アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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現行このままで行きます。
今回の反省は次に生かします。


115話 正義の味方(前)

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

パリ。レース前夜。

 

荷造りを始めるには、まだ少し早かった。絢原さんは「少し考えよう」とだけ言い、自分の部屋へ戻った。陣営との確認。URAとの連絡。こっそり入った絢原さんの部屋では、主がひたすら電話の対応をしていた。私は外の空気が吸いたくなって、ホテルの裏にある小さな公園へ出た。

 

木のベンチ。積もり始めた落ち葉。日本より乾いた夜の空気。明日、この街で、欧州の中でもトップクラスに大きなレースがある。

 

私はたぶん、走らない。

 

それで困る人はいない。

 

私も、困っていなかった。

 

ベンチへ腰を下ろし、足を前後に揺らす。

 

ここまでの日々は、悪くなかった。

 

主役はオルフェーヴルさんで、私は前を引く役。誰も私に勝利を期待しないし、「世界女王」も「カレンチャンの娘」も、ここでは持ち出されない。春からずっと、持ち上げられるたびに息が詰まった。誰の視界にも入らないこの感じは、ひさしぶりに楽だった。

 

お呼びじゃない。本気で競いたい相手もいない。二千四百に未練もない。ひとつだけ惜しいとすれば、ここの芝だ。

 

踏めば、ちゃんと押し返してくる。

 

日本の芝みたいに、力を入れた分だけ脚の下から逃げていかない。強く踏んでも、もう一歩ぶんの余裕が残る。最初に走った時は、変な感じがした。

 

次の日には、少し楽だと思った。

 

今では、ここを走らずに帰ることだけが、ほんの少し惜しかった。

 

嫌いではなかった。

 

それだけだった。

 

足音が聞こえた。

 

顔を上げる。

 

レゾリュートが立っていた。

 

銀色がかった鹿毛。真っ直ぐな背筋。街灯の下でも、輪郭がぶれない立ち方。ジャパンカップの会見で、画面越しに見たのと同じ目だった。

 

澄んでいて、揺るがない。

 

自分の判断を疑うことを知らない目。世界でいちばん強いはずの相手が、手を伸ばせば届く場所にいる。それでも喉は鳴らなかった。脚も動かない。

 

バクシンオーさんの背中を見た時は、追え、と体が先に言った。香港でも、前にいる相手を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。

 

レゾリュートには、何も起きない。

 

速いのだろう。強いのだろう。たぶん、明日も勝つ。

 

それだけだった。

 

私の奥にいる黒猫は、まだ眠っていた。

 

「オルフェーヴルのことは聞いた」

 

「……はい」

 

「彼女のしたことは正しい。誰も責められない」

 

嘘のない声だった。

 

オルフェーヴルさんの行動を、迷いなく肯定している。

 

「だから、お前に言おう」

 

一歩、近づいた。

 

「帰れ」

 

短かった。

 

怒りも、侮りもなかった。

 

不要になったものを片づける。それだけの声だった。見下しているわけでも、追い払うことを楽しんでいるわけでもない。むしろ、無意味な出走から私を遠ざけようとしている。レゾリュートの中では、たぶん親切に近い。

 

本命がいない。ラビットの役目も消えた。だから帰る。

 

筋の通った話だ。

 

だからこそ、余計に言い返しづらかった。

 

「出走を取り消せ。ラビットが走る理由はなくなっただろう」

 

ラビットが走る理由。

 

その言い方が、胸の奥に引っかかった。私がここへ来たのは、ジャーニーさんが絢原さんへ持ち込んだ話を、最後に私が引き受けたからだ。前半を引っ張り、後ろにいるオルフェーヴルさんのために流れを作る。最後まで走り切る必要はない。そういう役だった。

 

断りづらい話ではあった。外堀まで埋めてから持ち込まれたらしいし、圧がなかったとは言わない。

 

それでも、私が断れば白紙に戻すことも、答えを急かさないことも、ジャーニーさんは絢原さんへ伝えていた。最後に決めたのは私だ。

 

それに、誰でもよかったわけではない。

 

香港の重い芝でも速度を落とさなかった私の走りを見て、ジャーニーさんは私を選んだ。

 

直接そう言われたわけではない。それでも、少なくともジャーニーさんは、カレンチャンの娘としてでも、香港スプリントの肩書きだけでもなく、私個人の力を見ていた。

 

私の力が必要だと思ってくれた。

 

今思えば、それが少し嬉しかったのだと思う。オルフェーヴルさんが、この作戦を私へ頼んだわけでもない。会食の夜には、本当にそれで後悔しないのかと聞かれた。前哨戦を終えたあとは、誰にも頼らず、身一つで勝つと言っていた。

 

