今回の反省は次に生かします。
——Anti-Hero: Curren Moe
パリ。レース前夜。
荷造りを始めるには、まだ少し早かった。絢原さんは「少し考えよう」とだけ言い、自分の部屋へ戻った。陣営との確認。URAとの連絡。こっそり入った絢原さんの部屋では、主がひたすら電話の対応をしていた。私は外の空気が吸いたくなって、ホテルの裏にある小さな公園へ出た。
木のベンチ。積もり始めた落ち葉。日本より乾いた夜の空気。明日、この街で、欧州の中でもトップクラスに大きなレースがある。
私はたぶん、走らない。
それで困る人はいない。
私も、困っていなかった。
ベンチへ腰を下ろし、足を前後に揺らす。
ここまでの日々は、悪くなかった。
主役はオルフェーヴルさんで、私は前を引く役。誰も私に勝利を期待しないし、「世界女王」も「カレンチャンの娘」も、ここでは持ち出されない。春からずっと、持ち上げられるたびに息が詰まった。誰の視界にも入らないこの感じは、ひさしぶりに楽だった。
お呼びじゃない。本気で競いたい相手もいない。二千四百に未練もない。ひとつだけ惜しいとすれば、ここの芝だ。
踏めば、ちゃんと押し返してくる。
日本の芝みたいに、力を入れた分だけ脚の下から逃げていかない。強く踏んでも、もう一歩ぶんの余裕が残る。最初に走った時は、変な感じがした。
次の日には、少し楽だと思った。
今では、ここを走らずに帰ることだけが、ほんの少し惜しかった。
嫌いではなかった。
それだけだった。
足音が聞こえた。
顔を上げる。
レゾリュートが立っていた。
銀色がかった鹿毛。真っ直ぐな背筋。街灯の下でも、輪郭がぶれない立ち方。ジャパンカップの会見で、画面越しに見たのと同じ目だった。
澄んでいて、揺るがない。
自分の判断を疑うことを知らない目。世界でいちばん強いはずの相手が、手を伸ばせば届く場所にいる。それでも喉は鳴らなかった。脚も動かない。
バクシンオーさんの背中を見た時は、追え、と体が先に言った。香港でも、前にいる相手を見た瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
レゾリュートには、何も起きない。
速いのだろう。強いのだろう。たぶん、明日も勝つ。
それだけだった。
私の奥にいる黒猫は、まだ眠っていた。
「オルフェーヴルのことは聞いた」
「……はい」
「彼女のしたことは正しい。誰も責められない」
嘘のない声だった。
オルフェーヴルさんの行動を、迷いなく肯定している。
「だから、お前に言おう」
一歩、近づいた。
「帰れ」
短かった。
怒りも、侮りもなかった。
不要になったものを片づける。それだけの声だった。見下しているわけでも、追い払うことを楽しんでいるわけでもない。むしろ、無意味な出走から私を遠ざけようとしている。レゾリュートの中では、たぶん親切に近い。
本命がいない。ラビットの役目も消えた。だから帰る。
筋の通った話だ。
だからこそ、余計に言い返しづらかった。
「出走を取り消せ。ラビットが走る理由はなくなっただろう」
ラビットが走る理由。
その言い方が、胸の奥に引っかかった。私がここへ来たのは、ジャーニーさんが絢原さんへ持ち込んだ話を、最後に私が引き受けたからだ。前半を引っ張り、後ろにいるオルフェーヴルさんのために流れを作る。最後まで走り切る必要はない。そういう役だった。
断りづらい話ではあった。外堀まで埋めてから持ち込まれたらしいし、圧がなかったとは言わない。
それでも、私が断れば白紙に戻すことも、答えを急かさないことも、ジャーニーさんは絢原さんへ伝えていた。最後に決めたのは私だ。
それに、誰でもよかったわけではない。
香港の重い芝でも速度を落とさなかった私の走りを見て、ジャーニーさんは私を選んだ。
直接そう言われたわけではない。それでも、少なくともジャーニーさんは、カレンチャンの娘としてでも、香港スプリントの肩書きだけでもなく、私個人の力を見ていた。
私の力が必要だと思ってくれた。
今思えば、それが少し嬉しかったのだと思う。オルフェーヴルさんが、この作戦を私へ頼んだわけでもない。会食の夜には、本当にそれで後悔しないのかと聞かれた。前哨戦を終えたあとは、誰にも頼らず、身一つで勝つと言っていた。
