保証は、誰にもできない。
出られなくは、ない。
その「なくは、ない」が、一番残酷な位置だった。
はっきり折れていれば、迷いはない。無傷なら、何も起きていない。中途半端に走れてしまう軽さだから、判断がこちらの手に残される。
世間は言うだろう。捻挫程度で、と。あれだけ騒いだ再戦を、湿布ひとつで捨てるのか、と。
言わせておけばいい。
九割の脚で二千四百の坂を全力で蹴り続けた時、足首の奥で何が起きるか。走らせる側は、その先の一覧を知っている。
一割の欠けを甘く見て脚を失った子の名前なら、この大陸だけでも、いくつでも挙げられる。
ドアが開いて、オルが出てきた。
足取りは普通だった。知らない人が見れば、どこを痛めたのかも分からないと思う。
私の前まで来て立ち止まり、先に口を開いたのはオルの方だった。
「姉上。回避する」
決裁を仰ぐ声ではなかった。もう決めた者の声だった。
「……医師は、出走も不可能ではないと」
「不可能ではない、程度の足で、あれの前に立つ気はない」
短かった。
「この足で並べば、証明されるのは一つだけである。万全でない余は、あれに勝てぬ——それだけだ。そのような当たり前を確かめるために、余は海を渡ったのではない」
反論はなかった。私も同じ結論だった。
九割の脚であれの前に立つことを、オルは許さない。
一年、この日のために組んできた。
それを言えば、オルは黙って出走を選ぶかもしれない。私が一年を費やしたと知れば、自分の痛みを後回しにするくらいには、この子は姉に甘い。
だから、言わない。
言った瞬間に、私は姉ではなく、ただの興行主になる。
「分かりました」
それだけ答えた。
オルは頷いて、廊下を歩いていった。足首をほとんど庇わない歩き方で。庇えば認めることになる、とでも言うみたいに。
その背中に掛ける言葉は探さなかった。
子供を庇ったことを責める言葉は、この世に存在しない。
オルは昔から、ああいう子だ。石畳で老婦人が傾げば手が出るし、子供が飛び出せば体が動く。考えてからでは間に合わないものに、考える前に間に合ってしまう。
だから、責める相手はいない。
凱旋門賞への出走だけが、静かに消えた。
~
発表は、翌朝だった。
オルフェーヴル、凱旋門賞回避。
世界の音が変わるのが、宿舎の中にいても分かった。電話が鳴り続ける。廊下をスタッフが早足で行き交う。窓の外、通りの向かいには、もうカメラの列ができ始めている。
金と白銀の再戦は、死んだ。
去年から積み上がってきた一年分の物語が、石畳の縁ひとつで、朝のうちに消えた。
日本の報道は、回避の二文字で埋まっているらしい。この大陸の記事の見出しは、もっと率直だった——『再戦は幻に』。
世界は、あれほど再戦を騒いでいたのに、消えた途端、話題を切り替えた。
曰く、これで白銀の三連覇は決まったも同然。曰く、残る顔ぶれでは相手にならない。
昨日まで挑戦者の名前で埋まっていた紙面が、今日はもう、女王の戴冠式の予定表になっている。
電話を切るたび、次に求められるのはレゾリュートの話ばかりだった。オルの名は、回避理由を確かめる時にしか出てこない。
昨日まで並べて書かれていた二人の名前は、もう同じ紙面にいなかった。
電話のひとつに、日本の速報の見出しを読み上げる声があった。
金と白銀、幻の再戦——一年かけて世界に売った物語の、閉店の告知。
私はそれを、他人の商売の話みたいに聞いていた。
盤の上の駒を、ひとつずつ頭の中で片付けていく。
フォワを勝った始動も。重い芝への仕上げも。前を作らせるために、日本から呼んだ脚も。
全部、あの再戦のために並べた駒だった。
並べ終えて、あとは開始を待つだけだった盤が、開始の前日に、盤ごとなくなった。
腹は立たない。涙も出なかった。
子供は助かり、オルの脚は治る。責める相手もいない。失ったのは、明日のレースだけだ。
机の上を片付けたあとみたいに、胸の内側だけが妙に広く、冷えていた。
真空、という言葉が浮かんだ。
一つだけ、確かめておくことがあった。
部屋のドアを叩くと、オルは窓辺の椅子にいた。足首に白い固定具。それを見下ろすでもなく、窓の外の空を見ていた。
「オル。ひとつだけ」
「なんだ」
「後悔は、していますか」
聞くまでもないことを聞いた。
姉として、一度だけ聞いておきたかった。
オルは、空から視線を動かさなかった。
「余の足は、余の勝手で動いた。あれを見捨てて勝つ王など、おらぬ」
それで終わりだった。
私は部屋を出る。
廊下を歩きながら、自分の口元に、いつもの笑みが一枚も残っていないことに、遅れて気づいた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
報せを聞いたのは、朝の調整前だった。
絢原さんの端末が鳴って、短いやり取りがあった。切った後、絢原さんはしばらく黙り込んでいた。
「オルフェーヴルさんが、回避だ」
「……え?」
聞き返した声が、自分でも間抜けなくらい、間の抜けた音になった。
回避。誰が。何を。
あの人が、あのレースを?