怪我が軽いと聞いて、まず安心した。誰かを庇って脚を痛めたと聞けば、オルフェーヴルさんならそうするだろうとも思う。同じことが起きれば、きっとまた同じように動く。

 

オルフェーヴルさんに腹は立たなかった。

 

どうしようもない巡り合わせには、少しだけ腹が立った。実力で届かなかったわけでも、準備が足りなかったわけでもない。一年待った舞台が、前日の事故で消えた。そんな終わり方を、仕方ないの一言で片づけたくはなかった。本人は、私が想像するよりずっと悔しいはずだ。

 

だからといって、私が代わりに何かを背負えるわけではない。

 

オルフェーヴルさんの無念と、私が走るかどうかは別の話だった。

 

オルフェーヴルさんが走れなくなって、私の役目も消えた。そこまでは分かる。

 

でも、そのあとどうするかまで、同じ答えになるとは限らない。

 

ここへ来ると決めたのは、私だ。

 

もっとも、深く考えたわけでもない。誰も私を知らない場所へ行ける。春から続いていた息苦しさから、しばらく離れられる。

 

そのくらいの気持ちで海を渡った。

 

それでも、役目がなくなったのなら帰ればいいはずだった。

 

それで話は終わる。

 

誰も困らない。

 

そのはずだった。

 

「ラビット」と呼ばれることにも、慣れているつもりだった。

 

カレンチャンの娘。短距離の怪物。オルフェーヴルのラビット。外から貼られる名前が一つ増えただけだ。名前を貼られることにも、名前を消されることにも慣れている。

 

カレンチャンの娘と呼ばれる時、そこに私はいない。怪物と呼ばれる時も、見られているのは走った結果だけ。ラビットなら、役目が済めば片づけられる。分かりやすいぶん、むしろ楽だった。

 

けれど、この相手は初対面から今まで、一度も「カレンモエ」と呼んでいない。

 

「お前」と「ラビット」。

 

それだけで、私を全部片づけている。ジャパンカップの会見を思い出した。日本のウマ娘について聞かれ、この相手は、名前は覚えていないと言った。

 

あの時は、何とも思わなかった。

 

遠い国の女王が私を知らない。当たり前だと思った。覚えられていない方が、むしろ気楽だった。

 

今も、別に傷ついてはいない。

 

けれど、少しだけ、腹の底がざらついた。

 

コイツもか、と思った。

 

私を見ない人は多い。

 

ママだけを見る人。結果だけを見る人。勝った時だけ近づき、負ければ勝手に失望する人。レゾリュートは、そのどれとも少し違った。最初から見る必要がないと決めている。

 

明日の勝敗に関係しないものとして、最初から私を視界に入れていない。それでも、腹が立ったというほどではない。

 

まだ、少しざらつくだけだった。

 

頷くのは簡単だった。

 

分かりました。帰ります。

 

そう言えば、今夜のうちに荷物をまとめて、何もかも楽な方へ流せる。

 

返事は喉まで来ていた。

 

その時、何故かノワールの背中が浮かんだ。

 

喉まで来ていた言葉が、出なかった。

 

レゾリュートは、沈黙を反抗だと受け取ったらしい。

 

「意地を張るな」

 

声の温度は変わらない。

 

「本命はもういない。お前が前を引いても、引かなくても、結果は変わらない」

 

正しい。

 

この相手の中では、私が出なくても、明日の勝敗は一つも動かない。

 

「お前が走り切ろうが、途中で止まろうが、レースの行方には影響しない。本命のいないラビットに仕事はない」

 

それも正しい。

 

正しい言葉を重ねられるたび、帰る方が少しずつ簡単になるはずだった。

 

「日本へ帰れ。お前の距離で、次を勝てばいい。それが正しい選択だ」

 

この相手は、私のために言っているつもりなのだろう。二千四百で無理をせず、勝てる場所へ戻る。誰に説明しても、そちらが正解になる。

 

絢原さんだって、たぶん同じことを言う。

 

どこにも言い返す隙がなかった。

 

帰ればいい。

 

それなのに、首は動かなかった。

 

「何故、そうしない?」

 

私にも分からない。

 

理由はまだ、自分でも分からなかった。

 

頷く気だけが失せていた。

 

レゾリュートは、私の沈黙をしばらく見つめた。風が落ち葉を一枚、私たちの間へ運んだ。私はベンチに座ったまま、靴の先を見ていた。

 

帰ると言えない理由を探しても、何も出てこない。レゾリュートは、その沈黙を迷いではなく、別の何かとして受け取ったらしい。自分の中で答えへ辿り着いたように、静かに息を吐いた。

 

 

 

「あのトレーナーに、無理矢理走らされているのか」

 

 

 

目の奥で、ちり、と何かが焼ける音がした。

 

 

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