怪我が軽いと聞いて、まず安心した。誰かを庇って脚を痛めたと聞けば、オルフェーヴルさんならそうするだろうとも思う。同じことが起きれば、きっとまた同じように動く。
オルフェーヴルさんに腹は立たなかった。
どうしようもない巡り合わせには、少しだけ腹が立った。実力で届かなかったわけでも、準備が足りなかったわけでもない。一年待った舞台が、前日の事故で消えた。そんな終わり方を、仕方ないの一言で片づけたくはなかった。本人は、私が想像するよりずっと悔しいはずだ。
だからといって、私が代わりに何かを背負えるわけではない。
オルフェーヴルさんの無念と、私が走るかどうかは別の話だった。
オルフェーヴルさんが走れなくなって、私の役目も消えた。そこまでは分かる。
でも、そのあとどうするかまで、同じ答えになるとは限らない。
ここへ来ると決めたのは、私だ。
もっとも、深く考えたわけでもない。誰も私を知らない場所へ行ける。春から続いていた息苦しさから、しばらく離れられる。
そのくらいの気持ちで海を渡った。
それでも、役目がなくなったのなら帰ればいいはずだった。
それで話は終わる。
誰も困らない。
そのはずだった。
「ラビット」と呼ばれることにも、慣れているつもりだった。
カレンチャンの娘。短距離の怪物。オルフェーヴルのラビット。外から貼られる名前が一つ増えただけだ。名前を貼られることにも、名前を消されることにも慣れている。
カレンチャンの娘と呼ばれる時、そこに私はいない。怪物と呼ばれる時も、見られているのは走った結果だけ。ラビットなら、役目が済めば片づけられる。分かりやすいぶん、むしろ楽だった。
けれど、この相手は初対面から今まで、一度も「カレンモエ」と呼んでいない。
「お前」と「ラビット」。
それだけで、私を全部片づけている。ジャパンカップの会見を思い出した。日本のウマ娘について聞かれ、この相手は、名前は覚えていないと言った。
あの時は、何とも思わなかった。
遠い国の女王が私を知らない。当たり前だと思った。覚えられていない方が、むしろ気楽だった。
今も、別に傷ついてはいない。
けれど、少しだけ、腹の底がざらついた。
コイツもか、と思った。
私を見ない人は多い。
ママだけを見る人。結果だけを見る人。勝った時だけ近づき、負ければ勝手に失望する人。レゾリュートは、そのどれとも少し違った。最初から見る必要がないと決めている。
明日の勝敗に関係しないものとして、最初から私を視界に入れていない。それでも、腹が立ったというほどではない。
まだ、少しざらつくだけだった。
頷くのは簡単だった。
分かりました。帰ります。
そう言えば、今夜のうちに荷物をまとめて、何もかも楽な方へ流せる。
返事は喉まで来ていた。
その時、何故かノワールの背中が浮かんだ。
喉まで来ていた言葉が、出なかった。
レゾリュートは、沈黙を反抗だと受け取ったらしい。
「意地を張るな」
声の温度は変わらない。
「本命はもういない。お前が前を引いても、引かなくても、結果は変わらない」
正しい。
この相手の中では、私が出なくても、明日の勝敗は一つも動かない。
「お前が走り切ろうが、途中で止まろうが、レースの行方には影響しない。本命のいないラビットに仕事はない」
それも正しい。
正しい言葉を重ねられるたび、帰る方が少しずつ簡単になるはずだった。
「日本へ帰れ。お前の距離で、次を勝てばいい。それが正しい選択だ」
この相手は、私のために言っているつもりなのだろう。二千四百で無理をせず、勝てる場所へ戻る。誰に説明しても、そちらが正解になる。
絢原さんだって、たぶん同じことを言う。
どこにも言い返す隙がなかった。
帰ればいい。
それなのに、首は動かなかった。
「何故、そうしない?」
私にも分からない。
理由はまだ、自分でも分からなかった。
頷く気だけが失せていた。
レゾリュートは、私の沈黙をしばらく見つめた。風が落ち葉を一枚、私たちの間へ運んだ。私はベンチに座ったまま、靴の先を見ていた。
帰ると言えない理由を探しても、何も出てこない。レゾリュートは、その沈黙を迷いではなく、別の何かとして受け取ったらしい。自分の中で答えへ辿り着いたように、静かに息を吐いた。
「あのトレーナーに、無理矢理走らされているのか」
目の奥で、ちり、と何かが焼ける音がした。