「昨日、子供を庇って足首を捻った。軽い捻挫だが、明日には間に合わない。今朝、正式に発表された」
言葉が、すぐにはつながらなかった。
捻挫。子供。回避。
一つ一つは分かるのに、並べても意味にならない。
あの金色が。あの、坂を平地みたいに駆け上がっていった脚が。骨でも腱でもなく、石畳の縁ひとつで。
「タキオンさん、これって」
「軽度でも、明日には間に合わない。そういうことさ」
タキオンさんは、珍しく紙袋に手を伸ばさなかった。
「……面白くも、何ともないがね」
絢原さんは、まだ端末を持ったままだった。画面はとっくに消えているのに、しまう動作を忘れている。
この人の頭の中で今、何が起きているのか、少しだけ想像がついた。
安堵と、その安堵を口に出せない気まずさ。
私は走らなくて済むかもしれない——そう思ってしまった自分を、この人はたぶん責めている。
「……とりあえず、今日は上がりだ」
「うん」
その日の調整は中止になった。
私の役目は、金色の前を引くことだった。
金色は、もういない。
前を引く相手のいないまま、私の名前だけが出走表に残っている。
会見では「役目は、果たします」と答えた。今は、その役目がなくなっていた。
手続きの話は、まだ誰もしていない。
ジャーニーさんの陣営は回避対応で手一杯だし、絢原さんも、今日は何も決めようとしなかった。
決めなくても、答えはたぶん同じだった。
理由のない出走を、わざわざ残す人はいない。
不思議なくらい、何も湧いてこなかった。
悔しさも、安堵も来ない。
ここに立つ理由は、最初から借り物だった。
オルフェーヴルさんが走らないなら、返す相手もいない。
海を渡ってからのことを、順番に思い出してみる。
白銀の国。檻の中の朝。テンハロンちょいの坂。会食の夜。金と白銀の前哨戦。短いレース。無意味。騙したのか。消える練習。
どれも、金と白銀の再戦へつながっていた。
そこだけが抜け落ちると、残った出来事は、順番まで分からなくなった。
部屋がひどく静かだった。
ノワールさんは、この報せをどこで聞いたんだろう。
ふと、そんなことを考えて、やめた。
考える資格の話に、また戻ってしまうから。
夕方、荷物の少ない部屋で、天井を見た。
三週間ぶんの声が、今日は流れてこなかった。
落とせ、も。無意味だ、も。騙したのか、も。
聞こうとしても、どの声も戻ってこなかった。
静かだ。
渡仏してから、いちばん静かな夕方だった。
帰れる。
そう気づいた。
役目がないなら、ここにいる理由がない。誰も私の出走なんて覚えていないし、取り消したところで、記事の隅にも載らない。
日本に帰って、いつもの調整に戻って、いつもの短いレースを走ればいい。
それが一番、自然だった。
寮の部屋。食堂のごはん。プリンの約束。
あっちの日常を思い浮かべると、ちゃんと帰りたい気持ちになれた。なれることに、少しだけ安心した。
荷造りは、たぶん一時間もかからない。
持ってきたものが、もともと少ないから。
この国に置いていくものも、たぶんない。
だから、その夜。
私は、帰る理由を持っていた。